Re: 【晶×播磨シリーズ#4】 Love which buds on the battlefield ( No.1 )
日時: 2006/12/21 21:07
名前: ホザキ


 播磨が部室から飛び出していった瞬間、晶の脳裏に閃いたのは『追いかけないと……!』という言葉だった。かつてホームルームの際に行ったソフトボールで花井が褒めた脚力で床を蹴り、猫のような俊敏性でドアに向かった晶だが、「すいませーん」と入口から入ってきた人物に止められることになった。
 即座に足を止めた晶は、「笹倉先生……」と言いながら、自分が追いかけるタイミングを逸したことを認めた。焦りはあったが、そもそも最初から播磨の全力疾走に、自分が追いつけるはずはない。閉じた唇の裏で奥歯を噛みしめた晶は、「何か?」と返事した。
「ああ、高野さん。今日は刑部先生は来てないの?」
「はい。今日は部活そのものがありませんから」
 冷静に受け答えしながらも、晶の全身は今にも走り出しそうになっていた。明日、退学届を出す。そう言っていた播磨の横顔を思い出し、今日か明日、この二日しか残されたチャンスはない現実が重くのしかかる。
「そうなの……。なにか元気がないみたいだったから探していたんだけど……」
 絃子に元気がない理由。それは晶には簡単に推察できた。同じ男に想いを寄せる女ならではの共感で、今の播磨には心を揺らがされる危なっかしさがある。同居人として四六時中同じ部屋にいる彼女なら、その心労は重なるばかりだろう。
「いないならしょうがないわね。それじゃ」
 やっと去った葉子を見送り、晶は待ちかねていたように走り出した。
 走りながら、晶は自分がまだ播磨と物理的な距離が絃子ほど近くない現実に、焦りを感じていた。今の播磨の心が不安定なのは間違いなく、そんな時には物理的な距離が近しい人物が支えになることが多い。それでいえばまさに絃子はその条件に該当し、このまま彼を帰してしまえば、もう自分にチャンスはなくなるのではないか……? という恐怖が脳裏をかすめたのだ。
 奥歯を噛みしめてその恐怖に流されそうになる自分の心を繋ぎとめ、今はそんなことを考えるよりも、まずは彼を見つけなくては、と念じて思考を切り替えた。
 がむしゃらに探すだけでは駄目だ。焦る頭に残された理性がそう判断し、まずは駐輪場、と行き先を決定する。播磨の登校手段はバイク。それなら、駐輪場に行けば今でも学校内にいるかが判別できる。入れ違いにならないことを祈りながら、晶はトップスピードに移行した。


        ◆


 体育館裏まで播磨を先導した天王寺は、そこで改めて向き直った。
 サングラスで目を隠していても、その目がどんな光を宿しているのか、天王寺には手に取るようにわかった。行き場のない感情がぐちゃぐちゃになって彷徨っている光に違いない。播磨の顔は頬がやや痩せたようにも見え、天王寺は胸中に情けない、と唾を吐いた。
 それが今まで何度も俺をぶちのめし、数の圧倒的不利を跳ね返してきた男のする目か。お前の濁って腐った目など、見たくもない……!
「……どうしたよ。やるんじゃねえのか」
 覇気のない声でも、そこに苛立ちが混じっているのは明らかだった。天王寺は「焦ってんじゃねえよ。今のお前なら瞬殺できるんだからな」と挑発と侮蔑を織り交ぜて播磨に突きつけた。
 天王寺の言葉に少しは反応を見せる播磨だったが、怒鳴り返すようなことはしなかった。その事実が、さらに天王寺を苛立たせる。俺の知っている播磨は、こんな腑抜けじゃなかったはずだ……!
「播磨よぉ……。てめぇ、やる気あんのか?」
「あるから付いて来てやったんじゃねえか」
 そんなはずがない。天王寺の知っている播磨なら、「やるんじゃねえのか?」などと訊いたりはしない。問答無用に襲い掛かり、一瞬で地面に相手を這いつくばらせるはずだ。それをしない播磨が、やはり以前とは明確に違うことを天王寺は確信した。
「落ちぶれやがって……!」
 三年生になってから、ほとんど学校へ顔を見せなくなった播磨がどうしてそうなったのか、天王寺は知っていた。知っていたが、この目で見るまでは信じられなかった。あの播磨が、あの魔王と恐れられた播磨が、失恋の一つや二つでそこまで腑抜けてしまうなど、常にリベンジを心に誓い続けていた天王寺からすれば、笑い話も同然だったからだ。
 しかしその噂が真実であることを、天王寺はついさっき思い知らされることになった。まるで病人のように顔面蒼白になりながら、全力疾走する播磨。その後を発作的に追った天王寺は、播磨がどうしようもない感情に振り回されている現場に遭遇した。こんな男が、俺が今まで敵だと認めてきた男なのか? いつまでも地面に這いつくばったままのこいつが、あの大胆不敵な播磨拳児だというのか……!
 播磨がそうであるように、天王寺もまた爆発しそうな感情を胸にためていた。この男を殴らなければならない。骨の抜けてしまった播磨など殴っても満たされるわけではないとわかっていても、天王寺は溢れ出る怒りをぶつけなくては気がすまなかった。
「てめぇはずっとそのまま倒れてろ……!」
 それが愛理が播磨に言ったセリフと同じであることは天王寺は知る由もなく、播磨へ突進した。


        ◆


 駐輪場に到着し、とりあえず播磨のバイクが残っていることにひとまず安堵した晶は、ここで隠れて播磨を待つべきか、それとも校舎内へ探しにいくかで迷った。決断を下そうと逡巡していると、「せんぱーい!」の声が耳朶を打って、晶は聞きなれた声のする方向へ振り向き、サラ・アディエマスの姿を見た。
「高野先輩、八雲を見ませんでしたか?」
 小走りに駆け寄りながら質問するサラに、晶はそれどころじゃないと胸中で呟いたものの、「ううん、見てないよ」と返事した。
「そうですか……。なんか昼休みからずっと様子が変で、放課後もすぐに消えちゃったから探してたんですけど……」
 絃子に続いて八雲もか。播磨がちょうど来たという昼休みと、八雲が彼に抱く感情とを照らし合わせれば、何があったのかは容易に想像がつく。しかし意外なのは、いつも押しが弱くて決め手に欠く八雲が、気持ちを全力でぶつけただろうということだ。
「それじゃ私、八雲を探しますので」
 去っていくサラの背中を見ながら、晶は自分の心の揺らぎが大きくなっていることに気付いた。
 臆病な恋は後悔するだけ。その戒律に従えば、今までの八雲は後悔するばかりになっていたはずだ。しかし今日、結果はどうあれ積極的に動いた彼女は、後悔を募らせたくないという心境に達したことを意味する。
 臆病になってはいけない。そう思うものの、晶は先ほどの部室でのやり取りを思い出し、身を焦がれるようなじれったさを感じた。播磨が自分の言葉にひどく傷ついたことは簡単に理解でき、確かに今のままの彼ではだめだとはいえ、もう少し良いやり方があったのではないか? という疑問が頭を離れない。播磨が傷ついたのも、感情の種類はどうあれ、晶と心的距離が近いことに理由があるのは間違いない。
 それなのに、さっきの会話で播磨との心的な距離が開いてしまえば――例えば晶に裏切られたと播磨が思うようなことがあれば――、物理的な距離すら一番近くない自分はどうなる? 今、こうして探していることが全くの無駄なんじゃないのか……?
 思考が悪いほうに傾いていることを晶は自覚するが、背後から忍び寄る恐怖という魔の影に、足を絡め取られそうになっている自分をどうすることもできなかった。塚本八雲も、こんな恐怖を感じていたのだろうか。たった今、傷つけたばかりの自分が行ってどうなるのか、という悪魔のような声が聞こえてくる。
 黙れ、と強く念じ、晶は胸に刻んでいる戒律を思い出し、悪魔の囁きに打ち勝とうとした。臆病な恋は後悔するだけ。今の自分は臆病になり始めている。部室で播磨に退学すると言われた時から。そして播磨を傷つけたという事実から。
しかしいくら戒律を思い出したところで、それだけで恐怖と悪魔に打ち勝てるわけではなかった。背後から忍び寄る魔の影が足を掴むような錯覚に陥った晶は、それを振り切るためにも、ただ無心に駆け出した。
 ここで待つより、自分から探しに行こう。自分にはほとんどチャンスが残されていないのだから……。普段からは考えられないほど揺らいでいる自分の心に驚きながら、晶はひたすら播磨を思い出して恐怖から逃れようとした。


        ◆


 あれ? なんでだ……?
 地面に這いつくばったまま、播磨は疑問を感じていた。
 頭を針で刺すような痛み。鼻から流れる血。切れた唇。打撲があちこちにできた胸と腹。がくがくと震えて筋肉に力が入らない足。その全てが天王寺によってもたらされた怪我であり、自分があの天王寺に手も足も出ていない事実に、播磨は愕然とした。
 だが、疑問はなぜ自分が天王寺に勝てないか、というものではない。実際、播磨の攻撃もいくつかは天王寺を捉えている。それなのに……ようやく見つけたと思った出口に不満や不安や怒りを込めたはずの攻撃をぶつけたはずなのに、全く全身を締め付ける息苦しさや激痛が軽くならないことに対する疑問だった。
「ぐっ……」
 震える膝を手で押さえて奮い立たせ、辛うじて播磨は立ち上がった。見上げた視線の先には、多少は怪我らしい怪我をしている天王寺の仁王立ちの姿があり、その目が怒りをたたえて播磨を見下ろしている。
 ふんばりが効かない足だったが、播磨はそれでも走り、パワーもスピードもテクニックも見る影がなくなったストレートを放った。天王寺はそれを避けようともせず、腹に打ち込まれた播磨の拳がいかに威力がないかを物語った。
「……なんだ、このへなちょこなパンチは!?」
 腹に打ち込んだ姿勢のままで固まっていた播磨の横顔を、まるでハンマーのような威力を込めたフックが抉る。ゴミにようにあっさりと吹き飛ばされた播磨は、地面を何度も転がって再び這いつくばる格好となった。
 なんでだ……!?
 胸に蓄積する負の感情を暴力に込めて放つことは、俺の唯一の出口だったんじゃないのか。つい先ほど、ようやく見つけたと思っていた出口が実はただの錯覚だったという受け入れたくない現実に、播磨はもう自分がどうしようもないことを気付かされた。
 全く軽減しない息苦しさと激痛が、播磨の四肢を縛る鎖となっている。本来の実力の半分も出し切れず、ただいいように殴られ、地面に倒れている現実。不意に、そんな自分の姿を思い浮かべた播磨の頭に、晶の言葉が再生された。
『そして敗者は、いつまでもグラウンドに横たわったままである』
 ずっと否定しようと思いながら、なぜか否定できなかった言葉だった。天王寺を屈服させることもできず、息苦しさと激痛を軽減させることもできず、否定したい言葉を否定することもできない播磨は、たまらず「なんでだ……!」と叫んでいた。
「なんでお前らはそんなに俺に干渉してくるんだ! 俺は俺だけのもんだろうが……! ほっとけよ!」
 毎朝説教する絃子。輝いていないと突きつけた八雲。無様だと罵る愛理。勝てない天王寺。そして――最も聞きたくなかった言葉を胸に刻みつけた晶。その誰もが今の播磨にとって、うざったい存在でしかなかった。
 傷つき責められることを恐れる播磨の心の一部が発した叫びだった。子供じみた叫びにも聞こえるその絶叫を受け止めた天王寺は、その無骨な顔を怒りに染め上げた。
「どこまで情けなくなっちまったんだよ、てめぇは!」
 倒れたままの播磨の横腹を、天王寺は蹴り上げた。肋骨が折れなかったのは腐っても鍛えられた播磨の体ならではの所業だったが、五臓六腑を貫く痛みには耐えられなかった。苦痛を隠せず呻く播磨は、痛みに麻痺していく頭のどこかで、いいように殴られている自分と、いいように殴る天王寺の両方に激怒した。
 このクソ野郎を、地面に這わせてやる……!
 怒気で真っ赤に染まった頭がそう思考し、ほとんど力の入らなくなった足に、立てという命令を送るが、筋肉が反応する直前、天王寺の発した言葉に播磨は全身が硬直した。
「今のてめぇはただの負け犬だ!」
 それは、播磨が最も聞きたくなかった言葉を明確な単語にした言葉だった。


        ◆


 見つからない。その現実のもどかしさに、晶は走っていた足を止めた。止めた瞬間、恐怖が追いついて晶を動けなくさせるような錯覚に陥ったが、そんなはずはない、と己の弱さを叱咤して耐えた。
 校舎内はくまなく探した。各学年の教室も一つ残さず、音楽室から美術室など、部活動中の教室にも構わず晶は入り、ついには生徒会室にまで問答無用で立ち入って役員たちを大いに驚かせたが、知ったことではなかった。
 結局、校舎を一周した晶は、昇降口に戻ってくることになった。まさか、と思って播磨の下駄箱を開いてみるが、そこに上履きは収納されておらず、播磨がまだ残っていることを示していた。
 とりあえずまだいる。ほっと一息ついた晶に、「どうした、高野?」と声をかけられたのはその時だった。
 振り返った晶は、軽く汗を流す晶を怪訝な目でみる周防美琴の姿を見た。
「なんか運動でもしてたのか?」
「そんなところ」とそっけなく、いつも通りに答えた晶は、彼女の隣りに愛理の姿がないことに気付き、「愛理は?」と訊ねた。
「それがさー、あいつ掃除前に急にいなくなってさ。それから全然帰ってこないんだよ。どうやらもう家に帰ったらしいんだけどね。ま、そんなお嬢のおかげで、あたしは二人分の掃除をさせられる羽目になったってわけ」
 疲れた疲れた、と言って肩を揉みほぐす美琴の姿を見ながら、晶は何があったのかおおよその見当をつけた。
 絃子、八雲に続いて愛理。彼女もまた、播磨に対してありったけの感情をぶつけたのだろう。思えば、昔から愛理はそうだった。お嬢様としての自分を表面的に演じる一方で、その裏側には隠しきれない真っ直ぐな一面がある。それは策略などを張り巡らせる婉曲的な晶とは違い、ある意味不器用とも言える直接的な愛理の根幹をなす一面だった。だから彼女は、播磨に一直線な感情をぶつけたに違いなく、その結果撃沈したのだろう。
 本当に、婉曲的な自分とは違う、と晶は思った。策略好きなのは、単純にそうやって裏で動くのが好きだからという理由もあるが、別の部分では直接的に出られない自分の弱さを象徴しているのではないかと、晶は思いついた。
 無表情なのも、言葉少ななのも、策略好きなのも、直接に自分の感情を吐露することに疎いから。だからいくら情熱的に一人の男性を求めても、その動きには常に秘策を練る自分の姿があったのだ。
 それではいけない。誰よりも彼に近い位置に、彼の横に立とうと思うなら、そのままではいけない。当たり前といえば当たり前のことだったが、晶は今、親友の愛理のありようからそれを学ばされた。
 凄いよ、愛理。彼を心配して獅子奮迅する絃子も、意志の弱さを跳ね除けた八雲も。その思考に行き着いた晶は、途端に背後から忍び寄っていた恐怖が遠のくのを感じた。急に体が軽くなり、足を絡め取ろうとしていた魔の影の気配が消える。臆病な恋は後悔するだけ。今更その戒律の真意を晶は思い知った。
 そうだ。私も直接的になろう。今だけは策略など考えず、後悔しないためにも、彼にありったけの想いを――。
「あ、そういやさ、高野。播磨のやつ、今日は学校に来てたんだな」
 下駄箱から靴を取り出しながら言った美琴の言葉に、晶はぴたりと思考が停止した。
「……いつ見たの?」
「ん? いや、さっきだよ。なんか体育館裏に天王寺と一緒に歩いてくとこをさ。久しぶりに来たと思ったら喧嘩だもんなー」
 ま、播磨なら天王寺には負けないだろうけど、と楽観的に言う美琴の言葉を聞いた晶は、違う、とそれを胸中で否定した。
「私、急用を思い出したから」
「へ?」
 呆気に取られる美琴を置き去りにし、晶は足早に一歩踏み出す。後ろで美琴が「急に用事を思い出すのが流行ってるのか……?」と意味不明なことを言っていたが、晶にはどうでもいいことだった。
 確かに、天王寺は播磨の敵ではない。……普段なら。
 普段ではない今の播磨では、天王寺は大きな脅威となるはずだった。もしかしたら、常に播磨を目の敵にしている天王寺に、今頃――。
 嫌な予想が脳裏をちらつき、晶はだんだんと早歩きから走りに移行し始め、昇降口から出る時には全力疾走に移っていた。


        ◆


 実を言えば、天王寺は播磨のことをどこかで気に入っていた。
 何者にも屈さない実力を秘め、何者にも属さない孤高さを持つ男。この高校では魔王と呼ばれ、近隣の不良たちからはもはや化物的な存在として畏怖される播磨。自分より強い奴がいることが気に入らない天王寺はことあるごとに播磨を目の敵にしたが、そのいずれも圧倒的力で叩き伏せられてきた。もはやそれは、ある意味清々しいとさえ言えるほどのことだった。
 そして迷いの一切を排除した、まっすぐな目。それを気に入らないと思うこともあるが、どこかでは気に入ってもいた。この目をしている播磨は無敵だった。誰にも負けず、当たり前のように伝説を積み上げる。王者の貫禄さえ漂わせてる播磨が身近にいることに、天王寺は嬉しささえ感じたのだ。
 こいつを倒すのは俺だ。例えばそれは、伝説的な強さと記録を保持する無敵の格闘家にチャレンジする挑戦者のような心境かもしれない。伝説を破るのは俺しかいないという思いが、天王寺に強い目標意識を芽生えさせていた。
 それなのに、この目の前で倒れている現実はなんだ? 俺が目標にしてきた男は、こんなくそったれな情けない奴だったのか……?
 絶望、失望、裏切り。そんな感情が天王寺の脳を撹拌する。立てよ。立って俺を殴れ。いつものように俺を叩きのめしてみろ……! そんな必死な願いも、播磨が這いつくばって立とうともがきもしない姿を見るまでのことだった。
 俺の目が節穴だった。こいつは、俺の目標になるような奴じゃない。裏切られたという感情が途方もない怒りに置換され、天王寺は腹の底から絞る声を張り上げた。
「今のてめぇはただの負け犬だ!」


        ◆


 負け犬。この俺が。
 微塵も容赦のない天王寺の叫びが、播磨の心を貫いた。最も播磨が忌避する存在であり、勝負においても人生においても最底辺にしか住まうことができなくなる存在に自分が成り果てたという天王寺の言葉に、播磨は目の前が真っ暗になるような感じだった。
 いつからだ? 俺は、いつから負け犬になっちまったんだ……?
 天満にふられた時の自分を思い出す。あの時も目の前が真っ暗になり、俺は負けたんだという思いが思考の全てを支配し、それから三日ほどの記憶を奪っている。そして気付けば、部屋にこもって何もしない日々を自堕落に送るだけの自分に変わり果てていた。そしてそれが二ヶ月近くも続いているとなれば、確かにそれは負け犬としか言いようがなかった。
 投げ槍と言った絃子。輝いていないと言った八雲。無様に倒れていろと言った愛理。負け犬と直接言った天王寺。そして、あなたはどれ? と訊ねた晶。その全員の目に、俺は負け犬として映っていたのか。
 晶に裏切られたと感じた自分を思い出す。あれは負け犬に成り下がった自分が、そうではないと言ってくれると思っていた人間に慰められたいと願った、どうしようもなく情けない甘えがもたらしたものだったのだ、と播磨は気付いた。
 そうか。俺は負け犬か……。だったら、もう天王寺のこともどうでもいいんじゃないか? このまま力を抜いて、いいように痛めつけられて、ぼろぼろになって倒れているのが一番お似合いじゃないか……?
 そう思った播磨は、立ち上がろうとしても全然反応のない足に、命令を送り続けるのをやめようと決めた。このまま抵抗するのをやめて、もう流されるままになろう。そうなってしまえば楽だ。うっとうしい人間関係とかにも、悩まされずに済む――。
 ズキン、と今までで一番の息苦しさと激痛が走ったのはその瞬間だった。
 その心の苦痛が、弛緩しようとしていた播磨の体と心に活を入れた。心の中で荒れ狂うもやもやした何かがもたらす苦痛に、播磨はなぜ、と叫んだ。どうして楽にさせてくれない。もう苦しいのはいらないだろうが。痛みに耐えるのも、傷ついて抵抗するのも、全部諦めてしまえば楽になれるというのに、どうしてお前はそれをさせてくれない……!
 もやもやした何かにありったけの絶叫を浴びせたが、播磨には返答が聞こえなかった。代わりに、更に心の激痛が増して、播磨はどうしろってんだ、とせめてもの抵抗をした。天王寺をぶっ倒せとでもいうのか。けど無理だ。足が動かない。立って反撃するような力も体も、俺にはもう残っちゃいない……。
 結局、倒れたままだ。どうしようもできない痛みに播磨は「ちくしょうっ……」と思わず漏らし、とどめを刺すべく天王寺が近寄ってくるのを見て、終わりなのか……と思った瞬間、

「播磨君――!」

 ありえない声に我に返った。


        ◆


 体育館裏に飛び込んだ晶がまず最初に見たものは、怪我だらけになって地面に倒れている播磨の姿だった。次に、播磨に近づいてとどめを刺そうとしている天王寺の姿を視界に入れた晶は、お前がやったのか、という怒りが一切合切を吹き飛ばして心に湧き上がるのを感じた。
 理性の線がぶちりを音を立てる。思考は限りなくクリアになり、ただ目の前の巨漢をいかにして倒すか、それだけが晶の考えになった。
 許せない。たとえどんな理由があろうとも、彼をそこまで傷つける者の存在が、断じて許せない……!
 我を忘れるほどの感情とは無縁だったはずの晶は、この時は確かに我を忘れていた。それは婉曲的なだけだった今までの彼女からは考えられず、ただひたすらなまでに直接的な何かが晶の心に芽生えたことを意味する証拠だった。
 天王寺を倒すための手段がいくつも晶の脳を駆け巡り、スタンバイ状態になる。戦闘態勢を整えた晶は、大きく足を踏み出した。


        ◆


 なんだ、この女は?
 唐突に現れた無表情な女子生徒を見て、天王寺がまず思ったのはそれだった。誰にしろ、とにかく邪魔であることに変わりはない。さっさと失せろ、と怒鳴り声の一つでも上げればいいだろうと思った天王寺は、近づいてくる女の瞳を直視して、開きかけた口を閉ざした。
 愚直なまでに直接的な意志を秘めた瞳だった。この目は見たことがある、と思った天王寺は、すぐにそれがかつての播磨の目と全く同種のものだということに気付いた。
 あの播磨と同じ目。そう思った瞬間、負け犬に成り下がった播磨に絶望していた天王寺の頭に、強い怒りが湧き起こった。無敵だった播磨と同じ目をしたこの女が気に入らない。そんな目をてめぇみたいな奴がするんじゃねえ……! と心が咆哮し、相手が女であっても天王寺は関係なくぶっ潰すと思考した。
「このアマ……!」
 丸太のように太い右腕の渾身のストレートが放たれる。それは小柄な女子生徒など軽く吹き飛ばすだけの威力を秘めていた――


 はずだった。


 眼前に迫り来る豪腕を見た晶は、スタンバイしていた手段から瞬間的に一つを選び、両腕を頭上でクロスさせた。
 二人の体格差から、自然と天王寺のストレートは頭上から迫る形になる。それをクロスさせた両腕で頭上の後方へ受け流した晶は、一瞬何が起こったのかわからないといった表情の天王寺の右脇へ一歩で踏み込んだ。
 冷静に考えれば、これほどの体格差があるのに晶が勝てるわけはない。しかし晶に言わせれば、体格の優劣は有利か不利かを決めるものであって、勝敗を決定するものではない。それを熟知している晶は、一瞬で天王寺の後方に回りこみ、彼の右膝の裏側に蹴りを叩き込んだ。
 どれだけの巨漢といえど、人体の構造上の脆弱さには勝てない。運動の基点となる膝を突かれた天王寺は、がくっと膝を折って体勢を崩す羽目になった。膝を折れば、晶と天王寺の間に身長差はほとんどなくなる。晶は目の前の天王寺の学ランの襟を左手で掴み、引き寄せる勢いを借りて空いた右腕の肘鉄を首筋に穿った。
 体重、回転を乗せた渾身の肘鉄が、人体の急所の一つを抉る。「がっ……!」と呻いた天王寺は、だらりと体を弛緩させて地面に這いつくばった。


        ◆


 なんだ、今の動きは。
 一瞬の晶の早業に、倒れたままの状態から播磨は驚愕していた。さっきまで自分をぼこぼこにしていた天王寺を、あの高野が一瞬で倒した? 信じがたい現実を前に播磨の思考回路は停止するほどの衝撃を受けたが、信じる信じないなど関係なく眼前に横たわる現実の光景が、それが真実だと告げていた。
 明らかに素人じゃない動き。何者だよ、と謎が多い晶にまた一つの謎を加えた播磨だったが、その思考も晶が振り返って「播磨君……」と呼びかけるまでのことだった。
 見られたくない。こんな、負け犬に成り下がった自分の姿を、最後の防波堤にしていた晶に見られたくない。そう思うのは、晶に裏切られたと思った自分がいる一方で、彼女をまだ信じている自分もいるからだと、播磨は気付いた。
 しかしそんな播磨の心中の葛藤など晶は気にせず、一歩播磨に近づいた。
 ああ、どうする。とにかく逃げよう、と思った播磨だったが、すっかり足が動かなくなっていたことを思い出し、いよいよ逃げ場がないことを思い知らされた。
 どうする、どうすると混乱する頭が、目をせわしなく動きまわさせる。だから視界の端で、天王寺ががばっと起き上がるのを播磨は見た。
「危ねえっ!」
 気まずさなどといったものは、晶の危機の前には無力だった。肋骨の痛みを無視して叫んだ播磨の声に敏感に反応した晶が振り返る。が、その時にはもう、天王寺の手が晶の首を捉えていた。


        ◆


 脳が揺れるような吐き気が、天王寺の理性を奪いつつあった。
 首筋を打たれた瞬間、確かに一瞬気を失った天王寺だったが、地面に倒れている自分の姿を思い描いて我に返った。
 あの播磨と同じように、自分が地面に這いつくばっている。それは、今の天王寺にとって何よりも耐えがたい屈辱だった。自分をこんな目に合わせた女に対する怒りが思考を真っ赤にし、天王寺は跳ね起きるようにして女へ掴みかかった。


        ◆


 播磨の絶叫を聞いた晶は、即座に何が起こったのか理解した。しかし理解した時には既に遅く、振り返った瞬間、彼女の首を天王寺の手が鷲掴みにした。
「…………っ!」
 一瞬で声が奪われる。ただの戦いなら、晶のように非力でも戦いようはいくつもあったが、純粋に力比べとなれば、晶は天王寺の敵ではなかった。
 なぜ昏倒しないのか。その疑問を考えた晶は、自分が思った以上に冷静ではなくなっていたためではないかと思った。必要以上に力み、打点がずれた? しかしその思考も、強まる圧迫感の前に霧散した。
 一瞬で呼吸どころか血流すら止める天王寺の握力に、晶は自分の意識が急速に遠のきつつあるのを感じた――。

 


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