Re: 【晶×播磨シリーズ#4】 Love which buds on the battlefield ( No.2 )
日時: 2006/12/21 21:08
名前: ホザキ


 完全に意識が途絶する前に、晶はなんとかしなければいけないと判断し、咄嗟に自分の首を掴んでいる天王寺の腕へ手を伸ばした。
 暗くなっていく視覚は当てにできず、晶は触覚だけで肘を探り当てると、ある一点のツボへ親指を押し込んだ。途端、天王寺が「ぐあっ!?」と叫んで思わず手を離すことになった。
 椅子などに座っていて、振り返った時に、肘に背もたれなどがぶつかることがある。その時、偶然にも肘のツボにヒットして、電流が走ることがある。晶が押したのはまさにそのツボだった。
 手を離されると、急速に呼吸と血流が戻り始めた。意識が明晰になっていくのを感じながら咳き込んでいた晶は、またも天王寺の次なる動きへの対応に遅れた。
 ただの力押しで晶の腕を掴んだ天王寺が、強引に晶を地面に叩き伏せた。背中に走る痛みに晶は顔をしかめるが、天王寺が再び首を掴もうと手を伸ばしているのを薄く開いた瞼から見たので、慌ててその腕を掴んで阻止する。天王寺が右腕だけで掴みかかってくるのは、先ほどの晶の反撃を警戒し、左手で右腕の肘をカバーしているからだった。
「くっ……!」
 完全な力勝負。もちろん、晶がそれに敵うはずがない。じりじりと近づく天王寺の腕を見た晶は、意識を失う前に播磨に伝えたいことが……伝えなければならないことがあるのを思い出し、「播磨君!」と必死に叫んだ。


        ◆


 晶が絶体絶命のピンチに陥っても、播磨は反応しなければならないはずの足が反応せず、なすすべもなく見守っていた。己の無力さを実感し、それがやはり自分が負け犬だからなのか、と考えていた播磨は、唐突に弾けた晶の「播磨君!」の叫びに我に返った。
 いつもは鉄面皮の無表情に覆われている晶の顔が、必死な色をたたえていた。そんな晶の顔を見たことがなかった播磨は、一瞬だけその表情に見入ったが、即座に晶が切り返した言葉を聞き思考を中断した。
「自分をそんなに卑下しないで……!」
 え? と思わず播磨は耳を疑った。卑下するな。それはつまり、晶が播磨を助けようとしている一言だった。部室で播磨の急所を突き、容赦ない現実を突きつけた晶のことを、播磨はどこかで裏切り者と思っている。そんなふうに晶を思っている播磨の一部分が、意外な言葉に停止したのだった。
「信じてるよ……あなたは絶対に、敗者なんかじゃない!」
 ……その言葉に、播磨がどれだけ救われたか。
 そんな馬鹿な。お前は俺を敗者――負け犬じゃないって言うのか? だってお前は、俺に突きつけたじゃないか。容赦ない現実を。あれに俺がどれだけ傷ついたと――、
 それは違う。その言葉が、播磨の体の奥底から発生した。晶を責めていた部分が思わず止まり、どこからともなく発する声が続く。
 彼女はいつだってそうだったはずだ。気付けばすぐ近くにいて、何も言わず播磨という存在を受け入れてくれている。そこには常に優しさと温かさがあり、播磨拳児はそこに居心地の良さを感じていたことを思い出せ。彼女は裏切るような奴じゃない。そう言ったのは自分自身のはずだ。裏切られたと感じたのは播磨拳児の弱い部分で、播磨拳児そのものが裏切られたと思っているわけじゃない。
 部室での一件も、お前を暗闇の底から救おうとしたに過ぎない。いつまでたっても自分の姿を直視しない弱さに気付かせてくれた。そうだ、いつだって彼女は、すぐ近くで手を差し出してくれていた。こちらから手を伸ばせば、すぐに繋げるぐらい近くで……。
 ふつふつと胸を熱くする感情の奔流が溢れ出て、その熱に動かされるように、播磨は俺の心に語りかけるお前はなんだ? と心に呟いた。返答はなかったが、代わりにずっと感じていたもやもやした何かがもたらす息苦しさと痛みが体の芯を貫き、播磨は今になってようやく、もやもやした何かの正体に気付いた。
 それは、本来の自分だった。失恋以来、播磨の弱い部分が殻に閉じ込めてきた、どこまでも直接的な自分本来の姿だった。本来の自分は、ずっとメッセージを送っていたのだ。それを殻に閉じ込めてしまった弱さのために、今まで気付けずにいた。
 心の深いところから、ずっと叫んでいたのだ。全身全霊で違う、と叫ぶために。播磨拳児は、この程度で終わってしまう人間ではないと、全力で否定するために。
 だが、今さら俺は立ち上がれるのか……? 播磨の弱い部分が発した呟きに、本来の自分は彼女を見ろ、と言った。
 今にも天王寺に首を掴まれそうになっている晶は、目の前の男への恐怖など微塵も感じておらず、ただ播磨に視線を注いでいた。その瞳が、何よりも雄弁に彼女の信念を物語っていた。
 まだ間に合う。そう信じて疑わない鮮烈な光が晶の瞳に宿っているのを見た播磨の弱い部分は、最後の抵抗を放棄した。さぁ、本来の自分を取り戻せ! と叫ぶ声が心の底、閉じ込めた殻の内側から発し、その殻を突き破って一本の腕が出された。もう躊躇しない播磨の弱さは、その手を掴むために自分も手を伸ばそうとし、突然発した晶の悲鳴に思わず手を止めた。
「かはっ――!」
 天王寺が全体重を腕に乗せて、ついに晶の首に達したところだった。天王寺の瞳が理性を失いつつあるのを見た播磨は、急げと叫ぶ心の衝動に突き動かされ、殻から突き出されていた腕を掴んだ。
 ようやく、やり場のなかったエネルギーが出口を見つけた瞬間だった。暴力に乗せて発散するのでもなく、ただ現実から逃避するのでもなく、ひたすら立ち上がろうとする行為そのものに、出口があった。
 播磨の目で濁っていた感情がすうっと浄化され、澄んだ色を取り戻していく。四肢を束縛していた呪縛が解き放たれるのを感じた播磨は、反応のない足に動け、と念じた。
 筋線維はぼろぼろで、乳酸漬けになった筋肉が悲鳴を上げるが、知ったことではない。動かないはずの足、立ち上がらないはずの足に、立て……! と心の叫びをぶつけた瞬間、それまでびくともしなかった足が反応を返した。
 脳から運動中枢へ、運動中枢から神経へ、神経から筋肉へ。次々に確かな手ごたえを感じた播磨は、膝のバネの力を使って全力で跳躍した。
「天王寺ぃっ!」
 痛む肺から搾り出した播磨の声に、はっとして振り返った天王寺だったが、既に遅かった。一息で間合いを詰めた播磨の拳が、天王寺の頬を貫く。思わず晶から手を離した天王寺は、その巨体を信じられないほど吹き飛ばされた。
 播磨は晶が咳き込む様子を横目で窺い、なんとか無事だと判断する。
「は、播磨。てめぇ……!」
「播磨君……」
 怒りを顕に睨む天王寺と、どこか喜びを感じる晶とを交互に見た播磨は、晶に視線を移した。
「わりい、高野。……もう大丈夫だからよ」
 復活記念に、まずはあいつをぶっ倒してくる。そうかすかに呟いて、播磨は天王寺を見据えた。
 いくら立てたといっても、体には物理的な限界がある。ぼろぼろの乳酸漬けになっている足腰は、全力のパンチにあと四発ほどしか耐えられそうになかった。だが、それで充分だ。あの野郎を倒すには。
 本当に世話んなったな、天王寺。播磨は胸中に呟いた。いや、こいつだけじゃない。毎朝うるさいぐらい説教してきた絃子。昼休みに凍り付いていた心に波紋を投じてくれた八雲。今の自分がどれだけみっともないか教えた愛理。今、こうして立ち上がれるように手を差し出してくれた晶。そして天王寺、こいつが徹底的に痛めつけてくれなければ、俺はまだ立ち上がっていなかったかもしれない。
 不満だったんだろうな、皆。ようやくそう思える播磨は、目の前の天王寺もまた、例外でないと想像した。お前の不満に全力で応えてやる。播磨は膝をかがめてバネを蓄えながら、今なら素直に聞ける晶の言葉を思い出していた。
『フィールドでプレーする誰もが、必ず一度や二度、屈辱を味わわされるだろう』
 蓄えたバネを一気に放出した播磨の踏み込みは、距離など無関係であるかのように遠距離から一息に詰めた。驚愕に目を丸くする天王寺の顔、その顎にアッパーが炸裂する。
『打ちのめされたことがない選手など存在しない』
 揺らいだ天王寺へ、腰を捻って放つ渾身の右フックがこめかみへ突き刺さる。
『ただ一流の選手は、あらゆる努力を払い、速やかに立ち上がろうとする』
 返す刀で渾身の左フック。
『並みの選手は、少しばかり立ち上がるのが遅い』
 三発のコンビネーションに意識がわずかに飛んでいた様子の天王寺だが、ふらつく足を支えて右のストレートを放ってくる。しかし播磨はそれにカウンターを合わせ、クロスする形で天王寺の顎に突き刺さった。
 限界の四発。打ち切った播磨の足腰はついに悲鳴を上げ始め、ぐらりと体が揺れるのがわかったが、播磨は、いやまだだと心から叫んだ。
 天王寺はすでにノックアウトされたも同然のダメージだったが、全力で応える、と決めた播磨の体、心の深いところにある器官が、限界を超えてみせろと言っている。ふんばりが効かない膝を手で押さえ、血が滲むほど歯を食いしばり、播磨は大きく振りかぶった。
『そして敗者は――いつまでもグラウンドに横たわったままである』
(俺は――)
 溜めたパンチを解き放つ播磨は、同時に叫んでいた。
「――絶対に負け犬にはならねえ……!」


        ◆


 一発目のアッパーで、天王寺の意識の半分が刈り取られた。
 二発、三発目と続く左右からの連続フックが全ての意識を刈り取ろうとしたが、こんな奴に負けてなるものか、という矜持が意識を取り戻させた。
 辛うじて抵抗のストレートを放つが、四発目となるクロス・カウンターが顎で炸裂し、意識は風前の灯となった。
 ふざけるな! こんな負け犬に、俺が負けて――
 遠ざかる意識の中、目に怒気ではなく殺意すら宿して播磨を睨んだ天王寺は、そこに意外なものを見て我に返った。
 傷だらけの体、まともに動かないほど痛めつけられた体を叱咤激励し、五発目となるパンチを放とうとしている播磨の目に、かつての……いや、それ以上の鮮烈な光が戻っていることに、天王寺は気がついた。
 むかつく目だ。そう思う自分がいる一方で、どこかで待っていた自分もいる。その現実を受け入れたくない頑固な心は、播磨の復活を心待ちにしていた部分の自分に、もういいだろうと説得された。
 ……本当にむかつく野郎だ。
 迫り来るパンチを白く染まる意識の中、天王寺は遅いんだよ、と今さら復活した播磨に言葉を手向け、顔に炸裂した衝撃を最後に、意識を全て刈り取られた。


        ◆


 晶は目の前で五発目のパンチを叩き込んだ播磨の姿を見ながら、それが炸裂する寸前、天王寺が理性を取り戻したように見えたのは気のせいか? と自分の目を疑ったが、天王寺に続いて播磨が倒れる光景を見れば、そんな考えは一瞬で吹き飛んだ。
 慌てて立ち上がって駆け寄ると、播磨は「だ、だめだ。もう立てねえ……」と極度の疲労で反応しなくなった体で、こちらを見上げた。その目、間違いなく本来の播磨の輝きを取り戻していた。純粋にそれが嬉しい晶だったが、表面上はやはり無感情に、「大丈夫?」と心配する声だけをかけた。
「いや……マジでやべえかも」
「なんとか立てる?」
「今は無理……」
 やっと立ち上がれたのにな、とぼやく播磨だったが、晶はそんな心配はいらないと思った。体はまたこうして倒れていても、心は立ち直れている。その目の輝きが何よりもの証拠であり、晶はとりあえず肩を貸して保健室に連れて行くことに決めた。


 播磨の体は大きい。保健室に運ぶまでの道中、何度も体格差で圧倒的に劣る晶は転びそうになったが、何度もふんばりながらようやく保健室にたどり着き、そこに養護教諭の姉ヶ崎妙がいなかったので、勝手に使わせてもらうことにした。
 播磨をベッドに寝かせ、包帯やらガーゼやら薬やらを片っ端から取り出した晶は、恥ずかしがる播磨の上着を脱がせて手当てした。正直なところ、冷静を装っていた晶も逞しく鍛えられた播磨の体にわずかな恥ずかしさを感じていたが、怪我への心配でそれを封殺した。
 終わった時には、ガーゼと包帯でほとんど肌の露出がないミイラ男が出来上がった。口周りにもガーゼがあって、いかにも喋りにくそうな播磨は、「サングラス、壊れちまったなぁ」とぼやいた。
「また買えばいいよ」
「今月はろくにバイトしてねえから、金がねえんだ」
 馬鹿なことしたな、俺。そう反省する播磨は、今までの自分の生活を振り返って、本気でなぜあそこまで塞ぎこんでいたのか、わからないようだ。
 それも立ち直れた今だからこその心境で、そう思えるようになった播磨ならもう大丈夫だ、と晶は安堵した。
「あー……。いろいろ謝らねえといけねえ奴らがいるな」
「うん」
「とりあえず、いと……刑部先生だろ」
「播磨君。刑部先生と播磨君が従兄弟だってこと、私知ってるよ」
「え、マジ!?」と本気で驚く播磨は、見ていて面白かった。
「あと……妹さんだろ。お嬢もだっけ。天王寺は……あとでリターン・マッチするからいいか」
「私は?」
 意地悪だとわかっていたが、あえて晶は質問した。敏感に反応し、「う、いや、その」と焦る播磨は、思わずからかいたくなる何かがある。播磨がいいようにからかわれていた日々を思い出した晶は、なるほど確かに、と密かに同意した。
「あー、その……高野にはだな」
「うん」
「た……高野にはだな」
「うん」
「…………」
 一度恥ずかしがって言うタイミングを逸してしまえば、なかなか言えるものではない。それでもなんとか口にしようと努力している播磨は、面白いぐらいに顔を真っ赤に染め、ついにはそっぽを向いてしまった。
 もういいか、とからかうのをやめようと思った晶が、大丈夫、わかってるから、と口にしようとすると、照れて背中を向けて寝転がる播磨から、「あ、ありがとよ」と蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
 きょとん、とした晶だったが、胸が温かい何かで満たされるのがわかると、「どういたしまして」と返した。
「明日からは学校に来る?」
「……おう」
「また、茶道部の部室にも顔出して」
「……おう」
「勉強、遅れている分を取り戻すなら、私も協力するよ」
「……おう」
「困ったことがあれば、何でも相談して。力になる」
 再び播磨は「……ありがとよ」と小声で呟く。
 ようやく、帰結すべき場所に帰結した。その思いが晶に湧き上がり、明日からの学校生活に思いを馳せた。しばらくはクラスでの居心地や、今まで蔑ろにしてきた人間関係の改善・修復などに時間を費やすことになるだろうが、そんなことは今の晶にはどうでもよかった。明日から、隣りの席に播磨がいる。日常が新たな日常へと移行していく喜びに浸りながら、晶は播磨の後ろ姿を眺めた。


        ◆


 一ヵ月後――。


「拳児君。いい加減、そろそろ起きないと遅刻するぞ」
 刑部絃子は拳児の部屋のドアをドンドン、とノックした。途端、中から「やべぇ!」という慌てた声が響き、やれやれと絃子は嘆息した。
「絃子、なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ!」
 ドアを乱暴に開き、廊下に飛び出した播磨が開口一番に言った言葉がそれだった。ふう、とあからさまにため息をついた絃子は、「小学生みたいな言い訳をするもんじゃないよ」と切り返した。
「高校三年生にもなっておいて、ようやく復帰したというのに、それでは先が思いやられるな」
「しょ、しょうがねえだろ。俺だって、いろいろやることが――」
「そもそも、明け方まで徹夜するような人間が、寝坊することを言い訳にしてはいけないね」
 ぐうの音も出ない様子の播磨は、ちっ、と舌打ち一つで洗面所へ向かった。その後ろ姿を見送りながら、絃子はようやく戻り始めた以前の関係に満足した。
 一ヶ月前、全然ふさぎ込むのをやめない気配の播磨を心配する日々に疲れ果てた絃子が、放課後のいろいろな処理をさぼって家に帰ってきた時、部屋に播磨の気配はなかった。どこへ行ったんだ、と不安に思った絃子だが、パチンコかなにかだろうと強引に納得して、播磨の帰宅を待った。しかし一向に帰ってくる気配がなく、今の彼の状態で外をぶらぶらしていては危険だ、と判断した頭が、次に探しに行け、と命令するのは当然だった。
 ろくに身支度もせず玄関に向かった絃子は、自分がドアを開ける前に向こうから勝手に開いたドアに唖然とし、そこに立っていた播磨の姿に今度は愕然となった。あちこちを包帯とガーゼで身を包んだ播磨を見れば、誰もが喧嘩の後だと思う。絃子も例外ではなく、荒れ果てた中学生の頃に逆戻りしてしまったのかと不安に駆られ、どうしたんだ、と声をかけようとし、サングラスをかけていない播磨の目を見て言葉を飲み込んだ。
 鮮烈な光が宿った瞳は、本来の播磨そのものだった。開口一番に播磨は、すまなかった、と言い、絃子の言葉をじっと待ったが、絃子自身はすぐにその現実を受け入れることができず、それからしばらくは呆然とする日々を送ることになる。
 どうやら播磨が立ち直ったらしいというのは、一週間ほどしてからようやく理解した。かつてのように朝は寝坊寸前。授業には真面目に出るが、あまり熱心ではない。茶道部の部室に顔を出し、顧問の絃子もそこで一緒にお茶を飲みながら高野晶や塚本八雲、サラ・アディエマスと談笑する播磨を見て、その時に播磨君だ、と初めて実感したのだ。
 播磨が立ち直ったとすれば、絃子もまたいつものように戻る――はずもなく、これまで散々心配と迷惑をかけた播磨に、それまでの鬱憤を絃子がぶつけるのは当然の成り行きだった。自分が悪かった、という自覚があるのか、播磨はいろいろと愚痴をこぼしながらも、絃子のわがままに最後まで付き合った。ようやく溜飲が下がったのは、二週間後のことだった。
「拳児君、私は先に行くよ」
「おう」
 洗面所からの播磨の返答を聞き、絃子は外へ出た。
 六月も半ばですっかり本州は梅雨入りしていたが、今日は珍しく快晴の天気だった。まるで今の自分の心を象徴しているようだと思った絃子は、一ヶ月前に比べればずいぶんと軽やかな足取りで階段を下りる。
 とりあえず、今日の物理の授業で播磨を当て、少しからかってやろうなどと公私混同、職権濫用な悪戯を考えながら、絃子は微笑んだ。


        ◆


 PPP、と塚本八雲のケータイがメールの着信を知らせ、弁当を机の上に広げようとしていた八雲は、メールの件名が「トーン処理」となっていることで、それが播磨からのものだわかった。
「八雲。今日は屋上?」
 真正面に机を引っ付けていたサラ・アディエマスがからかうような口調で言ってくる。それを恥ずかしいと思う一方で、どこかに嬉しさを感じている自分がいる。「うん」と返事した八雲は、広げかけていた弁当を持ち上げた。
「ごめんね、サラ。行ってくるから……」
「いいよいいよ。楽しんできてね」
 以前はどこで食べるかが日常的になっていたサラの質問が、最近では播磨が八雲へメールを送り、八雲が屋上へ行くことが前提となっていた。だからサラも前のように「今日はどこで?」とは訊かず、「今日も屋上?」と訊ねるようになった変化に、八雲はささやかな幸せを感じながら、教室を出た。


 梅雨入りということもあり、最近では屋上を利用する機会が減っていたが、今日は完璧なまでの快晴だった。
 屋上へ足を踏み入れた八雲は、そこに大きな封筒を抱えた播磨が立っている姿を見て、「こんにちは、播磨さん……」と挨拶した。
「うっす、妹さん」
 軽く手を上げて挨拶を返す播磨の姿は、以前と変わらないように……いや、少し成長したように八雲には見えた。
「今日はどんな漫画ですか?」
「ああ、今日はな……」
 封筒を漁って原稿を取り出す光景を目にし、八雲は一ヶ月前に思いを馳せた。
 一ヶ月前、昼休みの一件で、八雲は深い後悔を抱くようになりつつあった。やっぱり、行かなければよかったんだろうか。そう思い出した思考は止まることを知らず、学校へ登校することが億劫に感じた翌々日、姉の天満に心配をかけるわけにはいかない、と姉好きな妹の頭が判断して、重い足取りで学校へ行った。
 親友のサラが様子の変な八雲を心配するのは当然のことで、何があったの、と訊ねてくるサラに何も言えない八雲は、どんよりと後悔が立ち込める自分の心に辟易とした。ケータイがメールの着信を知らせたのは、その日の昼休みに入った直後のことだった。
 件名に「トーン処理」と書かれたメールを信じられない目で見た八雲は、慌てて本文をチェックし、そこに「屋上で」とだけ書かれているのを見て、どうしようと悩んだ。一昨日の一件以来、意志の弱さに拍車がかかっていた八雲は、どうしても踏み切る一歩が踏み出せなかった。が、そんな八雲の背中を押してくれたのは、やはり親友のサラだった。
 行ってきなよ。そう微笑むシスターの彼女を見れば、八雲は少し心が落ち着くのを感じた。そうして屋上に向かった八雲が見たのは、大きな封筒を抱え、全身が包帯だらけの眠たげな播磨の姿だった。
 思わずどうしたんですか、と心配する声をかけた八雲は、いきなりその場に土下座した播磨に声を失った。すまねえ、と校舎中に響き渡るような大音声で謝った播磨は、文字通り額を地面に打ち付ける勢いで頭を下げた。その馬鹿らしくてある意味不器用な姿が、八雲に本来の播磨の姿を思い出させた。
 詳しい事情は知らないが、とにかく播磨は立ち直ったらしい。そこで怒らせてしまった八雲と仲直りしたいと思って、この二日間、徹夜で漫画を描いたのだと聞かされた。そう言われれば、八雲が断る理由はなかった。短編の漫画を読んだ八雲は、そのまだどこかに独りよがりなところの残るストーリーや、相変わらず不器用な主人公の姿に、泣きたくなるような嬉しさを感じた。
「……それで、ここで主人公がだな……」
 自作の漫画を説明する播磨の声を聞き、八雲の思いは現在に戻った。
「で、どう思う? 妹さん」
「はい……。ここの展開は、少し強引すぎると思います」
 ううむそっか、と修正案を考える播磨を見ながら、八雲はまたかつての日常に戻れたんだと改めて実感した。
 相変わらず、播磨の心は視えない。だが今はそれでもいいと思える自分を見詰めながら、八雲は播磨の修正案を聞いた。


        ◆


「ヒゲ」
「……なんだよ、お嬢」
「駅前のアイスクリームが食べたいの」
「てめえが自分で行け!」
「あんた、逆らう気?」と愛理が播磨に言った途端、播磨はぐっ、と声を詰まらせて「……覚えてろ」の捨て台詞を置き去りにすると、愛理のクラスの教室から飛び出していった。
 その様子を横で見ていた美琴が、箒で適当に床を掃きながら、「お前もまだやってんのかよ」と呆れた声を発した。
 愛理は雑巾で窓を拭きながら、「いいのよ。あいつが自分で蒔いた種なんだから」と言えば、美琴は「頑固だなぁ……」と愛理に聞こえないように呟いた。
 教室の窓を拭きながら、愛理はバイクで校門から飛び出していく播磨の姿を見て、一ヶ月前と似たような光景だ、と回想した。
 一ヶ月前、不覚にも播磨に涙を見せるという愚行をしでかしてしまった愛理は、それから三日ほど学校を休んだ。そして久々に学校へ行った途端、美琴から播磨が呼んでるぞ、の言葉を聞き、何を今更と激昂した。人に言伝を頼んで仲直りでもするつもりか? だったら、自分が直接言いにくるのが筋だと思った愛理は、播磨の呼び出しを無視した。
 それが五回ほど続くと、今度は播磨が直接愛理のところへやって来るようになった。直接言いにくるのが筋、などと考えていたはずの愛理は、今度はあれだけ無様をさらしておいて、のこのこ姿を現すとは、と全くもって理不尽な怒りを見せた。
 この猿の前で涙を見せてしまったことが、愛理のプライドを刺激して意固地にさせていた。直接やってきて謝りたいんだよ、と播磨が言っても、消えなさいの一言で一蹴する。そんなやり取りがしばらく続き、愛理もうんざりし始めていた頃、学校の帰り道を執事のナカムラが運転するリムジンに乗り、狭い車道の多い住宅街を走っていたその時、播磨がリムジンの前に飛び出すという暴挙に出たのだ。
 狭い車道でスピードが落ちているとはいえ、生身の人間がぶつかって無事にすむものではない。止めて、とナカムラに言うか、無視して、と意固地に負けて言うか愛理は悩んだが、それも一瞬のことだった。ナカムラが轢きますか? と平然と言った瞬間、思わず愛理は止めて、と叫んでいた。まるでそう言うことがわかっていたかのように、リムジンはあっさりと播磨の鼻先三○センチで停車した。
 ナカムラに恨めしげな一瞥を送った愛理が車外に出て、何の用? と質問すると、播磨はお嬢に謝りたいのが本当だという誠実さを見せ付けるから、何でも言いつけろと言った。いい加減に逃げ回る生活にも疲れていた愛理は、だったら京都の宇治緑茶を買ってきなさい、と無茶な命令をした。
 二年生の時、愛理が誤って播磨のヒゲを切ってしまい、そのことを謝罪しにいった時に播磨が意地悪で言った言葉をそのまま返したのだ。だから播磨がじゃあ明日渡す、と言った時も、愛理は本気にしなかった。
 翌日の朝。疲れ果てた様子の播磨が宇治緑茶を持って愛理のクラスに現れた時、さすがに愛理は開いた口がふさがらなかった。放課後のあの時間から、おそらくは徹夜で走り続けて京都からここまでを往復したらしい播磨の姿に、愛理は意固地になっていた心が少しだけ柔らかくなるのを感じたが、プライドの高い愛理がそれで終わるはずもなかった。
 それからしばらく……いや、現在まで播磨が愛理の奴隷同然な姿を見せ続けている。どうやら播磨が本気で悪いと思っているのがわかった愛理だったが、素直になれない彼女は引き際を見失っているのが現状だった。
「なぁ沢近。もういいだろ?」
 美琴に言われるまでもなく、愛理だってそう思っている。
「……別に私は……」
 言葉を濁す愛理に、美琴はしゃあないと言って「こう言えばいいんじゃないか?」と続けた。
「これぐらいで勘弁してあげるわ、ってさ」
 ……なるほど。親友のアドバイスに後押しされ、愛理は「考えとく」とだけ返事した。とはいえ、既に愛理の頭の中では、アイスクリームを買って帰ってきた播磨にその言葉を投げかける場面が思い浮かんでおり、まぁ充分役立ったしね、と自分を納得させた。
 あんまりこの私を待たせないでよ。そう心中に呟く愛理の姿は、一ヶ月前とは比べ物にならないほど輝いていた。


        ◆


 今日は茶道部の活動はない。が、晶は播磨との約束もあって、部室に来ていた。まだ播磨が来ていないことを確かめると、そういえばここ数週間はずいぶんと忙しいようだったと思い出し、先に紅茶を淹れて待っておくことにした。
 ティーカップにミルクティーを注いだ時、「……おっす」と疲れ果てた様子の播磨が部室に入ってきた。
「いらっしゃい」
 新たなティーカップを用意した晶は、いつものように紅茶を淹れる。砂糖の量も播磨の好みと絶妙にマッチしていて、今では分量を測る必要もないほど手馴れていた。ティーカップを差し出すと、播磨は即座に一口含んで「生き返るなぁ」と呟いた。
「それじゃ、少し休憩したら始めようか。播磨君」
 そう言って晶がカバンから取り出したのは、教科書と参考書だった。
「じゃあ、とりあえずこの紅茶を飲んでからな」と言って、播磨は二口目を含んだ。


 播磨が目の前で問題を解くのを見ながら、晶は多忙だったこの一ヶ月間を思い返した。
 ようやく立ち直ったものの、それは始まりでしかない。それを重々承知していた晶と播磨は、まず学校へ毎日通うことから一歩を踏み出すべきだと判断した。最初は唐突に登校し始めた播磨に驚愕していた様子のクラスだったが、それもしばらく続けば日常の光景となる。それでようやく、播磨は学校にまた居場所を取り戻せた。
 すると今度は、遅れに遅れた勉強の問題があった。追試、補習、留年。いずれも播磨との時間を奪われるために晶にとって好ましくない事態が現実化しそうな現状を打破するため、晶は放課後の茶道部部室で播磨とマンツーマンで勉強を教えることになった。授業は面倒くさそうな播磨だったが、ここでの勉強だけは熱心にやった。
 そして二週間が過ぎて播磨の怪我も完治した時、播磨は唐突にリターン・マッチをすると言い出した。相手はもちろん、あの天王寺。播磨の呼び出しに応えた天王寺は、再び播磨と体育館裏で対峙することになった。その様子を近くで盗み見ていた晶は、開始早々に播磨が播拳龍襲(ハリケーン・ドラゴン)で天王寺をノックアウトするという圧倒的強さを目撃した。あっさりやられたというのに、天王寺はなぜか満足げだった。
 一ヶ月。ようやく全てが順調に回りだすようになったことに、晶は満足していた。
「……おしっ! できたぜ、高野」
「見せて」
 三○分かけて解答した用紙を受け取った晶は、ペンケースから赤のボールペンを取り出した。採点していたら用紙が思いの外、正答が多いことに驚いた。教科は数学。復習の色合いが濃い問題だったが、ここ数週間での播磨の努力が現れた結果だった。
「……うん。頑張ってるようね、播磨君」
「最近は寝る間も惜しんでるからな。……ふぁぁ、眠……」
 欠伸して円卓に突っ伏す播磨を見た晶は、そういえばなぜそんなに播磨が忙しくしているのか、知らないことに気付いた。普通なら晶は播磨の動向を調べているのだが、ここ一ヶ月は播磨のフォローのためにあっちに走りこっちに走りの大忙しだったため、そんな余裕がなかったのだ。
「一体、何に時間を費やしてるの?」
「ん? ああ、妹さんに――」
 そこまで口にした播磨だったが、唐突に慌てた様子で「い、いや、なんでもねえよ」とあやふやに誤魔化した。もちろん、そんなものに晶が誤魔化されるはずもなく、握っていたボールペンがみしりと音を立てた。
 ……そうか、漫画を描いているのか、と晶はすぐに気付いた。播磨は周囲に必死で隠しているが、晶は以前から播磨が漫画を描いていて、それをどうやら八雲に見せているらしいことを知っていた。引きこもって以来さっぱり描かなくなっていたから、もう描いていないのだと思い込んでいたが、おそらくは八雲に謝罪した際の話題に用いたのだろうということは、播磨と八雲の間に他に目ぼしい話題がないことを考えれば簡単に予想できた。
 だからと言って、自分以外の女と二人だけの秘密を共有し、あまつさえ貴重な睡眠時間を削ってまで努力しているとあれば、想いを寄せる一人の女としては冷静ではいられない。いや待て、今のところ私たちはまだ付き合っていないのだから、そこに口を挟む権利はないはず。そう自分の心に言い聞かせる晶だったが、この調子では他の二人も怪しいと思い、「他に何か、もっと疲れるような原因があるんじゃないの?」と訊ねた。
「ん……? 絃子のやつがわがまま言うのはちょっと前に終わったしな……。ああ、けどお嬢にゃ散々パシらされて参った。まぁそれも今日で勘弁してもらえたからいいんだが」
 案の定だった。
 きっと、人間関係の修復のために播磨はあえて相手のわがままに付き合ったりして誠意を見せたのだろうが、近頃自分と共有する時間が奇妙に減っていると思っていた晶にしてみればたまったものではない。
「……それはご苦労様。でもちゃんと休むのよ」
「ん、そうする」
 そんな晶の心理など知ろうはずもない脳天気な播磨の返答に、晶はまた握っていたボールペンがみしりと音を立てるのを聞いた。
 だめだ、このままじゃ。播磨が晶に対して何かしらの強い感情を抱きつつあることを晶はわかっているが、悠長なやり取りをしていたのでは、横からの奇襲で彼を奪われかねない。
 なんとかして彼に振り向いてもらわなければ。
 即座に策略を練ろうとした晶は、ちょっと待て、と思考を中断した。確か自分は、愛理のように直接的になると誓ったんじゃないのか? という心の声を聞いた。婉曲的な策略からのアプローチだけでは、実る恋も実らない。ひょっとして、今こそが直接的にアプローチする瞬間ではないのか……?
 やや暴走気味な晶の思考は、次の瞬間、そのアプローチをどうすべきか考え、不意打ちで一気に攻めるしかない、と弾き出した。策略には違いないが、晶の弾き出した策略は今までの彼女には前例がない直接的な策略だった。
「播磨君。天王寺君とのリターン・マッチはどうなったの?」
「もちろんぶっちぎりの圧勝だ。まぁしばらくはやって来ねえだろうよ」
 もちろん、その現場を盗み見していた晶にもそんなことはわかっている。だが、あえて晶は「本当に?」と疑う声を演じた。
「あれだけ叩きのめされていた播磨君が、そんな簡単に圧勝するとは思えないんだけど」
「はぁ!? いやいや、俺が立ち上がった後、あいつを五発でKOしたの見てたろ?」
「ううん。私、首をしめられてたから、呼吸ができなくて見てる余裕がなかったの」
 もちろんそれも嘘だ。あの時の強烈な播磨の姿は、今も瞼に焼き付いている。
「……本当に勝ったの?」
「いや本当だっつーの! そもそも、俺があいつに負けたことのほうがおかしいんだ」
「そこまで言うなら……」
 椅子から立ち上がった晶は、播磨に向かってかかって来い、と手招きした。
「私にその実力を見せて」
「……はぁ? なんで俺が高野と……」
「別に本気でやるわけじゃないよ。ただ、私に格好いいところを見せて証明してくれればいいの」
 格好いいところ、を強調した晶は、もう一度播磨に向かって手招きした。


        ◆


 格好いいところを見せて。
 そう言われてしまえば、播磨は引き下がるわけにはいかなかった。一ヶ月前、天王寺にぼこぼこにやられた時、晶が助けてくれたことや、その後支えてもらいながら保健室に行ったことや、この一ヶ月間は晶に頼ることが多かった播磨は、自分をどこかで情けなく思っていた。
 高野に格好いいところを見せたい。播磨本人は気付いていないが、無意識が晶にいいところを見せようと願っている自分がいる。が、この一ヶ月間はそのような機会が全くなく、悶々とした日々を送っていたことは事実だった。
 思わぬところでチャンスがやってきた。そう考えた播磨は、「へっ、面白え」と不敵に笑って椅子から立ち上がった。
「つまり、これは俺と高野の勝負ってわけだな」
「そうね。格好いいところを見せることができたら、播磨君の勝ち」
「上等だ」
 互いに一歩離れ、間合いを取る。その距離はぎりぎり互いに間合いが触れ合う距離で、一歩踏み込めば即座に攻撃できる距離でもあった。
 晶の実力は未知数だが、前の天王寺との喧嘩で見たあの動きは、頭で考えての動きではないと播磨にはわかっていた。何度も反復することで反射行動となった動きで、だから咄嗟にあれだけの素早い対応が可能なのだろう。
 だが、そこに弱点がある、と播磨は思った。天王寺と同じ攻撃、同じパターンでこちらが攻めれば、晶は同じ動きをするだろう。どんな攻撃がくるかわかっていれば、百戦錬磨の播磨にしてみれば対処は容易い。
 踏み込んできた瞬間、それを利用して一気に関節を極める――。
 勝利の方程式が組みあがり、播磨はにやりと緩みそうになる頬を引き締めると、先手必勝とばかりにやや手加減したストレートを繰り出した。
 晶の対応は播磨の予想通りだった。クロスした両腕を頭上にかかげ、体格差から生じる上からのストレートを、頭上後方に受け流す。本来なら天王寺と同様、受け流された播磨には一瞬の隙ができるはずだったが、播磨はやや手加減してストレートを放っていたため、その戻しも速かった。
 甘えよ! そこで晶は右脇へ踏み込んでくるはず――。そう確信して次の動作に移ろうとした播磨は、晶が予想外の動きを取ったことに気付かされた。
 真正面。右脇ではなく、晶はまっすぐに踏み込んできた。予想外の動きに播磨は完全に不意を突かれ、狙ってやがった、と瞬時に悟るが遅かった。咄嗟にその動きに対応しようとする播磨の腕を晶は払いのけ、体と体が密着するほど間近に迫る。
 そして晶は、両手を播磨の両肩に乗せて動きを制し、踵を上げて体格差を縮め、

 そっと、キスした。

「!? ……!?」
 なんだ、これ。両肩の晶の手のひらから早い鼓動が伝わる。目を見開いた視界一杯に、瞼を閉じた晶の顔が迫っている。唇に熱い感触が――、
 って、おい!? ど、どうして高野が俺と、キ、キ……いや、おかしいだろ! なんだこの展開!? な、なんでいきなり――、
 見事に混乱し、全身が硬直する播磨だったが、十秒近い接触の後、晶はそっと唇を離した。その晶の瞳に火傷しそうな熱があるのと、頬がかすかに赤いのを混乱する頭で知覚した播磨は、無意識が静かに語りかけてくる声を聞いた。
 わかっただろう? 今まで高野の傍にいて感じていた居心地のよさの正体を。どうして晶の言葉にあれだけショックを受けたのかも。どうして格好いいところを見せようと思ったのかも。そして、彼女がずっと傍で手を差し出してくれていた理由も――。
 どうしようもなく気付かされた。どれだけ馬鹿で鈍感な播磨でも、気付かされた。晶が先に播磨に惚れて、そして彼女は播磨に惚れさせたのだと……。
 ずいぶん長く黙ったままの二人だったが、ようやく晶が先に口を開いた。
「……私の勝ち?」
「ああ……。俺の負けだ」
 惚れたほうの負け。古くからの恋愛の定理も、この女の前では逆にしか成り立たないのだと、そんなことを考えた播磨は、晶の表情が変化するのを見て驚愕した。
 晶が微笑んだ。間近で見なければわからないほど、本当に微かな表情の変化だったが、どこか恥ずかしげで――そして、どうしようもなく幸せそうな微笑みに、播磨は自分の心がダメ押しの衝撃を受けてノックアウトされるのがわかった。
 今度は立ち直れるか、俺? そう思う播磨だったが、胸を支配する幸せな気持ちを感じていられるなら、俺の負けでもいい、そう思えた。



 一つの恋が終わりを告げた冬が過ぎ、新たな恋が始まった春。
熱い夏を予兆させる梅雨の珍しい快晴は、今日という日、二人を祝福するために訪れたようだった。




End



 


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