【晶×播磨シリーズ#4】 Love which buds on the battlefield
日時: 2006/12/21 21:06
名前: ホザキ


「ごめんなさい、播磨君。私、烏丸君のことが好きなの」
 高校二年生の冬。
 桜が芽吹く一歩前の季節に、一つの恋が終わりを告げた――。


        ◆


 ドンドン、と乱暴なノックの音が部屋に響き渡り、布団にくるまっていた播磨拳児は閉じていた目を開いた。
「拳児君。いい加減にしないと学校に遅れるぞ」
 同居人であり保護者同然でもある刑部絃子の声が、どこか空回りに聞こえた。
 白いカーテンから差し込む朝日は眩しく、播磨は布団の中にいることが場違いなような気分になったが、だからといって出る気にはならなかった。
「行かねーよ」
 春眠暁を覚えず、というわけではない。眠りは一時間も前にとっくに覚めており、だらだらと布団の中で時間を浪費していただけなのだ。朝食を食べる気も、トイレに行く気も、ましてや学校に行こうという気分さえ微塵も沸き起こらないのが播磨の心境だった。
「拳児君……。せっかく三年生に進級できて一ヶ月近く立つというのに、君はほとんど学校へ来ないじゃないか。卒業前に留年するつもりなのか?」
 ため息の中に怒りと悲しみが混ざったような声だったが、今の播磨にそれに気付くだけの感覚はなかった。
「行かねえったら行かねえ」
「……っ! 投げ槍にするのもいい加減にしろ! 失恋したてで無気力というならまだ同情の余地はあるがな、二ヶ月近く立ってるんだぞ!? いつまでそこでグジグジしている気だ!」
 失恋した播磨の事実を突き、直接的に怒りをぶつけた絃子の声だったが、播磨は何も反応しなかった。
 少し前なら、彼も激情に駆り立てられて怒鳴り返していたところだが、今の播磨にはそんな心の高揚すら起こらない、弛緩しきった状態だった。ただ、いつまでグジグジしている、のくだりに心にもやっとしたものを感じたが、それも閉ざした口を開くほどのエネルギーとはならなかった。
 一切口を開かず、無言を返答にした播磨に、それでも口を開いて何か言うのを待っていた様子の絃子だったが、「……わかった」と意気消沈した声を発してドアの前から去っていった気配だけ感じた。

        ◆

 部屋の鍵を閉め、鍵をカバンにしまったところで、刑部絃子は深いため息を吐いた。
「まったく……。何をやっているんだろうな、私は」
 誰もいないマンションの廊下に独白が漏れ、何も反応するものがないことに、絃子は胸に虚無感が募るのを感じた。
 二ヶ月ほど前、塚本天満に清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白した播磨だったが、結果は見事に轟沈。詳しい経緯など知らないが、天満は播磨に「友達でいよう」とある意味残酷な、天然な彼女らしい言葉をつきつけたらしい。その晩、夜遅くに部屋に帰ってきた播磨は、声をかける絃子すら意識の外だったらしく、無言で部屋にこもった。
 天満ちゃんと一緒に絶対に進級するんだ、と豪語していた播磨の言葉どおり、失恋して時が止まってしまった男にも、三年生への進級という現実は流れる水のように留まることなく訪れた。しかし始業式の日は顔を出した播磨だったが、次の日からは一週間に一度来るか来ないかの日々が続き、担任となった絃子を大いに心配させた。
 告白の一件以来、部屋に閉じこもりがちになった播磨。ひきこもりの不良など見たこともない、というのが絃子の素直な感想だったが、事態はもっと深刻だった。新学期初日からあれだけ休めば、成績の低下はもとより、なによりも出席日数が足りなくなって追試。だが成績が悪いから、追試も落ちて留年。最悪のパターンが現実化しそうな状況に、絃子はなんとかしようと頑張ったが、肝心の播磨が全くの無反応だった。
「人の苦労も知らないで……いい気なものだな」
 もういっそ諦めよう。その言葉が悪魔の囁きのように脳裏をかすめたが、従兄弟であり受け持ちの生徒でもある播磨の顔を思い出せば、すぐにそれも霧散した。
 普通なら、絃子の性格を考えればとっくの昔にここから出て行け、と叫んでいる。それをしないのは、やはり彼が拳児君だから。倒れたままの彼の力になりたい。支えになりたい。自分にこんな女らしい一面が強くあったことに新鮮に驚く絃子だが、それが常に空回りとなれば、喜ぶような余地はなかった。
「……もう行くか」
 結局、その日も播磨の説得に失敗した絃子は、そのまま出勤した。

        ◆

 朝のHRの時間。高野晶はいつもなら窓の外の桜が散った光景を眺めて時間を潰したりするのが常だったが、最近の晶は隣りの空席ばかりを見ていた。
 始業式の日、クラス分けで偶然にも晶と播磨は同じクラスになり、更には席が隣り同士という彼女にとって最高の幸運に恵まれたのだが、肝心の播磨が休みがちとなれば、素直に喜べないのが晶だった。
 いつもの無表情を崩さず、じっと播磨の空席を見ていた晶は、不意に「高野晶」と呼ばれる声に我に返った。
 担任の刑部絃子が恒例の点呼を取っていたところだった。一瞬、なぜ呼ばれたのかわからなかった晶だが、すぐになぜかを察して「はい」と返事した。次の人へと順繰りになっていく点呼を聞きながら、そういえばこのクラスに愛理と美琴はいないんだった、という事実を思い出していた。
 去年までなら、自分の出席番号の前に沢近愛理と周防美琴がいる。だからHRの時間にこそこそと内緒話などをしていても、沢近が呼ばれるのを聞き、もうすぐ自分の番だなと晶は気付くことができていた。すぐ隣りのクラスで一緒になった愛理と美琴を思い出していた晶は、「塚本天満」という絃子の言葉と、それに続く「はい」という元気な声にもう一度我に返った。
 教室前方に座る天満は、晶と一緒のクラスになった仲良し四人組の唯一の残りだった。そして彼女が隣りに座る烏丸をちらりちらちを窺っているのを見た晶は、そういえばあの二人は恋人になったんだっけ、と回想した。
 二年生を最後にアメリカに渡るはずだった烏丸は、天満の告白を受け入れて晴れて恋人同士になった。そして烏丸は更に当初の予定を一年引き伸ばしし、卒業と同時にアメリカに渡ることになったのだということを、晶は風の噂で聞いていた。加えて天満の最近の猛勉強ぶりを見れば、彼女が烏丸の行くアメリカの近場の大学に留学するつもりなのは明らかだった。
 行けるはずがない、と正直に最初は思っていた晶だが、ここ一ヶ月で飛躍的に天満の学力はアップしていた。恋する女は変わる。古来から語り継がれる不滅の文句に、晶は違いないと心中で同意する。
「……以上で全員だな」
 絃子の点呼も終了し、「最初の授業は物理だったな。では、このまま授業に入る」の言葉を合図に、いつも通りの時間が過ぎるクラスの風景を眺めた晶は、そのいつも通りに不満を感じた。
 そこに播磨がいない。それだけで、晶は心がざわめくのを感じた。以前の自分からは考えられない心境の変化に、自分も恋する女なのだと改めて思い知らされた。隣りの播磨が面倒くさそうに授業を受けるのを見たり、教科書を忘れた彼に教科書を見せたり、発表を当てられた播磨にこっそり答えを教えたりする空想を鮮やかに思い描いた晶は、前方に座る天満がちらりと播磨の席を窺っている姿を見て、白昼夢から覚めた。
 二年生最後の時、播磨が天満に告白してふられたことなど、とっくの昔に晶は知っている。今、天満が播磨の空席を見たのは、友達としての心配……そして、ふった自分に責任を感じているための両方だと晶にはわかった。
 ふったことに対して責任を感じているなら、お門違いよ。すぐに視線を黒板に戻した天満の後ろ姿を視界に収めながら、晶は胸中に呟く。
 告白してふられ、倒れる。そのまま立ち上がれないでいるのは、その当人の責任でしかない。そこにふった相手が責任を感じたりする義務も義理もないのに、それがわからない天満は、やはり彼女が――優しいからだろう。慈悲と残酷。その両面を表裏一体に持つ優しさの本質に、天満は気付いていない。それが彼女なりの未熟さであり美徳なのだろうが……。
 不意に、晶は自分が天満の悪態ばかり考えていることに気付いた。親しい友人をそんな感情で見ていたことに、わずかばかり晶はショックを受けた。そのショックは、播磨をふって恋人を得てまでして、まだ彼に優しさ――それが友人としてのものだとしても――を向ける天満に対する、晶の女の部分が嫉妬として反応したものだった。彼を異性として好きでもないあなたが、彼が立ち上がるのに手を貸そうとする……支えになろうなどと考えるな、と心が叫んだ結果だった。
「先生。そこの答えはおかしいです」
 三年生でも委員長となった優等生・花井の指摘が耳に入り、晶は天満から意識を外して教卓の絃子に目を向けた。
「……ああ。本当だな、うっかりしていた。訂正するよ」
 絃子らしからぬ陳腐なミスを見て、晶は彼女もまた恋する女の一人だったことを思い出す。
 生徒のほとんどは知らないが、かの刑部絃子教諭と播磨拳児が同じマンションの一室に住む同居人同士……それも従兄弟であることを、晶はもちろん知っていた。播磨にとってただの同居人である絃子だが、絃子自身はそのようには思っていないだろう。同居人、保護者、担任として播磨を心配する一方で、女としても心配する。心的な距離は別にしても、物理的な距離では一番身近な場所にライバルがいる現実。晶は自分の心がぐらりと揺らぐのを感じ、冷静になれ、と念じた。
 最近では心の揺らぎが頻繁になっている。その原因は言わずもがなで、恋の副作用に苦しんでいる我が身の現状を観察し、晶は「播磨君……」と呟いたが、授業の喧騒にかき消されてそれは誰にも聞かれることはなかった。

        ◆

 時計の短針が11に近づいた頃、さすがに空腹がひどくなって播磨はようやくベッドから抜け出した。部屋を出てキッチンに向かった播磨は、テーブルの上にラップのかけられた皿と小さな紙切れを発見し、目を見開くことになった。
 皿には茹でた麺にインスタントのソースをかけただけの簡単なスパゲッティが盛られていた。絃子が料理したのか? と思った播磨は、その横の紙切れに目を移した。
『腹が減ったらこれを食べるように。冷めているだろうから、ちゃんとレンジで温めろよ』
 普段はろくに料理を作らない絃子の手料理と、手書きのメモ。その両方を視界に収めた播磨は、心の中をもやもやした何かが通り過ぎるのを感じた。ここ最近、頻繁に感じるようになった感覚で、行き場のないエネルギーをうまく処理することもできず、ただ「ちっ……」と舌打ちする。
 絃子が自分のことを心配してくれていることは理解している。毎日扉の向こうから飛んでくる説教の言葉がその証だということにも気付いている。だが、心が動かされない。何かはわからないが、もやもやとしたものが蓄積されるだけで、どこにもそれを上手く逃がすことができない。播磨にとってそれは、窒息しそうな息苦しさを時折もたらした。
 とりあえずラップをはがし、冷めたままで硬いスパゲッティをフォークで巻き取って口にした播磨は、「不味……」と思わず漏らした。インスタントのソースを使っておきながら、この不味さ。料理なんて器用にできねえくせに、と独白した播磨は、それでも料理を作った絃子の心遣いを確かに感じた。
「くそ。もう昼休みも近いってのによ……」
 どれだけ無気力になっても、義理堅さだけは抜けない播磨は、悪態をつきながら部屋に着替えに戻った。

 うららかな日差しが照らす車道を絃子からの借り物のバイクで走りながら、播磨は季節が春になっていることに気付いた。一日のほとんどを室内で過ごすことが日常的になった播磨は、いかに自分が世間というものから隔離して生きているのかを知ったが、ほんのりと暖かさの中に冷気がまだ残っていることを風から感じ、冬の名残りにも気付いた。
 冬。今では播磨にとって忌避すべき季節だ。15歳の冬から始まった恋の炎も、結局は二年越しの冬の厳しさの前には儚く燃え尽きただけだった。終わって時が過ぎればこんなもんか。今では二年間の思い出を冷めた目で見るようになっていた播磨だが、それが自分が天満のことを吹っ切れたのか、それとも単純に心が死んでしまったのか、どんな意味を持つのか判別できなかった。

 駐輪場にバイクを停め、昇降口で上履きに履き替え、三年生の教室がある階へ向かっている時に、ちょうど四時間目が終わったことを告げるチャイムが鳴り響き、昼休みが始まったことを播磨は知った。
 授業の静けさから一辺、途端に喧騒を取り戻す校舎の気配に、播磨はまずはどっかで時間を潰すべきかと考えたが、荷物のカバンを教室に置いてからにしようと思い、一週間は訪れていない自分の教室へ向かった。
 廊下を歩けば、同じ三年生の生徒たちの好奇心を隠しもしない視線にさらされることになった。告白の前後の経緯を知っているであろう彼らの視線は、もちろん同情などあろうはずもなく、ただ野次馬根性のみが見えた。
 うざってえ……。そう心に思うものの、怒りが湧き上がらない。視線を向けてくる連中にガンを飛ばすこともなく、ただ冷めた状態のままで播磨は教室へ向かい、その開かれたドアの隙間から室内の光景を見て、天満の姿を捉えた。
 隣りの席の烏丸と机をひっつけ、お互いに弁当をつまみ合いながら談笑している光景だった。意外……いや、どこかで予想していたが、特に心が波立つようなことはなかった。
 天満が自分から告白を受けた後に烏丸に告白して恋人同士になったことは知っている。もしかしたら、今烏丸がいるポジションには自分がいたかもしれない、と一瞬は思った播磨だが、その光景を想像することはできなかった。
 嫉妬心も、怒りも、悲しみも浮かばない。それがなぜなのかは予想できない播磨だったが、教室の別の光景を目にして立ち止まった。
 高野晶、沢近愛理、周防美琴が机をひっつけ、談笑しながら弁当を食べている。その美琴が座っている席は播磨の席で、どうにも昼休みが終わるまで退席しそうにない気配だった。
 今、教室に入って荷物を置こうとすれば、必然的に天満や晶たち三人とも目を合わせることになり、なんとなく気まずい感じになるだろうということだけは、播磨にも予想できた。
 これだけ学校に来ていなければ、もうクラスの連中や知り合いも、それが日常的だと捉えていることだろう。こちらが見ていることに気付いていない様子の高野晶の姿を見た播磨は、二年生の時はいろいろと世話してもらった晶もそう思っているのだろうかと想像し、きっとそうだろうと結論した。
 急に居場所を失った喪失感。またも心をもやもやした何かが通り過ぎるのを感じた播磨は、回れ右して階段へ向かった。今更帰るのもなにかしんどいし、とりあえず昼からの授業が始まるまで、暖かくなってきた屋上で時間を潰そうと思った。

        ◆

 四時限目の授業が化学の実験だった塚本八雲は、化学実験室から出て教室へ戻るところだった。
「八雲。今日はどこで食べる?」
 隣りを歩くサラにそう言われた時、不思議な戸惑いを感じた八雲だったが、すぐに「うん……。暖かくなってきたし、中庭がいいかな?」と返事した。
 一体、今の戸惑いはなんだったのか。廊下の窓から何気なく外の風景に目を移し、隣の校舎の屋上のフェンスを視界に捉えた八雲は、すぐにその戸惑いの正体を知った。
 それは、サラの質問そのものだった。一年生最後の冬まで、八雲はたびたび寒さに凍えながらも、頻繁に足しげく屋上へ通っていたことを思い出す。それはサラと昼食を一緒にするためではなく、一学年上の先輩、播磨拳児の書いてきた漫画を見せてもらって、二人で批評しあうためだった。
 その事情を知っていたサラは、当時は昼食は別の友達と済ませ、「早く行ってきなよ」と意地悪な瞳で八雲を送り出していたのだが、ある日を境に播磨からのメールは一通も来ることがなくなって、屋上へ足を運ぶ機会は自然消滅していた。最初は「どうしたのかな、播磨先輩?」と訊ねてきたサラだが、最近ではそれもなくなり、「昼食はどこで?」の質問が当たり前と化していた。その当たり前が、戸惑いの正体だった。
 ある日を境に――。それは、姉が播磨の告白を拒絶した日のことだった。詳しい経緯は知らないものの、どこか罪悪感を顔に浮かべて帰ってきた姉に大まかな経緯は聞いている。それを聞いた時、八雲が真っ先に考えたことは播磨はどんなふうに傷ついているだろうか、ということだった。播磨の姉への想いを知りながら、悶々とした日々を送ってきた今までが終わりを告げた瞬間、なんの脈絡もなくあの人の傍へ行こうと思いついた八雲だったが、行ってどうする、という理性の声が彼女を止めた。
 慰める? でも、私にその資格があるのだろうか? あの人の心の声がわからない私に、そんな資格が――。
 結局、生来持ち合わせた押しの弱さが決め手となり、八雲は播磨の動向を静観する立場になった。二年生になり、部活動の際などに播磨と同じクラスの晶に質問してみたこともあったが、帰ってくる答えは全て「学校に来てない」だけ。それだけだが、播磨の今の状態を察するには充分な言葉だった。
 あの時、迷わず彼のもとへ走っていたら、もしかしたら少しは違った未来になったかもしれない。そんな後悔が、最近は日に日に募っていた。
 屋上のフェンスから視線を外し、隣のサラへ向けようとした八雲は、一瞬だけ視界の端に信じられないものを見た気がして、すぐさま屋上へ視線を戻した。
 播磨拳児。フェンスにもたれかかるようにして、空を仰いでいる姿が八雲の目に飛び込み、他の一切を見えなくした。
 来ている。播磨さんが来ている――!
「ごめん、サラ。昼食は誰か別の人と一緒にして」
「え? 八雲? どうしたの?」
 戸惑うサラを後方に置き去りにして、八雲は走り出していた。廊下を歩く人の群れを縫うように走り抜け、階段を駆け上がる。三階の階段を駆け上がり、もうすぐ屋上に達するという時、不意に脳裏を声がかすめた。
 行ってどうする?
 あの時も聞いた、理性の声だった。思わず足が止まり、階段で棒立ちになった八雲だったが、逡巡は一瞬だった。
 どうするかなんて知らない。ただ、後悔ばかり募るのが嫌なだけ。
 その言葉は彼女の理性の言葉ではなく、女としての本能が発する叫びだった。その叫びで足を止めていた鎖を断ち切った八雲は、今度はもう迷うことなく一息に階段を駆け上がり、屋上へのドアに手をかけた。

        ◆

 風にほんのり冷気が混じるとはいえ、肌寒さを感じるほどではない。この屋上でどうやって時間を潰すか考え、とりあえず寝るかと決めた播磨が、屋上のドアが開く音を聞いたのはその時だった。
 誰だろうなと思って目を向けた先に、意外な人物を発見した。さっきまで体育でもしていたのか、息を荒げた塚本八雲の姿だった。
「播磨さん……」
 とりあえず「おっす」と返事だけはした播磨だったが、心中ではあまり会いたくない人物に会ってしまったと思っていた。
 離れている時間が長ければ、それだけぎこちなさが募る。もう漫画を描くこともなく、天満にふられて彼女の情報を知ろうということもない今、八雲との間には話すべき話題がなかった。それだけならまだしも、彼女は天満の妹。それだけでも気まずさがあるというのに……。
 こちらが逡巡しているように、彼女もまた逡巡しているのだろう。交錯した視線でしばらく見詰め合っていた二人だったが、気まずさに勝てず、播磨が目をそむけようとした瞬間、八雲は意を決したように言葉を発した。
「播磨さん。最近、メールくれないですよね……」
「……ああ。まぁ、用事があるわけじゃねえからな……」
「もう、漫画は描いてないんですか?」
 やはり、話すべき話題といったらそれか。ある程度は予想できた八雲の言葉に、播磨は「描いてない」と簡単に返した。
「もう描く意味もねえしな。どうでもよくなった」
 投げ槍。今朝、絃子に言われた言葉そのものを象徴する、播磨の本心だった。
「そんな……」
「今まで妹さんにはいろいろ世話んなったけど、もう迷惑はかけねえよ」
 それで会話を打ち切り、交錯していた視線を外した播磨は、さっさと寝るのに都合のいい場所を探そうとした。が、耳に飛び込んだ「迷惑なんかじゃありません……!」という強い言葉に、思わず視線を八雲へ戻していた。
「妹さん……?」
「わ、私は……播磨さんの漫画が好きです。独りよがりなところがあるストーリーとか、不器用な表現しかできない主人公の男の子とか、全部ひっくるめて播磨さんの漫画が好きなんです。だから……昼休みに、いつもここで見せてもらうのが楽しみだったのに……。そんな言い方ってありません……!」
 激情に駆られて叫ぶ八雲の姿を見ながら、播磨はその内容はまるで頭に入っていなかった。播磨の知っている八雲は、あまり自己主張をせず、いつも物静かで、言葉少なな女子だった。その価値観を根底から覆す目の前の光景に、知覚が追いついていなかった。
「今の播磨さんは……」
 やや俯き加減になった八雲の瞳を見て、播磨はやっと知覚が追いついた。泣いている――? 
「全然輝いてない……!」
 がつん、と頭を殴られたような衝撃が走った。今度は知覚が追いつくこともできないほど遠く、地平線の彼方まで吹っ飛んだような衝撃だった。
 しばらくお互い動かない状態が続いたが、いたたまれなくなったのか、八雲は顔を俯けて踵を返し、屋上の出入り口へ走り出した。まるで逃げるような背中に、播磨はかけるべき言葉も、言葉をかけようという発想すら思いつかず、ただ呆然とドアが閉まるのを見送った。
 ようやく知覚が追いついたのは、昼休みが終わりを告げる五分前に鳴る予鈴が鳴った時だった。今から戻らなければ、授業には間に合わない。しかし、今の播磨は授業を受けようという気分ではなかった。
 最後に残した八雲の言葉が、頭に残っている。呪いをかけられたように、その一言が今まではただ通り過ぎていたもやもやした何かを動かし始めていた。逃げ場を求め、心の奥底で叫ぶその何かを処理したいと願う播磨だったが、どうすればいいのか皆目わからず、いつものようにそんな己の心を静観するだけに終わった。
 今までにない息苦しさを覚えた播磨は、それでもどうすることもできず、投げ槍に屋上へ身を横たわらせた。このまま、今日は授業が終わるのを待とう。無気力だけだった今までの自分の中に新たな何かが波紋を投じたのがわかったが、やはりどうすることもできなかった。

        ◆

 最後の授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響き、「じゃあ今日はここまで」の教師の合図を皮切りに、教室に喧騒が戻った。
 教科書や筆記用具を沢近愛理が片付けていると、「沢近ー」と聞きなれた声が耳朶を打った。振り向けば、案の定そこには周防美琴の姿があった。逸早く帰り支度を済ませた美琴の姿に、愛理は嘆息した。
「なぁ、今日はどうする? 晶も誘って喫茶店行くか?」
「あのね、美琴……」
「天満も誘いたいとこだけど、あいつは今日も烏丸と一緒だろうなぁ」
「待ちなさい、待ちなさい。美琴、あなた今日から掃除当番だって忘れてない?」
 愛理が嘆息した理由を告げると、みるみるうちに美琴の顔が曇っていった。
「……あっちゃー。そっか、そういやそうだったよな。すっかり忘れてた」
「まったく……」と相槌を打ちながら、愛理はさっきの美琴の言葉を思い出していた。
 今日も烏丸と一緒だろうなぁ……。それは天満の想いが成就した今だからこそ言える言葉で、等しくヒゲとサングラスの男の失恋も意味していた。天満の愛は本物だ。それは愛理にも容易に理解でき、最初からヒゲの付け入る隙はなかったのだと考えていた。
 その一方で、播磨の想いが本物だったことも理解している。それは今までよく見てきた自分だからこそ、確信をもって言えることだった。それだけに、失恋した時のショックが大きかったことは理解できるが、未だにそれを引きずっている様子なのには、我慢しがたい衝動が走った。
 いつまで倒れたままでいるつもりなのか。目の前にあのヒゲを引っ張り出し、鼓膜が破れるほどの勢いで問い詰めてやりたい。その怒りが募るが、肝心の播磨が学校にほとんど来ないとなれば、その機会は得られなかった。
 溜まった鬱憤は、屋敷でのクレー射撃に消費される。デフォルメした猿の絵に播磨の顔を重ねたクレーを、ひたすら撃ち続ける毎日。それは発砲の衝撃を受け止める手首や肩に、激痛という代償をもたらした。
 発散したはずの鬱憤も、日に日に強まる痛みの相乗効果で逆に蓄積されるばかり。出口のない迷路に飛び込んだ己の心に苛立つ毎日を過ごしながら、唯一の出口となる播磨を探していた。
 いつまで引きずるつもりなのか。さっさと終わった恋を諦めろ。倒れたままでいるな。立てないなら私が手を――。
 言いたいことを脳内でリストアップしていた時、愛理は教室の開いたドアの隙間から、階段を下りる播磨の姿を捉えた。
「じゃあ沢近、あたしはこっちの窓拭くから――」
「ごめん、美琴。ちょっと急用を思い出したわ」
 有無を言わせない口調で遮った愛理は、大股に一歩を踏み出していた。背後から「え、おい? ちょ、沢近?」と慌てた様子の美琴の声が追いかけてきたが、播磨を視界に収めた瞬間から真っ白になっていた脳には届かなかった。

        ◆

 人に会いたくない気分だった播磨は、普段はほとんど使用されない方の階段を使うことにした。昇降口からも目立った教室からも遠いその階段は、都合のいいことに人の姿がなく、あとは遠回りしながら昇降口に向かってさっさと帰ろう、というのが播磨が考えた計画だった。
 だが、それも「ヒゲ!」の大音声に呼び止められるまでの計画だった。
 最悪。播磨の中では疫病神の位置に置かれている沢近愛理の姿が、踊り場から仰ぐ段上にあった。
 愛理はサングラスの下でしかめた播磨の表情に気付くことなく、不機嫌そのものを表現した足取りで踊り場まで下りてきて、開口一番「あんた何やってんの!?」と叫んでいた。
「何って……帰ろうとしてんだよ」
「そうじゃないわ。何で学校に来てるのか、って聞いてるのよ」
「俺が学校に来んのが、そんなにおかしいかよ?」
「おかしいわね。無様に倒れたまんまのあんただからよ」
 明らかな侮蔑と挑発の内容だったが、だからといって今の播磨には怒鳴り返すほどのエネルギーはなかった。
「そーかい。けどな、お譲にゃ関係ねえだろ。ほっとけ」
 うざったさが募り、いい加減に喋るエネルギーさえなくなってきた播磨は、これ以上愛理の相手をするのが億劫だった。ぷい、と顔を背け、さっさと帰るに限ると思った播磨だが、「関係あるわよ!」の声と共に肩を掴まれて、振り向かざるをえなかった。
「あんたね……! いつまで天満のこと引きずってんのよ? いつまでもウジウジして……女々しいにもほどがあるわ! いい加減に立ちなさいよ! どうしても無理なら――」
 そこまでは聞いた播磨だが、もう疲れきって「だったら何なんだ?」と発して愛理の言葉を遮った。
「俺は俺のもんだ。てめえにどうこう言われる筋合いはねえし、いちいち干渉されたくもねえ」
 二年ほど前には、よく頻繁に言っていた言葉だ。そう播磨が頭のどこかで漠然と思っている目の前で、愛理の顔が怒りとも悲しみともとれない形に歪んだ。
「そう……。だったら勝手にするといいわ。あんたなんか、ずっとそうやって倒れてればいいのよ……!」
 そう言い切った愛理の目には、はっきりと涙が浮かんでいた。それを見た瞬間、播磨は昼休みに続いて二度目の衝撃を味わうことになった。
 固まる播磨を置き去りにし、愛理は階段を駆け上がって去ってしまった。後に残された播磨は、お譲が泣いた? と目の前で見たものが信じられず、動揺する羽目になった。
 今日だけで二人の涙を見た。女を泣かせたという事実が、播磨の心に影響を与えて、八雲の一件から動き出していたもやもやした何かが、今度は暴れ始めるようになった。「くそっ……」と息苦しさが倍加するのを少しでも楽にできればと思って吐いた悪態だったが、効果はなかった。
「まるで俺が悪者じゃねえか……」
 そりゃそうだ、俺は不良だもんな。心のどこかで茶化して気分を紛らわそうとしたが、重たい現実の前には無力だった。
 急に感じた居心地の悪さに、いたたまれない気分。思考がばらばらになり、とにかくこんな状態でバイクを走らせたら危ないとだけは判断し、どこかで気を落ち着けなければ、と考えた播磨が真っ先に思いついたのは、茶道部の部室だった。
 ふとした経緯から入り浸るようになった茶道部の部室と、その時から世話になり始めた高野晶が淹れる紅茶の美味さと温かさ。あれがあれば多少は気が落ち着くのではないかと思った播磨は、やりきれない思いを引きずりながら茶道部部室へ向かった。

 このドアを開くのも二ヶ月ぶりか……。
 今日、部活があるのかは知らないが、もし八雲がいたら即座に帰ろう、と昼休みの一件を思い出しながら、播磨はドアを開いた。中の光景を視界に入れた播磨は、そこに一人の女子生徒がいるのを発見した。
 高野晶。紅茶を淹れている真っ最中だったらしい彼女は、ドアが開く音に振り返り、そこに播磨の姿を見て、驚いたような――それ自体が驚きだが――表情を播磨に見せた。
 驚いた? 高野が? と立て続けに三度も信じられないものを見せられた播磨は、いや気のせいか、と判断した。
「あー……。うっす、久しぶり」
「……いらっしゃい、播磨君」
 数週間ぶりの再開にも関わらず、以前と変わらぬ様子で部室に受け入れてくれた晶に、内心で感謝した。自分からひきこもりになっているとはいえ、日常だった学校から自分の居場所が消えていく感覚に陥っていた播磨にとって、それは何よりもの救いだった。
 部室を眺めながら他に誰もいないことを確かめた播磨は、円卓の窓辺に一番近い椅子――頻繁に出入りしている頃は指定席だった――に久しぶりに座った。何も言わずに新たなティーカップを出して紅茶を淹れる晶を見ながら、「今日、部活は?」と播磨は質問した。
「今日はないよ。私は紅茶が飲みたかったからここに来ただけ」
「そっか……」と返し、それならゆっくりできる、と播磨は椅子に深くもたれかかった。
 窓辺の陽光。紅茶の湯気。それを淹れる彼女の姿。その三つが揃った時、播磨は一番リラックスできることを経験から知っていた。その原因が何かを考えるにはここの雰囲気は優しすぎて、播磨はまどろみながら紅茶が淹れられるのを待った。
「どうぞ」
 差し出されたティーカップを受け取り、懐かしい香りに少しはやりきれない思いも霧散した感じだった。一口飲めば、その味にかつてここで過ごした時間さえ浮かび上がるような心境になった。
 ここは天国だ。かつてこの場に来て、同じように差し出された紅茶を飲み、晶の前で呟いた一言がそれだった。今も同じように、久々に播磨は少しだけだが息苦しさが軽減するのを感じた。
 しばらくその感覚に酔いしれていた播磨は、晶が「播磨君」と呼ぶのを聞いて「なんだ?」と返した。
「今日はいつ学校に?」
「ああ……。昼休みに来たんだけどよ。いろいろと面倒くさくなって屋上でさぼってたんだわ」
「そう……。それじゃ、明日は学校に来る?」
「……そのことなんだけどな」
 この部室に来るまでの道中、播磨はずっと考えていたことがあった。そしてここで少しだけ気を落ち着けたら、その考えに結論を出すことができた。
「明日だけは、来ると思う」
「明日だけ?」
「……退学届、出そうと思ってよ」
 視線をそらしながら播磨は言ったため、その時晶がはっきりと動揺した表情を見せたことに気付けなかった。
 今日、学校に来てわかったことがある。もうここの人間関係はどうしようもなく面倒くさくなっていて、自分がいないことがクラスでは当たり前のようになっていて、耐えがたい息苦しさだけが募らされる空間に、この学校は変わってしまったのだと。その空間を変えようという努力など今の播磨に起きるはずもなく、だったら辞めてしまえと思考が帰結するのは当然といえた。
 退学届を出すだけなら、家で担任でもある絃子に渡せばいいのだが、マンションでの絃子はあくまで保護者や同居人であって、教師の絃子ではない。それなら、面倒くさくても学校にまで持ってくる必要があると、播磨は考えていた。
「正直、もう面倒くさくなっちまった。学校に来て授業受けても疲れるだけだしな」
 それに――もとをただせば、この学校には天満と一緒にいたいがためだけに入ったのだ。だったら、失恋したと同時に、播磨がこの学校に残る理由がなくなるのは自然な成り行きだった。
 もっと早くに気付くべきだったよな、と思いながら「高野には世話んなった」と言った。
「ここに来たら、少しは気が落ち着いたし、決心もできた。ありがとよ。本当に、世話に――」
「『フィールドでプレーする誰もが、必ず一度や二度、屈辱を味わわされるだろう』」
 唐突に、晶の意味不明な言葉に遮られた。一瞬、何を言われたのかわからなかった播磨だが、その内容を噛みしめると、「な、なに言ってんだ、高野?」と相手の正気を疑う声を発した。
「いいから聞いて。これはテキサス大のフットボール・コーチのダレル・ロイヤルが言った言葉なの」
 わけがわからずとも、晶にとにかく聞けと言われれば、播磨に断る理由はなかった。
「『打ちのめされたことがない選手など存在しない』」
 その言葉を聞いた瞬間、鼓動が意味不明な高鳴りを打った。
「『ただ一流の選手は、あらゆる努力を払い、速やかに立ち上がろうとする』」
 立ち上がろうとする――。今日一日で幾度も聞かされた言葉に、脳は敏感に反応した。
「『並みの選手は、少しばかり立ち上がるのが遅い』」
 投げ槍と言った絃子。輝いていないと言った八雲。ずっと倒れていろと言った愛理。彼女たちの言葉が次々に蘇る。
「『そして敗者は――いつまでもグラウンドに横たわったままである』」
 そしてこの晶の言葉が突きつける現実。播磨にもそれが理解でき、思わず言葉を失った。返す言葉がない。違う、俺はそんな奴じゃない――。全身から声を振り絞ってそう否定したいのに、晶の言葉を聞いた心のもやもやした何かがついには荒れ狂い始め、搾り出そうとする声を許さない。
 見ろ。自分の姿を見ろ。お前は――
 否定の声が出かけているのに。否定したいのに。テコでも動かない現実が播磨の目の前に巨岩となって立ちふさがり、それ以上の前進を許さない。
 言葉を失って動揺する播磨に容赦なく晶の言葉は続く。
「これは、きっと恋愛とかいろんなことに関しても同じだと思う。播磨君……あなたはどれ?」
 決定的な一言だった。
 今まで耐えてきた息苦しさが明確な激痛となり、心に亀裂を走らせる。いやな汗が噴き出す感覚を覚えた播磨は、晶が「……播磨君」と言った瞬間、それに続く言葉を聞きたくなくて、思わずカバンを引っつかみ、出口へ駆け出した。
「播磨君!」
 晶らしからぬ絶叫が後方に弾けたが、痛みに駆られていた播磨を止めるには至らなかった。肩からドアにタックルするようにして部室から飛び出し、どこへ行くかもまともに思考できない頭で、播磨は走った。

 頭がごちゃごちゃしている。何をどう考えているのか、どう処理しているのか。一切が判別つかない状態だったが、一つだけ明確に思い浮かぶ単語があった。
 裏切られた。
 裏切られた? 誰に? 一体何を?
 決まっている。高野晶に。
 馬鹿言ってんじゃねえ……! あいつがそんなことをするような奴か!
 だが、自分自身はそう感じている。今まで受け入れていたはずなのに、急にさっきはあんなことを言い出した。播磨拳児が最も否定したい事実を突きつけた。
 理性と本能、意識と無意識の対話がそこまで進んだ時、播磨は愕然となって足を止めた。
 足を止めざるをえなかった。気付かないうちに、最も自分が忌避すべき人間になっていた事実に思い至って。
 甘えていた。晶は特別言葉もなく、責めることもなく、ただ無条件に播磨拳児を受け入れている。その事実を無意識は知っていて、こんなに息苦しい時でも、高野だけは受け入れてくれると、どこかで思っていた。
 それを今、責められたと感じる自分のどこかが、裏切られたと判断している。
「なんでだ……!」
 先ほどから続く激痛に、たまらず播磨は叫んでいた。
「俺はこんな奴じゃなかっただろうが……!」
 否定したい。こんなにも息苦しくて痛いのに、それでも否定の言葉が出ない。胸のもやもやした何かが、今でもその言葉を止めている。なぜだ、と考えた播磨は、そのもやもやした何かが出口を求めているからだ、ということに気付いた。
 その出口が見当たらない。どこにもない。このままでは自分は窒息死する、と思い当たった播磨は、その時自分を覆う人影に気付いた。
 信じられないほど大きな巨体。目を見上げたところに、はちきれんばかりの体を学ランでまとった、ある男子生徒がいた。
「天王寺……!」
「――よぉ、播磨」
 いつもは殺気ばかり撒き散らしている天王寺が、この時はなぜか静かな表情だった。しかし、その瞳だけは違った。
 何か、よくわからないものが渦巻いている瞳孔。それが殺意や怒気、やりきれなさなどが混然一体となった瞳だった。
 天王寺を見て、播磨は中学生の頃の自分を思い出す。あの時の俺は、胸に溜まっていたものをどうやって消費していた――? すぐにその答えに至った播磨は、天王寺の「ちょっと面貸せや」の一言に反論しなかった。
 ようやく見つけた出口。そう思った播磨は、先を歩き始める天王寺の背中に迷いなく続いた。

 
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