再会の温度(冬木・一条・???) ( No.1 )
日時: 2006/05/21 22:18
名前: ぶーちょ

【4.告白】




 オリンピックの直前合宿が終了した。
 結局、最後まで一条の本来の動きは戻ることなく、日本の新たなお家芸といわれる女子レスリングのなかにあって63kg級では唯一メダルを逃すのではないか、というのが、マスコミ各社の大方の予想だった。63kg級とは一条の階級だ。
 そんなサイアクな状況のなか、帝京スポーツ新聞の2度目の独占インタビューがおこなわれた。場所は1度目と同じく宿舎内部の食堂だった。


 雰囲気は初回とは打って変わって重苦しいものだった。
 山本が何を質問しても、一条は無言のままか、一言、二言、それも「はい」とか「いいえ」とか、おおよそ回答とは思えない短い答えを返すだけ。喋ろうとする意志のまるでない、退屈なインタビューだった。途中から、カメラを構えている俺ですら、もう写真になるようないい表情を撮ることを完全に諦めていた。

 一条が泣いたあの日から、一条と俺の関係もどこか気まずいままだった。会えば挨拶を交わすもののどこかぎこちない。あの日の軽率な発言を激しく後悔していたが、もう今さらだった。


「はい。ではこれで終わりです。本日はお疲れ様でした」

 まるで台本を読んでいるかのように、山本は淡々とインタビューの終了を宣言した。コメントらしいコメントはひとつも取れていない。まるで警察の取調べみたいな雰囲気だった。

(ホントに記事なるのかよ、こんなんで……)

 マジメに取材する気があるのかないのか、いまだに山本の真意はさっぱり判らない。インタビューともいえないインタビュー。ただ義務的にこなしている。「規則ですから」といった感じの、血の通わないやりとりに、山本の顔がどこかお役人に見えてきた。
 対して一条は「……はい。すみません」と、ポツリと答えたきり、そのまま立ちあがろうともしない。
 俺はカメラを仕舞いこむ前にレンズの手入れをしていた。そのあいだ中も、ずっと一条は俯いたままで、膝のうえの置いた両の拳を強く握り締めている。横目でチラチラとその様子を窺っていたが、ついに我慢できなくなって「一条?」と問いかけた。けれど、一条は膝の上を見つめたままで、やはり動かない。
 いよいよ心配になったそのとき、一条はギュっと目を閉じて突然、叫んだ。

「あ、あの、山本さん!」

 すでに荷物を大方片し終えていた山本は、カバンを手にして席を立っていた。テーブルの上に置かれた携帯式テープレコーダーに、ちょうど手を伸ばしたところだった。
 山本は無言だった。
 表情ひとつ変えずに一条を見つめている。一条はその冷たい反応に一瞬怯んだようだったが、大きく息を吸うと、真っ直ぐに山本を見据えた。

「あのときの質問に答えさせてください!」

 食堂に響いた声は何かの決意に満ちていた。山本はわずかに眉をひそめたが、テープレコーダーに伸ばした手を引っ込めると、再び一条の正面へ腰を下ろした。そうして、山本はどこか冷ややかな目をして両手で頬杖をついた。

「個人的な興味で聞いた、アレのことかな?」

 口調からいつのまにか敬語が消えている。
 俺は慌てて山本の失礼な態度を止めさせようとしたが、山本は先手を打って、開いた手を俺の目の前にかざした。細まった目の間から覗いた二つの瞳が「オマエは出しゃばるな」と語っている。

「そ、そうです!」

 そんな山本の迫力に一条は真っ向から抵抗した。山本は、何も言わずに一条をしばらくジッと眺めているだけだ。
 重苦しい雰囲気を破ったのは山本が先だった。目を閉じて、ため息をつくと「じゃあ、聞くけど」と淡々と切り出した。

「一条にとって、レスリングが全てかい?」
「いいえ」

 即答だった。しかもその答えが予想とは違うものだったから俺は混乱した。表情に迷いはない。だからこそ、余計に訳が分からなくなった。
 一方の山本は「ふうん」と、どこか馬鹿にするように相槌を打った。その態度に俺はコイツと組んでから何度目かわからないくらいの殺意が湧いた。だが山本は、俺という存在を全く無視して質問を重ねた。

「じゃあ、レスリングより大事なものがあるんだ?」
「あ、あります」
「それは、何?」

 間髪入れずに切り返されて、一条は言葉に詰まった。ちょっと迷ったそぶりを見せて、「それは」と何かを言いかけたが、そこで黙りこんで顔を伏せてしまった。胸の上で組んだ両手をじれったそうに揉んでいる。

「やっぱり、言えないんだ」

 その挑発的な言葉に、俺の方がカッとなった。
 気がついたときにはもう山本を殴り飛ばしていた。テーブルとイスとを巻き込んで、派手な音を撒き散らしながら山本は床を滑っていった。俺はその後を追い、さらにもう一発殴ろうと右手を振り上げたとき、後ろから凄い力でその手首を掴まれていた。

「やめてっ! 冬木君!」
「けど、一条!」
「いいんです!」

 力任せに一条の手を振り解こうとしたけれど1ミリも動かない。俺は一条の眼を直視した。譲る意志は微塵もないようだった。諦めて力を抜くと、一条はすぐにその手を解放してくれた。
 一条はうなだれる俺の前へと進み出て、床に座り込んだままの山本を静かに見据えた。斜め後ろからわずかに垣間見えるその表情は、レスリングの試合に臨む顔つきそのものだった。俺は素直に綺麗だと思った。

「私には、好きな人がいます」

 一条は照らいもなくそう前置きをし、昔語りはじめた。



                       *



 高校2年の夏休みのことでした。


 私は来る日も来る日も学校に通い、部活動に明け暮れていました。
 もちろんアマレスです。今とは比べものにならないほど下手で弱かったけれど、他のことはもっとダメだったし、私にはアマレス以外に何もなかったんです。
 その当時は、練習すればするほど本当に一分一秒ごとに自分が「うまくなっている」っていう確かな実感があった幸せな頃で、毎日が充実していました。本当に楽しかった。アマレス漬けの日々のこと、全く疑問に思っていませんでした。

 そう、あの日が来るまでは。

『アマレスばっかやって楽しい? 今、やんなきゃいけないコトなの?』

 彼とはクラスメートでした。マトモに喋ったことはほとんどありませんでした。だけど、夏の盛りのあの日、何気なく彼が発したこの疑問が私を変えてしまったんです。

『充実してるから、今は楽しいです』

 その場で彼に伝えた答えです。
 だけど、その一方で、心の奥底で眠っていた(それまで意識したこともなかった)もう一人の私が、あの瞬間に目覚めたんです。生まれたばかりの彼女は、乳児といってもおかしくないくらいのちいさな身体をしていました。でも、彼女は信じられないことに二本の足でしっかりと立ち上って、私の心の内側をぐるりと見回したんです。
 そして、驚いてそれを見ていた私の意識に向けて、拙い言葉でこう尋ねました。

『ネエ、コンナマイニチ、ホントニタノシイノ?』

 繰り返しそう問いかけてくる彼女のことを、私は最初、無視していました。
 けれど、一度、解き放たれてしまった彼女は、日が経つごとにどんどん大きくなって、私の意識に干渉してきました。
 最初のうちは、ふっと気を抜いたときに、小さな声でささやきかけてくる程度だったのですが、いつしか何をしている時でも、容赦なく私に語りかけてくるようになったのです。

 朝、目覚めたとき。ご飯を食べているとき。通学路を一人歩いているとき。アマレスの練習をしているとき。バイトでレジ打ちをしているとき。台所でお皿を洗っているとき。居間でテレビをみているとき。布団のなかに潜り込んだとき……。

 それこそ一日中、彼女は詰問してきます。

『ねえ、こんな毎日が、ホントに楽しいの?』


 その声がどうにも無視できなくなった頃、引越し手伝いのアルバイト先で偶然、あの日の彼に再会しました。クラス委員の男の子とサングラスをしたちょっと怖い男の子と一緒でした。

 私は働くのが好きです。
 もちろん経済的な理由から働かなくちゃいけないという事情もありました。でも仮に、そうでないとしても、私は働くことがきっと好きだったと思うんです。
 だって、仕事ってたくさんの人たちが一斉に何かをすることで、一人では到底出来ない成果が残せるんですよ? 凄いと思いませんか? 
 私はただ、一緒に仕事する人たちの迷惑にならないように、必死にがんばっていただけなんです。みんなの力で一つのことが成し遂げられる瞬間、そこに立ち会うことが大好きだったから。……ただ、それだけだったんです。
 だからこそ、その日、親方がかけてくれた言葉が、自分には半端じゃなくショックでした。

『全く女にしとくにゃ、勿体ネエや!』

 そんなことが言われたいがために、頑張っていたわけじゃない。私だって……私だって、女のコなのに。
 ひどく落ち込みました。それでも仕事を続けなくちゃダメ、と自分を叱り付けてなんとか気を取り直し、残りを運ぼうとトボトボ荷物の山へ近づいていったときでした。彼が突然現れて、私の行方を遮ったんです。

『そんな気ぃ張るなよ一条……。コイツは俺がやっからよ』
『……え?』
『女のコの仕事じゃねェ……少し休んでろ』

 彼は……彼だけは、私をひとりの女の子として扱ってくれたんです。
 そのとき私の心のなかにいた、あのコが突然、叫んだんです。

『きっとこの人よ! お姉ちゃんを連れてってくれるのは!』

『つまんない毎日から、抜け出すにはこの人の力が必要なのよ!』


 次の日からの私は、まるで私じゃないみたいでした。心の中の彼女が、私の全てを乗っ取ってしまったのかもしれません。髪を編み込んでみたり、勇気を出してスカートを短くしてみたり、練習試合をすっぽかしてデートしたり。そんなこと、きっと前までの私には絶対出来ないことでした。
 彼、明るくてカッコよかったから、すごく周りの女の子にモテました。私はそんなに目立つコじゃなかったから、本当は彼にふさわしくなかったのかもしれません。けれど、私は彼のことをずっと好きでした。『彼に振り向いてほしい』。そんなことばかり考えていました。

 彼を想い続けることで、私は、ずうっと勇気をもらっていたのだと思います。

 文化祭でバンドを組んでボーカルなんてすることになって、あげくの果てに後夜祭を乗っ取っちゃうなんて凄いことができたのも、きっとそのせいです。昔の私だったら、みんなの前で足が竦んでしまって、一歩も前に進めなかったはずだから。
 バレンタインには手作りのチョコを作りました。誕生日には手製のピアスをプレゼントしました。彼は、二つともちょっと困ったような顔で、それでも受け取ってくれました。そんな冒険が出来たのも、きっと彼と彼を想い続けていたおかげだと想います。
 自惚れでなければ、高校卒業を控えた最後の年には、彼も心憎からず想ってくれていたのだと思います。
 だって、卒業式を翌月に控えた2年目のバレンタインのあの日。
 2度目の挑戦だったハート型のチョコレートを差し出しながら『好きです』って勇気を振り絞って告白したら、今度は迷惑そうな顔ひとつせず、わずかに微笑んでさえくれて『ありがとな』って言ってくれたから。


 卒業式の日でした。
 下駄箱に入っていた手紙には『校舎裏で待っている』という伝言と、彼の署名がありました。私はすっかり舞い上がってしまって、きっとあのときの返事を聞かせてくれるに違いない、そう思って小走りに待ち合わせ場所に向かいました。
 けれど、そこで待っていた彼は、何の前置きもなしにこう尋ねてきたんです。

『一条はアマレスと俺を選ぶとしたら、どっちを選ぶ?』
『え? ……えっと』

 本当はすぐにでも彼の名前を言いたかった。でも、私にはメキシコに戻っていたララさんとの約束がありました。だから、まだアマレスを止めるわけにいかなかったんです。

『ご、ごめんなさい。今は選べないです』

 彼は『そっか』とポツリと呟くと、ちょっとだけ悲しそうな顔をしました。それを見た瞬間、私は後悔しました。だけど、慌てて言い直そうして私が口を開くよりも、彼がどこか遠くをみつめたまま話を切り出すほうが早かったんです。

『俺さ、毎日楽しけりゃいいって思ってた』
『……え?』
『けどさ、違うんだな。楽しいけれど、ジュージツしてないっていうかさ。……うーん、上手くいえないけど……。その点、一条は凄えよ、夢中になれるものがあるんだもんな』

 真っ直ぐな透き通った瞳で、彼は一直線に私を見つめました。もうとても『訂正します』なんて言える雰囲気じゃなくなっていました。

『そんなこと……』

 お互いそれ以上は、何も口にできませんでした。

 遠くから部活動をする生徒たちのざわめきが聞こえてきます。
 ランニングをする部員同士の掛け声、バットがボールをはじき返す音、笛に合わせて体育館の床の上をダッシュする足音、竹刀が防具を一斉に打ちつける音、そして吹奏楽部のチューニングの音。
 それらの音を聞いているうち、ああ、もう私は明日からここにいないんだなあ、って唐突に寂しくなった。そのことを妙にはっきり覚えています。

 と、不意に、彼がいつもの軽い調子に戻って、おどけてこう言ったんです。

『俺たちさ、きっと、離れ離れになったらダメになると思うんだ』

 最初の『俺たち』という言葉にドキリとしました。
 でも、すぐにその後に続いた言葉のなかに、かすかな別れの匂いを感じて、私は不安になりました。けれど、私の反応には気付かぬふりをして、彼はこう続けました。

『だからさ、もし一条と一緒にいたかったら、俺が一条についていくしかないんだよな。……でも、それって情けないよな。……俺には何もないからさ』
『わ、私は気にしないです!』

 私は無我夢中で反論していました。
 太陽のように明るかった彼、私にとって光そのものだった彼が、自分自身を傷つけている――そんな姿を私は見たくなかった。いつも前向きな彼には似合わないですから。
 だけどそのときには、もう手遅れだったんです。

『ただ、それってカッコ悪りぃよな』

 蹴飛ばした石が、壁に当たってコツンと妙に甲高い音を立てました。

『うん、カッコ悪い』

 彼はそう言い残すと、踵を返して行ってしまいました。
 私をいつも導いてくれた彼が、そんなにも自分を追い詰めていたなんて……。そのことに混乱して、これ以上かける言葉が見当たらなくて、私は彼の後を追うことができませんでした。

『明日、また話そう。……あした』

 そんなふうに自分を納得させました。


 でも、次の日、彼はあの街から忽然と姿を消してしまったんです。
 最初は起こったことが上手く理解できなかった。

 1週間経ち2週間経つと、やっと大きな悲しみの感情と共に、起こった出来事を徐々に受け入れられるようになりました。
 それから、私は彼を必死に探しました。だけど、彼は親しかった友達にさえ行く先を告げず、両親も全く彼の意図を知らないみたいでした。

 半年経ち、1年が経ちました。本当は彼に会って話すことが目的だったのに、いつしか探すことが目的になっていました。
 あれからずうっと、『私の選択は正しかったのか』って、ずうっと自分を責め続けていました。そんな日々が延々と続いていたせいで、もう私は心底疲れ果てていました。心が壊れかけていたのだと思います。
 だから、ある日ふっと考えてしまったんです。
 こんなに辛いのは、あのコがいるせいじゃないかって。高校2年の夏休み、彼によって目覚めたあのコ。彼女さえいなければ、私はまた元に戻ることができるんじゃないかって。

 もう一人の私は、彼が消えたあの日から心の奥底に居座って、ずっとずっと泣きじゃくっていました。

『彼女さえいなくなれば、私は楽になれる』

 私は目を閉じると、心の真ん中へと降りていきました。彼女は今、小学5年生の頃の私と同じ姿をしていました。
 そっと彼女に近づくと、その小さな頭の上に手を置きました。すると、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、すがるような瞳で私を見つめてきました。疑うことを知らない、純粋な澄み切った眼差しに胸がズキリと痛みました。
 だから私は、ぐっと感情を押し殺して強く念じました。

『もう、消えてよ!』

 その瞬間、彼女の顔が激しく恐怖に歪み、まるで狼の遠吠えのように号泣をはじめました。わあわあという彼女の泣き声がこだまのように何重にもなって反響し、耐えられなくなって思わず私は耳を塞いでいました。けれども、逆に彼女の姿は徐々に霞がかかったように薄れていき、そして完全に消えてしまいました。
 気がついたときには泣き声はピタリと止んでいて、恐ろしいほどの静寂があたりを支配していました。
 代わりに心がまるでガランドウになったみたいに軽くなっていて、いつも私を悩ませていた胸の痛みも、嘘のようにすっかり消え去っていたんです。


 それから……それから、私は彼と会う前と同じように、アマレス一筋に打ち込みました。



                      *



「だけど、この前のあなたの質問について考えるうちに、やっとが気付いたんです」

 山本は床から立ち上がろうともせず、片膝を抱えたまま耳を傾けていた。相槌のひとつもなかったが、山本は熱心に聞き入っているように見えた。

「あの時、『もう一人の私』は消えたんじゃないって。ただ、私の内側に隠れただけなんだって。知らないうちに彼女は私と同化して、私と彼女は一つになっていたんだって」

 一条は身体の正面で両手を組み、そっと胸の中央に当てた。そこにある何か大切なものを守るかのように、そっと目を閉じた。

「ただ理由もなくアマレスを続けていた昔の私はもういないんです、私は……」

 深呼吸をして、一条は静かに目を開いた。そうして一語一語区切るように、ハッキリと告げた。

「彼――今鳥さんに、もう一度会いたくてレスリングを続けていたんです! だって彼と出会ったのもアマレスのおかげだから!」

 感情の昂ぶりそのままに、一条は叫んでいた。

「一番大事なのは、今鳥さんです! 彼がアマレスを止めろといったら、今すぐにでも止めたっていい! 彼がいれば、他はなにも要らない! 彼がアマレスを止めろといったら、今すぐにでも止めたっていい!」

 言葉の最後のほうは、抑えきれない激情のために震えていた。だからこそ、嘘なんて1ミリだって含まれていなことが分かった。高校の頃の内気だった彼女はどこにもいなかった。

「一条……」

 俺はショックを受けていた。呆然と彼女の名前を呼んだが、そのあとの言葉が出てこない。
 と、突然、一条は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。まるで、今までの展開が全部お芝居だったみたいに。

「フフ、こんな答えでよかったんですか?」

 山本は驚いてふと顔をあげた。まるで夢から醒めたみたいに山本は目をパチパチさせていたけれど、一条につられて、いつしか微笑みを返していた。

「……ああ、充分だよ。……ありがとう」

 そう答えた山本の声は、わずかにしわがれていた。


 山本はゆっくりと腰をあげると、その場で深く、深く一礼した。それ以上は口を開くことなく静かに荷物を抱えると、食堂の入口の方へよたよたと歩いていく。
 俺はふとテーブルの上に回りっぱなしになっていたヤツのテープレコーダーに気付いた。

「忘れモノっ!」

 返事も聞かぬまま、レコーダーを放り投げた。山本は振り向きざまに、危うい手付きでそれをキャッチした。
 そして何故か、俺に向けてニヤリと笑った。


 山本が去った後、俺は一条に訊ねていた。

「一条、いいのか? あんな話して。記事に書くかもしれないぞ、アイツ」

 大事な時期だからこそ、一条のプライベートまで引っ掻き回されたら事だ。だから、そんな心配をしたのだけれど、一条は「大丈夫、山本さんはそんな人じゃないから」と答えた。何故だか、その言葉が自信に満ちているように思えた。

「だから心配しないで、冬木君」

 自分よりも山本の方を信じている、そんな言い方に聞こえてちょっぴり傷ついた。ただそれよりも、一条の笑顔が本当に、本当に久しぶりに戻っていたから。もうそれ以上追求しなくてもいい、という気になっていた。

「一条」

 そう呼びかけると、一条は「うん」とかすかに頷いた。

「私、もう大丈夫だから」






【5.決戦】




 ロンドンオリンピック、日本選手団は過酷な状況に追い込まれていた。
 11日目を終了して金メダルの数はなんとゼロ。銀にまでは届くものの、得意の水泳やお家芸であるはずの柔道でも、あと一歩のところでことごとく金を逃していた。


 ロンドン郊外にあるミレニアム・ドームで行われていた女子レスリングも例外ではなかった。前評判の高かった日本選手が、軒並み予想外の大苦戦を強いられていた。
 昨日、金メダル確実と見られていた軽量級の2選手が早々と敗退し、敗者復活戦にも敗れて銅メダルにも届かずに終わると、会場に詰めかけた日本選手の大応援団からため息が漏れた。


 12日目、ロンドン五輪女子レスリング最終日。
 アテネ五輪・北京五輪で金メダルをそれぞれ3つずつ獲得し、正式種目となって以来、日本の新たなお家芸ともいわれていた女子レスリング。その最後の希望が63kg級と72kg級の二人の代表選手に託された。
 だが、72kg級の代表選手は、無名の伏兵選手に対して3回戦でまさかの判定負けを喫し、既に敗者復活戦に回っていた。
 日本勢で残ったのは、わずかに63kg級の一条だけである。
 プレッシャーのかかるところにもかかわらず、一条は全てフォール勝ちの圧倒的な試合内容で、決勝へと駒を進めていた。
 五輪直前までは不調にあえいでいただけに、一回戦・二回戦を快勝してもマスコミの反応は、フロック視する者がほとんどだった。ただ、2ヶ月前からずっと一条を追いかけてきた俺にはわかった。一条の状態は以前のそれに戻っていた。いや、何か吹っ切れた分だけ、さらに凄みを増している。だからこの快進撃も驚くにはあたらない。

「もう銀以上は確定ですからね! 一面は空けておいてください!」
「全日本選手権以上の出来ですよ! とにかく動きがイイんです!」
「今日の出来ならゴンザレスにも勝てますよっ! やっと今回の五輪初の金メダルが生まれそうです!」

 当初の予想を覆す大活躍に、プレスセンターに出入りする日本人は皆、決勝戦を前にもかかわらず、既にお祭り騒ぎだった。
 ある程度、その活躍を予想していた俺は、当然ながら落ち着いてじっくり観戦している……はずなのだが、別の理由で大あわてしなければならなかった。パートナーの山本が、今朝から行方不明なのである。

「だからですね神津さん。ホテルに電話しても、フロントはもうとっくにチェックアウトしたって言ってるんですよ!」
『いや、だから日本に電話されても困るよ。それに山本君は仕事をほったらかす人じゃないから、きっと会場のどこかにいるよ』
「もうあらかた探しましたよ! 携帯にかけても出ないし、ココの呼び出し放送も頼みました! それでも手がかりないから、こうして電話で相談してるんじゃないですか! 決勝、もう始まっちゃいますよ」

 会場から一際、大きな歓声があがる。一条とララさんのふたりが、控え室のある一角から中央の試合場へと、並んで歩いてくるのが見えた。

『とにかく、こっちではもうどうしようもない。もし行方不明というのが本当なら、冬木君に記事を書いてもらうしかないんだ。まあ山本君のことだから心配ないと思うけど、一応覚悟しておいてくれ』
「ちょ、ちょっと待ってください、俺、文章ダメって、知ってるでしょう?」
『ごめん、でも何とか頼……ブッ、ツー、ツー、ツー』

 電話が突然切れた。画面を確認すると携帯のバッテリーが切れていた。俺は舌打ちしてひとしきり頭を掻き毟ったが、ようやく観念して筆記用具を探すことにした。
 かばんのなかを引っ掻き回していると、誰かが背後から肩を叩いた。

「悪いが取り込み中だから、後!」

 俺はちらりとも目をくれず、その手を払った。けれど、すぐにまた肩に手が置かれた。俺はその手を再度払いのけた。背後で誰かが大きくため息をついた。だが、確かめている暇はない。

 ちょうどプレス席の目の前を、一条とララさんの二人が通りがかった。と、ララさんが突然、足を止めて物凄い形相でこちらを睨んだ。俺はその迫力にびっくりして、思わず直立不動の姿勢を取っていた。

「え、な、何?」
「バ、バナナ男っ! どうしてオマエがここにいる!」
「やっほー、ララちゃん」

 おおよそ場違いな能天気なあいさつ。慌てて振り向くと、そこに立っていたのは……他ならぬ今鳥恭介だった。

「はーい、タケも元気ィ?」
「い、い、い、い、今鳥!? な、何でこんなところに? ここはプレス関係者以外立ち入り禁……」

 今鳥は、クビから取材許可証を提げていた。今鳥は、俺の視線に気がつくと、「ふっふーん」なんて笑って、その許可証を左右にブラブラと振った。
 今鳥は俺の肩に手を回し、ララさんの胸のあたりをマジマジと見つめた。

「しっかしララちゃん、また大きくなったんじゃないの?」

 ララさんの顔が般若のごとき表情に変化するやいなや、一陣の風が頬を撫でた。気がつくと、わずか俺たちの顔の10センチ手前に右手が迫っていた。その手首を横合いから一条が掴んでいた。

「ララさん止めましょう! ここじゃマズイですよ!」

 場外ではじまった突然の一触即発ムードを敏感に感じ取ったのか、満場の観客たちがどよめいた。

「そうだよ、暴力はんた〜い!」

 今鳥は両手を挙げて、どこかふざけて降参のポーズをとった。ララさんは再び眉を吊り上げた。しかし、一条が「ララさん!」と厳しくそれを牽制すると、ララさんは「くっ」と悔しそうに声を漏らして、肩をいからせたまま背を向けた。

「不愉快だ! イチジョー、私は先に行くゾ!」

 そう吐き捨てたララさんは、地響きを立てて大股に歩いていった。

「あ、待って、ララさん!」

 一条はすぐに後を追っていったが、ふと足を止めると小走りでもう一度プレス席の前に戻ってきた。

「山本さん、見ててくださいね。私の試合!」


 ――一条ハ、何故カソンナコトヲ言ッタ。


「や、山本って、どこに!?」

 一条の視線の先を辿ると……そこにいたのは、今鳥だった。

「しっかり見てるぜ!」

 親指を立てて、ウインクなんぞしている今鳥。俺は構わず今鳥が首に下げたプレス許可証をひったくった。「山本八真」そう記されていた。もう、俺は全く訳が分からなくなって頭を抱えた。

「ちょっと待て……落ち着いて考えろ……まず……?」

 と、今鳥は手にしたカバンの中から、見覚えのあるカツラと付け髭、それから黒縁めがねを取り出し、顔に装着してみせた。そこに、唐突に……山本八真が現れた。

「そ、そんないつから!?」

 クスクスと笑っている一条に俺は訊いた。我ながらその声が情けなくも裏返っていた。

「ごめんね、冬木君。うーん、……合宿の途中くらいからかなあ? もしかしたらって思ったのは」

(くっ、じゃあ何か? 俺は道化だったってことか?)

「今鳥、おまえも何で黙ってたんだよ」
「面白そうだったからねー。……それに嘘はついてないぜ。これ、俺のペンネームだからさ」

 もう誰を責めたらいいのかわからなくなった。……というよりか怒りを通りこしてしまって、もう怒鳴る気も失せてしまった。騙された俺が馬鹿なのか?
 今鳥は、その状況を面白そうにニヤニヤ笑っていた。

 場内に英語で決勝のアナウンスが流れ始めた。今鳥は、不意に真剣な顔になって、一条の肩をグイと抱き寄せた。

「かれん、って名前さ、あのロシアの無敵のレスラー、アレクサンドル・カレリンから貰ったんだろ?」
「フフ、そうらしいですよ。本当は、畏れ多いんですけど」

 恥ずかしそうに頬を染めながら「よく知ってましたね?」と一条が微笑みかけると、今鳥は「常識だよ」と返す。何か長年連れ添ったカップルみたいに自然な会話に、俺は軽い嫉妬を覚えた。

「そうそう、実はララさんのお母さんも同じ名前なんだそうですよ」

 今鳥はその話を聞いて、フッと小さく笑った。

「そっか。じゃあ今日は、余計に負けられないな」
「え? どうしてですか」

 一条はチラリと試合場で待つララさんに目を向けた。まだララさんは殺気すら漲らせて、俺たちの方を睨みつけている。今鳥はその様子にウインクをして、それからこう言った。

「ママは、生意気な子供を躾けるもんだろ」

 それを聞いて、一条はパッと華が咲くように笑った。

「そうですね!」


 両手で、勢いよく頬を2度叩いて気合をいれると、一条は一人のファイターの顔になった。その横顔は、今まで見たどの被写体よりも美しかった。ファインダーをのぞきこみ、いつのまにか俺はシャッターを切っていた。

「じゃあ、行ってきます!」

 今鳥が何も言わずに、小さく手を振った。
 一条はひとつ大きく頷くと、ララさんの待つ決戦の場へ向かって歩き出した。


 会場中は、うねるような拍手の渦に包まれていた。
 もう時計は午後10時を回っている。ただ、スポットライトに照らされた決勝の舞台は真昼の太陽の下のように明るかった。その白い光線の中に溶けていく一条の背中を、今鳥は眩しそうに見つめていた。






【6.想い続けること】




 ロンドン五輪が終わって1週間、日本中が、選手団の凱旋フィーバーに沸いた。だけどその最中に、女子レスリング63kg級金メダリストの一条かれんが、忽然とマスコミの前から姿を消した。日本中が蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
 TV・新聞・雑誌、ありとあらゆるメディアが手を尽くして探したが、その行方は杳としてしれない。テレビのコメンテーターが連日、このミステリーに挑んだが、誰も納得できる答えを示すことはできなかった。
 いつしか世間の大部分の人々が、想像することにすら疲れ始めた頃、一枚のFAXがマスコミ各社に配信された。

『一条かれん電撃引退!』

 次の日のスポーツ紙の一面には、一斉にこの見出しが躍った。だがその理由について納得できる説明を載せている新聞は、やはり一紙も存在しなかった。


 もう一つ、世間の人が誰も気に留めない小さな失踪事件があった。行方不明になった人物の名前は山本八真。本名は今鳥恭介といった。


 矢神高校からほど近い、丘の高台に建つ木造の一軒家。
 築40年を超えているんじゃないかと思われるそのボロ屋の敷地へ、俺――冬木武一――は密かに潜入していた。というのも、ある信頼できる情報筋から「いわくがありそうな若いカップルが最近越してきた」という、確度の高いタレコミがあったからだ。
 庭にあるイヌマキの木陰に隠れて、ファインダー越しに中庭の様子をうかがう。誰もいない。が確かに、家屋の中からは人の気配がする。特ダネの匂いがプンプンだ。
 イエロージャーナリズムからは、もう高校のときに足を洗ったはずだったが、「人間、背に腹は変えられないんだよな」と心の中で言い訳してみる。


 縁側から庭へと一人の男が出てきた。
 それは間違いなく、行方不明であるはずの今鳥恭介だった。脇に小型のラジカセとヘッドフォンを抱えている。
 今鳥は鼻唄を歌いながら、おもむろに中庭の中央に据えつけられたテーブルの上にラジカセを置いた。ボリュームを最大にして、ヘッドフォンのコネクタをラジカセの端子へと接続したようだった。
 今鳥は椅子に深く腰掛けると、一本のカセットテープをセットして再生ボタンを押した。

 俺は身を乗り出し、その様子を激写する。

 と、玄関の方から歩いてくる、別の気配を感じた。
 俺は慌てて身を隠した。今鳥もその気配に気付いて、片耳だけヘッドフォンを外した。
 アニメキャラのプリントが入ったピンク色のエプロン、その前掛けで濡れた手を拭きながら歩いてきたのは、見間違うことなく女子レスリング63kg級金メダリスト、一条かれん、その人だった。

「恭介さん、ご飯ですよ。……って、何を聞いているんですか?」
「んー、俺の命かな♪」

 一条は高校生のときと同じように、髪の一部を編み込んでいた。一流のスポーツ選手だった頃の研ぎ澄まされた緊張感はなく、落ち着いた母性の香りすら感じさせる。すぐ目の前を通り過ぎていく彼女を見ていると、胸がチクリと痛んだ。

「私にも聞かせてください」

 今鳥の目の前に立ち止まると、一条は微笑みを浮かべ、お願い口調でおどけてみせた。今鳥はいたずらっ子のように笑っただけで、ヘッドフォンを元に戻して宣言した。

「ダーメ」

 一条はちょっぴり頬を膨らませて、そこに立ち尽くしていた。
 けれど、今鳥が目を閉じて真剣に聞き入り始めたのを見て取ると、足音を忍ばせてこっそり背後に回り込み、両耳からひょいとヘッドフォンを取り上げた。

「おいちょっと、ダメだって!」

 慌てて奪い返そうとした今鳥の追及を逃れ、一条がヘッドフォンを持つ手を今鳥から遠ざけた拍子に、ヘッドフォンとラジカセとをつなぐ端子が外れた。
 途端、フルボリュームの大音響が庭に流れた。
 それは音楽ではなかった。録音された人の声だった。

『彼――今鳥さんに、もう一度会いたくてレスリングを続けていたんです! だって彼と出会ったのもアマレスのおかげだから!』

 一条は「キャー!」と必死にラジカセに飛びかかった。停止ボタンを押そうと悪戦苦闘するが上手くいかない。「やめてー! やめてー!」

『一番大事なのは、今鳥さんです! 彼がアマレスを止めろといったら、今すぐにでも止めたっていい! 彼がいれば、他はなにも要らな……ガチャ』

 何度も失敗した末に、やっとのことで再生が止まった。一条はラジカセを胸に抱いたまま、放心したように庭に座り込んでいる。その様子をみていた今鳥は、急に吹きだして、お腹をかかえて笑いだした。
 それでようやく我に返り、一条は抱えたラジカセを放り出した。いまだに笑い続けている今鳥を、腰に両手を当てて睨みつける。その顔は熟れたリンゴのように真っ赤だった。

「恭介さん! もう、恥ずかしいから止めてください!」

 そうヒステリックになじると、ロンドン五輪の金メダリストは、まるで駄々っ子になって今鳥を叩き始めた。

 ポカポカッ、ポカポカポカッ、ポカッ!

「痛! 痛い、痛いって! 本気で殴るなよ!」
「ダメです、許しません! このテープは没収です!」

 一条はそう言って、庭に転がったラジカセに手を伸ばしたが、今鳥はすかさず横からラジカセを掠め取ると、家の縁側へと駆け昇りながら、器用にカセットテープを取り出した。

「やーだよ!」

 そう言ってアカンベーをした。空になったラジカセを放り出して、今鳥は家の中へと逃げ込んだ。

「もう! 恭介さん!」

 一条はちょっと拗ねたように声を張り上げると、今鳥のあとを追って家の中へ駆けあがった。木造のボロ屋のなかで、突然の追いかけっこが始まった。

「待ちなさーい!」
「やだー!」
「じゃあ、恭介さん、今日のお昼ご飯抜きですからね!」
「それもやだー! だから……パクッ!」
「あーもう、お行儀悪いです恭介さん! 走りながらモノを食べないでくださいよー!」
「おお美味いな、カレリン! また腕をあげたな! 俺は幸せ者だよん!」
「……え、ええーっ! な、な、な、な、何ですか突然。……私、私は……」
 ドタドタドタドタドタ……!
「あっ! 今、恭介さん、ごまかした? ごまかしましたね!? ……もう何言ってもダメですよ! そのテープ没収ですからっ!」
「やだー」



                     *



 表通りに出た俺は、カメラの背面のカバーを開くと撮りかけのフィルムを取り出した。
 秋晴れの太陽の下にかざし、パトローネの中に巻き付いたフィルムを力任せに引き出した。飴色のフィルムの向こうに丸い太陽が透けてみえた。その光線がちょっぴり目に染みて、俺は服の右の袖で両目をそっと擦った。


 しばらく歩いていくと道の脇に小さな公園があった。感光したフィルムを燃えないゴミ箱に投げ捨てる。カランカラン……と小気味のいい音がした。

「さーてと、どうしようか」

 本日は我が事務所の給料日だ。だけど白状すれば……アシスタントに払う金がないのだった。
 それもこれも山本のヤツが国民的大スターと一緒に雲隠れしたせいだ。密着取材をまとめた単行本の出版の話が立ち消え、すぐにでも手に入ると踏んでいた写真の掲載料の当てがなくなってしまった。最近はその穴埋めにと、芸能の暴露写真に手を染めていたのだけれど。

(大スクープは逃しちゃったしなあ……)

 さっき見た光景が頭のなかにまた甦り、俺は慌てて頭をブンブンと振った。

 胸ポケットに入れた携帯電話は、ひっきりなしに鳴りっぱなしだった。現に今も、ブルブルブルブル、うるさいくらいに暴れている。確認するまでもなく事務所からのものだとは分かっていたが、俺は敢えて無視していた。アシスタントの稲葉さんからの給料の催促の電話に違いない。
 俺は大きくため息をつくと、ショルダーバックのなかから2枚の色紙を取り出した。最初の1枚には「一条かれん」というサイン、隅の方に「稲葉さんへ」と記入されている。

「今月の給料はこのサインだ! ……なんて言ったら怒るよなあ、絶対」

 俺はその色紙をめくり、もう一枚別のサインを眺めた。
 金メダルを撮った直後に一条が書いてくれたその色紙、そこにはこう書かれていた。

『想い続けること 一条かれん』

「……想い続けること、か」

 カメラマンとしての仕事、今の俺の恋人といったら、コイツくらいなもんだ。
 一生懸命営業して、妥協なしに腕を磨き、いつか一人前のカメラマンとして有名になる。その日を夢見て、カメラのことを「想い続けて」頑張っていくのが、今の俺にできる唯一のこと。……そうしたら、きっと道は拓(ひら)ける。

「そうだよな、一条……」

 もちろん色紙は単なる色紙で……問いかけに答えてくれるわけはなかった。俺は自嘲気味に笑って、二枚の色紙をバッグのなかへそっと大事に仕舞いこんだ。

(とりあえずは、稲葉さんに謝るか)

 やっと静かになった携帯電話を開いていみる。待ち受け画面に設定されているのは、プリインストールされた味気ない壁紙だった。
 俺は着信履歴を呼び出して自分の事務所の電話番号を選ぶと、覚悟を決めて通話ボタンを押した。

 

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