再会の温度(冬木・一条・???)
日時: 2006/05/21 22:17
名前: ぶーちょ

●お知らせ●

  A.以前、S3に投稿したのものの再掲です。手直しはありますが、新作ではないです。
  B.「本編の8年後の未来世界」という設定のため、オリジナル色が強めです。
  C.筆者はPF/OFを持っていません。細かい設定に間違いがあればご指摘ください。


■INDEX / 再会の温度(冬木・一条・???)■

  1.憂鬱
  2.戸惑い
  3.涙
  4.告白
  5.決戦
  6.想い続けること


▼以下より本文です▼






【1.憂鬱】




「冬木さん、帝京スポーツの神津さんからお電話ですよ!」

 高級レストランのパンフレット用に撮った料理のポジを、眠い目擦りながら整理していた時だった。俺がウトウトしていたことに気付いていたのだろう、アシスタントの稲葉さんは、受話器を両手で押さえながら、どこか非難するような目で俺を睨んでいた。

「ああ悪いね、回してくれる?」

 俺はわざとらしく咳払いをして、机の隅に置かれた電話を指差した。


 カメラマン助手から独立して1年。30年ローンで都内にスタジオを手に入れたのが半年前。助手時代からの付き合いがあった編集者からの小さな仕事をポツポツと地道にこなしてきたかいあって、やっとオフィスの経営は軌道に乗りかけていた。
 とはいっても、まだまだ一人前とは言いがたい。諸経費+電話番兼助手のアシスタントの稲葉さん一人分の給料を払うだけでカツカツ、というのが本当のところだった。


「はい、いつもお世話になってます。冬木です」
「ああ、神津です。どう? 最近仕事の方は」

 帝京スポーツ新聞のデスクの神津さんとは、俺がカメラマン助手をしていた頃からの付き合いだった。同じ高校の出身だったということをひょんなことからお互い知ることとなり、それ以来独立してからも何かと目をかけてくれている。
 俺より2コ上なだけなのに、すでにデスクに就いていることからも分かるとおり、かなり頭の回る人だった。その癖、全然そのことを周囲に誇らない。いつまでたっても腰が低いから、俺たち同業者の受けは抜群だった。

「ええまあ。ぼちぼちと言ったところですね。もっとも最近は、展示品や料理といった動かないものばっかり撮ってるせいで、多少欲求不満ではありますけどねえ」
「まあ静物の写真も、突き詰めれば奥が深いっていうけどね。……あ、ちょっと待ってもらえる?」

 電話の奥がにわかに騒がしくなった。神津さんは、部下を呼びつけると、何かを指示しているようだった。ウチの零細事務所と違い、さすがは大手の新聞社。目の回るようなの忙しさのようだ。正直、羨ましくなる。

「ごめん、ごめん。ちょっと野球の方で何か動きがあったらしくて」
「構わないですよ。それより用件は何でしょう。仕事関係ですか?」

 神津さんのことだから、言えば愚痴にでも何でも律儀に付き合ってくれるだろうが、それにしてもこちらの都合で向こうに迷惑を掛けるのは憚られる。だからなるべく失礼にならないよう、努めて明るく本題について尋ねてみた。

「ああ、実はそうなんだ。再来月にロンドン五輪があるのは知ってるよね?」
「そりゃあ知ってますよ。テレビも雑誌も、最近はそれ一色じゃないですか」
「そうだね。まあその絡みなんだけど、ウチも月並みながら特集記事を打ちたいんだ。ある選手への密着取材なんだけど、そのカメラマンを冬木君にお願いしたいと思っている」

 神津さんの話を聞き進むうちに、これは久しぶりの大仕事だと思った。手帳を取り出して付属のボールペンを握ると、大きく「密着取材」と書き込んだ。興奮でわずかに手が震えていた。

「そりゃもう、是非やらせてもらいますよ! で、誰なんです? その選手っていうのは」

 待ちきれなくなって、俺は早口で話の先を促した。

「ああ北京五輪の女子レスリング63kg級銀メダリストの、一条かれん選手なんだけど」

 手帳を走っていたペン先が、一直線にページの端から飛び出していた。

「い、一条!?」
「やっぱり、驚いたかい? 僕らの高校で、今、最も有名な卒業生だからね」
「いえ、それももちろんあるけど、俺、一条と同じクラスだったんですよ。一緒に文化祭でバンドを組んだこともあるし!」
「え? あっ本当だ、冬木君と一条選手は同級生か。そうか。そんなに深い知り合いなわけだ……ますます都合がいいな。どうかなこの話、引き受けて貰えない?」

 高校時代の思い出の数々が、鮮やかに脳裏に浮かび上がってきては消えていった。

 毎日がお祭りだった2−Cというクラス。今思えばあれだけ稀有な個性が一同に介したことこそ、今まで出会ったどんな出来事よりも、よく出来た偶然だった。いや出来すぎだった。
 もし、一条と会うことになれば、卒業式以来になる。
 高校で別れて以来、お互い連絡を取り合ったことはなかったが、彼女は都内にある体育大学に進学し、そこでレスリングを続けていたそうだ。「いたそうだ」というのは、大学の最初の頃まで、一条はレスリング界でも目立たない存在で、その辺の事実は、後から新聞などを通じて知ったからだった(そもそも高校までは公式戦で勝ったことがなかったという話だったし)。
 北京五輪が迫った二十歳の春、女子レスリングのいくつかの国内大会で立て続けに優勝し、一条はダークホースとして一躍表舞台に登場した。そして翌年のオリンピック最終選考会、同じ63kg級のアテネ五輪金メダリストを、終了間際の逆転フォール勝ちで破り、遂に五輪代表の座を決めたのである。
 オリンピックでは、高校時代からのライバルでメキシコ代表のララ・ゴンザレスの前に決勝で苦杯を嘗め、銀メダルに終わったものの、スポーツ選手としては際立った抜群のルックスで、一躍シンデレラガールとして日本スポーツ界の人気者になっていた。

「そうか一条か……。変わってないかなあ、あいつ」

 テレビのニュースや新聞の記事などで、近況を知るのはさほど苦労はしないものの、マスコミの伝える彼女と実際に会った彼女とではやはり違うのだろうか? 有名になってしまったけれど、高校の頃の一条の面影がどこかに残っていたらいいなと、俺はそんなことを考えた。

「……もしかして、知り合いだとやりにくいかな?」

 返事がないことに不審を感じたのだろう。神津さんはやや戸惑いがちに言った。

「いえ、そんなことは全然ないです! 是非、やらせてください!」
「そうか! よかった。……じゃあ初回の打ち合わせだけど、2日後の午後2時にうちの社に来てもらえるかな? その際にパートナーを組んでもらうライターを紹介するから。それから……」

 台無しになってしまったページをめくると、俺はもう一度最初から、仕事の内容を素早く手帳に書き込んでいく。


 メモしたことの要点だけを簡単に確認すると「じゃあ、あとは明後日に」と言って電話を切った。ふーっ、と大きく息を吐いて手帳の文字を眺めた。

(縁……か)

 そんなことを思いながら話の余韻に浸っていると、内容を盗み聞きしていたらしいアシスタントの稲葉さんが、目を爛々(らんらん)と輝かせながらやってきた。

「ねえ冬木先生、今度は一条選手の取材なんですか?」
「ああ、そうみたいだ」

 どこか他人事みたいに答える。稲葉さんはちょっと不服そうな顔をしたが、すぐに気を取り直して、背中に隠していたモノを大事そうに取り出した。何も書かれていない色紙だった。

「是非是非、サイン貰ってきてください!」
「……あ、あのねえ」
「いいじゃないですか! 一条選手っていったら私にとっても、同じ高校の先輩で、私の憧れの人なんですよ! ほら、余った時間でいいですから、ここらへんに『稲葉さんへ』って入れて貰って来てほしいんです!」

 そう捲くし立て、俺の顔の真ん前へ色紙を押し付けてくる。俺は「はあ……」とこれ見よがしにため息をつき、しぶしぶそれを受け取った。

「機会があったらな。もし貰えなくても恨むなよ」

 それを団扇代わりにしてパタパタと扇ぎながら俺は言った。釘を刺したつもりだったけれど、稲葉さんはもうサインが手に入ったかのように、「やったー!」とはしゃぎながら事務所中を駆け回った。

「こういうチャンスのために働いてたんだー! 今まで全然だったから余計嬉しいよー!」
「……ひとこと多いよ。稲葉さん」

 俺は、本気でちょっとへこんだ。

(でもサイン、か)

 ズボンのポケットから携帯電話を取り出して開く。バックライトに照らされたディスプレイの上には、文化祭の時に結成した即席バンド、その仲間の顔がずらりと並んでいる。
 ギターの烏丸。ベースの嵯峨野。キーボードの結城。ドラムの俺。そして……ボーカルの一条。後夜祭のあとにみんなで撮ったデジカメ写真。もう随分昔のものだから画像は荒いけれど、俺の大切な思い出のワンショットだ。

「俺も貰っとこうかな……」

 稲葉さんの色紙を机の奥に仕舞いこみ、今日の帰りにどこで色紙を買おうか、なんて考えている。仕事の詳しい内容も分からないうちから、妙にワクワクしていた。久しぶりに柄にもなく興奮している自分が、何だか高校時代のあの頃に戻ったみたいでおかしかった。



                      *



「というわけで、一条選手は今月末から日本代表の直前合宿に入ります。だからその前に1回目のインタビューを組みます」

 帝京スポーツ新聞社の会議室に通された俺は、その日に初めて会ったライターとともに、今後の取材についての説明を受けていた。パワーポイントで小奇麗に作られた企画書を手に、神津さんはホワイトボードへスケジュールを記入していく。

「やはり焦点は、最大のライバルのメキシコのゴンザレス選手との対決だと思います。これまでの彼女との対戦は4戦全敗。ただ一条選手は今季絶好調を維持しており、今回は逆転の芽がある。特集記事も『ゴンザレス選手との全面対決! 果たして!?』といった流れで盛り上げていってほしいのです」

 神津さんはホワイトボードの下のところに「ララ・ゴンザレス(メキシコ)」と大書した。

「直前合宿中の選手個人へのインタビューは禁止されています。だから、本人のインタビューを組めるのは直前合宿前と合宿後だけ。社として設定できる機会はこの2度だけです。セッティングはこちらに任せてください」

 俺は手元の資料の欄外に、必要事項を走り書きした。

「あとはひたすらくっついて行動してもらって一条選手の表情を追う……と、まあ、こんなところですか」

 と、神津さんは手にした書類を、人差し指で軽くはじいた。

「ああ、そうだ。一条選手が首尾よく勝ち進んだ場合、つまり好成績を残した場合ということなんですが、オリンピックの後にわが社の子会社から単行本を出版する契約を結ぶことも考えています。……と、こちらからはこれくらいですけど、どうでしょう、何かあります?」

 マーカーを置いて2、3度手を叩くと、神津さんは振り返った。

「……負けた場合」

 ボソリと呟いたのは、隣に座ったライターの男だった。
 肩にかかるほど長い髪は、豊かなくせに光沢がなく、ところどころに若干の白髪さえ混じっている。文豪気取りとしか思えないチョビヒゲがあった。量販店で売っていそうな安物のYシャツ、何度も洗いざらしたジーンズ、そして薄汚れたサンダルを履いていた。
 横にいた俺からはボサボサ髪に隠れて口が動いたのが分からず、まるで毛むくじゃらのお化けが喋ったように思えた。

「負けた場合のことを優先して、書いたほうが良さそうだね」

 思わずギョッとした。

(取材をする前から、何だコイツは!)

 俺の視線に気付いた男はチラとだけ目を向けると、フッ、とわずかに笑った。縁の厚い眼鏡の向こうの眼は、ドロリと濁っているように見えた。

「だって4戦全敗だよ。去年の世界選手権の時も判定にさえ持ち込めなかったし。一条の状態は上がっているといっても、僕が見たところ、それ以上にゴンザレスの調子がいい。ひいき目に見て仮に二人の上昇度が同じとしても、これまでの実績から考えて99%の確率で負けるに決まっているじゃない?」
「そんなの、やってみなくちゃ分からないだろ!」

 俺がほとんど怒鳴って席を立ったとき、神津さんが先手を打ってサッと間に割って入った。

「待って待って、これから二人で組んでやってもらうんだから! 今から喧嘩は止めよう」

 胸ぐらを掴むつもりで伸ばした右腕は、神津さんに寸前で抑えつけられていた。そのまま何も掴めずに空中で震えていた俺の手首を、ヤツは両手でグッと握り、何度か上下に揺らした。

「カメラマン・冬木武一。フユキタケイチさんか。……じゃあ、タケでいいよね。よろしく、タケ」

 さっき俺が渡した名刺を読みあげて、馴れ馴れしくもそう言うと、片側の口元をわずかに持ち上げた。
 それきり俺には興味を無くしたみたいに、手荷物をさっさと整理し、机の上に置かれた資料を裸のまま手に持って会議室を出て行った。俺は、その様子を呆然と見送った。
 ふと、しばらくしてさっきの仕種が握手だったのか、と気がついた。

「何だよ、ありゃあ!」

 乱暴に椅子に腰を下ろして、俺はそう吐き捨てると、神津さんは苦笑した。

「まあそういわないでくれ。彼の腕は確かだ。口は悪いが仕事には正直な男だよ。キッチリ結果は出してくれる。なんせ去年、ウチの社主催のスポーツノンフィクション大賞を獲ったほどの実力なんだ。まあ、人間的にはちょっと癖があるから大変だとは思うけど、なんとか仲良くやってくれないかな」

 神津さんが困ったように鼻の頭を掻いた。そんな様子を見せられたら何も言えなくなってしまう。

「……わかりましたよ」

 俺は、ヤツと紹介しあったときに受け取った名刺を手にとった。

『フリーライター 山本八真』

 肩書きはそれだけだった。
 山本……ね。
 しかし名前はなんて読むんだろう?

「ヤマモトハチマ……じゃあ、ゴロが悪いな。ヤマモトハッシンでもないだろうし。あとはヤマモト……」

 ヤマモトヤマ……―そのふざけた回文に行き当たったとき、俺は迷わず名刺をぶん投げていた。






【2.戸惑い】




 初めてのインタビューは、オリンピック直前合宿の舞台となる千葉県・K市の宿舎内にある食堂で、合宿の前日に行われた。
 カメラの準備のため、待ち合わせの一時間前には宿舎に到着していた。
 まだ静けさに包まれている合宿所の廊下をヒタヒタと歩いていくうち、山本というあのライターが、本当に来るのかどうか不安でたまらなくなった。
 打ち合わせの後も、山本とは当日の予定について電話で何度かやりとりした。だが、どこか投げやりな対応ばかりで、仕事をする前から何度となくイライラさせられた。撮影機材や宿泊の予約などの、自分の予定は何とかやりくりできるが、パートナーの問題というのは、俺にはどうにもならない。

「勘弁してくれよなー」

 いつのまにか一人愚痴を漏らしていた。といっても、ここまできたらボヤいていてもしょうがない。肩を落とした拍子にずり落ちてしまったショルダーバックの肩紐の位置をなおし、インタビューの会場となっている食堂へと足を踏み入れた。

 驚いたことに先客がいた。ライターの山本だった。彼は食堂の奥まったところにある椅子に一人ポツンと座って、手にした黒いシステム手帳を読み返していた。
 重ねてビックリしたのは、山本がきちんと背広の上下で正装していたことだ。もっとも、暑苦しい髪の毛と髭と縁の厚い眼鏡はそのままだったが。それでも浮浪者一歩手前だった前回よりは、はるかに清潔に整えられていた。

「お、お、おはようーっす」

 不意を突かれたせいで、最初の一言がうまく出てこなかった。

「おはよ」

 山本は手帳から顔をあげぬままにそう返した。続けて何か指示があるだろうと思い、突っ立ったまま先の言葉を待っていたが、それ以上何も喋るつもりはないらしかった。
 そのままボーっとしているわけにもいかず、俺はバッグを空いたテーブルの上に置くと、撮影の準備を始めることにした。
 機材が触れ合う音と山本の手帳をめくる音だけが食堂に響いている。
 けれどそれもわずかな間のことで、俺のほうはカメラの準備が出来てしまうと、他にやることがなくなってしまった。意味もなくファインダーを覗き、窓の外に広がる海岸の景色に焦点を合わせてみる。だが、それもすぐに飽きてしまう。
 山本は手帳を何度も何度も見返しては、時折眉をひそめ、ボールペンで何かを書き込んでいる。時計を見ると、一条との待ち合わせの時間まであと40分近くあった。

「おい、打ち合わせはしなくていいのか?」

 痺れを切らして俺は尋ねた。
 返事はない。ないどころか全く聞こえていないかのように、手帳から眼を離さない。

(このっ、本気で無視するつもりか!)

「例えば今日のスケジュールはこうで、質問の内容はこうで、このときの表情を撮ってくれ、とか、そういうことないの?」

 苛立ちを隠さずにそう言うと、山本はようやく手帳の向こうから片目だけのぞかせ、一言「ない」とだけ言った。俺はカッとなって怒鳴ろうとしたが、山本は素早く手を挙げてそれを制した。

「質問をするのは俺がやるし、タケは好きなときに勝手に写真撮ってくれればいいって。別にうるさいことはいわないし」

 出鼻をくじかれて、俺は黙り込んでしまった。けれど腹の中は煮えくり返っていた

(そうかいそうかい、てめえで勝手にやれば、ってことかい!)

「はいはい、そうですか。そうですか」

 俺はワザとバカ丁寧にそう吐き捨て、山本に背を向けた。



                     *



 待ち合わせの時間を5分ほど過ぎたとき、急に玄関の方が騒がしくなった。
 スリッパを履いた誰かが廊下を駆ける、パタパタパタパタという足音が近づいてくる。と思うと、急にその音が途切れて、間髪入れずに食堂の入口の横で「ゴスン!」と物凄い音がした。同時に天井からホコリみたいなものがパラパラと降って来た。

「お、遅れてすみませ〜ん」

 大きなスポーツバックを引き摺るようにして入って来た一人の選手、五輪代表の青のジャージを纏った女性は、紛うことなく一条かれんだった。赤くなった額を押さえながら、目の端にわずかに涙を滲ませている。

「おいおい、大丈夫か?」

 カメラをテーブルの上に置くと、俺は慌てて一条に駆け寄った。「え? え? え?」と戸惑う一条を無視して、額をおさえている手を退けてみた。ぶつけた部分がピンポン玉くらいの大きさで桜色に染まっている。俺はそこを「ごめん」と謝ってから、指で強めに押さえてみた。

「どうだ? 痛くないか?」
「え、あ、はい、ちょっとだけ。でも、大丈夫です。……ちょっと痺れているくらいで」
「そうか、じゃあケガ自体は問題ないな。これならタンコブにはならないか」

 俺は一条の手を引いて食堂の空いている椅子に座らせると、持って来たバッグの内ポケットから化粧道具を取り出した。額に浮かぶ汗を拭い軽く白粉を叩く。

「気をつけろよな、これから写真撮るんだから」
「は、はい……すみません」

 一条はすっかり恐縮してしまっている。その変わらぬ様子を見ていると一瞬で8年前に戻ってしまったような錯覚に陥ってしまう。
 というか、いきなりのドタバタに再会の実感を味わう暇もなかった。俺は作業を終えると手早く化粧道具を仕舞い、改めて咳払いなんかしてみた。

「それはともかく、久しぶり。一条」
「あ、え? ……も、もしかして、冬木君?」

 一条はいきなり名前を呼ばれて、面食らっていたが、すぐに俺のことがわかったようだった。

(まあ、俺は高校の頃と見た目、ほとんど変わってないしな)

 と思ったら一転して、またひどく怯えたようにキョロキョロと落ち着きなくあたりを見回している。

「あ、あれ? どうして? 今日は帝スポさんのインタビューが……私、また間違っちゃった?」

 どうやら今日のインタビューと、俺のことが結びついていないらしい。

(まあ、当然か)

「いや、合ってる。合ってるから心配すんな。今日カメラマンなの、俺」

 その意味をはかりかねているのか、一条はちょっと首を傾げていた。数秒後、ようやく納得がいったらしく、今さらながら「えー!」なんて素っ頓狂な声をあげた。

「ほら、これが証拠」

 俺は今回の仕事のために作った、帝京スポーツ新聞の名刺を手渡した。

「『帝京スポーツ新聞第3編集局所属・臨時カメラマン、冬木武一』。ホ、ホントだあ……」

 一条は「へえー、すごいなー」なんていいながら名刺をまじまじ眺めている。

「私、みんなと全然会ってないから知らなかった。凄いね、冬木君!」
「っていうか、ホントに凄いのは一条だろ。なにせロンドン五輪女子レスリング期待の星」

 そう言うと、一条はポッと頬を赤らめて「そんなこと……」といって俯いてしまった。

(全然変わってないな、一条)

 なんか安心した。全然違う人種になっているんじゃないか、って俺は、少し怖かったのかもしれない。高校のみんなの近況について一条に教えてやろうか。そう思って口を開きかけたとき、乱暴に肩をつかまれ、脇へ押しのけられていた。

「痛っ!」
「はじめまして一条選手。私こういうものです。本日のインタビューを担当させていただきます。よろしくお願いいたします」

 いつのまにか名刺を取り出していた山本は、一条に半ば無理やりそれを握らせた。

「え、あ……は、はい。えと、山本さんですか。……よ、よろしくお願いします」

 一条は多分、目の前の展開についていっていない。目が激しく泳いでいる。
 さっきまでの態度を知っている俺が見たら気味悪いくらいの愛想笑いを浮かべて、山本は無抵抗の一条と握手なんかしている。弾き飛ばされた俺がテーブルの脚に脛をぶつけて痛がっているのに、全く目もくれやがらない。

(コイツ……)

「本日はお忙しい中、お時間を割いていただき本当にありがとうございます。それではインタビューの前に写真の方を撮らせていただきます。ささ、冬木君。キレイにお撮りして差しあげて」

 山本は一条の腰のあたりに手を添えて、まるでパーティー会場でエスコートするみたいに、窓際へと一条を誘導した。一条は歩きながら先ほどまで握られていた手を、不思議そうにみつめている。まるで催眠術にでもかかっているみたいにヤツのペースに巻き込まれているようだ。
 もう怒りを通りこして呆れてしまった。

「さ、何してるの、冬木君。ボーッとしないで」

 一条がポツンと一人窓際に立ち尽くしている。山本に急かされてカメラを構えるのも癪に障るが、ここで俺たちが喧嘩を始めてもしょうがない。神津さんの言うとおりだ。

「わかりましたよ。じゃあ……」

 俺はテーブルの上に置いたままのカメラを手にし、念のためもう一度フィルムをチェックすると、ファインダーを覗きこんだ。



                     *



 山本のインタビューは意外なことに順調に進んでいった。

 冒頭の撮影の際には、一条がなかなか自然な笑顔を作ってくれず、大幅に予定時間をオーバーしていた。それで俺は肩身の狭い思いをしていたから、内心ますます面白くない。
 山本は最初、緊張をほぐすためだろう、最近の新聞をにぎわす身近な話題を持ちかけた。けれど、一条の口は思ったより重い。それを見て取ると、すぐに脈絡もなく話題を転換して、ひと昔前の特撮アニメの話を始めた。

(何、言い出すんだよ!)

 俺はハラハラしながら見守っていた。けれど、一条は何故か目を輝かせてその話に乗ってきて、場の緊張は一気にほぐれて和やかになった。山本は手持ちのテープレコーダーの録音スイッチを、いつのまにかONにして、横で聞いている俺すら気付かないうちに、インタビューの本題へと移っていた。

「じゃあ、メキシコのゴンザレス選手に対しても勝機はある、と?」
「そう思っています。ララさんの世界一と言われているあのタックル、あれを封じ、利用することで、地道にポイントを重ねていく、そういう試合運びが出来れば。フォール勝ちは無理でも判定で勝つ可能性はあると思っています」

 熱っぽく語る一条に向けて、俺はシャッターを何度も切った。一条がそれを気にする様子はない。
 事前の調べでは、マスコミに対してあがり症なうえ、極端に無口な記者泣かせの選手だ、というのがもっぱらの評判と聞いていたから不思議だった。

「ゴンザレス選手は日本に留学していたことがあり、一条選手とは同じ高校のアマレス部で一緒だったことがあると聞いています。かつて同じ喜びを分かち合った者同士、やりにくいということはないですか?」
「いえ、そんなことは決してありません。確かにララさんとはお友達です。けれど、だからこそ全力で戦わなければいけないんです。それに『世界で戦う』というのはララさんとの約束でもありますから……。ララさんに対して、これまで国際舞台で勝ててないのは、ただ単純に私の力不足のせいです」

 間違いなく一条は本音で語っている。ファインダーを通して、本気になった人間というものを何度も相手にしたことがある。だからこそ、この直感に間違いない。これは山本が腕利きのインタビュアーだ、という証しなのか。……いや、そうではないと思いたい。
 ふと、一条の事前情報のなかに特撮アニメ好き、というくだりがあったのを思い出した。だとすれば、最初の話の振り方も十分理解できる。けれど、念入りな下調べをしなければ分からないことだ。
 しかし山本のやつ、俺と初対面の時はあんなに意地悪いことを言っていたくせに、結構質問がオーソドックスだ。あれはただ反応を楽しんでいただけなのか?

「はい。では、長々とありがとうございました。以上で、本日のインタビューは終わりにしたいと思います。本当にお疲れ様でした」
「あ、はい。こちらこそ、ありがとうございました。……わ、もうこんな時間なんだ」

 ボンヤリとしているうちに、いつの間にか質問項目はすべて終わっていたようだった。俺は慌てて、一条の表情を5、6枚撮りフィルムを全て使い切った。

「冬木君もご苦労様でした」
「ああ、お疲れ一条」

 壁の時計を見るとピッタリ1時間半だった。ほぼ予定通り。やはり神津さんの見込みどおりの腕なのだ、というべきなのだろう。

「あ、最後に……」

 撮りきったフィルムを取り出していると、手帳を閉じた山本がポツリと言った。

「これは個人的な興味から聞くのですが……」
「……はい?」

 スポーツバックを肩に背負おうとしていた一条は、一旦椅子の上に荷物を置くと、首をちょっと不思議そうに傾げた。
 山本は手を伸ばし、テーブルの上に置かれた携帯用テープレコーダーの停止スイッチを押した。目線だけは一条をじっと見据えたままに、静かに問いかける。ややこけた頬のせいか、その表情はどこか冷たく見えた。

「あなたは、これまでレスリング一筋に打ち込んできました。けれど、それ以外の人生を考えたことはありますか?」

 唐突だった。
 一条は言葉の意味をはかりかねたのか「ふぇ?」という間の抜けた声をあげた。だが、山本の表情は変わらない。一条の目がキョトキョトと落ち着きなく動き、しばらく何もない宙をさまよったあげく俺を捉えた。助けを求めている気がした。
 俺が一条に駆け寄ろうとして最初の一歩を踏み出したとき、山本は手をあげて行く手を遮った。だが、相変わらず冷徹ともみえる表情を崩さず、俺の方を見てもいない。

「では、言い方を変えましょう。レスリングがあなたにとっての全てですか?」
「あ……」

 一条はその言葉に、まるで雷に打たれたように身体を震わせた。顔から一切の表情が消え失せた。

(おいおいっ! 何を言いだすんだよ!)

 俺は山本の突然の暴挙に焦った。山本を押しのけてでも一条を守ってやりたかったが、ヤツは意外にも強い力で、俺の出足をガッチリ抑え込んでいる。
 不意に一条の顔が苦しみに歪んだ。一条は右手で胸のあたりを押さえ、その拳をギュっときつく握り締めた。そうして、まるで身体の奥底から何かを搾り出すかのように口を動かした。

「わ、私……」

 耳を澄ませなければ分からないぐらいの、聞いているこっちが辛くなってくるようなか細い声だった。俺は居たたまれなくなった。

「私は……」

 努めて明るい表情を作り、俺は山本の頭に両腕を巻きつけた。

「な、何いってるんですか、嫌だなあ、山本さんは。そんなの当たり前じゃないですか」

 そういってちょっとわざとらしいくらいの陽気な声で、けれど一方、ほとんど手加減なしの力任せに、山本の頭を変則のヘッドロックで締め付けた。俺はあくまで笑顔を崩さぬまま、突然の展開に呆然としている一条へと話を振った。「な、そうだろ一条?」

「え? あ、あの?」

 まだ状況が飲み込めていないらしく、一条は俺と山本を交互に見比べて、その口をまた動かしかけたが、俺はそれをさせまいと、早々に事態の収拾をはかることにした。

「ゴメンな一条、ほら、もう終わりだからさ、帰っていいよ」

 一条はまだ何かに戸惑っているようだったが、俺が目配せをしてさらにダメ押しに顎で食堂の出口を示すと、ようやくわずかに頷いてくれた。

「ご、ごめんね、冬木君」
「ああ、しばらく合宿に同行するからさ、そのときに高校の頃のみんなのこととか話そうぜ!」

 それだけは本当にそう思っていたから、マジな顔に戻って一条に告げた。

「う、うん」

 食堂から出て行く直前、振り返った一条の顔にはやっと微笑みらしきものが浮かんでいて、俺はホッとした。

 ようやく一息ついたとき、脇の下に抱え込んだ首が「そろそろ離してくれない?」と喋りだした。

(忘れてた)

 力を緩めて腕を解いた拍子に、袖に引っかかって山本の眼鏡が勢いよく飛んだ。食堂の床をからからと滑っていった。山本はしばらくこめかみのあたりを押さえていたが、2、3度首を振ると、落ちている眼鏡にゆっくりと歩み寄ると、それを拾いあげた。

「いい写真、撮れた?」

 ネクタイの先を引っ張り出し眼鏡のレンズを拭きながら、山本は横を向いたままそんなことを言った。俺は、思わずカッとなって怒鳴っていた。

「そうじゃないだろっ! 最後のアレはなんだ? 聞く必要あるのか!?」

 ボサボサに乱れた髪に半分以上が隠れてしまい、表情はよく分からない。だが、まるで何もなかったかのように落ち着いた動きで、山本は眼鏡をかけなおした。

「別にいいだろ、仕事はキッチリこなしたんだし。一個人としての単純な好奇心」
「バカヤロウ! そんな自分勝手な理由でこんな大事な時期に、一条を混乱させてどうすんだよ! みんなが彼女を応援してやらなきゃいけない、そんな時なのに!」

 山本はそれ以上会話をする気はないらしく、まるで俺を空気のように無視して荷物をまとめている。

「じゃあ、タケ、写真の件は任せたからね」

 部屋を出て行く寸前、振り向きもしないままにそう言い捨て、山本は姿を消した。
 俺はテーブルの上の割り箸の束をつかむと、奴が消えた方の壁に向かって力任せに投げつけた。






【3.涙】




 一条は調子を崩している。
 そのことが合宿に詰めかけた記者たちの間での一致した見方だった。代表監督やコーチ陣にインタビューを敢行しても、一条のことに話題が及ぶと歯切れの悪いコメントが並んだ。直前の大会のテレビ中継で「まさに選手としてのピークを迎えている」と、元金メダリストが解説していたような状態には程遠かった。
 『調整失敗!?』、『右足首の古傷が再発!?』、『大舞台のプレッシャー!?』。連日、そんな見出しがスポーツ新聞各紙を賑わせた。だが違う。問題はきっとそこじゃない。

(くそ、山本め! 何だってあんなことを!)

 俺はファインダーから目を離して振り向いた。当の山本は練習場の体育館の壁に寄り掛かり、ボールペンで鼻の頭を掻いている。時折アクビをしながら、全部で5面あるマットで調整している選手の動きをボンヤリと眺めていた。


 合宿は大詰めを迎えていた。
 練習場にはコーチ陣の厳しい指示が飛び交う。それに合わせて五輪代表選手やその練習パートナーたちのテンションはいやがおうにも高まっていて、練習場となっている体育館のなかは、そこにいるだけで胃が痛くなるほどの緊張感に包まれている。
 そんななかで一人、一条の動きだけが精彩を欠いていた。

「かれん! 何だ何だ、そのへっぴり腰は、引くんじゃないっ! 引くんじゃないっ!」
「は、はい、すみませんっ!」

 だが、その声に押されるかのように僅かに前へ出たところへ、相手選手から低い位置へのタックルをまともに喰らい、簡単に倒れこんでしまう。

「馬鹿ヤロー! そんなんでゴンザレスのタックルを見切れるかっ! ちゃんと目で追えっ! 動きを予測しろっ!」
「は、はいっ!」

 コーチの罵声がそれこそ雨のように降り注いだ。
 だけど、一条の動きは一向に良くなる気配はない。どこか戸惑っているような、動きのひとつひとつを躊躇しているような、そんな違和感を一条から受けてしまうのである。取り囲む取材陣たちは、ほとんど一条一人に集中しているコーチ陣の檄にいよいよ首を傾げ、それぞれ顔を寄せ合い深刻な顔でヒソヒソやっている。

「よーし、今日はこれまで! あすの合宿最終日に備え、各自しっかり身体のケアをしておくように!」

 インターバルをはさみながらの試合形式。6時間近くぶっ続けで行われた練習が、やっと終わりを告げた。
 選手たちはそれぞれ専属のトレーナーを呼んでクールダウンを始める。だが、その中で一条だけは、マットにペタンと座り込んだまま、ひとり放心したように俯いていた。
 唐突に、チッという舌打ちが聞こえた。

「ったく誰だよ、あんなやる気のない奴を代表に選んだのはっ!」

 先程まで、散々に一条をこき下ろしていたコーチだった。
 足早に練習場を去っていくその背中を、俺は余程蹴りつけてやりたくなったが、そんなことしても何が変わるわけでもない、と思い直した。
 選手やトレーナーたちも談笑しながら、次々と練習場を立ち去っていく。報道陣は彼女らのコメントを取ろうと、鈴なりになって宿舎へ続く廊下を歩いていった。
 一人残された一条は、一向に動く気配がない。彼女の専属トレーナーも声をかけることすら躊躇われたようで、結局、何度何度も振り返りながら、彼女一人をおいて宿舎へ戻っていってしまった。
 しまいには練習場に残されたのは一条と俺だけになった。いつのまにか山本もいなくなっていた。

(っていうか、あいつ取材する気ナシかよ!)

 撮影機材を手早く片付けると、練習場の中へそっと足を踏み入れた。手を伸ばせば届きそうな距離にまで近づいても、一条は全く気付く様子はない。俺はさっきのトレーナーがそばに置いていったタオルを広げると、一条の肩の上からそっと被せた。

「おーい、そのまんまだと風邪引くぞ」

 やっと、一条は驚いたように顔を挙げた。

「冬木君……」
「そんなところで座り込んでいてもしょうがないぞ」

 手を差し出すと「うん、そうだね」とまるで自分に言い聞かせるように呟いて、そっと右手を委ねてきた。俺はその手を引いて体育館の隅へと一条を連れていく。


 俺は不調の原因を聞き出したいと思っていた。そして出来れば友達として力になってやりたかった。
 けれど、今の一条はきっとそのことを望まないだろうと思った。
 だから、全く関係のない高校時代のことを話題にした。ふたりで体育館の壁に寄りかかって座りながら、まだほんの昨日のことのような、たくさんの思い出について語り合った。

 いつのまにか話題は一緒のクラスだった2年のときのものになっていた。
 2−Dを破り大接戦の末に優勝を決めた体育祭、即席バンドで後夜祭ジャックを果たした文化祭、いろいろな話を、出来る限り快活を気取って語った。
 最初のうちはどこかうつろだった一条の表情が次第に明るさを取り戻していくのが嬉しくて、俺はますます張り切って喋りまくった。

「そっかー。もうあれから8年も経つんだ」
「まあ、嵯峨野が2児のママになってるくらいだから、そうなのかもな」
「えっ! 嵯峨野、結婚したの?」
「そうなんだよ。しかも、なんと医者の嫁さんだ。いやーあれにはビビッた。てっきり割烹の女将になるもんとばっかり思ってたからな。一体全体どこで知り合ったのかって感じだよ」
「ふわー、びっくりー……」

 ほんとうに一条は、高校の頃のみんなと会っていないらしい。まあ一種スーパースターみたいになってしまったから、無理もないのかもしれない。きっと恋をする暇さえなかったのだろう。
 けれど、一条も女の子、それにこれだけ可愛ければ男どもが放っておくはずないと思うのだけど。
 と、一条が突然わずかに身体を震わせた。レスリングの薄いユニフォーム一枚のままだったから無理もない。いくら夏の暑い時期とはいえ、もう練習が終わって随分時間が経っている。
 俺はGジャンを脱ぐと、そっと一条の肩にかけた。

「あ、ありがとう」
「いや、いいって別に」

 頬を赤らめて感謝の言葉をいわれたからたまらない。逆に俺まで照れてしまう。だからほんの照れ隠しに、軽い気持ちで変なことを口走っていた。

「そういや一条は、今、付き合ってる男とかいないのか?」
「……え?」
「ほら、なんかアイドルみたいに騒がれてるじゃん? もういろんな業界から引っ張りダコだし、きっとモテモテなのかな、って」

 本当はそんなこと全然思っていなくて、望んでもいなかったけれど、妙に胸がドキドキして勝手に口が動いていた。
 が、それを聞いた途端に一条の表情が一変した。感情の針が大きく振れて、一気に悲しみ方へと傾いた。

「そんなこと、ないよ」

 ポツリとそれだけ言うと、一条は顔を伏せて黙り込んでしまった。

(ああ、もうっ! 折角のいい雰囲気だったのに……)

 不用意な発言でまた場が沈んでしまい、自分の迂闊さを呪いながらも、俺は精一杯明るく話しかけた。

「そ、そうか? まあ、オリンピックが終わってからでもいいよな。恋なんか一条ならその気になればいくらでも出来るさ。さ、もう帰ろう。明日もあるんだし」

 それ以上一条に何かを喋らせるのが怖かった。腰をあげるとズボンの埃をはたき、カメラの入ったショルダーバックを忙しなく肩に担いだ。

「……ねえ、今鳥さんは?」

 その音を耳にした時、その響きの冷たさに驚いた。恐る恐る振り向いた。が、一条は俺を見ていなかった。膝を抱えたまま、体育館の床の一点をジッと見つめていた。

「……今鳥さんのことも、どうなったのか、教えてくれませんか?」

 どこか思い詰めたような表情に、正直に答えるべきかどうか迷った。
 だが、よくよく考えれば隠すような事実は何も知らない。結局、なるべく深刻にならないよう軽い調子で答えることにした。

「今鳥かー。卒業後すぐに街を出て東京に出た、っていってたな。でも今はわからないなあ。卒業してから連絡取ってないし、それに親とさえ音信不通らしいんだ」
「そう、ですか」

 一条はわずかに顔をあげた。わずかに濡れてみえる瞳、その焦点は微妙に合っていなかった。

 何となく予感がした。
 もしかしたら、不調の原因がここにあるのかもしれない。インタビューのハプニングによって暴かれたのは、昔に今鳥とのことで負った心の傷ではないのだろうか。

(もしかしたら、取り返しのつかないことになるかもしれない)

 一瞬躊躇した。だけどこのままじゃ何も変わらない。一条の友達として出来ることはやらなくちゃいけない。

(そう……友達として)

 胸の奥で何かが疼いたけれど、俺は自分に気づかぬふりをして、いちかばちかの賭けに出た。

「そういやあ、高校生のとき一条と今鳥って付き合ってたんだっけ?」

 それを聞いた一条は驚いたように目を見開いて、ようやく俺のことを見た。

「いいえ。……フフ、付き合ってませんよ。私が、一方的に振られたんです」

 内容の深刻さとは裏腹に、一条は気丈にも笑っていた。
 けれど、そのはずみで涙が一粒流れ落ちた。一条はそれに気付いてタオルの端で頬を慌てて拭った。ただそれも、後から後からとめどなく流れはじめる涙に、すぐにその努力も意味を成さなくなっていた。

「い、一条……」

 俺が呆然と呟くと、一条は不意に顔を背けて、弾かれたように立ちあがった。「ご、ごめんなさい!」という涙声を残して、そのまま俺には目もくれずに駆け出した。

「ま、待てよ、一条!」

 反射的に一条の肩を掴んだ。
 だが、それは徒労に終わった。手の中に残ったのはさっき一条の肩にかけてやった自分のGジャンだけ。一条の姿はもうとっくに、渡り廊下の先に消えていた。

「くそっ!」

 壁を蹴りあげる音が、誰もいない練習場にむなしく響いた。


 

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