青年の絵、少女の微笑み

 
  
投稿者 メッセージ
ユグゼルド



登録日: 2008年2月 28日
投稿記事: 15
所在地: 引越しの後、沖縄

投稿1時間: 2008年3月05日(水) 17:29    題名: 青年の絵、少女の微笑み    

「…悪りぃな、妹さん。こんな事付き合わせちまってよ」
「いえ、…気にしないで下さい」

…播磨さんと一緒で私は嬉しいですから。
少女は口に出さず、心の中でだけ付け加える。

「今度、御詫びすっからよ」

そう言って青年は白紙の前に腰掛ける。

「…でしたら、また動物園に連れて行ってください」
「そんな事で良いのか?」
「はい」
「そんなら、次の週末にでも行こうか」

青年は呟きながら少女に眼を向ける。

「…はい」

サングラス越しでも分かる。
青年の集中した眼差しが。
じっ、と見つめられると少女はつい紅くなってしまう。
此処は矢上高校の美術室。
少女は青年からこの場所に呼ばれていた。


この話の経緯は至極単純。


昨夜の出来事である。
いつもの様に少女が青年の部屋で手伝いをしていると、其処に家主が現れた。

「…どうしたんだ、絃子?」

部屋の入口に立ち二人の作業を見つめる女教師。
くわえ煙草の灰が落ちそうである。
一度口から離し、その灰を灰皿に押し付けてゆっくりと息を吐く。

「…拳児君、一応聞くが、君は将来漫画家に成るつもりかい?」

不意の問だが青年は、はっきり答える。

「おう! もう現実逃避じゃねぇんだ」

その手には骨で作られたペンが。
青年の決意は固かった。

「そうか…。ならば言うが、…もう少し、絵の勉強をするんだ」
「…?」
「今は八雲君のおかげで何とかなってるが、職にしようというのなら、そうはいかない」

突然名前を出され戸惑う少女。

「このままでは、…駄目だ」

言いたい事だけ言い、家主はさっさと出ていってしまった。
後に残された二人は只、沈黙を守るのみ。
しかし、数秒もしないうちに青年は呟きだした。

「確かに今の俺の画力じゃあ、駄目だ…」

「…」

「せっかく妹さんがアドバイスしてくれてるのに、俺が全部駄目にしてる!」
それは流石に言い過ぎだと感じた少女。

「そ、そんな事無いですよ、…わ、私は播磨さんの漫画好きですし…」

何とかフォローを入れようとする、が…。

「いや、やっぱりこのままじゃ駄目だ」

――――かくなる上は

「修業しかねぇ!!」

青年は立ち上がり高らかに宣言する。
しかし、二人は同時に思った。

――――どうやって?

自らの画力を鍛えようと考えた青年だが、方法に関しては一切のアイディアがなかった。

「…とりあえずデッサンから始めるか」

青年は白紙を取りだし、目の前に在ったマグカップを描き出す。
カチカチと、秒針の音だけが部屋に響く。
青年は描いては消して、描いては消してを何度か繰り返す。
漸く納得の行く物が描けたのか、青年は鉛筆を置く。

「…どうだい、妹さん?」

青年は渾身の作品を少女に披露する。
初めて見る、漫画以外の青年の絵に期待する少女。
その作品は少女の期待を裏切らなかった。

「…とても、上手です」

簡単に描かれていると思っていたのだが、青年の絵は素晴らしく繊細だった。
上から差す蛍光灯の光が成す陰影を細かく表現された絵が其処に在った。
少女の素直な感想が嬉しくて、照れ隠しに頬を掻く青年。

「へへっ、…昔から美術の成績だけは悪くなかったんだよ」
「これなら、十分ですよね…?」

ふと、ひとつの疑問が浮かんできた。

――――何で先生は駄目だ、なんて言ったのだろうか?

その答えは直ぐに分かった。

「…拳児君、君は何も理解していない」
「だから、さっきから何が言いてぇんだよ?」

青年は上手く描けた絵を、家主に認めさせる為に持って行ったのだ、が…。

「私が君の漫画に足りないと言いたかったのは、…表情だ」
「…!?」
「確かに君は絵が上手い、…だが、上手いだけでは駄目なんだ」
「…成程な」
「この絵の様に、より繊細に人の表情が描ける様にしたまえ」
「つまり、俺の絵は似たものばかり描いていたって事だな!」
「…その通りだ」

漸く納得した青年は再び叫ぶ。

「やっぱり、修業しかねぇ!!」








その後は大変だった。
夜中に出した絶叫は、家主の気持ちに何かを与えたのか…。
うるさい、黙れ、と銃を抜き。
夜中まで女子を監禁するな、と弾を詰め。
早く家まで送って来い、と引金を引いた。


逃げる様に、と言うか青年はその場から少女を連れて逃げ出した。

「遅くまですまなかったな、妹さん」

少女の家に着き、バイクから降りると青年は呟やいた。

「…いえ、私なら大丈夫です」

青年が気に病まないよう少女は微笑んだ。

「絵の練習、頑張って下さいね」

青年は親指を立てて返事をした。
先程まで少女が被っていたヘルメットを着けて、その場を後にする。
バイクの乾いたエンジン音が、やけに響く夜空だった。

そして次の日。
昨日はあれからどうしただろうかと、少女は青年の事が気になり授業にあまり集
中出来ていなかった。
携帯に何か連絡が入ってないだろうかと、休み時間の度に必ず二回は調べていた

その努力の甲斐があってか、昼休みに青年からのメッセージが届いた。
『もし暇なら、放課後に美術室に来てくれないか?』
少女は共に昼食を食べていた友人に気付かれる前に返事を送った。
『分かりました、直ぐに行きます』
少女は何の用事かを考えると、やはり授業に集中出来ないのであった。

――――昨日の事があるから描いた絵の評価だろうか? 恐らく漫画ではないだろ
う。自信を着ける為にも褒めた方が良いのだろうか…。いや、きちんとした意見
をいつも彼は求めている。

無情に流れる時間。
遂にやって来た放課後。
だが、少女にしてみれば待ち侘びた時間でしかなかった。

――――一体誰の絵を描いたのだろうか?

彼が他の女性の絵を描いたかもしれないと思うと、少女の心中は穏やかで無くな
った。
それでも、彼が描いた絵は見たい。
期待と不安の要り混じる中、美術室の扉に手を掛ける。
掃除が終わるやいなや、少女は直ぐに此処へ向かったのだが、青年はすでに其処
に居た。
青年が此方に向く。
無垢な笑顔に。
期待が高まる。

―――――絵は何処だろうか?

「わ、悪りぃな、妹さん。 こんなとこ呼び出して」
「いえ、…そ、それで、あの」

美術室の中を見回してみたが、青年の作品は何処にも無い。
青年は、恐らく何も持っていない。
少女の期待が萎んでいく。
そして、青年の言葉が完全に少女の期待を裏切る。

「い、いや、今日呼んだのは、絵を見て貰う為じゃあ無いんだ」

…何だか、拍子抜けだった。
だが、続く青年の言葉は少女の期待を上回るものであった。

「い、妹さんに、絵のモデルをやってもらえねぇかなと、思ってよ」

それだけ言うのに力を使い果たす青年。
返事はどうだろうかと、真っ直ぐに少女を見つめる。

――――え、絵のモデルを…?
私が…? えぇと、つまり私を描くの…
播磨さん、が…

受け取った言葉の意味を、完璧に理解したとき少女の顔は真っ赤に変わる。

「昨日、絃子に言われてよ、やっぱ肖像画くらい描けないとなって思ってよ」

互いに紅い顔を見合わせながら、ゆっくりと紡ぐ頼みの言葉。

「…嫌か?」

少女の返事が無いのに不安を抱く青年。

「いえっ、い、嫌じゃないです」

只、と付け加える。

「少し驚いてしまって。そ、その、私で良いんですか?」

少女の眼を見つめて答える。

「俺は、妹さんを描きてぇんだ」

青年は、迷う事なくはっきりと言い放つ。
最後の言葉に少女は完全にノックダウン。

「あ、あの、じゃあ、お願いします…」
「それじゃ、其処に座ってくれ」

並べられた二つの椅子。
普段の机よりも近づけられた間隔。
少女の心に何かが染み込む。
それは、さっきまでの下らない嫉妬心を思い出せたが、直ぐに弾けて消えた。

「ポーズは好きにしてくれて良いからよ」

そして、この台詞から冒頭に戻り、今から続きが語られる。

昨夜同様、白紙へ真剣に臨む青年。
時折少女へと眼を向け、また紙へと臨む。
只、昨夜と違うのは青年が一度も絵を消さない事だった。
一筆、一筆に強い想いが乗せられている。
どれくらい、そうしていたであろうか。
放課後の時間は、あっと言う間に過ぎ去った。
夕焼けが、部屋に差し込み、青年の背後から少女へと陽が掛る。
徐徐に暗くなる部屋で、青年が自分の顔に手を伸ばす。

――――見えにくいな…。

青年は、その素顔を少女にさらけだした。
外されたサングラスの下から、学校の誰も知られていない素顔が。
少女は、自分の想像を越えた青年の精悍な顔立ちに眼を奪われていた。
しかし、青年はそんな事に気付きもせず黙々と描き続ける。

――――優しい眼だな…。

作業を始めてから約二時間。
慣れない作業に青年は精魂尽き果てていた。

「…で、出来たぜ。妹さん」

まだ陽は沈む前。
紅い部屋の中で、微笑んだ少女の絵が一枚完成した。

「…とても、上手です」

昨日と同じ褒め言葉。
しかし、同じ感動ではなかった。
その絵は、とても、美しかった。
あの巨大かつ、ゴツゴツした手で本当に描いたのかを疑う程に繊細だった。

――――違う。彼の、播磨さんの手だから描けたんだ。

「すまねぇ、似てなくて。でも、それが俺の精一杯だ」

必死に謝罪をする青年。
直ぐに礼を言おうと思ったが、少女にある一つの欲望が宿る。
起こされた青年の顔を見て訂正。
二つだった。

「…播磨さん」
「ん?」
「あ、あの、二つお願いがあります」

顔を紅くさせて呟く少女。
普段絶対に頼み事をしない少女にしては、この言葉は非常に珍しかった。

「何だ?」
「こ、この絵、頂いても良いですか?」

呆然とする青年。
正直言って、この力作を自らの従姉妹に見せておきたいと思ったのだ。
しかし、少女には普段から世話になっている。
自分の気持ちと少女の気持ち。
天秤に掛けたのは、ほんの数秒だった。

「そんな絵で良いなら幾等でも持っていってくれよ」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ、妹さんには世話に成ってるからな。それで、もう一つは?」

先を促す青年。

「その、さ、サングラスを…」

――――い、言えない…。
私の前では、外して下さい、って。

少女の言葉に、青年は自分がサングラスを外していた事に気付く。

「っと、忘れてたぜ。」
「あっ…!?」

澄んだ黒い瞳が闇に隠れる。

「で、頼みって何だ?」

流石に此処まで来て少女にそんな事を言う勇気は無かった。

「いえ、すいません。何でもないです…」
「…?」

青年は疑問を抱きながらも特に気には留めなかった。

「よし、それじゃ帰るとするか」
「あっ、はい…」
「送るぜ、妹さん」
「えっ、でも迷惑じゃあ…」
「バイクだからな、そんなに時間も掛らねぇしよ」
「…すみません、お願いします」

二人で茜色に染まる道を行く。
唯一のヘルメットは、後部に座る少女が被っている。
もうすぐやって来るであろう冬を思わせる冷たい風が、横を突き抜ける。
しかし、少女が感じていたのは冬の厳しさよりも青年の温かさだった。

混んでたわけでもない道は、簡単に塚本家にバイクを着かせた。

「今日は悪かったな、妹さん」
「そんな、気にしないで下さい」

少女はサイズが大き過ぎるヘルメットを脱ぎ青年へと渡す。

「…それとよ、さっきの頼みって何なんだ?」
「そ、それは…」

――――もう良いんです。
私だけの秘密にしますから…。

「俺は普段から妹さんに迷惑掛けてるし、何でも言ってくれて良いんだぜ?」

青年はどうにも気になる様子。
ふと、少女はある事を思い浮かべる。
動物園で、肩を並べ歩く二人。

「…動物園の約束、守って下さいね」

自分でも驚く程すんなりと誤魔化せた。

「何だ、その事だったのか」
「はい」
「安心してくれ、絶対忘れねぇよ」
再び発進するバイク。
少女はバイクが見えなくなるまでその場に佇んでいた。
バイクの音は響かずに、淡々と夜空へ吸い込まれていった。
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