消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一)
日時: 2007/06/22 19:50
名前: 無遠人形

非常に珍しい組み合わせです。
なんとなく思いついたのです。
おそらく誰もやったことがないでしょう。
なのであまり気にしないでください。
ちなみに全設定はフィクションです。
完結しました。

 

  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.1 )
日時: 2007/02/18 16:35
名前: 無遠人形

遠い、昔の記憶。
まだ私の髪が長かった時の記憶。
大概は薄ぼんやりと、途切れ途切れにしか思い出せない。
だけどそれでもこの部分だけは鮮明に覚えている。

『やーいやーい鬼さ〜んこちら!!!』

男子の同級生達がそうやって私をからかった。
無視しようとしても、ずっとずっと言ってくる。
放っておくのが一番だってことはその頃の私ですらよくわかっていた。
しかしそれを実践し続けるには、まだ私は若かった。
我慢出来ず、とうとう私が怒ると、

『わーい鬼が怒ったぞ〜!!!』

喜びながら怒っている私の周りを走り回った。
女子の同級生達はそれを笑いながら見つめている。
女子の友達ですら、それを止めなかった。

私はすごく嫌なのに……。

今思い出せば、低レベル。
名前の特殊性にひっかけたたんなるダジャレ。
しかしその時の私にとってそれがとてつもなく嫌で、嫌で嫌で……。

懐かしい、心の傷。
今ではもう埋もれてしまった、
小さな小さな、傷だった。

























「お〜キ〜、ヌ?」
コチョコチョ

いきなり脇をくすぐられる。

「んあっ!」
「……んあ、だって、かわい〜!!ほら目、覚ましなさい。もう昼休み」
「ん……」

起こされた。
まだ眠い。
目をこする。
う〜ん。
暖房の入った2‐Cの教室。
前の方の廊下側にある自分の席に座ったまま伸びをした。
周囲では弁当を持って続々と人々が所定の場所に固まっていく。
昼休み、か。
ふぅ……。
すっかり寝てしまったみたいだ。
起こしてくれた円も弁当持参で私の席に来ていた。
………なんだかなぁ。
藍色の夢の残滓が頭をよぎる。
見ていた夢を振り払うため、フルフルと首を横に振った。
……あれ?頭が軽い。
……ああ、そうだった、今は髪の毛短いんだっけ。

「でもどうしたの?授業中寝るのも珍しいおキヌがこんな休み時間まで寝込むなんて……」

私の前の席に座りながら、

「なんかあった?」

心配そうに友人が聞いてくる。
あの程度の夢を教える必要もないし、誰かが気にする必要もない。
特に悩んでいるわけでもないし。
なんとなく寝すぎてしまっただけだ。
そういう日もあるって、と適当にはぐらかしておいた。
弁当をカバンから出す。
その時。

「おっ嬢ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」

教室中に響きわたるような大声が耳に届いた。
その声の主は当然、
播磨くん?
教室の後ろを振り返ってみる。
不良であり、クラスの一部分のトラブルメーカーでもある、いつもサングラスをかけている男の子が立ち上がっていた。
彼とは一度も話したことはない。だが、あまり頭が良いとは思えない。他の女子には寡黙で体格がよくて実はかっこいいかもと結構人気があるのだが、実際あまり興味がなかった。
はぁ……また、なにかしでかす気かな?
案の定、大声を出したその張本人は金髪のお嬢様を無理矢理引っ張って教室を出ていった。
教室中が息を飲む。
引っ張られてった彼女の名前は沢近愛理。
自他共に認めるお嬢様だ。昔の沢近さんは噂でしか知らないが、今の彼女はずいぶんと丸くなっているようだった。
彼のお陰で、ね。
そのくらいは見ていればわかる。
播磨くんの影響を一番よく受けている人といったらやはり沢近さんだろう。うん、いい意味で。
静まりかえる教室の中、私は一人足を組み頬杖をついた。
どうぞご勝手にという感じだけど……。
数瞬後、2‐Cは爆発的に盛り上がった。
他の人が放っておくはずがないわよね……。

「今の見た?」

そういうのが大好きな円は、当然食い付いた。
やんややんやと騒がしい教室の中、私は弁当をつまみながら淡々と答える。

「見たよ。播磨くんが沢近さんを無理矢理連れ出してたね」
「……いやまぁ……その通りだけど」

円は苦笑するが、気をとりなおし、なおも楽しげに喋る。

「播磨くん、お嬢ぉぉ!!だってさ。いきなり叫んでびっくりした〜。でもすっごい情熱的じゃない?何するつもりなんだろ?」
「……さぁね」
「さぁねって……。おキヌ冷静すぎ〜。私が思うに、あの勢いだときっと告白だよ!どっか屋上とかで!こうチケットつきつけてデートとかにに誘いながら!好きだぁぁって!!間違いない!」
「……はぁ、告白ねぇ」
「播磨くんもなんだかんだいって沢近とよく話してるしさ。ようやく気持ちが決まったんだよっ」
「………。……そうか?」
「それに沢近さんは播磨くんのこと好きだからっ!ソッコーでオッケーしてめでたくゴールイン!!わぁ♪ぱちぱち♪」

想像力たくましすぎよ、円。
別に突っ込まないけど。

「はぁ〜あ。私もあんな積極的なアプローチを受けてみたいな〜。ちょっと強引で、ちょっと自分勝手の方がかっこいい時もあるのよね」

これは聞き捨てならない発言ね。
一応聞いておいてあげることにする。彼の名誉のために。

「……梅津くんはどうしたの?」
「茂雄?……もちろん茂雄に頑張ってもらうのが一番よ!私まだ茂雄のこと好きだし!!でもぉ……確かに奥手くんって最初のうちは可愛いよ……でも、ねぇ……?」
「長く続くと飽きてくる」
「そう!まさしくそれっ!!茂雄をからかうのは楽しいけど、それだけなのよね〜。相変わらず私にあたふたしてるだけだし……。私をリードして振り回すくらいじゃないと……」
「思い通りになった恋愛ほど、つまらないものはないからね」
「そのとぉーりっ!!うんうん、やっぱおキヌわかってるぅ〜」

口に箸をくわえて肩をすくめてやる。
最近のあんたの男遊びっぷりを見てればそのくらいわかるわ。
この二人の間柄については、陸上部内で結構有名なのだ。梅津の耳にだけは入っていないようだが……。
彼に女の世界は怖いぞ、と教えてやりたいくらいだ。

「……んで、そっちはどうなの?なんかない?」

円が唐突に切り返してくる。
???
その目線は私の方を向いていた。
とりあえず疑問符を浮かべる。
そっちとは……、私のこと?つまり……私の好きな人ってこと?
口に玉子焼きが入っていたので、ゆっくり咀嚼してから、

「もっかい言って」
「……だからぁ、鬼怒川綾乃についてぇ、浮いた話が一つもないのでぇ、この機会にぃ、好きな人くらい聞いてみようかなぁと、思いましてぇ……。で、実際どうなのよ。誰かいない?」

円は呆れながら細かく説明し直してくれた。
なんだかむかつく語尾で。

「………」

大声を出したヤツのせいでまったく妙な方向に話が進んでしまった。
円に梅津くんの話をした私も私だけど。
円も前までは私に愚痴を話すばかりで、こんな風に私のことを聞いてきたことはなかったのだが……。
心に余裕ができたのだろうか。
う〜ん。
そういえば最近好きとかそんなこと全然考えてなかったなぁ。
考えてなかったということは、好きな人とかいるはずがない訳で。しかし、いないという返答で満足する相手ではなかろう。
仕方ない、とりあえず誤魔化しておくか。

「……じゃあ浅間先輩で……」

補足として、浅間先輩とは陸上部の三年生で、イケメンらしく人気らしい。
よくは知らないが。
まぁ無難なところを言っておけば変に思われることはないだろう。
うん、完璧ね。
そう思った。
しかし、円を見てみると、腹を抱えて笑っていた。
なんで?

「あは、はははははっ!!!な、なによそれ〜!!この前の部活の帰り道忘れたのぉ??おキヌ、浅間先輩のこと、ああいうチャラいのは嫌いだって厳しい顔して文句言ってたじゃな〜い」
「……そうだっけ?」

そうよ〜、と堪え切れないように体を震わせて笑っている。
はっ!そうだ、思い出した。浅間先輩といえばその顔を武器にした女たらしで有名で、私の大嫌いなタイプだったんだ。
……好きなタイプはないくせに嫌いなタイプがあるというのもどうかと思うけどまぁそんなもんだろう。
しかし、しまった。
迂濶だった。
あまりに考えなさすぎたか。
円が涙を流しながら聞いてきた。

「なに?それとも、いやよいやよも好きのうちとか?」
「や、ごめん。やっぱ今のなしで」

慌てて訂正する。
円は私の言葉を聞いた途端、ぶっ、と吹き出して、好きな人を取り消さないでよ〜、と爆笑した。
まずい。まずい。まずいぞ。
今円が騒いでいるのは周りの喧騒に紛れているが、もしかしたら円の笑いっぷりに人が集まってくるかもしれない。
いないものを追及されても答えようがない。
依頼主を知らないのに拷問されるスパイみたいなものだ。
ならば今適当に答えておけば、もう大丈夫だろう。多分。
急いで誰かを……。
言っておかないと……。

………。

………。

………。

………。

う〜む。

………。

………。

………。

………。

駄目だ……。
誰も思いつかない。
ってかおいおい、私が思いつく男子にまともなヤツがいないな。
陸上部も、このクラスも。
……円よ、勘弁してくれ〜。

「ごめん、来週まで待って」

苦し紛れのその言い訳は、
なにそれ〜、とやはり笑われるのだった。


  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.2 )
日時: 2007/02/18 16:35
名前: 無遠人形

むむむ〜。

私は小さな頬を膨らます。
その日も一人で店番していた。
両親は共働きで、ばあちゃんはボケが入ってきた病院暮らしのじいちゃんの世話で忙しい。
それに私が番台にいるとなんだか人が沢山来るらしかった。まだ小学生だったが、やって来る人も常連さんばかりなので私も安心して出来たのだ。

んむむ〜。

同級生達にからかわれた日だった気がする。
ひどく不機嫌な顔で、番台に正座で座っていた。
普段から笑顔を見せるタイプではなかったが、特にその日は接客業なら即座にクビにされそうなくらい愛想がなかった。
常連のおじさんや、子供連れの母親などに、どうしたの?と聞かれたりしたが、まだ幼かった私はお金をきちんと徴収しながらもプイとそれを無視した。

ぬむむ〜。

腹が立っているのもまた事実だったが、怒っていることを他の人に見せつけたかったのだろう。
そういう年頃なのだ。
ふと一人のメガネをかけた成年男性が腰にバスタオルを巻いてこちらにやってきた。
彼は私の横にあるガラス張りの冷蔵庫を指差して言った。

『小さな番頭さん、牛乳一本……いやコーヒー牛乳の方一本くださいな』

常連ではない。
初めて見る客だった。
まだむくれていた私は、百円を受けとり乱暴にコーヒー牛乳を渡す。
その男性は気を悪くした様子も見せず、ありがとうと微笑んだ。
私は生意気にも、ふん、とにらみつけた。
それでも気にせず私の目の前で腰に手を当て一気に飲み干す。

ゴッゴッゴッ

喉を鳴らし、飲み切ろうとしたとき、
私の見ている前で、
その腰に巻いていたバスタオルが、
ハラリと





















「!!?!??!」
ガバッ!!

布団をはね飛ばし、勢いよく起き上がる。
な、なんだ!なんだ、なんだぁぁぁぁぁぁ!!
錯乱しつつ首を右に左に激しく動かす。
なにかが!な、なにかがブラリーンって!!
周りが暗い。……自分の部屋ね。
外も暗い。……まだ夜?
慌てて枕元にある携帯を開く。
今は4時丁度。夜じゃないもう朝だ。
深く嘆息して、枕に顔を沈める。
なんて……夢なの。
……文句なく最悪の悪夢ね。
最後の場面があまりに衝撃的すぎて、他の部分が薄れてくる。そうなると余計に最後の場面がはっきりとしてきて。
……トラウマになりそう。
動悸が激しい。いくら裸を見慣れているとはいえ、アレそのものは厳しい。
……今のが昔の記憶なら、あの時の私は大丈夫だったのかな?
う〜ん。よく思い出せない。
とにかく乙女心に傷を残すような過去はきちんと抹消しておくべきよ。
夢の中のセクハラって誰に訴えればいいのかな?……自分?

「でも……なんであんな夢見たんだろ?」

暗い中、一人ぼやく。
まぁ夢に疑問を持ってもしょうがないか。
もう一度携帯を確認する。
ガシガシ頭をかいた。
再び寝られるようなテンションではない。
頭が完全に起床してしまっていた。
一回だけ身震いして、布団から寒い外気に這い出る。

「掃除でも、しますかね」









「あら〜」

女風呂を掃除し終え、男風呂の床をゴッシゴッシとブラシでこすっていると、感嘆の声が聞こえてきた。
そっちを向くと、ばあちゃんが入り口で目を真ん丸にして立っていた。
掃除用具を両手に持って。
密かに肩をすくめる。
そんなに驚かなくてもいいのに……。
ばあちゃんとは私のばあちゃんのこと。
今年で喜寿を迎えるが、まだまだ元気いっぱいだ。体力的に番台に座り続けることは出来ないが、自分に出来ることはするとか言って朝はこうして誰よりも早く起きて掃除をしてくれていた。今日は私の方が早かったけどね。
私は「おはよ」と言って掃除を続行した。

「あ、おはようね、綾乃ちゃん」

ばあちゃんも驚いたまま、いそいそと掃除をし始めた。
手慣れた手付きで端から蛇口を雑巾で拭きながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
ふと気になったので、耳を傾けてみると、

「このばばあより早起きして掃除をしているたぁ……あたしゃホント良い孫を持ったもんだねぇ。昔から知ってたけど。涙がでちゃうわぁ。これは日記に書いて清書して、あとでじいさんにもきちんと報告しないとねぇ。それで近所のミツさんとホシさんとカツさんにも自慢して……、ああ常連のみんなにも自慢しておかないと……」
「ばあちゃん頼むからそんなことやめてよねっ!恥ずかしいよ!!」

不穏な発言に突っ込む。
しかし、私が突っ込むことを知っていたかのように、即座に反論してきた。

「大丈夫、減るもんじゃないし」
「でもやめて!!」

ばあちゃんはカッカッカッと楽しそうに笑った。
でも喋りながらも掃除は抜かりなくテキパキと。
こういう人なのである。










朝ご飯前の日課として、私は走っていた。
一定のリズムを保ち、地面を軽く蹴る。

「……はっ……はっ」

住宅街を抜けて、大通りに出る。
車は少ない。朝日が眩しい。
空には雲が一つもなく、昨日と同じく今日も晴天になりそうだ。
肌を刺すような寒さが逆に心地よい。

「……はっ……はっ」

速く走りたいからとか、体力をつけたいからとかそんな理由は無くて、いつの頃からかの日課。
たんなる体調の調整みたいなものだ。
コースもいつも決まっていた。
大通りから近くの公園に入る。その公園を三周したら、また同じコースを戻るのだ。
ほんの30分程のランニング。

「ふぅ……。はいゴール」

住宅街の一角にある我が家の前についた。
それほど汗はかいていないが、陸上部の癖でクールダウンのストレッチを入念にする。
そして、落ち着いたのを確認してから、家に入る。
のれんをくぐり、扉を開けると、番台にじいちゃんがいた。のれんを出すのがじいちゃんの仕事なのだ。
老眼鏡をかけて、最近取り始めた日経新聞を熟読している。私に気づくと、まず番台の上に置いてあるストップウォッチを覗き込んだ。
すぐさまノートに数字を書きつける。
私は苦笑いをして、

「ただいま」
「おかえりんしゃい。綾乃よ、今日は昨日より一分近く遅いなぁ?どうかしたんか?調子悪いんか?」
「………」

タイムを測るのはやめろと何度も言っているのだが、このかくしゃくとした爺様は一向にやめようとしないのだ。
タイムを気にせず走りたいのに。困ったもんである。
ま、遅くなった原因はわかっているけどね。

「ちょっと変な夢を見ただけよ」






私がくぐったのれんには、こう書かれている。

『矢神湯』

名前の通り、昔から矢神にある、伝統ある銭湯だ。
祖父母が自慢げに話す所によると、矢神市がまだ発展していなくて、田園風景が広がっていた時代から、この場所にあったらしい。
その土地感覚のままの状態を維持し続けていたので、近代に建てられた他の住宅よりも土地が格段に広い。
じいちゃんが大切に育てている松が何本もあるが、それが片隅で足りるくらい、庭もまた広い。
だが土地は広いが銭湯本体やでかい庭のせいで、居住スペースは通常サイズなのだ。それに幼少時の私にとっては、一日中動き続ける湯沸かしの音がやかましくて、他の何もない住宅の方が羨ましかったりもした。
そんな『矢神湯』ではあるが、私が生まれるまでは赤字続きだったらしい。最近は自宅の風呂が広くなり、それで満足してしまう家庭が多くなったことに原因があった。
『矢神湯』の維持費を捻出するために、両親は共働きで頑張った。だが日本の景気も丁度悪化していて、お金のかかる銭湯なんかに誰も行かなくなり、他の銭湯が潰れていった。この『矢神湯』も存続が危ぶまれた、そんな時生まれたのが、私こと、鬼怒川綾乃だった。
絶望の中の希望だった。
とても大切に育てられたらしい。
当時ヤンチャだった私を一人にしておけなかったばあちゃんは、じいちゃん一人に任せておけなかったので、番台で私をあやしながら仕事をしていたらしい。
するとそれが可愛い可愛いと口コミで広がり、『矢神湯』に足を運ぶ客が増えた。
地元紙にもとりあげられたりして。
私が一人で店番出来るようになってからは、もっと客が増えたらしい。
全部両親と祖父母からの伝聞なので誇張が大部分を占めているだろうが、常連のお客さんも昔のことを私に話してきたりする。
昔は可愛いかっただの、わしになついてきただの。こちらとしては苦笑するしかないが。

とにかく『矢神湯』は復興できた。
長い低迷期を乗り切った。
今は新しい常連層を獲得して、安定した営業を行っている。
こうして私は、晴れて『矢神湯』の看板娘となったのだった。
恥ずかしいので、あまり認めたくないのだが。







暇すぎたので勉強して、ようやく7時。
ばあちゃんとじいちゃんと居間で朝ご飯を食べていた。
玉葱入り納豆やめかぶ、昨日の残り物ではあるがブリの煮付けが食卓に並ぶ。
典型的な健康食だ。
このお陰で自分がスマートな体型を維持していると理解しているので文句は言えないが、たまにはパン系のものも出して欲しいと思ったりもする。
ちなみに母さんはまだ起きない。
別に昨日遅かった訳でもなく、仕事で疲れている訳でもない。昨日は9時に寝ていたし、今は仕事をしていない。
母さんは一日の半分、つまり12時間寝てしまうという体質なのだった。
あと父さんは今日も仕事。
夕方6時頃に帰って来れる分、朝は早く、休みはない。
まぁそこら辺の説明はおいおいしていくよ。
ごちそうさまと茶碗を置く。

「んじゃそろそろお客さんも来るだろうから。私、番台に上がってるね」
「おお、いつもありがとうなぁ。気を付けるんよ」
「なに?わしのバンダイ株が上がってるだと?そりゃ吉兆じゃ!ヒャッヒャッ」
「はいはい」

じいちゃんはボケ気味、確認。
ゆっくりと食事をする二人を置いて、私は庭を通って浴場に向かった。










「ふぅ」

私は番台に座ると息をついた。
半畳程の木に囲まれた狭い空間。
番台は男湯と女湯の入り口の間に高めに設置されており、両側の着替える場所がすぐに見渡せる。
ガラス張りの古い冷蔵庫もあり、冷えた牛乳とコーヒー牛乳が詰まっている。
昔からここにばかり居たせいか、自分の部屋より落ち着くのだ。
まったく、笑えない話である。

「………」

頬杖をついて、足を組む。
まだお客さんは来ていない。
この時間でも、朝風呂だ〜、とか言って来る人もいるから油断出来ないが、暇な時は暇である。
う〜ん。
この時間になんかしようって、寝る前に考えてたような……。
………。
はっ!そうだ!好きな人だ!
好きな人を考えようと決めたんだった。

「昨日は円が唐突過ぎたからね〜」

考える時間があれば、一人くらい思いつくだろう。
ようは思い出せる男子全員を一人づつ考えていって、一番いいのを選べばいいんでしょ?
簡単簡単!!

ガラリ
「あ、いらっしゃい」

本日一人目の客がやってきた。









**********************************************









一気に飛んで、午後10時。

「いい湯だったよ〜」
「はぁい……」

この時間によく来るつやのいい中年のおっさんが、お金を払い出ていった。
母さんや、ばあちゃんと交代しつつ今日の仕事がようやく終わった。
しかし、全然嬉しくない。
全然、達成感がない。
うむむむ〜。
結局思いつかなかった、好きな人。
ほとんど一日中考えていたが、何度考え直してみてもそんな人はいなかった。
クラスの男子、みんな同列。
考えてみれば、私って男の子とあんまり深く話したことないからな〜。

「気になる人もいないとは……。恐るべしね、私」

仕方ないか、いないものはいないし。
でもみんな、何で好きな人とかいるんだろうなぁ……。
月曜に円にでも聞いてみよ。
さぁ店仕舞いっと。
のれんをしまうため外に出る。
外は真っ暗で、しかも寒かった。
うひーと声を洩らしながら、急いでのれんを掴んで下ろす。
すると突然後ろからぼやき声がした。

「疲れたぁ……。徒歩だぜ、徒歩。信じらんねー」

驚いて振り向く。
そこにいたのは、

「おっす」

本日最後の客、冬木武一。


  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.3 )
日時: 2007/02/18 16:36
名前: 無遠人形

夜中近い時刻に同級生と出会う。
休みの日も外で遊ぶことの少ない私には、中々ないことだった。
『矢神湯』からの明かりで、背後の男の子がうっすら照らされる。
私は恐る恐る聞いてみた。

「……冬木、くん?」
「そうだよ。わからなかったか?」
「わかるけど……」
「うん、びっくりするよなぁこんな時間に来ちゃ。いやぁ〜悪いね。ところで……銭湯、まだやってるか?」
「……やってるよ」

また珍しい客が来たものね。
下ろしかけたのれんをかけ直し、まだ戸惑いながら冬木くんを『矢神湯』の中にいざなう。

「どうしたの?こんな時間に」
「……えーっと……ま、色々あってね」
「……変なの。怪我もしてるし……泥だらけよ?」
「はっはっはっ、気にしない気にしない」

あんまり聞かれたくないことなのかな。
誰かと喧嘩したとか?
それになんで家に帰らないんだろ?
不思議に思うことはあったが、番台に座ると自然に落ち着けた。

「ま、いいわ。お客さんだものね。でも同級生だからってタダは駄目よ。お金払いなさい」
「はいはい。わかってますよ。ああ、あとバスタオルとふつーのタオル売ってるか?あったら買う」

番台の下を探り、真っ白なタオルを出したてやった。

「はい、合わせて500円」

お札を出した冬木くんに、入浴代を引いてお釣りを返してやる。
冬木くんは「あんがと」と片手を上げた。

「んじゃお邪魔しまーす」
「……銭湯に入るのに別に挨拶しなくてもいいのに……」
「だってここ鬼怒川んちだろ?」
「………はぁ」

私はそっぽを向いた。

「さっさと入ってさっさと出なさい。これ、時間外労働よ」















夜が深まる。

「ふ〜」

ガラリとドアがスライドし、そこからメガネをかけた最後の客が湯気と共に出てきた。
30分か……。
男にしては長風呂だ。
ま、その理由は理解できるから我慢しなきゃいけないけど……。まったく、世話のかかる男よね。
私は番台で溜め息をつき、立ち上がった。
バスタオルを腰に巻いていそいそと着替え始めようとする冬木くんに向かう。

「ん?」

こちらを向いた冬木くんに、やや古いプラスチック製の救急箱をつきつけた。
その救急箱をぐぐいと互いの目の高さまで上げる。
しばし沈黙が流れた。

「………」
「………」

どちらも口を開かない。
なんというか、膠着状態。

その時、
ハラリと、
腰に巻いたバスタオルが落ちた。
あわやアレが丸出しになりそうになる。
彼は「うおっ」と声を上げて内股気味に屈み込んだ。救急箱に気をとられていたのだろう反応が微妙に遅かった。
………。
その情けない様子を見て私は片頬を上げて、ニヤリと笑ってしまう。

フラッシュバック。
ん?ああ。そういえば……。
私、あの時も笑ったんだっけ……。

そんなことを考えていると、屈んだ姿勢のままこちらを疑わしげに見つめてくる冬木くんと目が合った。
は!私ったら!やだ!
ニヤニヤしてたらまるっきり変態じゃない……。
そんな内心の動揺を外に出さず、コホンと咳払いをして偉そうに言った。

「傷見てあげるから。そこに座りなさい」









これを狙っていたのだろうか。
上半身裸の冬木くんを長椅子に座らせて、身体中にある傷を手当てしながらそんなことを考えてしまう。
ズボンはせめてはかせてくれという希望があったりしたが、まぁどっちでもいいけれど。
そのやけに白い背中に綿で消毒薬を塗り、ついでに文句を口にした。

「まったくあんな外まで聞こえる大声でしみるぅ〜だのギャヒ〜だの叫ばれたらこっちも放っておけないじゃないの。こんなかすり傷程度であんな叫んじゃって」
「いてて。や〜悪いな、女の子に手当てしてもらえるとは。痛いのは元々苦手なんだよおっとそこいてえ!もっと優しく!もっと優しく!」
「我慢なさい。男でしょ」

半眼で綿をグリグリとなすりつけてやる。
怪我自体はたいしたことはない。
少々の打撲や少々のすり傷程度なのだが、その傷の数がかなり多かった。確かに塵も積もれば山となる、合わせれば結構な痛みかもしれない。
特に背中や後頭部に、小さな痣がいくつもある。
謎な怪我の仕方だった。

「……物凄く気になるから聞いてみるけど、……冬木くん今日何してたの?」
「………」
「どこで転んだのか服も泥だらけだし……。どこに行ってて何で怪我したの?」
「……名誉の負傷さ」
「……はぁ?」
「だからぁ、名誉の負傷だよ」

冬木くんは驚くほど魅力的な笑顔で振り向いた。

「ほら、例えばさ。ここにすっごい貴重なお宝があるとするだろ?誰も手に入れたことのない、誰も見たことすらない、素晴らしく美しいに違いないお宝……。ここにそれがあるってわかったならさ、たとえこの周りに幾多の罠に頑強な囲いがあったとしたって、なんか挑戦したくなるじゃんか。そのお宝を手に入れられるってんなら俺は怪我なんか気にしない」
「……もう少しわかりやすく」
「綺麗なバラがあったから家に持って帰ろうとつみとったらトゲが指に刺さったみたいな感じ。でもそのバラはマジ黒いし、一年に一回、数秒しか花を咲かせないんだけどね。しかもそのトゲは伸縮自在で……。いやだからこそ、やりがいもある!」

生き生きしてんなぁ、目が輝いているよ。
……ってなんで私はムカついてるの?
私は話を聞きながら、大きな傷には絆創膏を貼ってやる。

「……それって、誰かを写真に撮りたいってことでしょ?」
「……え?……うん、まぁ……。そうだよ、よくわかったね」
「そりゃねぇ……」

学校であれだけ公言してれば普通わかるよ。でも冬木くんがこれだけ苦労する人って誰なんだろ?人気グラビアアイドルとかかな?
そう考えつつ、冬木くんの輝きに反発を覚えた私は、次々と疑問をぶつける。

「でもなんでそんな痛い思いしてまで……誰かを撮ろうとしてるの?冬木くんに怪我させるってことは、相手は嫌がってるわけだし」
「………」
「それにどうせ変な写真を撮ろうとしたんでしょ?学校でも撮ってたじゃん、女の子のハレンチなやつを……」

治療を受けていた少年はおもむろに立ち上がり私に指をつきつける。
上半身裸で。

「ちっがぁーう!!それ大きな勘違い!!」

凄い剣幕で怒りながら、自分の上着からデジタルカメラを引っ張り出す。

「これを見ろ!!」

私はおとなしくそのカメラを見て、

「メモリーカードが入ってません、だって」

はっ、と冬木くんの顔は一瞬で青ざめ、床に膝をつき地面を殴り始める。
バックアップをとっときゃよかった、とマジ泣きし始める。
何がなんだかわからないのでとりあえず観察していると、とにかくそれは誤解だ信じてくれぇ、と涙をにじませこちらに懇願してきた。
その涙の大半はなくなったデータに対するもののようだが。
まだメガネの奥の目が赤いが、熱が入ってきたのか力強く力説してくる。

「俺は女の子をただ撮ってるだけじゃない。女の子の美しい姿を記録に残してるんだ!!恋する少女は綺麗だろ?俺はその可憐さを大事にしたいんだ!!」

冬木くんって……熱い人だったんだ。
やや圧倒され気味で、私は聞いてみる。

「それは……冬木くんの……なんなの?」
「これは俺の使命でもあり……」
「あり?」
「夢、かな」

……夢。
頭の片隅に違和感を感じる。
ふと自分に悩みがあったのを思い出したので、ついでに聞いてみる。

「じゃあ冬木くんは好きな人とかいる?」
「は?なんだ鬼怒川?ずいぶん突然だなぁ」
「そう?」
「ま、いいけどね、いないから。そういう鬼怒川はいるのか?」
「私もいないから聞いてみたの」

溜め息をついて冬木くんの背中をバンと叩く。

「いてっ」
「はい治療終わり。もう私は眠いわ」
「おお、迷惑かけたなぁ。ありがとな」
「……ふん」

怪我の具合を確かめながらそーっと服を着ている姿を見ながら、私の意識は遠くへ飛んでいた。
夢かぁ……。
ポムと肩を叩かれる。
びっくりして振り向くと、そこにはいつの間にか冬木くんが着替え終わって立っていた。
ニヤニヤしながら、

「どうした?ボーッとして。さては俺の裸を思い出していたとか?」
「……馬鹿ねぇ。自分の裸にそんな魅力があると思ってるの?」
「グサァッ!……はうぅ、傷つくなぁ……そういうことはせめて頬を赤く染めながら言ってくれないと」
「はぁ?」
「ううぅ……怖いよぉ……いやなんでもありません……」

馬鹿なことを言っている冬木くんを『矢神湯』の外においやる。

「帰れ帰れ」
「わかったわかった、だから押すなよぉ」
「ほら良い子はもう寝てる時間だよ。親御さんも心配してるって」
「………」
「どうしたの?」
「……いや」

冬木くんは暗闇が支配する外に出て、元気よく振り返る。

「じゃあなー鬼怒川。また学校で」
「はいはいじゃあね。帰り道気を付けなさいよ」
「お前は俺の母親かっ」

捨て台詞を残して、冬木くんは闇に消えた。
私は振っていた手を下ろし、

「寒っ」

『矢神湯』の中に避難した。
その避難先では、いつからいたのかうちの家族が、四人総出でニヤニヤしていた。
腹立たしいこと限りなかった。









電気を消した自分の部屋で。
ベッドに潜り込みながら、じっと考えていた。
いや、考え終わっていた。
ようやくわかったよ……なんで私が冬木くんにムカついていたのかが……。
ゴロリと上を向く。
冬木くんは私が持ってない、夢ってものを持ってたからなんだ。
そう気づくと自分が情けなくなる。
好きな人のこともそうなのだが、普段から私は気にしなさすぎるようだ。そういう自分が感じる感情についての事柄を。
学校生活ではただ漫然と特に何も考えず時を過ごし、将来のことあるいは自分のやりたいことという意味の『夢』を持たず、この『矢神湯』という強固な地盤に落ち着いてしまっていた。
だから私は冬木くんがうらやましいんだ。
あれだけ輝き熱中できる、熱い感情を剥き出しにできることが、うらやましい。

「はぁ……」

考えなきゃいけないことが、また増えたよ……。
自分の好きな人と、自分の『夢』。
どちらも難題。
考えれば考えるほど、難しくなる。
簡単に答えを導き出せない。
また溜め息をつく。

「こう悩んでれば……答えって、出るもんなのかな?」

………。
いーや、今日はもう寝よ。
最後にそう考えて、
私、鬼怒川綾乃は眠りに落ちた。















『うわぁぁーっと』

そのメガネをかけた男は牛乳ビンを持っているのとは反対の手で慌てて落ちそうになるタオルを押さえる。
なんとか股間を晒すことはなかったが、片手でタオルを押さえたまま内股で停止した。おそらくパニックでビンを置くという選択肢が思い付かなかったのだろう。片手ではタオルを直すことが出来ないのに。
男性はビンを掲げたままの姿勢で、恥ずかしげ私に小さく笑いかけた。
その様子が妙におかしくて、それまで不機嫌だったのも忘れ、私はケタケタ笑い出した。
男性はそれを確認すると微笑み、残っていた牛乳を飲み干し、ビンを回収箱に入れる。
笑い続ける私に、

『仏頂面してたら可愛い顔が台無しだよ。笑ってるほうがずっと良いね』

そう言った。
そうして男性はバスタオルを巻き直し、そこを去る。
私はキョトンとしていた。







『はい、お勘定』

メガネをかけた男性がお金を出した。
私はそれを受けとりながら、私ね綾乃って言うの、と言った。私は彼を気に入ったのだ。

おじちゃんは名前なんて言うの?

と聞くと、男性はなぜか困った表情で上を見上げて、

『もうすぐ僕の夢が叶うんだ』

夢?

私が疑問符を浮かべると、微笑して、

『だから僕の名前は無い。おじちゃんと呼んで欲しいな』

よくわからなかったが、その男性と仲良くなれたと感じた私は、

うん!!

と力強く頷いた。

  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.4 )
日時: 2007/02/20 23:34
名前: 無遠人形

「おキヌおはよー。……え?天気……ああ今日は曇ってるね。………。そこ誤魔化さない!ポーカーフェイスしたってそりゃわかるわよ。で、どうだった?土日考えて好きな人思い付いた?ふふふ、もう適当はダーメー。……それも許しません。………。……はぁ、仕方ないなぁ。わかったよ、いないんだね?うんうん。ふふ、はいはい。……でもさぁ、若い健全な女の子がその年で好きな人の一人もいないんじゃマズイって。ほら、見てみなよ。探せば結構かっこいい人いるよ?………。いやそんな全力で嫌がらなくても……。……え?夢とな?唐突だなぁおキヌは。う〜ん夢かぁ。………。そうだなぁ、とりあえず今は高校生活を楽しみたい!!……え、なに?違った?将来の夢の方はどうかって?え〜、まだそんなのわかるわけないじゃないのぉ。鬼も笑うような未来のこと考えるより、今を精一杯生きてれば自然と将来になってるわ」





















「はぁ?」

冬木くんはパソコンから目を上げて、口を開けて馬鹿にした目で私を見た。
机を挟んで座っている私は睨み返す。
なによそんな目で見なくてもいいじゃない。

「ああごめんごめん」

冬木くんはパソコンに視線を戻す。
またカタカタと作業を続行した。
失礼な行為だが、私はそれを怒れない。

「でもいきなりそんなことを聞かれると……。ふつー驚くだろ」
「……だって……仕方ないじゃない」
「俺って実はまだ鬼怒川とそんな話したこともないぜ?土曜ちょっと話しただけで……。悩んでるなら、そんなあんまり話したこともないようなヤツより、仲のいい女友達にでも聞いてみるべきだって」
「もう聞いたわよ!!……聞いたけど……あの子、悩んでないの……」
「………」
「なんか違うのよ。私と思考方法が違う。理解できるけど納得できない理論なの……」
「……ふ〜ん。そこら辺はわからんでもないけどさ。……で、もう一回聞くけど、なんで俺?」

キラリと光るメガネがこちらを向いた。
うっ、と私は縮こまってしまう。
突然お邪魔したことに引け目を感じていた。
私はもごもごと机に突っ伏し、普段は感じもしなかった自分の交友関係の狭さに改めて悲しくなる。
深く付き合っている友人が、少なかった。
こういう青春的な青臭い、夢とか人生とか恋とか愛を語り合える友がいなかった。
冬木くんはもうパソコンに戻っている。
でも私はちゃんと話を聞いてよ、とは言えない。

「なんでって言われても……」
「……うん」
「相談できる人が……他に思い付かなかったのよ……」
「……ほう」
「それに……冬木くんってそういうこときちんと考えてそうだから」
「……なるほど」

それに……土曜日にウチで話した時……熱い人だって知ったから。
冬木くんは最後にエンターキーを押して、ようやくこちらを向いた。
肩をすくめて笑っていた。

「ま、女の子に頼られるのは男としては嬉しいかな。俺に出来ることなら全力で手伝うよ」

消去法ってのが気になるけど、と唇を曲げる。
そして、困惑顔で腕を組んだ。

「でもやっぱ難しいなぁ。夢が見つからないんだけど、って言われてもさぁー……」

冬木くんの意見には同意するしかない。
やっぱりそうだよね……。
お互い顔を見合わせ、そろって肩を落とし溜め息をついた。











時は放課後。
私が今冬木くんと共にいる場所は、写真部が使っている特別教室だ。
写真のフィルムを現像する時にも使うらしく、カーテンは引きっぱなしで蛍光灯の明かりだけが内装を照らす。

「そういえば冬木くんさっきから何してんの?」
「えっと、修復作業」
「修復?」
「うん、カードは返されたけど肝心のヤツが削除されてたからね。一僂の望みを賭けて削除データからの復元をしてるとこ」
「???」
「ま、どうせ無駄だろうけど」
「何の話?」
「こっちの話」
「??……変なの」

写真部は弱小部活で現在部員は最低の五人しかいないらしい。しかも活動日は決まっておらず、学校のイベント前後以外にはまったくやることがない。写真を撮るだけならば個人で出来るからだ。
というわけで、冬木くんは一人だった。
そこに私が来たのだ。

「なぁ、鬼怒川は部活無いのか?」
「ん?今日は無いわ」
「確か陸上部だったよな?」
「そうよ」
「俺にはよーわからんが……走るのって楽しいか?」
「ん〜……あんまり」
「あれ、そうなの?じゃあなんで走ってんの?」
「……さぁ……」
「………。ふ〜ん」

日曜もずっと悩んでいた。
好きとはなんなのだろう。
夢とはなんなのだろう。
簡単なようで、わからない。
だけど、複雑かと思えば、そうでもない。
どちらも深く考えれば考えるほど、根幹から遠退いていく気がした。
結局答えは出なかったし。

「しかし鬼怒川〜。夢っていったってさぁ『矢神湯』実家なんだろ?それはどうすんだ?せっかくあるんだし、継がないの?」
「……そんなのわかんないわよ……。今までは継ぐことが当たり前っていうかそんなこと考えたこともなかったから……。それが冬木くんの話聞いたら、なんか悩んじゃったのよ。そういえば私夢とか考えたこと無いなぁって。冬木くんは写真家になるのが夢なんでしょ?」
「え?……ああ違う違う。俺の夢は自分が納得できる素晴らしい写真を撮れるようになるってことさ。別に写真家を目指してるわけじゃあない」
「……え?どこが違うの?」
「全然違うじゃん!!職業が夢か、その行為自体が夢か。俺は写真を撮っていられるなら別に職業はなんでもいーのー」
「……ほ〜。……いや違いがわかんない」

写真を撮るなら結局一緒なんじゃないの?
首を傾げる私に、冬木くんは咳払いして指を一本立てる。
これは俺の考えだけど、と前置きしてから言った。

「例えばここに医者志望の人がいるとするだろ。医者を夢見てる、医者のタマゴ。その人が医者を目指している理由が、人を救いたい、病気を治したいっていうんだったらその人はその医療行為自体が夢で、医者というのは単なる過程の一部に過ぎない。そうじゃなくて金を儲けたいとか、医者という肩書きを狙っているとか、親に言われたからとかそういう理由なら、その職業自体が夢ってこと。……ほら、わかった?全然違うだろ?」
「えーっと……うん、わかった。もし、人を助けたいっていう夢を持ってるなら、医者が一番手っ取り早いんだけど、特別医者になる必要は無いってことね?」
「そうそう」
「じゃあさ、職業と行為の、どっちを夢にするべきなの?」
「……いやどっちも何も、自分で決めた夢なら何でもいいんだよ。やりたいことがあるならそれが夢だし、理由がなんであれなりたい職業があるならそれが夢だ。夢に優劣をつける意味はねぇさ。自分の夢と他人の夢との間なら特にね」
「なんで?」
「自分と他人。価値観が全然違うからさ」
「……んじゃその自分で決めた夢が、人の迷惑になるかもしれなかったら?」
「う〜ん、あんまり良くはないだろうけど……。やりたいってんならそれが夢でもいいんじゃね?どんな偉人だって有名人だって、その多くは夢を実現するのに他の人に助けられて、たくさんの人を蹴り落としてるんだからさ。まぁ、人殺ししたいとかはマズイだろうけどねっ」

私は、はーなるほど、と感心してしまう。
冬木くんって結構色々考えてるんだなぁ。
こうもポンポン話してくれるとは……。
……無気力な私とは大違いね……。
そんな冬木くんは、少し熱くなっちゃったな、俺様理論だから正しくないかもよ、と鼻をかいて照れていた。
それを見て私は微笑ましくなる。
大丈夫だよ、冬木くんの言ってること、私は間違って無いと思うから。

「まぁ、そ・れ・で、鬼怒川はなんかやりたいこと無いのか?」
「え?……やりたい、こと?」
「そう」
「………」
「無いの?」
「……いやそれがあるんならこんな悩まないと思うけど?」
「……あー、それもそうか」

私は躊躇いがちに尋ねてみる。

「『矢神湯』を継ぐっていう夢じゃ……ダメかな?」
「えぇ〜、それって夢って言うの?」
「……だよ、ね」
「夢って言うからには何らかのハードルが無いとねー。現在の自分の否定性というかその実現が困難だ、みたいな」
「………」
「だって鬼怒川が多分何もしなくても継げるんだろ?よく知らないけどさ」
「……うん」
「なら人は、それを夢とは呼ばないなぁ」

冬木くんは馬鹿にする訳じゃなく、ただ優しく笑ってくれた。
しかし私は悲しくなる。
少しだけ、下を向く。
他の人が夢に向かって突き進んでる中、一人私だけ夢が無くて、漫然と『矢神湯』を継いでいる。
これが無気力でなくてなんなのだろう。
こんなのただの惰性だ。
緩やかな、廃退だ。
そう考え、沈んでいく私。
その時、冬木くんが再び口を開いた。

「でも夢っていうのがいつも素晴らしい訳じゃないぜ」
「………?」
「さっきも言ったろ?自分と他人の価値観を比べるなって」

冬木くんは何が言いたいんだろう。
夢を見てない私が悪いんだ……。
軽薄な慰めなんかいらないのに……。

「俺は『矢神湯』を継ぐのも悪くねーと思うけどな」
「………」
「そういうのなんて言うか知ってるか?」

冬木くんが私に顔を近づけた。



「伝統って、言うんだぜ」



はっとする。
伝統……。tradition……。
過去から今に受け継がれる、在り方。

「まー、まだ鬼怒川は高校生なんだから。焦って夢とか見つけなくてもまだ大丈夫だろ。今は分岐点ではあるけど、何かに手遅れって訳ではねぇし。多分ね」

冬木くんはパソコンの横にあった一眼レフカメラを手に取った。呆然とする私を気遣うように、一人話を続ける。

「もし夢を探す手掛りが欲しいなら、昔の文集とかを見てみるのもいいかもなぁ。笑っちゃうくらい途方もないことを書いてたりするけどさ」

う〜んあとは、とだけ言って停止。
カメラを机に戻し、ぎこちなく私の方を向いて、

「鬼怒川が必ず秘密にするってんなら……」

いやでもやっぱやめた方がいいかなぁ、と冬木くんは悩み込む。
復調した私は、興味が湧いたので突っ込んでみる。

「なんのこと?」

顎に手をやり悩んでいた冬木くんは、重い口をようやく開いた。

「まぁいっか。鬼怒川なら口が堅いだろうし、なにより夢について悩んでるから笑わない、いや笑えないだろ」

いいか誰にも言うなよ俺が話したとも言うなよ、とやたらもったいをつける。
なんなのだろう?

「明日、昼休みになったら、すぐに屋上に上がって給水塔の裏に隠れてな」
「なにそれ?……そしたらどうなるの?」
「ふふっ、その時になりゃわかるわかる」
「????」

困惑する私に冬木くんは含み笑いをして、ちらりとパソコンの時計を見た。

「おっともうこんな時間だ。鬼怒川もう帰る?俺は帰るぜ」
「あ、うん帰るよ。でも話してると時間ってあっというまに過ぎるね」
「まーな」

二人は帰りの準備をして廊下に出る。
冬木くんには……お礼言わなきゃな……。
並んで歩きながら、

「今日はなんかありがとね。突然押し掛けて……」
「……ああ平気平気。どうせ暇だったし」
「ホント、ありがとね。冬木くんと話して随分スッキリしたよ。家に帰って、もう一回色々考えてみる」
「うん、それがいいや。俺の考えはどこまで行っても俺の考えだからね。やっぱ自分で決めるのが一番いい」
「でも冬木くんって深い考えしてるよね。普段からそういうの考えてるの?」
「うん?……ふふふ、今みたいに堂々と女の子の写真を撮れるようになるまでは、そりゃあ俺も色々考えましたよ」
「へ〜、見掛けによらず苦労してんだ」
「あっ、なにげひでー発言」

小さく笑い合う。
下駄箱に着いて靴を履き替える。
なんとなく二人は校門まで一緒に歩く。

「じゃあ今日はありがとうございましたホント」
「おいおい何回言う気だよ。俺と鬼怒川の仲じゃないかぁ、とは言えめっちゃ付き合い短いけどな」
「ふふっ」
「……じゃあな鬼怒川。明日、忘れんなよ」
「忘れないよ。じゃ、また明日」

二人はそこで別れた。
















帰る途中、歩きながら、色々考えた。冬木くんの話を聞いて、少し興奮していたかもしれないが。
よくよく考えれば、やりたいこととか夢とかはまだまだボンヤリとしているが、やっぱり私は『矢神湯』を継ぎたい。
私が、継ぎたいのだ。
自信を持ってそう言える。
毎朝の掃除、居慣れた番台、気のいい常連さん。
ここが私の居場所。
これは将来の夢でこそないが、目標目的と呼べる私の夢だ。
そう思えた。
だけど。
冬木くんにも言われた通り、今はまだ色々と考えてみる時期なのだろう。
私はまだ悩んでみたいとも思う。
今これと決めてしまうと、そこで自分が終わってしまう気がした。
夢とは、限界ではない。
夢とは、希望なのだ。
他の夢、他のやりたいことも……模索してみようかな……。
あと、そんなこんなを考えながら歩いていたら……。
なんか疲れた。

「……ただいま」

私が精神的疲労感をにじませて帰宅すると、リビングから母さんの声が聞こえてきた。

「おかえりー。随分遅かったねぇ。今日は部活無いんじゃなかった?」
「……ん〜、まぁ色々あって」

私は曖昧に返事をしておく。
本当のことを言う必要もなかろう。私が男の子の所で喋っていたなどと知ったら、喜々としてからかうに違いない。
靴を脱ぎ、洗面台に向かおうとすると、リビングのドアが開き、そこからピョコンと小さな顔が出た。
小じわの目立ってきた可愛らしいその顔は、うちの母さんだ。
身長は低い。私にもそれは遺伝されている。髪は短い。これも私と同じ。動きが素早く落ち着きがない。これは……反面教師かな。
母さんは人の二倍も三倍もよく動き、よく働く女性だ。
ただしよく眠る。夜は赤ちゃん並によく寝て、昼間だって暇さえあれば寝る。これでいてするべきことをキチンとこなしているのだから凄まじい。
どうやってその静と動の切り換えをしているのか、常々疑問に思っている。
そしてよく食べる。そしてよく出す。何をとは言わないが。
こんな新陳代謝の激しい生活を送っていれば、四十を過ぎた今でも快活なのは頷けるだろう。
あともう一つ付け加えるとするなら、私にとって非常に有り難くないことなのだが。
勘が異様に鋭いのだ。
首だけ出した母さんはニヤリと笑い、

「土曜の彼に会ってたのかい?」
「………」

私はびっくりしてその顔を凝視する。
ただ表向きは冷静に。ここで顔色を変えるようなヘマはしない。
ちなみに土曜の彼とは今家族の中で使われている冬木くんの通称だ。私がどうしても本名を教えなかったからなのだが。
最近化粧をしなくなったらしい顔を喜色に染め、

「うちの綾乃にもようやく春が来たのかねぇ、ぬふふふ」
「……んなわけないでしょ。馬鹿言わないでよ」

私としては無反応を貫いているつもりなのだが、母さんは私を妖しげな横目で見ながら心得顔で含み笑いを洩らす。
まったく……。忌々しい……。なんでバレるのかしら?また夕飯のネタにされるの?
私は無理矢理話題を変えてみる。

「そういえば母さん、私の昔の卒業文集みたいの知らない?小学生の時のか、中学生の時の」
「えっ?」

意外にも母さんは動揺して、

「なんで……そんなの今になって探すんだい?」
「なんでって……。なんとなくよ、なんとなく」

まさか夢を見つけるの参考にしたいとは言えない。
母さんはぎこちなく考え込んで、

「私は知らんなぁ……。あるとしたら綾乃の押し入れの中じゃないの?」
「……そう」

私は急いで母さんの顔の前を通りすぎる。
また話題転換されてはたまったものではないのでね。
すると、後ろから声が追い掛けて来た。

「……精一杯頑張りな」

ムッ、と振り返ると、母さんはもうリビングに引っ込んでいた。













「ん……。ん?」

さんざからかわれた夕飯後、私は押し入れの中をあさっていた。
普段もちろん片付けてないので中はぐちゃぐちゃ。奥にもなると腕を肩まで突っ込んで、指先の感覚だけで探るという体たらくだった。

「んんん〜……」

年代に寄って層になっているため、十年くらい前となると相当奥だろう、と考えながら腕を突っ込み探る。
う〜ん……。
これか!!
引き出してみると、

「うわはっ、なんだこれ?……………中学校理科二分野上。違うじゃない」

まだ中学の層かよ……。整理しとけば良かったな〜……。
まさか卒業文集を探すとはね……。
私は思い切って前面に体積する比較的新しい層をかき出して、頭を突っ込んで探る。
お!なんかあった!
えいや!
出てきたのは、

「懐かしー!!くまちゃんじゃん!!」

昔大事にしていた、くまちゃんと呼んでいた、熊のヌイグルミだった。色はこげ茶で、目はボタン。背中にはチャックがついていた。
懐かしさがこみあげる。
どこか、新鮮な幸せがあった。
ついている綿埃を叩き落とす。吸い込んで咳き込んでしまった。

「ゴホッ、あ〜ホント懐かしいなぁ……。……あれ?いつ押し入れなんかにしまったんだっけ?」

すっごい大事にしてて……あれ?
よく思い出せない……。ただ大事にしてたことだけはわかるのに……。しまうはずないのに……。

「んん……まぁいっか。せっかく見つけたんだし。飾っとこっと。あぁ、やっぱり昔の物って、なんか良いわ」

私は上機嫌に鼻を鳴らし、机の上にくまちゃんを飾る。
無味乾燥な実用重視の勉強机に、和めるアクセントがつく。
少し首の傾いたその姿は愛らしく、見ているだけで……。
うん?
なんか……胸が苦しくなるよ……?
不思議な感覚に、私は何故か唇を噛み締めた。
結局、卒業文集は見付からなかった。













それは朝だった。
私は両肘をついて、体を揺らしながら待っていた。
番台はまだ私には広い。足をパタパタさせる。
今日学校は休み。
親に頼んで、朝の仕事につかせて貰ったのだ。
ガラリと戸が開いた。
来た!と私は飛び上がる。
入って来たのは黒ジャージ姿の、メガネのおじちゃんだった。
椅子の上に立ち上がり、挨拶をする。

『おはよう、綾乃ちゃん。今日も元気だね』

そう言って微笑み、中に入る。ほのかに汗をかいていた。
大きく息をはきながら、脱衣所でジャージを脱ごうとする。
すると困った表情でこちらを見て、

『綾乃ちゃん……あんまり見つめないで。服が脱げないよ』

私は慌ててそっぽを向いた。






ねぇ、おじちゃん。毎朝何してるの?

私はまだバスタオルで体を拭いているメガネのおじちゃんに、興味深々で聞いてみた。

『僕は仕事柄体力が必要だからね。毎朝走ってるんだよ』

へ〜、と私は感心する。
確かによく見れば、体は引き締まっていて、余分なものがなかった。
ふとあることを思い付く。
むふふ、と笑いながら走っているコースを聞き出した。
翌朝。
早起きして運動着に着替えた。
毎朝早くから湯舟の掃除をするばあちゃんより早く起床して、驚かれる。
どうしたんだい、と聞かれたが、私は、

秘密!!

と言って朝の寒空の下に走って行った。
少し走った所にある公園。

『あれ?!綾乃ちゃん?』

期待通りの反応をしてくれたおじちゃんに満面の笑みを浮かべる。

私も今日から走るの!!

おじちゃんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頬を緩めて、

『そうなんだ。じゃあ一緒に走ろうか』

ゆっくり走ってくれるおじちゃんと一緒に、その公園を三周した。


  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.5 )
日時: 2007/02/24 15:31
名前: 無遠人形

これは非日常だった。
非日常。
日常には非ざること。
まぁそうやって仰仰しく言った所で、実際はそんな大層なことではない。非日常が長く続けばそれが日常になってしまうものなのだが。
そうは言っても、昼休み一人で屋上に上がることは、私、鬼怒川綾乃に非日常的な興奮、高揚……ワクワク感を与えてくれていた。
ほとんど毎日一緒にお昼を食べていた円に、ごめん今日は用事があるんだと言う時も何故か顔がニヤけた。いつもと違うことをすることが、楽しかった。円もあんまり追及してこなくて助かった。用事の内容を聞かれても私が説明出来ないからね。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に私は弁当をひっつかみ、そしてまだ誰もいない廊下をダッシュ。……ダッシュしている理由は、屋上に上がるのを誰にも見られたく無いからである。変な噂は勘弁だ。
階段を駆け上がりながら冬木くんの台詞を思い出す。
『明日、昼休みになったら、すぐに屋上に上がって給水塔の裏に隠れてな』
はて?どういうことなんだろ……。
昨日の夜ずっと考えていたのだが、その台詞の意味は一つしか思い浮かばなかった。
昼休みに屋上といえば、あの二人しか出てこない。
でも……どうなんだろ?
思い浮かんだその意味は、結局意味がわからない。それがどうして夢に繋がるのかがわからない。わからないけど、それしか思い浮かばなかった。
そして私は今、屋上にいる。

「……寒っ」

私は思わず体を縮ませた。
もう冬も近い。
こんな時期に寒風吹き荒ぶ屋上に来る人など、本当にいるのだろうか?……私を除いて。
だがせっかく来たのだ、早速入り口横の壁に備え付けられたボロいハシゴに手をかけて、校舎で一番高い屋上よりも高い所に上り、そこにある給水塔を感慨深げに見つめた。
フツーこんなとこ、誰も来たことないわよね……。
長年雨風に晒されてきた場所だ。とにかく汚くボロかった。靴で足元の砂ボコりを払うが、一向にキレイにならない。
とても座れそうにはなかった。

「は〜あ……まったく冬木くんはなんでこんな場所を……」

ブツブツ文句を言うが、仕方がない、給水塔に寄りかかり、立って弁当を食べることにした。
あとは冬木くんの言葉を信じ、寒さに耐えて待つだけだ。

何分が経っただろうか。
私が口にしめじを運んでいると、

「んむ?」

静かにドアの開く音がした。
慌ててしめじを飲み込み、しゃがみ、とっさに身を隠す。弁当を持っているので手はつけないが、はいつくばるような低い姿勢を維持し、そーっと下を覗いた。
そこには一人の女の子がやって来ていた。
いやもう一人前の女性だと言ってもいい風情を湛えている。
その落ち着いた表情からは僅ながらも喜色が見えるのが気になるが。
うは、やっぱり……。
私はゴクリと息を飲む。
想像が当たったこともそうだが、同じクラスにいる姉からは考えつかないほどの知的な鋭さが私を緊張させる。
塚本八雲。
彼女は私が上から見守る中、辺りを見回して誰かを探しているようだった。
そりゃもち……播磨くんだよね。
私はサングラスをかけたクラスメイトを思い起した。二人の噂は、あまり関心の無い私の耳にもしっかり入ってきている。それだけ有名な組み合わせだった。
寒さによってかき消されていた興奮が舞い戻り、口元が緩む。
ふうむ、はてさて、これが冬木くんが私に見せたかったものなのかね?
……でももしそうならば……何故?
そう首をひねりながら、気取られないよう気配を殺して様子を窺う。
幾度も首を巡らした八雲ちゃんは、目当ての人がいないとわかったのだろうか、入ってきた位置で立ち尽くす。
首がカクリと垂れ、前髪が顔を隠した。
その後は。
風が吹いても。
立ったまま。
待つという行為以外。
なにもしなかった。

「………」

そのうら寂しげな様子に、冷静さを自負する私の心にすら憤然と怒りが湧く。
女の子をこんな寒い中待たせるなんて!播磨くんって……最低。
そう思わせるほどに、立ち尽くす姿は痛々しかった。

「………」

そんな様子を見ていると、ふと私の心に罪悪感が芽生える。
……これって盗み聞きとかして……いいのかしらね。
他の人の色恋沙汰を観察する。
そういえば全く考えの外だった。冬木くんに言われるままにやって来たけど、実はこれかなりやっちゃいけないことじゃないのかな?
………。
ま、いっか。
このままでは私が悪人、圧倒的に悪になってしまうが、仕方ない。あえて享受しよう。今の私は、ちょっとだけ非日常を求めていた。

八雲ちゃんがやって来てから数分後、播磨くんへの反感が限界を超えそうになった時、私の下から階段を上る気配があり、猛然とドアが開く音が聞こえた。
八雲ちゃんが振り向いた。

「播磨さん……」

ようやく来たか。
彼女の表情に精彩が宿る。先程までの寂しさは完全に吹き飛んでいた。微少ではあるが、それは明らかに喜びだった。
八雲ちゃん、やっぱり……。
しかし、播磨くんも罪な男ね。
私は先週の沢近さん昼休み強奪事件を思い出してしまう。いったい播磨くんは何を考えているのだろうか?
まぁどうでもいいけど。
……さて冬木くん、それで?私は何を聞いているべき?
疑問は疑問のまま解決せず、八雲ちゃんがこっちを向いていて危ないので、私は気づかれないようにしゃがんだまま給水塔の裏に移動を開始する。
しかしその移動は、荒く息をしていた播磨くんの驚愕の台詞によりなかばで中断された。


「い、妹さん……。すまねぇ今すぐに、その弁当を、弁当を食べさせてくれぇぇぇーーーー!!!!」

















そして放課後。
写真部にて。

「で、結局どういう意味だったの!!」

私は不機嫌に机を叩き脅しをかける。意味如何によっては許さない。

「どういう意味だったの!って言われても……」

冬木くんは私の勢いに抗するように話を反らす。

「そういえば鬼怒川今日部活はどうしたんだ?」
「はぁ?いいの!休み届けは出してきたわ。昼休みのことが気になって部活どころじゃないもの!」
「不真面目だなぁ。陸上は何日か走らないとタイム落ちるって聞いたけど……」
「だ・か・ら、いいのよ!大丈夫!もともと体格も才能も無かったからそんなに速くないし!」
「………」

はっ!話が反れてる。
私は再びキッと冬木くんを睨む。
冬木くんはよくわからない表情で肩をすくめて、

「昼休み屋上には行ったんだろ?ちゃんと誰か来たか?」
「来たわよ、ちゃんと。播磨くんと八雲ちゃんが!!」

冬木くんがうんうんと頷く。やはり想像通りこの二人で正解だったようだ。
私は不機嫌に続ける。

「それで播磨くんがいきなり弁当をくれって言ったら、八雲ちゃんは嫌がる様子も見せず食べさせてあげて、しかも仲良く半分ずつ食べて、それで……ああもう……」
「……まーそれはそれは」

冬木くんはたいした同情も見せず、

「んで弁当の他には……なんか話してなかったか?」
「ああん?」

眉をひそめ、私はあの時の会話を思い出し、そして顔が赤くなるのを自覚する。

「き、き、聞いてられるわけないじゃない!あんな青臭い会話!」

そうなのだ。
私はあの場に居たものの、罪悪感からとかでは全くなく、別の理由で耳を塞いでしまっていた。

「青臭い?」
「そうよ。あんな甘い会話……。聞いていられないわ……」

全身がむずがゆくなる。寒気というか怖気というか。
二人の世界。そういった独特の雰囲気に慣れていない、免疫のない私にとってそれは聞いているだけで拷問だった。乙女心に大打撃。
ええそうですとも。耳を塞ぎながら内心ではキャーキャー騒いでいましたとも、ええ。
そんな私に冬木くんは呆れて、

「……駄目じゃん。ちゃんと話聞いとけよー」
「うっさい!だって播磨くんはずっと八雲ちゃんの料理を褒めてばかりだし。播磨くんが来たの遅かったからホント弁当食べてただけだったし」
「……はーそうか、仕方ない、よな」

昼休み教室であんなことがあるとは計算外だったからなぁやっぱ高野みたいにはいかないか失敗したなぁ、と落ち着き払ってぶつぶつと何事かを呟いていた。

「何言ってんの?ねぇそれで屋上に上がるのは結局どういう意味だったの?」

腕を組んで目を瞑る冬木くんに詰め寄り、両肩を掴んでガクガクと揺らす。

「将来の夢とかに絡む話だったんでしょ?ねぇねぇ。なんだったのよ。話しなさい」
「むむ……」

冬木くんはしばらく考えた後、首を横に振った。
申し訳なさそうな表情で、

「やっぱ、ダメだ」
「……はぁ?」
「悪いなぁ、やっぱこれ俺の口からは言えないや。鬼怒川が直接聞いたなら良かったんだけど……。俺から言うとまた違くなっちまうから」
「………」

私は唖然として、

「なによそれ!!じゃあ結局何なのか教えてくれないってこと?!」
「まぁ……そういうことになる」

それじゃあ何……私は二人のラブラブ会話を盗み聞きしただけって訳?!
そんなの……そんなの……。

「ふ・ざ・け・ん・なぁ!!」

さっきよりも多分に力を込めて冬木くんをガクガクと揺らす。期待だけ持たせて、後始末は無しかいっ!
痛い痛いムチウチになるよと言いながら、その顔は笑っていた。

「ほら、知りたいことがあるなら、人に頼らず自分の足と耳で調べるんだね。警察も探偵もジャーナリストだってみんなそうしてるさ」
「……はぁ?これは冬木くんから言ってきたんでしょ!情報提供者は最後まで責任を持ちなさい!放置すんな、無責任!!」
「悪いな、こればっかりは許してくれ。俺も人のことを軽々しくしかも不完全に話したくはないんでね」

冬木くんは私の手を掴んで立ち上がる。
はぐらかされた。
私は振り払い、警戒しながらうなる。

「どこ行くのよ……」
「残念、今日は用事があるのさ」
「用事?」
「そ。だから鬼怒川、今からでも部活出なって。まだ間に合うだろ?」
「………」

黙って睨みつける私に、冬木くんは肩をすくめて写真部を出ていった。
私は出ていった扉をじっと見つめる。
密かに唇を尖らせた。

確かに理屈はわかる。
本人達からではなく伝聞で聞いたなら、聞いた通りそういうものとしか受け取れない。それは伝聞した人の主観の影響を受けてしまうのだ。
夢とかそういうものなら特に、本人の熱意も直接感じないと意味がない。他人が持つ熱意を感じて初めて、自分のことを見つめなおすことが出来るのだ。
冬木くんの言いたいことはこういうことなのだろう。なるほど確かに、冬木くんが私に話したのでは無意味で不完全だ。
そう、理屈はわかる。

ただ、なんか……。
不思議と裏切られた気分がした。















私は苛立ちながら廊下を歩いていた。
冬木くんめ……。自分で調べるなんて出来るわけないじゃない……。
今更部活に出る気も起きないし、適当な時間まで本屋かどこかに居よっかな……。
そんなことを考えていると、目の前の廊下を2Cの男子達が大量に横切った。
皆一様に難しい顔をしてわいのわいの騒いでいる。どこかに移動しているようだ。
なんだと思う暇もなく、その一群の最後尾に気楽そうな冬木くんの姿を発見し、私は慌てて柱に隠れる。
私はそーっと顔を覗かせ、一群が通り過ぎるのを見守った。
冬木くんが言ってた用事って……このことなのかな?
という訳で私は尾行を開始した。
暇だったからというのが大きかったが、冬木くんの弱味を握り、意地悪をしたかったというのもあったかもしれない。
するとその一群はゾロゾロと視聴覚室に入って行く。
最後の一人、冬木くんが入室したことを確認すると、私は忍び足でそのドアに近付いた。
そのドアに耳をつける。誰かがボソボソと話してのが聞こえた。
聞こえないわ、もっとちゃんと話なさいよ……。
私は体を押し付けて、
力を入れた、
そのタイミング、
いきなり、
ドアが開いた。

「きゃ」

私は当然転んでしまい。

「あ」

ドアを開けたらしい奈良くん、

「あ」

中で円形に座る男子達、

「……あ〜あ」

溜め息をつく冬木くんの姿が、
見えた。
  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.6 )
日時: 2007/03/05 23:17
名前: 無遠人形

「あ」

暗い視聴覚室を沈黙が支配する。
私は少しだけ口を開いてしまう。
奈良くんはそんな私を横目で見ながら、慌てて外へと出ていった。

「………」

みんなこっちを見たまま固まっていた。

「………」

私も転んだ姿勢のまま固まってしまって動けない。
……やばい、ど、どーしよ……。
冷や汗だけが流れる。
ってか今日の私は盗み聞きが多すぎないか?これはそれの罰?
混乱している私に事態を収集する能力は全く無かった。
助かることに、硬直の中でいち早く動いたのは冬木くんだった。ゆっくりと落ち着いた動作で、私に歩み寄る。
男子達に向け妙にニコヤかに、

「……あ、ああ、えっとみんな紹介するのが遅れたね。俺が招待した今日の会議の特別ゲスト、鬼怒川綾乃さんだ」

冬木くんが私の手を取り立たせてくれる。
ただ困惑する私の耳元に、合わせろ、と小声で呟いた。
私は頷く。
ナイスフォロー冬木くん!
私は胸の内で喜びの声を上げ、疑念というより唖然の表情を浮かべる男子達に、ペコリとお辞儀をした。
パチ、パチ、パチ……?
まばらに拍手が起こる。
足りないと感じたのか冬木くんが追加フォローを、

「ちなみに今日の昼休み、鬼怒川さんは俺のために特別派遣委員として屋上を偵察してきてくれたんだ。まーその報告はのちほど、ね」

おぉぉぉぉぉぉぉ〜〜
歓声も起きた。拍手も一段と激しくなる。
一部の男子にとって、昼休みの屋上とは一種の禁忌となっているらしい。
すげーすげーと口々に言い、尊敬の眼差しで私を見てきやがる。いやその目はやめろやめんかボケ。
私は顔には出さず、内心でほっとする。
はぁ……ホント単純な連中でよかったよ……。なんとか誤魔化せたみたい。
……でも。
私は複雑な気持ちで首をひねった。なんとも妙な話の流れになったものだ。いや盗み聞きをしようとした私が悪いんだけれど……。
チラリと冬木くんを見る。私が見たことに気がついたのか、冬木くんは屈託のない笑顔でこちらを見た。
……はっ!
私の中に一つの疑惑が芽生える。
……ま、まさかコイツ……。
ははっ、もう苦笑いをするしかないね。
そんな冬木くんが西本くんにアイコンタクトを送る。
西本くんは心得て鷹揚に頷き、

「ではみんな、静まるダス」

西本くんの言葉に騒いでいた男子が一斉に口を閉じ静かになる。……あらまぁびっくり。舞ちゃんがいくら言っても聞かない連中が一瞬で、だ。しかもみんなの顔が真剣だったことが更に私を驚かせた。
私は円陣の一部に戻った冬木くんの後方に椅子を持って来てバッグを抱え座る。
これから何をするんだろ……ってわかるけどさ。
私もおとなしくみんなと同様西本くんに注目する。
円陣の中央に明かりを一つだけつけた薄暗闇の中、リーダーたる西本くんは落ち着き払って宣言した。

「これより、緊急西本会議を始めるダス」

トイレに行ったらしい奈良くんは、まだ帰って来ていなかった。










囲んで座っているのは二十人程だろうか。改めて見ると、やはり多い。2Cの男子で参加していない人は麻生くん播磨くん花井くん程度のものだ。驚くことに別のクラスの男子も数人いるようだ。
にしてもみんな暇よね。この情熱を他のことに使ったらいいのに。
みんながみんな、その間違った情熱を満面に表し、炎の宿る双眸はヤケにギラついて見えた。私の前に座る冬木くんだけはなんだか気楽な様子だったが。
口火を切ったのはやはり西本くん。

「飛び入り参加者もいるからおさらいするダスが、本日の議題は我らが2Cのツンデレお嬢様、沢近愛理さんのことダス」

沢近愛理。
その名が出た途端、議場に緊張が走る。

「学校一の美少女とも呼ばれ、その美麗なお姿は我らに安息と感銘をもたらしていたダス。我が西本会議では日々鍛練を重ねた追跡術により、半径10メートル以内に入った他クラスの男子を全てチェックし……」

そんなことしてたのかよ。
嘆息をする私を気にせず、西本くんはつらつらと今までしてきた活動報告をする。なんとこの人達、自分の手の届く範囲だけに限るが、沢近さんを守るために色々やっていたらしい。
沢近さんに声をかけた男子には帰り道に黒猫を横切らせたり、沢近さんに触れた男子には下駄箱の中に消臭剤を入れたりなど、とにかく意味がよくわからない。
しかし西本くんがそういった例を出す度に西本会議のメンバーは盛り上がり笑い合っていた。
私は溜め息をつく。
馬鹿だ、みんな馬鹿だ。
ああそういえば、アホな手紙を頭にぶつけられたこともあったっけ……。
一応私は前に座るニコニコしている冬木くんの背中をつつき、そっと尋ねてみる。

「冬木くんも……こんなことしてたの?」
「ん?いや……そんなに無いかな。沢近さんの悪口を言ってた人の恥ずかし写真を流出させたことは何度かあるけど」
「……なんでそんなことを?……それは沢近さんのために?」
「っつうかそんな大層なもんじゃないって。前の沢近の笑顔は作り物の笑顔。それは俺の被写体としてふさわしくない。だから自然に笑えるようにしたかっただけさ」

……ふうん。
冬木くんは照れ気味で肩をすくめ、じっと見つめる私から目を反らす。
吉田山くんが片足を椅子に上げて武勇伝を語り、今鳥くんは手で胸を形作りおそらく全然関係無い話で盛り上がっていると、再び西本くんが口を開く。すると即座に静かになる。う〜ん、流石だ。

「我々がそうやって陰ながら見守っていた沢近さんであるダスが、最近になって彼女の様子に変化がみられるようになったダス。近寄りがたいお嬢様からの明らかな変化、まさに恋する少女になっているダス。今日の昼休みに起こったあの事件はすでに周知の事実ダスな。そしてその相手は……」
「ちくしょう播磨だあのクソヤローーっっっ!!!」

吉田山くんが低い身長をフォローするためなのか椅子の上に立ち上がり力強く叫んだ。他のメンバーも苦い顔でこそこそと囁き合う。
私もそれは知ってたけど……今日の昼休みの事件については知らないや。
吉田山くんはなおも激昂し続けていた。誰も相手にしてないのに。

「なんだくそったれふざけんじゃねえ播磨め沢近さんを独り占めしやがって」
「落ち着くダス吉田山伍長」
「はっ、これが落ち着けるか!!今すぐ手をうたねぇと……」
「キミは今日緊急西本会議を開いた理由を忘れたダスか。そのことを話し合うためダス」
「……ちっ!!」

吉田山くんは不遜な態度で舌打ちし席に戻る。

「そう、知っての通りその相手は播磨拳児ダス。魔王とも呼ばれた彼ダスが、どうしてか沢近さんは彼を好きになってしまったようダス。もうそれはほとんど間違いない事実ダス」

うわ〜、ずいぶんはっきり言うね西本くん。吉田山くんやその他の男子は拳で膝を殴りくやしがってるのに。
西本くんが冬木くんに合図を送る。
冬木くんは用意していたらしいペラペラの紙をみんなに配る。

「これが最新の極秘資料だよ〜。土曜に俺が決死の取材を敢行して、いやもー大変だった」

その資料を見た途端、空気が氷つき、そしてメンバー達は発狂したように暴れ出した。プリントを引き裂く者や壁に頭を打ち付ける者、脱力したように床に崩れ落ちる者など多数。
うぎゃーとかみぎゃーとかあんたらうるさすぎ。うわー、マジ泣きしてる人もいるよ。落ち着いている人は……西本くん冬木くん今鳥くん……あれ?斉藤くんも?
私はピラリと資料を見る。
……ま、二人がデートしたとなれば当たり前か。へ〜、新矢神ランドねぇ。結構進展してたんだあの二人。……意外だわ。……ってかこの日って冬木くんが怪我して来た日よね?
悶え苦しみ吉田山くんが叫ぶ。

「ヤツを抹殺すべきだ!!ぜってぇ許さねぇ!!俺の沢近さんを奪いやがってぇぇぇーー!!!」
「落ち着くダス吉田山伍長。まだ全ての報告が終わっていないダスよ」

西本くんが私を見てきた。
って、え?私?

「播磨くんは今日の事件後の昼休み、屋上に行ったダスな?鬼怒川さん」
「う、うん」

狂乱していた人達がそろって私を見る。その目は異様に真剣だった。
西本くんが更に追及してくる。

「では播磨くんはそこで誰と、何をしていたダスか?」

急に圧迫感が増す。みんなの目が迫ってくるようだ。
私は戸惑い、冬木くんにアイコンタクトを送る。
わ、私が言わなきゃいけないの?
頷く冬木くんから返事が返ってきた。
大丈夫、ありのままを言えばいいんだよ。飾らない事実をね。
……まぁそういうことなら仕方ないか。盗み聞きを報告するのは気が引けるけど、事実なら誰かが困るってこともないだろう。

「えっと……最初に屋上に八雲ちゃんが」
「「「「「「八雲ちゃんが?!?!」」」」」」
「やって来てて、そしたら播磨くんが駆け上がって来て」
「「「「「「来て?!?!」」」」」」
「んで二人で一つの弁当を仲良く食べてた」
「「「「「「なぁぁぁぁにぃぃぃぃぃぃーーー!!!!!!」」」」」」

崩れ倒れ叫び唸り苦しみ悶え、会議参加者のほとんどは致命傷の傷をうけたようだ。半数は椅子にもたれかかるように脱力しながら奇声を出し口を開閉させ、中には床に突っ伏して微動だにしない人もいる。想像できたことだったろうに。
なによ、私は本当のことを言っただけなんだからね。
そんな中、西本くんは極めて冷静に話を進める。

「報告の通り播磨くんは沢近さんだけではなく八雲さんまでも籠絡しているダス。このままでは両者の激突は必至、悪くすれば両者とも播磨くんのものになってしまう可能性すらあるダス」

一瞬にして復活した馬鹿共から、ざけんじゃねーと罵声が飛び交う。
西本くんは今度はそれを止めようともせず、

「そこで我が西本会議として、今後どう行動するべきかを話し合うダス。なにか意見のある人はいるダスか?」

普段のホームルームからは考えられない勢いで、みんなの手が一斉に挙がった。













話し合いは長いので、先に結論だけ発表しよう。
その内容は、

『個人による積極的でなく気付かれない程度の嫌がらせなら、アリ』

である。
つまり一人で考え行動し、しかも状況に応じたちょっとした嫌がらせのみを許すということだ。
今一つ善にも悪にもなりきれていない中途半端な結論だが、ここまで至るのは大変険しい道のりだった。
会議の始めで、醜い男の嫉妬を全開にした吉田山くんが播磨くん抹殺計画を立案し、学園の美少女を独り占めは許さないという男子多数がそれに次々と賛同していった。
その狂乱ぶりに見かねた私が、そんな他人の色恋の話なんだから放置してあげなよと意見すると、西本くんが冴えない男子を代表して綺麗な女子の純潔を守る義務を提示し、その女子が誰とも付き合っていないために起こる、もしかしたら自分がという希望も捨てがたいと宣言。
みんなそれに同意を示した。やはり男の子というものは馬鹿だと確信する。
男子対女子の構図に人数で不利な私が圧倒されていると、冬木くんが助け舟を出してくれた。
抹殺による弊害と、その思考基盤の自己中心性を冷静に指摘。俺は最高の写真を撮れればいいからと私と同様に放置を申告。なんでも喜怒哀楽の変化が激しいほどに素晴らしい写真が撮れるらしい。
この放置案にはDしか興味がないとやる気が無かった今鳥くんや何故か気合いの入っている斉藤くんまで賛成してくれた。
しかし吉田山くん一派はなおも徹底交戦を撤回せず、それでも播磨は許せねぇなんであいつだけが、と人間の小さい言葉を連呼していた。
その他の場所でも白熱した議論が展開されていて、このままでは収拾がつかないと判断したのか、西本くんが抹殺派と放置派の落とし所を提案。それこそが先に紹介した結論であるわけである。
私としては決して納得のいく結論ではなかったが、男子達の熱狂ぶりを見ていると、どうせ何もしないことなどできなさそうとも思えてきたし、冬木くんもそれで納得していたので仕方なく同意。
吉田山くんは俺一人でも播磨を抹殺してやると意気揚々と笑っていたが、どうせ無理だろとみんな無視していた。
しかしまぁとりあえず、私が参加してしまった緊急西本会議も、これにて閉会!!いやー疲れた。
そういえば奈良くんは帰って来たものの話に入れずずっと輪の外にいましたとさ。












下校時間を大幅にオーバーしていたので少人数に分かれて帰ることになった。
みんな興奮冷めやらぬのか、俺はこんなことをするあんなことをすると口々に言い合いながら帰宅していく。
私は聞きたいことがあったので、涼しい顔をして帰り仕度をしている冬木くんを狙っていると、

「よ、よう鬼怒川」

それはツンツン頭の斉藤くんだった。

「ん?なんか用?」
「いや用っつうか……さっきのはど、どうしたんだ?いきなり入って来た時には驚いたぜ」
「……なによ。悪かったわね」
「あ、悪いって訳じゃ……」
「用事は?」
「よ、用事……?」
「ないの?んじゃ私忙しいから後でね。あっと、冬木くん、待って!」
「え……ちょまっ……ふ、冬木かよ……」

肩を落とす斉藤くんを置いて、用意を終えて去ろうとする冬木くんに追いすがる。

「ちょっと待ちなさい冬木くん」
「ん?なにか?」
「なにか、じゃないわよ。ちゃんと事情を聞くまで逃がさないからね」
「……?……斉藤はいいの?」
「はぁ?なんで斉藤くん?」
「……いや、なんでもねー」

冬木くんはバッグを肩にかけ手を頭の後ろで組み、のんびりと廊下を歩く。私は溜め息をついて横に並んだ。
冬木くんが口を開く。

「今日は色々とお疲れさん。鬼怒川も青春を生きてるなぁ」
「はぁ?ふざけないで、こんなのが青春だったらこっちから願い下げよ」
「でも青春ってこんな感じだろ?夢に悩んで、恋ばなに花を咲かせて、一時の気の迷いで失敗を繰り返したり」
「………」

マズイ流れだ。このままはぐらかされてしまう可能性がある。
私は冬木くんの話を無視して、睨みつけ詰め寄った。

「そんなことより冬木くん」
「ん?」
「播磨くんの夢って話、あれ嘘だったのね」
「……ほえ?」

播磨くんの夢の話は私を屋上に行かせるための嘘。
今日の出来事を全てひっくるめて考えるとそんな結論が出てしまったのだ。そして私はそれを否定する材料を持っていなかった。

「とぼけないで。もう私わかってるんだから。今日のこれまでの流れ、全部冬木くんの計算ずくだったんでしょ?」
「……なんの話?」
「私に屋上を偵察させるために昨日嘘をついたんでしょ?播磨くんと八雲ちゃんの様子を、それでそれを今日この場で発表させるために、写真部では私に播磨くんの夢について教えないで、もどかしくなった私が冬木くんを追い掛けるように仕向けた」
「ちょっ、ちょっと待て鬼怒川!落ち着けって!」
「なによ。まだ白を切るつもり?」
「いやそんなことするわけないだろ?!誤解だよ誤解!それにそんな偶然だよりなの計算できねぇって!」
「ふん、冬木くんとしてはどっちに転んでも平気だったんじゃない?もし私が屋上に行かなかったら自分で行けばいいだけだし、西本会議が無くても情報だけは手に入るし、放課後もし私がついて来なかったら自分で私に聞いたことを報告すればいいんだから」
「いやいやいやいや待て待て!!」

冬木くんは手を振って全身で否定する。
喋っているうちに腹の立ってきた私は、それをひたすら冷めた目で見ていた。

「俺はだな、鬼怒川が夢について相談してきたからその助けに少しでもなればって薦めたんだよ!!ほんっとにそんなことは考えて無かった!!マジで!!」
「……ふうん、どうだか」
「信じてくれよ〜、お願いっ!俺そんなことしねぇって!!」
「………、なら証拠を見せなさい」

人が初めて夢について相談したというのに、それをこんな使われ方をされては堪ったものではない。
冬木くんに嘘をついていないという証拠の提出を要求するのは、私としては最大の譲歩だった。
いつの間にか立ち止まっていた私達は静かに向かい合う。冬木くんはやや涙目であるが。

「しょ、証拠?」
「そう。冬木くんが嘘をついていないという証拠よ」
「………」
「………どうなのよ」

冬木くんは無言で下を向いてしまう。
私はむくれた表情で睨む。
西本会議のメンバーが数人通りすぎる程の時間が過ぎた。時間的には一分程か。
私は虚しさを感じながら、だがもう待ちきれず、

「そ、全部嘘だったのね。よくわかったわ。ごめんなさい、夢だのなんだの変なこと相談しちゃって」

私は背を向けて、去ろうとする。
もともと夢とかは自分の持ち込んだ話だ。冬木くんがそれを利用して偵察させても私からは文句は無い。私を言いくるめた手腕は評価してやってもいい。
ただ。
冬木くんはそこまでの人だったというだけだ。
しかし私の予想を裏切り、そして秘かに期待していたように、背中から冬木くんの声が聞こえてきた。

「漫画」

あまりに唐突な発言に、驚いて振り返る。

「……え?」
「だーかーら、漫画だよ。播磨の夢さ」
「漫画?」

冬木くんが私の隣に並んで、前を見たまま答えた。

「鬼怒川の誤解を解くのになんの証拠にもならんけどな。播磨は今八雲ちゃんと漫画を書いてるんだよ」
「……ま・ん・が?」
「うん。俺の予定では似合わないことを懸命にやっている播磨を、夢が無いって思い悩んでる鬼怒川に見せて元気づけてやりたかったんだけどさ。まーうまくいかなかったんだよ」
「………」

冬木くんは自虐的な笑みを浮かべる。
そんな彼を私はじっと見つめた。

「……そう、なんだ……」

ポツリと言う。
冬木くんは肩をすくめて前を歩いて行った。私もそれにならい歩きだす。

「……そうならそうって言えばいいのに」
「人の秘密は簡単にはばらさないのが俺の主義さ」
「……どうだか。結局喋ってるじゃんか」
「あ!ひっでぇやつ。鬼怒川が脅しかけてきたんだろ!!」
「私が屋上に行ったらその秘密をばらしてることになるでしょうが」
「だー!かー!らー!それは鬼怒川のためにだなぁ……」

ほんの少しの安堵と共に。
私は冬木くんを疑ったことを恥じていた。
あれだけ真剣に相談にのってくれたんだものね……。
悪いことしちゃったかしら……。
チラリと冬木くんを見る。
疑われるなんて心外だぜと少々不機嫌だった。
しかしそんな表情を見ても、何故か謝る気にはなれなかった。
逆に笑みがもれてくる。
疑われるような行動をした冬木くんも悪いんだからね!

「ねぇねぇ、播磨くんはなんで漫画書いてるの?どんな漫画書いてるの?じゃあやっぱり八雲ちゃんは付き合ってはいないとか?」
「……お前これ以上は流石に言えないってマジで」
「なんでよー。教えてくれたっていいじゃないの」
「駄目ったら駄目!本来なら屋上に行けっていう指示でさえ俺的に大奮発の出血大サービスだったんだから!」
「むー、ケチね」

そんなことを話ながら今日は帰った。











「う〜ん」

私は冬木くんとサバサバと別れ、帰り道の矢神商店街を歩きながら悩んでいた。
携帯の時計表示を見る。
溜め息が出た。

「8時……か」

なんと言い訳すればいいんだ。
今日は部活の日だから遅くはなるけどそれでも6時くらいだしなぁ……。その二時間をどう埋めるかが問題だ。
まぁ……友達と話してたってことにしますかね。
事実は事実だ。西本会議での討論だって会話といえばその通りだろう。
しかし西本会議は疲れた。あれだけ喋ったのは久しぶりな気がする。
それに播磨くんと八雲ちゃん。
播磨くんの夢が漫画を書くこととは……。ホント意外よね。一応彼学校一の不良って設定じゃなかったかしら?
でも播磨くんは頑張ってるのか……。
八雲ちゃんも手伝っているというなら、最近の昼休みに屋上で会う率が高いということは、それだけ熱心にやっている証拠なのだろう。
周囲を見渡すときらびやかなイルミネーションが光っていた。
私は白い息をつく。
確かに、冬木くんの言う通りね。
なんだか元気が出てきたわ。
播磨くんがそんなとんでもないことをやっているっていうのに、頑張れないとは言えないもの。
そんなことを考えながら一人頷いていると、商店街の十字路の少し手前で、角からとある男女が出てくるのが見えた。
それを見て、

「あ!」

私は驚き、

「え?」

そして隠れた。電信柱の陰に。
その二人は談笑しながら通りすぎる。
完全に離れたことを確認してから、私はそっと顔を出した。
そしてそっと呟いた。

「……父さん?」

そう、それは見知らぬ同年代の女性と歩いていた父親だったのだ。








どうも久しぶりの無遠人形です。
更新が遅れてしまい申し訳ない。
次回からは前のような更新速度で行くつもりなので、よろしくお願いします。
話の筋を忘れてる人は読み返してくれるとなお良しです(笑)
  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.7 )
日時: 2007/03/13 13:25
名前: 無遠人形

………。

ある朝、私は無性に苛立っていた。

………。

顔には不満を表し、番台で頬杖をついていた。足は地面につかず、ただブラブラさせていて。
もう今では学校での低レベルなからかいは気にならなくなり、そうするとからかわれることもほとんど無くなった。私の受け流し力が上がったのだろう。一歩、大人になれた気がした。
この苛立ちはそれに対する苛立ちではない。
最近毎日、私は早起きをしてジャージに着替え公園に行き、親に頼み込んで朝は毎日番台に座らせてもらっていた。服も少しだけ気にしたりした。
その通り。
あの人と会う。

それが私の、楽しみだった。

まだ小さかった私が、初めて感じた感情だった。
だがしかし私の期待を裏切るように、ここ一週間ほど、公園に行ってもそこにはいない、番台で待っているのに全然来ない。
あの人が、来ない。
おじちゃんが、来ない。
メガネのおじちゃんが、来ない。
私は苛立っていた。
コツコツコツと。指先で机を叩く。
考えるのは文句ばかり。
今度来たら何と言ってやろうか、今度会ったらどんな態度で接してやろうか、今度顔を合わせたら何を要求してやろうか。
そうやって、寂寥感を誤魔化していた。
寂しさを、まぎらわしていた。
一週間。
長いようで短い時間が過ぎて、その日になり。
銭湯に行く必要が無くなりおじちゃんはもう来ないのではないかという心からの怖れを、必死に振り払いながら、私はその日も待っていた。
その日の朝、開店ののれんを出してからうちのじいちゃんが散歩に行って帰って来るくらいの時間が経ち。
私が番台の定位置で、前述のようにブラブラと苛立っていると。
いきなりだった。
極々自然に扉が開き。
あの人が、来た。
おじちゃんが、来た。
メガネのおじちゃんが、来た。
なんの前兆も無く、待ち人はやって来た。
前と同じ微笑で。変わらないその優しい雰囲気。
私が真ん丸に目を開けて発する声を持たないでいると、コホンと咳払いをし、おじちゃんはすすすっと私に近寄って、囁くように言った。

『ご、ごめんね。……怒ってる?』

私は思い出したように腕を組み、こうしようと考えていた通りの渋面を作る。

……あったりまえじゃない!私、怒ってるんだからね!ふんだ、来れないなら連絡くらいしてくれたっていいじゃない!……バカ!アホ!無神経!

と、さんざ文句を言ってからプイとそっぽを向いた。
しかし、反らした顔は喜びに緩んでしまっていた。私はそれを悟られるのがなんだか恥ずかしくて目を合わせることが出来なかった。もう来ないのではないかという怖れが吹き飛び、嬉しいという感情が頭の中でタップを踏んだ。
表面上は不満たらたらの私に、おじちゃんは困ったような顔で弁解するように、

『ごめん……ホントごめん!ここんとこ忙しさがピークだったんだよ。仲間はみんな終わってるのに館長は僕にだけ何回も念を押しにくるし……。その理由はわかるんだけどさ。……いやごめん、言い訳だね。……許して欲しいな、綾乃ちゃん』

そう言って頭を下げる。
今思えば、毎朝来ていたとはいえ、こんな少女なんかに一々義理立てする必要も無いのに、こんな懸命に謝っていたこの人は相当真面目だったのだろう。
だけど当時の私はそんなことに気づくはずもなく、ただただ不満を示す演技をするだけで、

ダメ!ぜぇーったい許さないもん!!

頑として謝罪を聞き入れようとはしなかった。こっちは一週間ずっと寂しかったのだから。このくらい別にいいじゃない。
おじちゃんはますます困ったような顔をする。私のむくれた様子をしばらく眺め、考え込み、そして思い付いたように手を打った。

『じゃあわかった、こうしよう。一週間分の埋め合わせとして今度の休みの日、どっかに出かけて綾乃ちゃんの好きな物買ってあげるってことで。……これで許してくれないかい?』

私の瞳がきらりと光る。
特に目的としていた訳ではないが、この辺りが上々の落とし所だった。

……ふーん、仕方ないな〜。じゃあそれで許してあげる!

おじちゃんは苦笑して、優しく私の頭を撫でた。くすぐったかった。
そしてそのまま銭湯にも入らずに、また明日とお別れを言いその場を去った。私は大きく手を振ってそれを見送った。
どうやら今日は私に謝るためだけに『矢神湯』に来たらしい。忙しいと言っていたのは事実のようだった。
しかし当時の私にそんなことまで気が回るはずもなく、おじちゃんと買い物に行けるそのことだけに意識が行っていた。
とても、嬉しかった。
私は朝の仕事をテキパキと終え、鼻唄を歌いスキップしながら朝ご飯を食べにリビングへと向かう。
食事の支度をしていた母さんは私のただならぬ様子に首を傾げ、

『どうしたんだい?ヤケに嬉しそうじゃないか』

一週間近く不安定だった娘に、少なからず心配していたのだろう。母さんもなんだか嬉しそうだった。
私が先程の会話の内容をかいつまんで話すと、

『ふ〜ん、あの感じの良い青年かい。よかったじゃあないか、そんな年上を落とせるなんてさすが我が子だよ、かっかっかっ』

真っ赤になって感情のまま反論する私を全く相手にしないこの母親は、食器を並べながらこう尋ねてきた。

『綾乃はその人のこと、好きなんかい?』

当時の私はそれに簡単に答えることが出来た。

うん!大好き!!

















朝の学校。
教室で。

「おっはよー」
「ん?ああ、おはよ」
「相変わらずおキヌはテンション低いな〜。……ってあれ、どうしたの?目の下に隈が出来てるよ?ほらほら」

顔を近づける円を、私は押し返す。

「顔近いから。ちょっと昨日……いや今日か?まぁ夜中まで延々説教されてね。あんまり寝れてないんだよ」
「へっ〜、おキヌが怒られるなんて珍しくない?余計なことは絶対しないおキヌがさ?……ねぇなになに、なにしたの?」
「別に……」
「え〜何よ〜。教えてくれたっていいじゃないのよ〜」
「………」

そう言われても……。教えようがないというかなんというか……。
私は眠い目をゴシゴシと擦り誤魔化そうとする。
円は自分の机に鞄を置いて、こっちを振り返り、

「あっ!そうだ!……もしかして……うふふぅ」
「……何さ」
「……ぬふふ」

円は気色の悪い笑みを浮かべてがっしと私の肩を掴む。
励ますように、

「私、もう知ってるんだからね。誤魔化そうとしたって無駄なんだよ」
「……何のこと?」
「まだ隠すのぉ〜?もうっ!強情なんだからぁ」

なんのことだかさっぱりわからない。私が怒られた理由を円が知るわけないし……。私が話す訳ないし……。
そんな円はそっと囁く。
小さな声で、

「それ、冬木くんのこと、なんでしょ?」

私は囁かれた言葉の意味を一瞬考えて、

「はぁぁ?!今何つった?もう一回言ってみむぐぅっ!!」

親に怒られたのは全然違う理由なのに、冬木くんの名が出た途端異様に驚愕してしまい、心の底から聞き返した。途中口を塞がれたけど。

「もうっ、おキヌ声おっきいよ」

円は慌てながらも妙にニコニコと、

「だっておキヌ、放課後冬木くんに会いに行ったんでしょ?私知ってるんだからね」
「………」
「昨日おキヌが部活サボってたから珍しいなぁと思ってたら、後輩から鬼怒川先輩が写真部の部屋に入ってたのを見たって言うじゃない」

ちっ!しくじったか!
昨日は周りを確認している余裕が無かったからなぁ……。
あとその後輩の名前を聞いとかないとね。おもいっきり可愛がってやる。

「写真部といえば冬木くん。私はそれだけでピンと来たね」
「………」
「ああこれは恋だな、って」

それは聞き捨てならん!
私は口を塞ぎ続ける円の手を振り払い、やや錯乱気味に叫んだ。

「ななな、何言ってんのよ?!馬鹿じゃない!こ、恋だって??!恋って何よ!恋!はぁ?んなっな訳ないじゃない!」

まだ朝だったので生徒が少なかったのは幸いだった。こんなことをこんな大声で叫んでしまい、もし結構な数の人がいたりしたら、きっと私は一生立ち直れなかったに違いない。
円は器用に口を尖らせ、

「だって好きな人がいないのなんのって話をした日に一人で男の子に会いに行ったりしたら、そりゃ恋だよね〜」

私は立ち上がり指を突きつける。

「いや違うそれ違う!なにもかも違う!意味わからん!意味不明!」
「えぇ〜」
「冬木くんにはただ……ただ単に相談事があったってだけで……。好きとか恋とかは!ない!!有り得ない!!私はもっと年上が好みなの!!」
「ええぇ〜」

しかし円はからかうような口調をやめず、

「おキヌが相談を持ちかけたってだけで十分だって。男付き合いの少ないおキヌが自分から近づいたってことは相当信頼してる証拠なんだしさ」
「むむ〜……」
「ほら、どうせ好きな人誰なんだろうとか考えてたら唐突に気づいちゃったんでしょ?クラスの男子を端から考えてたら辿り着いたのが冬木くん。気づいたとはいえ自分でもよくわかんない感情だし、友達には打ち明けずに、密かに近づいてみることにした……。大丈夫よ、そういうことも、結構あるある」
「いや全然ないない!!」
「昨日怒られたのだって、冬木くんとずっと遊んでたら帰りが遅くなってそしたら家族が男の存在に感ずいて、娘の将来を案じた両親が男遊びの危なさをこんこんと説いた。……どうせそんなとこなんでしょ?」
「……う〜ぬぬぬ」

私は下唇を噛み締める。
こいつ、妙に勘が鋭くないか?
親が怒った理由はほとんど正解。
帰宅した時間がかなり遅かったため、親は私に事情説明を要求したが、私は黙秘権を行使したため、変な勘違いをして説教の時間が長くなってしまったのだった。
それにまぁ、私が冬木くんを信頼してるのは確かな訳だし……。彼は考え無しの行動はしないし、私の知らないことも思い付かないこともたくさん知ってて……。
……好き……恋……いやいや待て待て。
無言で耐える私にどう思ったのか、円はニパと笑い、

「あは、ごめ〜ん。図星ついちゃったみたいね」

そんな円の、

「ひ〜痛い〜」

頬を静かに引っ張った。




  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.8 )
日時: 2007/03/27 11:37
名前: 無遠人形

パシャリ

シャッターの音。
写真部の扉を開けた私を見た冬木くんはパソコンでしていた作業を中断し、何を思ったかいきなりカメラを構え写真を撮りやがった。
そのレンズは私に向いていて。

パシャリパシャリ

何度もシャッターが切られる。
いきなり過ぎてなんのリアクションもとれない。
一拍遅れて、寝不足の顔を出来るだけ歪め、カメラ小僧を睨みつける。
生意気ね。

「……何よ」
「ん〜?んんんっ」

パシャリ

再びシャッターが切られる。
私は顔をカバンで隠した。ああもうしつこいヤツめ。

「フィルムの無駄よ。やめなさいって!」
「無駄じゃないよー。鬼怒川が昨日よりいい顔してたからさ。これは写真家としては撮るべきだろ?」

冬木くんはそう言いつつ、なおもカメラを構えている。
いい顔……いい顔って?コイツは一体何を言ってるんだ?
首を振り呆れる。

「……んなわけないでしょ。あんまり寝れなかったんだから、ヒドイ顔よ」
「前にも言っただろ?俺は女性の写らないものを写そうとしてるって。だから見た目のことだけじゃねーのさ」
「……バカじゃない?……前から知ってたけどさ」

ぼやく私を無視し、冬木くんはカメラの角度を色々変え、私のなにかを写し出そうとする。
私が撮影をやめさせるためにその黒光りするレンズに手を押し付けた。
しかし全く気にしない冬木くんはカメラで顔を隠したまま、

「鬼怒川、好きな人出来たんだな?」

そう尋ねてきた。

冬木武一の口撃。
大ダメージ!クリティカルヒット!急所に当たった!
鬼怒川綾乃は果てしないダメージを受けた。
鬼怒川綾乃は状態異常にかかった。
鬼怒川綾乃は驚愕した。
言葉を唱えられない。
鬼怒川綾乃は硬直して動けない。
一分間行動不能。
鬼怒川綾乃は頬が赤くなった。
まともに相手の顔が見られない。

「………」(パクパク)
「どうした?声が出てないぞ?」
「なっ、なんで好きな人とかそういう話が出てくるのよ!いきなり!」
「焦りすぎだってば。……それは昨日と目の輝きが全然違ったもんよ〜。ふつーすぐにわかるだろ」
「普通じゃないわ!理不尽すぎよ!」
「そうか?」

面白そうに私を見つめる冬木くん。
私はこう尋ねずにはいられなかった。

「ところで……好きな人って……どっ、どっちのことよ……」
「どっち、とは?」
「だ、だから夢と現実、過去と現在のどっち……ああもうなんでもないわ。自分から墓穴掘りそう」
「??なんだそりゃ?」
「なんでもないっての!……私自身よくわかんないんだから……そんな急に……無茶よ!」
「……はい?もうちょっと俺にもわかりやすく」

そんな私に冬木くんはカメラからひょいと顔を出し、可愛いがワガママな子供を叱る母親のような苦い表情でそう言った。
私は盛大に溜め息をついて向かい側に座り、やはりギラリと睨みつける。
これ以上話していると、なんだか取り返しのつかない状況に陥りそうだった。

「うっさいうっさいエロカメラマン。どうでもいいのよそんなことは。この話題はおしまい。おーしーまーい」
「……発言がなにげにひでぇし、とてもどうでもいいことのようには見えないけどな」
「………」

私は苛立たしげに頬杖を付き顔を背ける。もう疑問は受け付けない構えだ。冬木くんも諦めたのかなんなのか、微苦笑を浮かべカメラを机に置いてパソコンの作業に戻った。
私もそちらに目を向けると、解像度の高いディスプレイの上に数枚の写真が映し出されていた。

「………?」

その写真に先程までの気分を忘れてしまうくらい興味を引かれ、私は冬木くんの隣に立ち写真に見入った。
いや見惚れたと言ってもよい。
それほどのものだった。
じっと食い入るように見つめる私に、かすかに驚いた様子の冬木くん。
私はディスプレイを指差し、

「これは?」
「え?ああ、これは写真だよ」
「まぁそれはわかるけど」
「昨日鬼怒川と話してたらなんかもっかい見たくなってね。パソコンの奥の方をあさってたらさっき出てきたってわけさ」
「………」

その写真はいわゆる戦場写真というやつだった。
そういう方面に疎い私でさえ、これは凄いということがわかる。白黒であるからこそ、現実的で圧倒されるものがあった。
一枚一枚に気迫がこもり、一枚一枚に魂を感じる。
冬木くんは私をちらちら見ながら、

「どっかの内戦の写真らしいんだけど。題名も無し、撮影者の名前も無し」

家の残骸の上に座り暗然と首をたれる青年。ぼろ布をまとい目を閉じた赤ん坊を抱いてこちらを見上げる少女とその目。両手に溢れんばかりの水を汲み満面の笑みを浮かべるお爺さん。
見ているとその世界に吸い込まれるような、まるで自分がその場にいて戦場を体験したような壮大な感覚に襲われた。

「……なにこれ、すご……」
「な?凄いだろ?俺もこの写真を見た時は衝撃だったなぁ。この写真見てああ俺も写真を撮りたいって思ったんだぜ。それにこの写真にはすさまじい秘密が……って聞いてる?」
「………」
「お〜い」

冬木くんの呼び掛けも、マウスを奪い取りそれぞれの写真を拡大して見入る私の耳には届かない。冬木くんは諦めたのか私が見終わるまで待ちの体勢に落ち着いた。
そうすること数分、

「う〜ん、疲れた」

結局表示されていた以外の写真も見せてもらい、慣れないパソコンに酷使した目と背骨をう〜んと弛緩させる。
写真にはまったくと言っていいほど興味が無かったが、そんな自分が静止画にここまで惹き付けられるとは驚きだった。
椅子に座りぼんやりと感動の余韻にひたっていると、冬木くんが、

「で、今日は何しに来たんだ?」

もっともな質問をした。
そのまますぐに答えるのも癪なので、少し反発してみたり。

「ふん、冬木くんだって何してんのよ。毎日毎日放課後学校に残ってさ」
「……別に、家帰っても暇だからさ。ここの方が設備揃ってるしね。あとだから残ってるって訳じゃないけど、俺がここにいないと鬼怒川としては困るんじゃないの?」

……よくわかってるわね。

「それにさぁ、鬼怒川が一番謎だろ?毎日部活休んでまでここに来てて。友達にバレたらなんて説明すんのさ」
「………」

……ごもっとも。

「そろそろ陸上部の先生とかが怒らないのか?大丈夫?」
「大丈夫よ。ちゃんと休みの理由は言ってあるし」
「ほう。なんて?」
「ん、腹痛って」
「ぷははっ、小学生かよ」
「……なんだっていいのよ、向こうの体面が立てばいいんだし」

ふうん、と冬木くん。
それに、と私は肩をすくめ、続ける。

「こうやってる方が高校生活を謳歌してるって感じがするしね」

これが部活を休む最大の理由だった。
自分の意思で、誰も求めていないけれど何かが変わりそうな行動をするのがなぜか今はとても大事に思えた。
もし今日冬木くんに話すことがなくても、部活はサボってしまっただろう。人はそれを不真面目と言うかもしれないが、今の私には今まで特に悩みもせずに続けてきた生活を見直すいい機会だと開き直っていた。
そして私は力強く冬木くんを見据えた。

「で、今日の相談なんだけど」

冬木くんはこちらを見ずにメガネにディスプレイを反射させながら、なんの躊躇いもなく相槌をうつ。

「うん」
「夢、の話なんだけど」
「……うん」
「すっごい唐突に思い付いたことなんだけど」
「うん。だけどが多いよ」
「うっさい。……昨日の夜になんとなく思い付いたことだから全然まとまってないし、ホントに曖昧なアイデアでしかないんだけど」
「前置きが長いなぁ」

生意気なヤツとムッと睨みつけてから、私は大きく息を吸い意を決して言う。

「探偵、って面白そうだと思わない?」

そこでようやく冬木くんがこちらを向き、

「は?」

その反応に満足しつつ、私は昨日の出来事をポツポツと語りだす。















「父さん?」

見知らぬ女性と歩いていた父親を見て、

「んふ」

私は笑った。

「んふふ、なるほどねぇ」

浮気現場を目撃しても別に腹が立つとかそういうことはなく、ただあの父さんが隠している大きな秘密を知れたというだけで嬉しかった。
うちの父親は生鮮食品の運送業を取り締まっている、らしい。らしいというのは詳しい話を聞いたことがないからで、私もそこまで知りたいとも思わない。家で会っても挨拶を交すくらいで、深い会話は無く、最近の親子関係はこういったものが普通……だよね?それともうちだけ?
とにかくそんな感じなのだが父さん自体は別に寡黙というわけではなく、黒縁メガネをかけちょっと小太りの普通のおっさんだ。髪の毛はまだあるが、洗面所に育毛剤が置いてあった。あと特徴といえばスーツより作業着が似合うかな程度で……ああ、そうだ。
父さんは帰宅が早い。
矢神港であがった魚介類を運ぶのが仕事なのだが、それなりに偉いらしいので自分がトラックを運転することもなく、母さんと同じようにやるべき書類整理だけやってそれ以上はしない。無駄なことはしない。会社にとって毒にも薬にもならないタイプだ。そこら辺の血筋は間違いなく私に受け継がれている。
そんな父さんの帰りがここ二・三日遅くなっていた。
いつもは夕飯前には必ずいた父さんがいないことに不思議さを感じていたが、母さんが何かを言うこともなく、私も父親と一緒に食べなければ落ち着かないという訳でもないので別段気にしないでいたが、

「ふむふむ、はっはぁん、なるほど。だから帰りが遅かったのか」

私は即座に合点が行った。
誰にでもわかりやすくかつこれ以上ないほどシンプルな“浮気”だった。
私は段々遠くなる父さんと謎の女性、その二人の後ろ姿を見つめる。手を繋いではいないが、仲良く並んで歩いている。
私の勘が正しければ、まぁ勘というより簡単な状況整理だが、二人は二・三日前におそらくそう港で偶然出会い一目惚れ、いやここは昔の同級生でもいいかもしれない。相手の方がうちの父さんに一目惚れするとは考えられない。出会った二人はすでにマンネリと化していた古い家族を捨て二人きりの愛の逃避行を計画するため夕飯を共にする毎日。別れ際には一緒に夜を過ごせない悲しみを夜風にのせて。
ああ、早く一緒になりたいわね。
そうだね僕もすぐにでも君と一緒になりたいよ。
でも私たちには家族がいる。
でもそんなの関係ない。
僕達は愛しあっているんだから。
……愛してる〜(デュエット)
などと妄想をしつつ。
小さくガッツポーズ。

「これは追跡調査しかないっしょ」

証拠があった方が法廷で慰謝料をふんだくれそうだしねと剣呑なことを考えながら、私は尾行を開始した。












「んで二人のあとを尾行してみたらこれがまた面白くってね〜。なんて言うの、相手がこちらに気付いていない優越感というか私の知らない秘密をバーゲン風に大放出というか。観察してると癖とか行動パターンみたいのが見えてきたりしてね」
「………」

唖然とする冬木くんに私は機嫌良く続ける。

「ついつい調子にのって父さんが帰宅するまで尾行しちゃって、まぁつまり父さんより遅く帰った訳で。それのお陰で久しぶりに長時間説教されたわ」
「……それで寝不足に?」
「そのとーり。しかも帰りが遅くなった理由を説明しようにも出来ないからよけいに誤解を招いちゃってさ。それに父さんもしたり顔で説教に加わってるのよ?なんかムカつくと思わない?」
「………」

なんとも答えない冬木くんに溜め息をつき、私はここで一息置く。自分だけが話すのって結構疲れる。
冬木くんを見てみると、彼は言いたいことがあるようで両手を上下させ、あうあうと口を開閉したあと考え込むように頭を抱えた。

「何よ……。なんか言いたいことが?」
「いやっ……なんつうか……」
「………」
「その、父親が浮気していたことに対する感想は無いの?」
「はぁ?どういうことよ」
「だからもっとなんか悲しい!とか、ムカつく!とか、裏切られた!とか」
「ムカついたけど」
「それは理由が違うだろっ!」
「え〜」

私は足を組み直し、顎に手を当てて、

「う〜ん、特にないね。私達を捨てられるほど好きな人が出来たんなら仕方ないし。本人の自由なんじゃない?」
「いやっ!でもっ!こう父親の責任とか金銭関係の問題がっ!」
「だから少しでも慰謝料をふんだくれるように証拠を集めるんじゃない。それに『矢神湯』の利権はまだおじいちゃんが持ってるはずだし」
「いや違うそれ違う!!人間としての根本的解決になってねぇって!!」

と、冬木くんは上から白い光がさしこんでいる幻覚を見せるくらいの跪き方と手の組み方で、ああ神よ俺はここに現代家庭の無干渉無関心無理解形態の危険性を全力で訴えます、と呟く。
冷めた目で見つめる私に少々大袈裟だったという自覚があったのかコホンと咳払いして立ち上がり、

「ま、なんだその、家族は大事にした方がいいぞ」
「別に大事にしてないわけじゃないって。ただ相手のことを考えてあげているだけだわ。どっちの生活が幸せか選びなさい、ってね」
「………。……そうか」

人それぞれだよな、と冬木くんは頭を振り気を取り直し、ようやく話の路線が核心に迫る。
冬木くんはやや首を傾けつつ、

「探偵……だったか?鬼怒川が目指したいって思ったのは」
「そうよ。面白いんだから。冬木くんもやってみなさいよ」
「………」
「まぁ、夢というよりやってみて面白かったってだけなんだけど。でも初めて自分でやってみたいって思えたから……。……ね?冬木くんはどう思う?私、探偵に向いてるかな?」
「……はふぅ……これだけは先にはっきりさせておかなければならないな」

冬木くんは悲痛な目をして私の肩を叩き、そして言った。

「俺は探偵の仕事なんぞ知らん!!」

………。
まぁそりゃそうか。

「本とかマンガとかで探偵ってのはよくあるけど、実際の探偵とはまた違うのは間違いないだろ」
「なんでさ?もしかしたら小説家の名前をした小学生探偵みたいなのが現実にいるかもよ?」
「はっ、まさかぁ。現実にあんなに都合よく警察が解けない事件ばかりおこるかよ。大抵はローラー作戦で片がつく事件ばかりだし、最近は科学捜査が進んでるから皮膚の一欠片から犯人が特定できることすらあるんだから」
「つまんない世の中ね。赤い夢くらい見させてくれないのかしら」
「……それになぁ、もしそんな探偵が一人でもいるのなら」

冬木くんの目にからかいの色が映る。

「鬼怒川に活躍の場はないだろ」
「うっさい。どうせ馬鹿ですよ、私は。ふんだ、馬鹿で悪かったわね」
「……大丈夫さ、どっかのコロイド溶液が流動性を失ったような名前をしてる探偵で、探偵の仕事は一に浮気調査、二に猫捜しで、三には犬捜しって言ってるくらいだから。体力自慢の鬼怒川でも十分やっていけるだろ」
「……ねぇ。それって物凄く私のこと馬鹿にしてない?私が自分で馬鹿って言ったのも取り消してくれないし……」
「いやぁ〜、気のせい気のふぇい」

生意気なメガネ小僧の両の頬を引っ張りながら、大事な用事を思い出す。

「そうだ冬木くん。なんかデジカメ貸してくれない?それで許してあげる」
「ふぉふふぇんふぁふぁあ、ふぇふぃふぁふぇ?」
「突然だなぁデジカメ?って言ったのね。うん、そう。写真って結構重要な証拠になるんでしょ?だから望遠がついてて遠くがよく撮れるやつがいいのよ」
「ふぉ!」

冬木くんは犬のように顔をブルブルさせ私の手を振り払い、

「ダーメーだーっ。よく知らんがデジタル系は改編が簡単に出来るからあんまり証拠として扱ってくれないんじゃなかった?それにデジカメで精度のいい望遠は高いんだぞ!」
「そうなの?ふ〜ん……なら仕方ない、かな……」

あっさり引き下がった私はジロジロと周囲を見渡し、

「んじゃ、それ貸して」

パソコンの横を無造作に指差した。
冬木くんは私の指差した先を見て、先にあるさっき私を撮った黒光りする一眼レフカメラを見て、

「これ?」

うん、それ。
冬木くんは泣きそうな顔になった。







  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.9 )
日時: 2007/04/07 23:36
名前: 無遠人形

じいちゃんはね、今病院にいるんだよ。

『……そうなんだ』

ずっとずぅっと病院にいて治療を受けてるの。お医者さんが言うにはどんどん脳が小さくなってく病気なんだって。それって大変なことだよね!

『アルツハイマーで入院、か……。……早く大好きなおじいちゃんが元気になるといいね、綾乃ちゃん』

うん!それでばあちゃんはじいちゃんに付き添ってていないから最近は私が番台に上がってるの。父さんと母さんは仕事で忙しいし。

『その歳で店の手伝いかぁ、綾乃ちゃんは偉いね。僕なんて綾乃ちゃんくらいの歳はひたすら遊んでた気がするよ。……番台に上がるのは楽しい?』

うん!いろんな人に出会えるもの。優しい人、怖い人、変な人、キレイな人、不細工な人。それに母さんが言ってたけど私が番台に上がるといつもより収入が多いんだってさ。

『ほう、さすが綾乃ちゃん、『矢神湯』の可愛い看板娘か。ふふ、僕も綾乃ちゃんの可愛さに魅せられた一人かもね。……でもなんで共働きしてるんだろう……』

でねでね、番台で宿題するとすっごいはかどるんだよ。なんでだと思う?

『さあ……なんでだろう?』

ぶぶー、時間切れ〜。正解はお客さんが教えてくれるからでした!私が尋ねると大抵教えてくれるんだ。特に中高年のおじさんが狙い目ね。

『……その年にして人を使うことを知っているとは。綾乃ちゃんは末恐ろしい子だなぁ』

私そんな悪女じゃないもん!やることはちゃんとやってるんだから。朝はばあちゃんの掃除の手伝いしたり、夜は食事の手伝いをしたりしてるの!

『綾乃ちゃん料理もできるの?』

うん、簡単なものならね。肉じゃがとかカレーとか、サルティンボッカとか。

『へ〜、凄いね。いきなり料理の質が変わったのが気になるけど。よし、お手伝いするおりこうさんは頭を撫でてあげよう、よしよし偉い偉い』

わぁー……ってもっと優しく撫でろっ!痛いわ!










そんな会話を交わしながら楽しく並んで歩いて、そして私達はとある大型百貨店の前に辿り着いた。
私はニコヤカにおじちゃんを見る。

たしか、なぁぁぁんでも好きなもの買っていいんだよね?

『うん、一つだけ、なんでも買っていいよ』

一つならどんなものでも?

『うん、どんなもの……いやその、世間の常識と僕の財布の範囲内に収めてくれると大変嬉しいけど』

え〜、なんでもいいって言ったじゃん!前言撤回は男らしくないぞっ、おじちゃん!

『……わかった、そんなキラキラした目で見つめないでくれ。僕の負けだよ。でも無茶なお願いだけはやめてくれよ。この店全部とかユーラシア大陸とか』

なにそれ、そんなのわかってますよーだ。

プイとそっぽを向く私に、メガネのおじちゃんは微苦笑をもらしたようだ。その気配に鋭敏に反応した私は、顔も見ず無言でおじちゃんの片腕にぶら下がった。
そんな私にやはり苦笑しつつ、私の頭を撫でてくる。
今日はやけにスキンシップが多い。
公衆の面前であるという照れから、私はその手を振り払った。











当店五階。
毎月違ったテーマに沿った無名の店舗を大量に出して、その量と目新しさのみでお客を呼び寄せる、非常に画期的なコーナーがある。
今月のテーマは“手芸”。
そんな訳で私とおじちゃんは様々な洋服、織物、民芸品などを見て回っていた。きちんとした設備や内装こそないものの、呼び込みの声や店と店の間を歩く人々の活気が溢れ、フリーマーケット的な雰囲気につつまれて購買意欲が刺激される。
普段は地元矢神の商店街で大抵の用事を済ませてしまう私にとって、この雑多な感じは初めてだった。
可愛げな店あるごとに立ち止まり、これはどう?とおじちゃんに何度も尋ねた。まぁおじちゃんは微妙な肯定しかしてくれなかったが。
しかしそれにしても、私は迷っていた。
どんなものでも一つだけ買ってくれる。
一つだけ。
どんなものでもいいと言われても、実は特に欲しいものもなく、色々商品を見てもなかなか、これだ!というものが出てこない。
さらに言えばせっかくのおじちゃんからのプレゼントなのだ。ここは大事に、そして慎重に選びたい。
そんな私の複雑な気持ちをさっぱり理解していない爽やかな笑顔のおじちゃんは、私がすでに品定めをし終えた店頭に飾ってある、見映えだけの服を指差し、

『ほら、こんなフリフリのワンピースなんてどうだい?』

嫌よ、あんなフリフリ。おじちゃんにロリコンの趣味があるなら考えてあげるけど。

『え……いや、えっと、そんな趣味はない、です……』

はいはい、次行こ。

しょぼんとするおじちゃんの手を引っ張り、人通りの激しい中私は次の店をじっくり探す。
すると、十字路な片隅にこんな看板があるのを見つけた。
“親子で作ろう可愛いヌイグルミ”
簡素に書かれた文章を囲むよう手書きのうさぎさんやくまさんやらいおんさんが笑顔で手を振っている。
……これだ!
キラリと私の目が光る。











あ〜もう、おじちゃん無器用すぎ〜。

『そ、そうかな?』

私に貸してみなさいっ。

『………。……綾乃ちゃんだってできてないよ!それじゃ僕の方がまだマシ』

う〜、うっさい!こんなの少し練習すればすぐにできるもん!


そのヌイグルミを作ろうコーナーは、看板があった道をさらに奥に行った所にちょこんと慎ましげに営業していた。
往来の喧騒は遠くなり、お客は私とおじちゃん以外いない。店側の人としては、ふくよかな老婦人がのんびりと自分の縫い物をしているのみだ。
白いテーブルクロスのかかった机の上にヌイグルミの作り方説明書を置いて、お互いの針の扱いや材料選びのセンスにケチをつける。
そんなこんなでギャアギャア騒ぎながら、私達はヌイグルミを作っていた。
こういった商法にありがちな、お客それぞれに担当がついて手取り足取り教えてくれるというタイプではなく、ここはヌイグルミ製作のおおまかな手順だけ教えて、あとは各自で置いてある装飾品を選び自由に取り付けられるという方式をとっている。
おおまかな手順にはいくつかバリエーションがあり、私はその中からくまを選んだ。くま、熊、ベアーだ。
すでに寸法通り裁断された布は用意されており、普通の場合それを縫い合わせるだけでヌイグルミの完成、後は自分なりのアレンジを加えていくだけ……なのだが、

むうぅ。

私達の場合、そうはいかなかった。
単純に、うまく縫えない。
私は学校でようやく家庭科の時間に裁縫習い始めたばかりだし、おじちゃんに至っては針を持つことすら久しいらしい。外見は家庭的なのに。
まぁとどのつまり説明書通りに縫い合わせるだけで四苦八苦。
やたら苦戦するおじちゃんと交代すること幾度目か、貪欲に挑み続ける私に、向かいに座るおじちゃんがやや諦めかけた様子で、

『これはもうお手上げだよ……』

手にできた針による傷を見ながら言う。
もうっ!弱音を吐くな!
内心でそう罵りつつ、私は無視して針を動かす。

『この調子だと時間もかかりそうだし……』

何時になろうがかまわない。

『……ね?仕方ないからあの店員さんに頼んでさ』

針を動かす手を止める。

『途中までやってもらお……』

諦めの言葉にかぶせて、

ダメだよ!

叫んだ。
それでは、ダメなのだ。
絶対に、ダメなのだ。

……私とおじちゃんで作らないと……そんなの意味ないんだから……。

目を見開くおじちゃんに、

うまくできる必要なんてない……。私は別に可愛いヌイグルミが欲しい訳じゃない。私が欲しいのは“思い出”……。おじちゃんとの“思い出”だけなんだから……。

ポツポツと静かに言った。
言った後、はたと我に返る。
これは本心なのだが、なんだか恥ずかしくなり目を伏せる。おじちゃんの反応が見られなかった。
たかがヌイグルミ、たかが買い物になに熱くなっているんだろうか。
そう自己嫌悪に陥りかけていると、

『うん』

声がした。顔を上げる。
笑顔が見えた。

『そうだよね』

その笑顔が優しく輝く。

『うん、ごめんね、綾乃ちゃん。変なこと言っちゃって。なんでも買ってあげるって僕から誘っておきながら、その実本当に大切なことをすっかり失念していたよ』

おじちゃんは私を安心させるやんわりとした真摯な表情をしたあと、イタズラに成功した時のようなウィンクをし、

『“もの”より“思い出”だよね』

………。
なぜか、幸、という字が脳内を彩った。別に告白をされた訳でもないのに、急にお互いの心が通じ合ったという感覚に駆られた。
私は突発的対人赤面症候群にかかり、顔を下げ無言でもじもじと手元の作業を再開する。
おじちゃんは私の様子に対する幸福と自分の申し訳なさを等量混ぜた気配で、

『じゃあ僕は右足を作るよ。……よしっ、頑張るぞ。せめて閉店時間までには完成させようね』

おじちゃんはそう言って気合いを入れる。おほほそんなに時間はかかりゃしませんよ、と私達の会話を聞いていたらしい老婦人がふくろうのように笑った。

『……でも僕達の場合そうもいかなそうだけど……』

私は赤面しながら、目の前にいる大好きな人に、無言でコクリと頷いた。














ふふふふ〜ん。

私は夕暮れの中、上機嫌に歩く。

『ねぇ綾乃ちゃん、本当にそれだけでいいのかい?他にもっと欲しいものとか……』

私は後ろを振り返り、大事に抱えた包装用紙に包まれたヌイグルミを満面の笑みで見せつけて、これでわかるだろうとばかりに再び前を向いた。
閉店時間とまではいかなかったものの、やはり多大な時間をかけて、縫い合わせた。特に胴体部分と手足の接続に苦労した。
結局何一つ装飾はできなかったものの、全く不満は無く、ちょこんと可愛らしく座る茶色いくまのヌイグルミは、私とおじちゃんの努力の結晶として完成した。
私はこのヌイグルミは永久に大切にしようと心に決める。名前を付けた。その名もくまちゃん。おじちゃんにその名を言ったらネーミングセンスを疑われた。蹴ってやったが。
漫然と考えているとなんだか楽しくなってきて、

おじちゃんって何歳?

『ん?えっと、22歳だよ。なぜか年齢の割には老けて見られるんだけどね……。綾乃ちゃんにもおじちゃんって呼ばれてるし……。で、何?僕の年齢が、どうかした?』

べっつにー。

今私が10歳だから、結婚適齢に達する頃にはおじちゃんは28歳……うん、全然問題無い。大丈夫ね。
心の中でガッツポーズ。
次はなけなしの勇気を出して、普段なら聞けないようなことを聞いてみる。私は今、ハイなのだ。

おじちゃんって……付き合ってる人いる?

『う〜ん、今は仕事が忙しいからなぁ。そういう人はいないよ。……なんで?』

べっつにー。

やはりガッツポーズ。
私は調子に乗って、

そうだ、おじちゃん今度私の家に来ない?おいしい料理を食べさせてあげるよ。

『あ〜、いい提案だね。僕もサルティンボッカなる料理が気になるし。……じゃあ今度お邪魔させてもらってもよろしいかな?』

うん!……もちろん!

やった!やった!
もう顔はほてって心臓バクバク、とんとん拍子に事が進んでいく。表面的には顔が赤くなっているだけでいたっておとなしいが、頭の中では私が五万人くらい並んで万歳三唱していた。
ああ!こんな幸せってあり?!世界って素晴らしい!!
私はその勢いのまま、なんの気無しに望みを羅列し、おじちゃんに笑いかける。

ちゃんと毎朝『矢神湯』に来てね!また一緒に公園走りに行こ!今度は矢神商店街に買い物に行って、色々遊ぼう!私、ゲームセンターとか行ってみたい!

そして振り向き、私と同じく幸せそうな顔をしていた大好きな人に一番の望みを、

私達、ずっと一緒だよね!!

本当なら、おじちゃんがそれに、うん、と答えて幸せに終わるはずだった。
だけど現実には、その言葉を言い終わると同時に、おじちゃんの携帯がリリリンと鳴った。
リリリンと。
割って入って来た異物に私は気分を悪くする。
おじちゃんがごめんと呟き、携帯を耳に当てる。
すると私にも聞こえる男の人の声がして、その声が何かを告げていく毎に、おじちゃんの顔に陰が出来ていく。
私はあまり見たことの無いその表情に不安になり、作り立てのくまちゃんをぎゅっと抱き締める。
おじちゃんは静かに、はい……はい……、と電話の声に頷く。
そして、切った。
携帯をポケットにしまい、おじちゃんはやはり静かに私を見る。
その瞳は悲しげに揺れていて。
私は腕の中にあるくまちゃんを、意識できなくなる。

『………』

良い意味でも悪い意味でも、おじちゃんは誠実だった。こんな幼い少女に対しても嘘をつくことがない。
しかし、その誠実さは時に人を傷つける。
本人がそれをわかっていても、正直であるがゆえに事実を偽ることが出来ない。
おじちゃんは私に歩み寄り、膝を折り、目線を合わせる。私の目の前に大好きなおじちゃん顔がある。しかし今はそのことに、なぜか恐怖を感じていた。

『……ごめん……ごめんね、綾乃ちゃん……』

トーンを落とした声。
その声は私の頭の中で反響し、胸と目頭にグッと込み上げる。
つまり彼はそう、相手を傷つけない、優しい嘘が言えないのだ。

『最後の願いだけは、叶えてあげられなさそうだよ……』

悲哀に沈むおじちゃんに、私はこういう時どんな顔をすればいいのかわからない。
だからなるべく感情を抑えて、下唇を噛み締めた。
















この作品もそろそろラストスパートかけます。頑張ります。
  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.10 )
日時: 2007/04/14 19:53
名前: 無遠人形

……悲しみは……無い。
仕方のないことなのだ。
私が否定しても何も変わらない。
そのくらいの現実は知っている。
二人で“思い出”をつくった、その帰り道に言われた。
……仕事、とのことである。
子供の私が関われない事柄。
遠くに行ってしまうらしい。遠い遠い、海外だそうだ。入国手続きが大変だとも言っていた。
いつ帰って来るかわからない、もしかしたら帰って来れないかもしれないとも言っていた。
だけど話を聞いていても、私の意識は朦朧として意味をよく理解できない。現実を認識したくない。片方が歩く人形のような状態で、おじちゃんしか話さない一方的な会話だった。
だから仕事の内容も行ってしまう場所も何も聞きはしなかった。
おじちゃんが言わないのならば聞かない。
私は……それでいい。
虚無に沈む中、ふとその部分だけおじちゃんの声が聞こえた。

『でも出発まではまだ時間があるって。三日くらい』

その言葉に。
キラリ。
脳裏の曇天に一筋の光が射す。
天啓だった。
天恵かもしれない。
それまでおじちゃんの言葉に無反応を突き通してきた私は突如として息を吹き返す。
小さな脳味噌をフル回転させ、思い付いたままをほとばしる熱意と共にこう言った。

うちでパーティーしよう。

お別れ会や送別会のような言い方をしないことに、別れたくないという私の気持ちが如実に表れていた。
私の唐突な宣言に、おじちゃんは一瞬意表を突かれた顔をしたが、もちろんとてもいい笑顔で承諾してくれた。
うんいいね、と。
純粋に嬉しい反応だったが、しかし私はどうしても喜ぶ気にはなれず、鬱々と下を向き、我知らずくまちゃんを抱き締めた。
翌日の午前。
私は母さんと食べ物の買い出しに奔走し、事情を知らない父さんに飾り付けをさせ、病院からはおじちゃんのことすら知らないじいちゃんばあちゃんを呼び寄せた。せっかくなのだから派手にやろうと家族総出で準備をした。
何事かと疑問の祖父母に母さんがおじちゃんについて怪しげな説明をしていたが、私にとってそれはほとんど事実に近かったため、文句も言わず、無言で赤くなるに留めた。
特に食事の準備が多忙を極めた。仔牛料理は時間がかかる。
その日の夕方。
といっても日の入りが早くもう外は暗くなっていたが、教えてもらった電話番号で何やら現地スタッフと打ち合わせをしていたらしいおじちゃんを呼び寄せた。事前に何をするかは伝えてあったので驚きはなかったようだが、私と私の家族一同の異様な歓待ぶりに照れながら気後れしていたようだった。
まぁ、確かに誰でも見ず知らずの家族に、海外に行くというだけで、クラッカーを鳴らされケーキを用意されたら、苦笑いもしたくなるだろう。
ああ、あと赤飯も炊かれていた。私はそれに気付かないふりをしたが、おじちゃんはそれを普通に食べていた。
ひたすら馬鹿騒ぎをした気がする。
別れの悲しみからか、今の喜びからか、後の寂しさからか、そこからの記憶が曖昧だ。もしかしたら大人の飲料水を飲んだのかもしれない。
食事の後、父さんとじいちゃんがおじちゃんと一緒に銭湯に入ったらしい。その広い浴槽の中で何を話したかは私の感知するところではない。
夜遅く。寒空の下。
そこの記憶ははっきりしている。
私はくまちゃんを抱きかかえていた。
泊まっていきなさいよ、というでしゃばり母さんの発言もさらりと流し、おじちゃんは磨きのかかった優しい笑顔で頭を下げお礼を言う。

『本当にありがとうございました。こんな楽しい食事は初めてです。ご家族は皆、優しい方ばかりでして』

やあねぇ未来のフィアンセを無下に扱うわけないじゃないの、と母さんは言いやがった。無視だ、無視。
私は衝動的に一歩前に進み出て、しかし何も言うことができなかった。
……言いたいことはたくさんあるはずなのに、なぜか言えない。
そんな私の心情を察したのかどうなのか、おじちゃんはメガネの奥で優しく微笑み、

『またね』

そう言った。
………。
私は一瞬呆然とする。
しかしすぐに叫び返した。

またね!

おじちゃんはそれ以上なにも言わずに背を向けた。
私はその背中を見送りながら思う。
そうだ。そうだった。
これは永遠の別れじゃないんだ。
おじちゃんの姿が闇に消えた。
でももう悲しくなんかない。私は胸の前でくまちゃんを抱き締める。うん、ふっ切れた。

絶対にまた会おう。














数ヶ月が過ぎていく。

じいちゃんは相変わらず病院で、父さんと母さんは共働きで昼間はいない。
今までとなんら変わらない日常。
だが、私の生活には変化があった。
それまで運動に興味というものがほとんど無かった私だったが、毎朝30分程度ランニングをするようになった。あのコースを走ると、おじちゃんとの思い出が鮮明に蘇り、気分が良くなるのだ。
ただ、のれんを出さなければならない朝の番台には上がらなくなった。自分でも情けないとは思うが、おじちゃんが来ないとわかっているため、どうしてもする気になれないのだ。
更に私は家事全般の手伝いにも積極的になった。炊事洗濯なんでも来い。やはり母さんの血を継いでいるのか、大抵のことはテキパキとこなせた。
更に更に、学校の事、特に勉学に関して力を入れ始めもした。
何事にも死力を尽し。
万事そつなくこなせるように。

ん?

……なぜかって?

私にとって、そんなことは疑問を持つまでもなく明らかだった。

生きる目的。



そう、私は“夢”を見付けたのだ。

おじちゃんのお嫁さんになるために、立派な女性になるという“夢”を。



ちゃんと学校の作文にも書いたし。
夢はお嫁さんです、と。大事な人のお嫁さんになりたいんです、と。先生には早熟だなと苦笑されたが。

私はこれまでになく充実していた。


そんなある日。
私は銭湯を掃除をしていた。
ブラシでゴッシゴッシと。
これもほとんど日課になっている。人の垢や石鹸滓は意外と溜りやすいものなのだ。
いつも偉いね綾乃ちゃんは、と隣を掃除していたばあちゃんが言う。
私はえっへんと胸を張る。
その私の背中にはくまちゃんを背負っていた。
細い布を襷掛けにクロスさせて、まるで子供をあやすかのように。
おじちゃんとの“思い出”。
私はいつもくまちゃんと一緒だった。
当然一緒に寝ていたし、一日中見ていても幸せは持続するし、家に居る時はなるべく持って歩くようにしていた。これは愛着というより、もはや愛情と言ってもいいかもしれない。
くまちゃんをおじちゃんに重ねていた。
自分としては遠距離恋愛という気分であった。おじちゃんは一週間に一・二度電話してきてくれたし、くまちゃんもいたので寂しさはあまり感じなかった。
そんなわけで、今日も今日とてくまちゃんを背負って掃除をしていた。
鼻唄を歌う勢いで、滑りながら元気良くブラシをかける。
やがて入り口から浴槽までのタイルをブラシで掃除し終えた。

ふうっ。

私は一息ついて、ピカピかになった浴場を誇らしげに眺める。
ばあちゃんも掃除用具をしまい始めている。
なんとなく気分が良い。

んん〜。

固まった腰をほぐすために、手を広げて後ろに大きく伸びをした。
後ろに、大きく。
後頭部にくまちゃんの感触がした。
その時。

ツルッ

きゃっ。

足が滑った。
何故滑ったのかはわからない。
しかし、そこに私の油断、気が緩んでいたのは確かだった。
浴槽までブラシをかけたので、当然私の後ろには浴槽があり、後ろに伸びをした時に足を滑らせたならば、そのあとどうなるかというと。

ザブンッ

………!!

ゴポポ

私は仰向けのままぬるま湯に沈んだ。













「………!!」

ガバッ!

……飛び起きた。
その勢いで布団が床に落ちた。
無闇に息が弾む。

「はぁっ……はぁっ……」

喉が枯れる。
全身に汗がにじんでいる。
私はギラギラとした目付きで、自分の周囲を見回した。
窓からぼんやり光が射し込む、自分の部屋だ、ベッドで寝ていたようだった。
………。
思考が働かない。
断片的な言葉が浮かんでは消える。

「はぁっ……はぁっ……」

舌が口内に張り付き気持ち悪い。
心臓の鼓動も息の荒さも収まらない。
まるで悪夢を見たかのような苦しさだった。背中に嫌な汗がつたい、妙な重さがのしかかる。

「はぁっ……はぁっ……うっ……」

私は片手で頭を押さえ、掌でおでこを包む。手に自分の体温が伝わる。
唇を動かさず、うめくように言った。

「……頭、いて……」












何故か寝起きは最悪だったものの、頭が冴えていくと同時に不快感も消え、快調になっていった。
そして、いつも通り学校に行き、今日は冬木くんの所には寄らず久しぶりに部活に出た。そんなに真面目な部活ではないので、別段欠席を注意される事もなく、悠々と汗をかき、夕暮れに家に帰った。
そしてすぐに私服に着替え、冬木くんから借りたカメラを携え意気揚々と父さんの浮気調査に出かけた……のだが、不倫で行きそうな場所を巡っても、商店街の入り口に張り込みをしても、今日は結局父さんを見付けることはできなかった。
しかしその帰り道、妙な光景を見掛けてしまい……。
で、今に至る。
『矢神湯』の中。
外は暗く、とうに店仕舞いしている時間である。
私はブラシを片手に顔を上げた。銭湯を掃除し終えた私は、腰をトントン叩く。私の隣には夢と同じくぬるま湯の入った浴槽がある。

「……ふ〜」

グイ、と額の汗を拭い、息をつく。背中にくまちゃんはいない。
しかし、今考えているのは現実のことで。
思わぬ収穫。
頭に思い浮かんだのはそんな言葉だった。

「なーんで私もあんな場面を見掛けるかね……。冬木くんなら喜びそうだけど……。私は……」

脳裏に浮かぶのは帰り道に見掛けた光景。
暗い夜道で言い争う、播磨くんと沢近さんの姿だった。
つまり、たまたま偶然、噂の二人が喧嘩している所に出くわしてしまったのだ。父さんは発見できなかったというのに、まったく……。
ブラシによっかかりながら、呟く。

「ま、私には関係ないからいいけどさ」

その程度のことだった。
冬木くんなら違う感想を持って独自に行動するかも知れないが、私は自分のことで一杯一杯なのだ。
とりあえずその場の写真は撮っておいた。もちろんフラッシュはたかずに。誰かがその情報を必要とするならば、その誰かが好きに使えばいいのだ。
私は一人そう納得する。
しかし、喧嘩の理由も気にならないではない。腕を組んで播磨くんと沢近さんがあの場で喧嘩をしていた原因を模索してみる。
そんなことを考えていたのがいけなかったのだろう。すぐ近くまで人が接近したことにすら気付かなかっただなんて。
ちょんちょん、と。
肩がつつかれた。

「?!」

私は驚き、そちら振り向く。
さっきまで誰もいなくて、閉店しているのでもう誰も入って来ることのないだろうこの場所に、バスタオル一丁で笑顔の、

「ふ、冬木くん?!」

私が色々お世話になった、メガネをかけた同級生がいた。

「おっす」

冬木くんが軽く挨拶してくる。
風呂場で女性に会ったにも関わらず、冬木くんはいつも通りだった。
だがその時の私は驚きのあまりどうにも反応できず、頭の中では疑問が沸くが口にできず、無意識に後ろに下がり、そして……

「きゃっ」

下がった私は浴槽の淵に足をひっかけ、あまりにもあっさりと引っくり返った。
一瞬タイル貼りの天井が見え、ああ自分転ぶんだなと理解した瞬間、

ザブンッ

………!!

ゴポポ

私は仰向けのままぬるま湯に沈んだ。










これは“鍵”。

過去と類似した状況に追い込まれることで、実際過去に起こったはずの、消えた……いや、鬼怒川綾乃の理性が意識的に抹消した“思い出”を、海馬の奥底から引きずり出す。
そしてその場に冬木武一という存在がいる事実。
それがどんな結果を導くのかは、今はまだ誰も知らない……。


  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.11 )
日時: 2007/04/28 20:50
名前: 無遠人形

鼻と口から気泡が弾け、外界が波紋にたわむその独特の景色を見て、思ったことはこんなこと。
水の下から見上げるというのも、中々無い経験だなー、と。もしあるとすればプールや海に潜った時くらいか。
……ってあれ?ならみんな結構経験してるってこと?
そんなことを一瞬のうちに考えるくらいには、湯船に沈んでいっていても私はわりと落ち着いていた。
浮き上がるために水面に出ている足を引っ込め水中で一回転。ぷはっと浮上し、即座に咳込んだ。

うっ……けほっ……けっ……うぇっ……。

私は手と顔を浴槽の外に乗り出し、鼻と気管に入った水を出すように懸命にむせた。
落ち着いていたとは言え、やはり水は吸い込んでしまっていた。鼻の奥がかなり痛い。
盛大な水音に気付いたばあちゃんが、掃除用具を投げ捨てて心配そうに駆け寄ってきた。私は大丈夫と応えザブンと重量の増した服ごと上がる。

うえー、びしょぬれだ。

服からしたたる水が重力を感じさせた。当然背負っていたくまちゃんもたっぷりと水を含んでしまっているわけで。
ばあちゃんは私から服とくまちゃんをひっぺがし、しょうがないからそんまんまシャワー浴びな、と言った。
手際よく服を丸め、くまちゃんの背中のファスナーから水に染まった綿を抜き出していた。
私に反論出来る筈もなく、おとなしく掃除したての浴場でシャワーを浴びた。
モクモクと湯気が上がる。

ふい〜。

風呂上がりのことだった。
私はバスタオルで濡れた体を拭き、ばあちゃんが用意してくれていた洋服を着た。

……はぁ。

調子の良い時に失敗すると、なんか落ち込む。
モヤのように気分が晴れないまま、さっきの転倒はホント情けなかったと概嘆。ガシガシとバスタオルで頭を乾かしながら、てくてくと渡り廊下を歩く。
ばあちゃんの姿を探し、部屋を次々と覗いて行った。

ばあちゃんは……くまちゃんどこで乾かしてんだろ……。

心配事は自分と一緒に落ちたヌイグルミのことだった。ヌイグルミって濡れても大丈夫なのだろうか?腐ったりしないのだろうか?
頭にバスタオルを乗っけたままフラフラと家を歩き回る。
人の気配が無い。
不気味なほどの静けさ。
無音。
時たま遠くで車の地響き。
……ペタペタと。
ペタペタと湿った私の足音が響いて聞こえた。
両親が共働きしていて静かな家に慣れているとはいえ、やはりあまり気分の良いものではなかった。
ふと通りかかる。リビングの扉が開いていた。
ヒョイと中を覗いてみる。木製の食卓を挟んで、テレビがついていた。
ここから音は聞こえない。消音にしてあった。うちのばあちゃんはCMになると音を消す癖がある。必要のない情報が聞こえてくるのが我慢ならないそうだ。
画面の向こうではニュースキャスターが男女二人並んで何かをしゃべっているみたいだった。

………。

日常と変わり無いその画面に私はそれきり興味を失い、顔を引っ込めて再び散策を開始しようとする。

だが、その瞬間。

私が顔を引っ込めたその瞬間。




テレビの画面が切り替わった。




………。

私は歩き始めようとする。
しかし、

……ん?

視界の端をかすめたテレビの画面に私は否応なく動きを止めざるを得なかった。
それは妙な……物凄く漠然とした感覚だった。
違和感というか、第六感というか。

頭の隅に発生したそれは、どうしようもなく私の意識を侵食していき、目頭に熱を集中させ、背筋に冷たい汗吹き出る。

自分が何を感じたのかもわからない。表層意識には何も理解出来ないが、深層意識は確かに何かを感じているようだ。
私は努めて冷静に後退し、開いた扉から再びテレビ画面を見る。


見た。


見たあと、次なる行動は迅速だった。

ダッ

私は頭にかかっていたバスタオルを投げ捨てて、間にあったテーブルを一足飛びに駆け、テーブルの上にあったティッシュ箱を蹴飛ばし、ブラウン管に額をぶつける勢いでテレビを両側からかかえた。
かぶりつくようにテレビを凝視する。
私の目はテレビ画面に固定されていた。
しかし、視界に入っている物を自分が本当に見ているのかどうかわからなかった。無意識が現実を認識することを拒絶していた。
その画面にはメガネをかけた優しげな一人の男性の顔。そしてその下には今の私には理解不能な文字の列。
その顔だけは見間違えようがない。
子供ながらに初めて惚れた、そして一緒に“思い出”を作った人。
それは、


メガネのおじちゃんの、顔だった。
















………はぅ………。

自分は息をしている。そのことに今気が付いた。どうやら全くわからなかったが、さっきまで驚愕のあまり呼吸を忘れていたらしい。
それに瞬きも忘れていたようだ。
私は何も思考しないまま、何故かリモコンを探していた。すぐに座布団の上に見付ける。私は震える手をリモコンに伸ばした。
しかし指先が言うことを聞かず、リモコンをつかむことすら出来ない。筋肉の動かし方すらわからなくなっていた。
ガリッガリッ、と一旦戻したその手の爪で顔をひっかき、意味もなく親指の第一関節を歯を立て噛む。それでようやくリモコンをつかむことが出来た。

………。

初めて使う携帯電話のような無器用さでリモコンを扱い、力の入らない人差し指を消音ボタンの上にのせた。
押し殺したようなニュースキャスターの声が復活する。
私の耳を、音の羅列が右から左に抜けていった。
耳を塞ぐことは、しなかった。


『ただ今…………スです………』

…………。

『……の…………さんの………………現地時……たった………』

……………。

『………死亡が確認されました………繰り返……………の死亡が…………うです』



………………。


私はリモコンを手の上に置いたまま、その画面を呆けたように見続けた。
頭がちっとも働かない。


死亡が………確認………。


再び画面が切り替わる。
どこかの地図が表示された。赤い×印がある。


………え?何………?


再び画面が切り替わる。
何やらコメンテイターが偉そうにしゃべっていた。


ちょっと………待って………。


再び画面が切り替わる。
先程と同様の画面。おじちゃんの優しい顔が映し出され、その下には意味不明の文字列が……。


………?!


先程は認識出来なかった。
しかし、今度はしっかりと“見て”しまった。私の目はそれを捉えてしまっていた。



画面の左下、おじちゃんの名前の横に……『死亡』、と。




あああっ…………。

半開きの口から声がまろび出た。

ああああああっ……………。

リモコンをテレビに向けた姿勢のまま。

ああああああああぁぁっ!!

未だ悲しみを感じる余裕すらないというのに。
涙が出た。
ボロボロと。
おじちゃんが……死んじゃった。
信じられなかった。何も、何も……。
しかし無情にもテレビは現実を放映し、容赦なく人の感情をぶち壊す。

ああっ、うああっ、あああぁぁぁ!!!

泣いて。

哭いて。

叫んで。

狂って。

「うあああああぁぁぁぁっ、ああああひっ、やぁああああぁあああっあっ」

おじちゃんが死んだ。

嘘。

嘘。

嘘。

死?

死?

死?

死?

死。

死。

死。

死。

死。

死。

死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。



………おじちゃんが……死んだ。



「ああああああああぁぁぁっ、いやああああああああああああああああ!!!!!!!」

狂って。

狂って。

狂って。

狂って。


崩れ落ちる。
理性も、自我も。
耐えられない。
血圧が一気に低下し、
脳への血流が途絶え、

フッ

ブレーカーが落ちるように、私は意識を失った。

漆黒の闇に落ちた。













*****************************************













「おい鬼怒川っ!お〜い。大丈夫か?人工呼吸が必要か?」

肩をつかまれ、揺り起こされる。
………!!
私は覚醒した。
一気に現実に引き戻される。
心配そうに覗き込むメガネの少年が一番に見えた。
髪の毛からなにから全身が濡れている。私はさっき転んで湯船に落ちたということを思い出した。
洋服がまとわりつき気持ち悪い。
それに鼻が苦しい。コンコンッと何度か咳をして、無理に私をかかえて笑んでいる少年にしゃべりかける。

「ふ、冬木くん……?」

メガネの少年は安心したように息をつき、

「ようやく起きたか……。ああ良かった〜……。頭とか打ってない?大丈夫……って……あれ?鬼怒川?」

私は冬木くんに抱きついていた。

「え?何?ちょっ……」
「……どうしよう、私、忘れてた?!」
「……は?」
「何で?何で何で?やだっやだやだ!!おじちゃんが……私……どうしようどうしよう……」

感情のままに嗚咽を漏らす。
私は……泣いていた。
あの時の私のように。
虚しく、激しく泣いていた。

「うああ……なんでなんでなんで。私、忘れてて、ひっぐ……。あんなに大切に想ってたのに!それなのに!」
「………」

冬木くんに爪をたてるようにすがりつき、私はとりとめのないことを口走る。冬木くんが困っていることが気配からわかったが、それでも自分を止めることが出来なかった。
夢の中で見たおじちゃんは、昔の私を思い出せば思い出す程、昔の私と重なれば重なる程、魅力的になっていっていた。
魅力的に、感じていた。

それは、自分が好きだと思える程に。
お嫁さんになるという“夢”を持てる程に。



しかし、今、全て思い出してしまった。
おじちゃんとの記憶を。最初から、最後まで。
消えていた“思い出”は蘇り、再び私を地獄のどん底に突き落とした。

身近な人の、死。
愛すべき人の、死。

私の脆弱な脳髄は、空虚で巨大な欠落感に襲われる。その圧倒的な喪失感は私に泣きじゃくる以外の行動をさせてくれない。
それに加え、そういった決して忘れてはならない事実を忘却していた自分に、深く暗い絶望を感じていた。
……情けない。
大切な人を忘れてしまうのは、その死んだおじちゃんに対しても最悪の愚行だった。

「……うぐ、うぐっ。おじちゃん……何で、何で……。し、信じたくない……私、好きだったのに……。ううぅ、やだよぅ、もう二度と会えないなんて……やだぁぁ……」

まるでついさっきあのニュースを見たような錯覚に捕われていた。完全にあの時の自分の延長だった。
私は顔を冬木くんの胸板に押し付け、細かく震えながら泣き続ける。

「どうしよう冬木くん……私、どうしたら……。何で忘れて……。うぅっ。でももう会えない……そんなの、そんなのっ……」
「………」

ふと私の言葉がそこで途切れた。

冬木くんだった。

それまで私の叫びを無言で受けとめてくれていた冬木くん。
彼が私の体を上から優しく抱いてくれた。
その温かい体温に、よけいに私の目がうるむ。
変に同情するでもなく馬鹿にするでもなく、泣きたい時には泣けばいいさという冬木くんの気持ちが不思議と伝わって来た。
冬木くんは無言で私の肩を抱く。

「………」
「………」

私もそれ以上何も言わず、

「……うぅぅ……」

冬木くんの背中に手を回して。
ただひたすらに、泣いた。




  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.12 )
日時: 2007/05/07 14:20
名前: 無遠人形

「………」

幼い私。
病院の一室でムクリと起き上がった。

「………」

心が平和であることになぜか違和感を感じながら目をパチクリさせた。

「……おはよう」

ベッド脇にいた両親と祖父母に応答を返すと、心配そうな笑顔から喜びの表情を浮かべた。
ボケ気味のじいちゃんは高笑いをし、母さんとばあちゃんはホッと胸を撫で下ろし、父さんは無器用なしかめ面で私の頭を撫でた。私の意識が戻ったことがそんなに嬉しいことだったらしい。
私もよくわからないまま笑いの輪に入り。
しかし──

「……あれ?」

違和感、既視感、とにかくそういった不条理な感覚に疑問の声を上げる。

「ねぇ母さん。私、なんで病院で寝てるの?」

私のその言葉に皆なぜか驚愕する。
信じられないもののように私を見るが、その理由が全くわからない。私にとっては意味不明だ。
私は病院で寝ている以前の行動を思い出そうとする。

「えと、う〜ん……ああそうか、私浴場ですっころんで湯船の中に落ちたんだっけ。ああ、んで気を失ったのか。そこからの記憶無いし……。そうだよね?」

私は明るく答えを口にする。これなら記憶に矛盾なく、納得できる説明だ。
だが意外なことに母さんは恐る恐る、ホントに何も覚えてないの?と尋ねてきた。他の家族も固唾を飲んで真剣な表情で私を見守る。
しかしそんな表情をされても、私にはこう答える以外に他に何もなかった。



「覚えてないって……何のこと?」



私から、メガネのおじちゃんの“思い出”が、綺麗さっぱり消えていた。















「………」

もう高校生となった私。
自室のベッドからムクリと起き上がる。
カーテンの隙間から漏れる太陽の明るさからして今は12時頃だろうか。目は覚めているものの朝から何もしていない。今日は学校休んだ。
ビームのように降り注ぐ日差しにしばらく目を細め、しかしすぐまた仰向けに寝た。

「………」

天井の木目を数えるように沈黙。
することのない脳味噌が暇に飽かして昨夜の家族との会話を思い出す。



夕飯の席でのことだった。

「ごめんね綾乃ちゃん、ごめんね」

私がメガネのおじちゃんのことを尋ねた時、蒼白の顔で答えたばあちゃんの第一声がこれだった。意味もなく私に謝り、ボロボロと涙をこぼす。
私がなんとも言えず黙っていると、

「とうとう……思い出したんね」

沈痛な面持ちの母さんが、

「綾乃が小学生の時だったか。とっても仲良くしてくれてた青年がおったんよ」

私がどこまで思い出しているのか聞けなかったのだろう、母親の視線から見た当時私のことを全て話しだす。
それを聞いていると、私が夢で見た通りおじちゃんとは相当親密な関係だったらしい。父さんとじいちゃんはこういう雰囲気に慣れていないのかよく覚えていないのか、母さんが語るに任せて頷くばかり。

「彼が海外に行くってわかった時の綾乃の顔がまたいじらしくてねぇ」

幾分虚ろな遠い目をして慨嘆する。

「目標を見つけたのか急になんだか大人びてくるし、張り切って私より働くし……」

そして、ついにそれは起こった。
仕事をしていて家に居なかった母さんと父さんは、ばあちゃんから私が倒れたと連絡を受け急いで病院に向かった。
そこはじいちゃんが入院している病院だった。

「お医者さんからは心因的記憶喪失って言われたわ」

過度のストレスから自らの精神を守るためにそのストレスの要因を抹消する。つまりおじちゃんが──死んだという事実から逃げるために、おじちゃんの存在自体を自分の心から取り除いたのだ。
その話を聞いて、なかば予想していたが、他の人の口からそう言われると、改めて自分の情けなさに拍車がかかる。絶望に息すらうまく出来ない。
……最低だ。なんて弱い……。最悪……。
私は呪いのように自分を罵り続ける。
おじちゃんが死んでしまったのはどうしようもないし、それに立ち向かえなかった自分の心が腹立たしい。私の弱さが原因でおじちゃん自体を忘れてしまうなど……言語道断だ。言い訳にすらならない。
その記憶喪失はきっかけがあると簡単に思い出してしまうらしいので、母さんは綾乃のためにとおじちゃんを思い出させる品──くまちゃんや、お嫁さんになると書いた文集など──をそっと隠していたらしい。
しかし、おじちゃんのことを忘れた後でも、家事を手伝う量は多いままだったし、毎朝走る習慣も続いていて、その健気さには母さんもよく泣いたそうだ。

「それともう一つ綾乃には謝らなきゃいけないことがあるんよ」

それは『矢神湯』の経営についてだった。
私が昔から、私が番頭になってから人気が出て黒字復帰したと聞いていたが──事実はだいぶ違うらしい。

「ホントはね、その時は赤字ばっかりで『矢神湯』を閉めようかとかいう話も出たくらいなんよ」

私が幼い頃は、まだまだ家計は苦しい状況に置かれていた。私の養育費やじいちゃんの入院治療代、経営難だった『矢神湯』の維持費。
確かに一時期私のおかげで多少収入は増加傾向を示したものの、危機を脱するまでには到底行かず、両親の共働きが続いていた。
しかし状況が変わった。私──綾乃が大切な人を亡くし、記憶喪失になったのだ。
まだ検査入院していた私を除いた家族四人で、喧々諤々の家族会議が行われた。記憶喪失の一因として家で私を一人にしていた、頼れてすがりつける人が必要だったのではないかと問題提起され、両親が働きに出ていて、病院にいる祖父の世話をするために祖母すら家にいることの少ない今の現状はまずいという結論が出た。
しかし厳しい家計において仕事を辞めるという訳にもいかない。私の看病という名目で仕事を休み、しばらくは一緒にいてあげられるが、時間制限があるため根本的には何も解決しない。
どうしたものかと悩んでいると、
そこに、

可愛い孫娘のためじゃ。わし、頑張るもんね。

じいちゃんだった。

今からリハビリじゃ!!

一念発起。
じいちゃんは私が倒れたことに、しかも記憶喪失ということで自分の病状と重なったのだろう家族で一番ショックを受けていた。恐らく自分の入院代が問題になっていることも心苦しかったのだろう。
驚くべきことにじいちゃんにはそのショックが良い方向に働いたらしく、その日からアルツハイマーの病状に改善が見られた。病院側もこれなら自宅療養も平気だろうと太鼓判を押してくれて、晴れてじいちゃんとばあちゃんは家にいられることになった。
父さんはそのまま仕事を続け、母さんは良い機会だとばかりに仕事を辞め、『矢神湯』の仕事をやり始めた。
私はそうした変化に気付かなかったのか、二・三日で退院したあと家に母さんにじいちゃんばあちゃんがいることに大した疑問をいだかなかったが。
しかしそうやって『矢神湯』での作業人数と量が多くなると、それまでの偽りの黒字ではなく、本当に黒字になってきたりしたそうだ。

「ずっと黙ってて……ごめんね。でも綾乃がおじちゃんのこと思い出すかと思うと中々言い出せなかったんよ……」

私はちゃぶ台を挟んだ、そうした両親祖父母の告白を聞きながら、結局何も考えられずぼうっと黙ってその姿を眺めていた。




「はぁ……」

深く考えると感情の渦に巻き込まれてしまいそうで、

「……なんなんだろ」

この感覚は。
冷めているわけでも悲しんでるわけでもない。

虚無。

そう言うのが一番似合っている状態だった。
ベッドに大の字になって、もう動く気もしない。
ふと、カーテンの方を向いてみる。

「……あれま」

びっくりだ。
外からの日の光がオレンジに変わっていた。いつの間にか、時間が過ぎていたらしい。今日今まで何を考えていたのかも思い出せないのに。

「………」

明日はちゃんと動けるのだろうか。この無気力状態が永遠に続くのではないかとも思ってしまう。
時間が飛ぶように過ぎる。頭がほとんど稼動していないのだろう。
食欲もわかない。
家族も遠慮しているのか今日一日部屋に来ることはなかった。私がおりるのを待っているのかもしれない。
こうなると、生きるということが、

「……面倒だなぁ」

そう口にすると、

「お〜い、元気してる?」

ドアの方から男の子の声が聞こえた。
私は驚愕に飛び起きてドアの方を見る。
そこに立っていた男子は開いたドアを叩いて俺はノックしたよとアピール。どうやら私はノックの音にすら気付かなかったらしい。
メガネの男の子は、

「休んでたから気になってね。……つい来ちゃった♪」

来ちゃった♪って──アホかっ!!
私は口をポカンと開けながら、明るく笑う少年──冬木武一を自分の部屋に迎え入れた。
  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.13 )
日時: 2007/05/16 20:14
名前: 無遠人形

「どうして……」
「………」
「どうして冬木くんがここにいるの?」

──どうして一人にしてくれないの?

「さぁ?どうしてだろう?俺にもわからん」
「……昨日私が泣いたから?」
「まー、それもあるかな。今日学校休んでるしね」
「カメラ、返してないから?」
「ああ、そういえば。確かにそれも用件の一つではあるな」
「………」
「そう睨むなよ。別にそんな他意はないさ。ただ女の子が目の前泣いてたのに、男としてほっとく訳にはいかないだろ」
「………」

──なによ、なによなによなによ!!かっこつけんな!!!

「事情を知らないくせに……」
「……?」
「……赤の他人がしゃしゃり出ないで!ウザいのよ!冬木くんには、関係ない」

──死んだ人は戻って来ない。

「うわー。鬼怒川は弱ってても可愛げがないなぁ」
「私に可愛げなんて必要ないわ……。もう良い子でいる理由すら、ないんだから……」
「……そうかい」
「だから帰れ」
「やだ」
「……帰れ」
「いーやーだ」
「……なんでよ。なんで?!私は一人でいたいの!!今は誰の顔も見たくないんだから!!」
「うーん、その気持ちはよくわかるんだけどさ。そんな顔してる鬼怒川見ちゃったらさ、もう帰れないよ」
「………」
「目ぇ真っ赤だぞ」
「………」
「泣き顔は可愛いんだな」
「っ?!」

──殺す!!!!










疲れたのか、とうとう冬木くんは崩れるように私の寝ているベッドに寄りかかり座った。
私は冬木くんを見るのも嫌で、枕に顔をうずめる。
泣き顔を見せたくなかった。

「………」
「………」

私達はさっきような内容の、不毛な言い合いを、すでに数回繰り返していた。
私が感情的になるのに対し、冬木くんはいたって冷静──薄情にすら見える冷静さで私をなだめた。そうして決まって私が言葉につまり、終わる。
そんな無意味な言い争いに終始していた。

「………」
「………」

さっきから冬木くんはずっと考え込むように黙っていた。
私と言い争いしている時も、どこか、上の空だったし、なんなのだろう。
──悩んでいる。
私に何か言いたいことがあるようだった。

「………」
「………」

私は枕の中で冷笑する。
慰めだろうか。
私を慰めようとしているのだろうか。
……ふん。
無駄なことだ。
どうせ明日になったら私は元気になっているだろう。元々立ち直りは早い方なのだ。
人の死がわからないほど、子供でもないし……。

「なぁ……」
「……?」

冬木くんが私に目を合わせず向こうを向いたまま、話しかけてきた。

「……どうなんだろ……いや」
「はぁ?なにが?」

どうにも──どうにも煮えきらない。

「……あのさ……」
「なによ」
「………」
「?」

口籠り方がどうにも不自然で、不思議に思って私は一度冬木くんの後頭部を見る。
後頭部が言った。

「実はな、さっき鬼怒川のお母さんからある程度の事情は聞かされてたんだ」

?!
私は驚いて、

「はぁ?!なによ!それ?!」
「ここに上がって来る前に、お母さんから色々と、ね……なんか娘をよろしくとも言われたな」
「………」
「ま、とにかく」

後頭部は振り向き、

「その……“おじちゃん”についてさ。俺に話してくれないかな?名前とか、どんな細かいことでもいいから、ね?」

なんで冬木くんが聞きたがるのかがわからない。
私は潜るようにベッドに身を沈め。

「なんで……冬木くんにそんなこと話さなきゃいけないの」

辛い“思い出”を掘り返されるのが嫌で、暗い暗い声で言ってやった。
冬木くんは慌てたように、

「あ!嫌なら別にいいよ。まぁ……いいんだけど……」
「………」
「……でもさ、なんというか、希望?とか可能性?とか考えてみると……ここで終わるのは、悲し過ぎるというか……」
「………」

意味が……わからない。

「ほら、どんなことでもその片隅に少しでも疑惑があったなら、それを解決しなきゃ前に進めないし後悔すると思わない?」
「………」
「しかもその解決する手段が……結果論で、それが、やるべきことになるか、やっといて良かったことになるかが決まるんだ」
「………」
「何もしなかったらバッドエンド。解決しようとして、やっぱり違ったらバッドエンド。もし違わなかったらハッピーエンド」
「………」
「人間は絶望に向かっては生きられないけど、希望に向かってなら、その先が地獄かもしれなくても生きられる、なんて言ってみたり」
「………」
「そのバッドエンドって言ったって、俺が鬼怒川に嫌われるくらいのものなんだから。軽いとは言わないけど……。でもそれがハッピーエンドに向かう道なら、俺はそっちを進みたいな?」
「………」

私は無言で冬木くんの言葉を聞いていた。
冬木くんは口を閉じて、私のことをしばらく見る。
再び口を開き、

「その“おじちゃん”に会ったのは、何歳くらいの、時だった?」

………。
鬼怒川という名字でからかわれた時。
それがひどく、嫌だった時。

「低学年……小学校の」

私が答えたのを聞いて、冬木くんは満足気に続ける。

「どんな感じの、人だった?」

私は夢の中のおじちゃんを思い出す。

「メガネかけてて……優しくて……温かくて……大人っぽくて……」
「身長は?」
「身長は……高かったと思う」

冬木くんは、ふーむ、と唸る。
まだ何とも言えないな、と呟く。
さらに、

「趣味は知ってる?」
「えっと、走ってたのは知ってる。趣味かどうかは知らないけど。仕事のために体力がいるらしくて……」
「じゃあ、仕事のことは聞たことある?」
「……ううん、でもなんかよく上司みたいな人に呼び出されてた」
「……ふーむ」

冬木くんは悩むように溜め息をつき、

「確証が欲しいな……」
「え?」
「いやなんでもない」
「………」

しかし、こう尋ねられてみると、私はおじちゃんのことを何にも知らないことを思い知らされる。
あの頃は、自分が一番おじちゃんのことを見て、知っていると理由もなく確信していた。将来のお婿さんになる人のことを自分が知らないはずがないと。さすがに今は恥ずかしくてそんなことは言えないが。
しかし、実際は何も知らなかった。
幼い私は、私だけのおじちゃんという、狭い世界で満足していた。
なにせ私は、おじちゃんの、

「その人の、名前はわかる?」

名前すら知らないのだ。

「って鬼怒川……聞こえてる?」
「あっ、え?何だって?」
「だからその“おじちゃん”の名前は知ってるのか、って」

………。

「………」
「あれ?聞こえてル?」

私はそんなこと知らない。
そそそそそそそんなことシラナイ。

知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らないシラナイ知らない知らないシラナイ知らないシラナイ知らないシラナイ知らないシラナイ知らない知らないシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイシラナイ、ナーンニモ、シラナイ。

「し、し知らないわよ」

内心の動揺を極限まで殺し、答えた。なんとか答えられた。
しかし、冬木くんは更に、

「……でも鬼怒川は本人から聞いてなくても、名前を知ってるはずだぜ?」

追及する。

「だってテレビで見たんだったら、その“おじちゃん”の顔写真と一緒に──」

最後まで言わせなかった。



「ああぁぁぁぁっ!!ああっ!!あ、ああああぁぁぁっ!!!」



枕を投げつける。

「うぉっ!」

更にタオルケットやかけ布団も投げ、机の上からシャーペンやボールペンや消ゴム、ノートから教科書、“ぬいぐるみ”に至るまで、全てを本気で冬木くんに投げつける。

「あぁっ!!ああぁっ!!」

何も考えていなかった。

「わわっ!あぶねぇ!あぶねぇって!」

冬木くんは枕を盾に防御する。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

私は一通り投げ終えて、

「うっ……」

涙を流した。

「ひっぐ……うう」

ポロポロ、ポロポロと
突然の原因不明のヒステリーに、私はどうしていいのかわからない。
ただ、冬木くんを睨むばかりだ。
冬木くんは攻撃がやんだのを枕から顔を出して確認すると、降参すると言わんばかりに両手を挙げて、

「ごめん……悪かったよ。俺が悪かった」

私は答えず、無言で睨み続ける。
ぐすりと鼻をすすった。
双方無言。
静寂が、物の散在した部屋を包む。
冬木くんは手を挙げてたまま固まり、私は泣きながら睨む。

「………」

私から動く気がないのがわかったのだろうか、冬木くんがとうとう根負けし、おずおずと散らばった物を片付け始めた。
また後で……昔の記事を調べ……情報……いや……、などと呟いているのが聞こえる。
私は向こうが動いたからこっちも動くとばかりに、息を荒くしたまま、目をゴシゴシこすった。

「ん?」

冬木くんが声をあげた。
私はいい加減腫れて痛みすら感じる目で、冬木くんを見る。
彼は私の投げた“ぬいぐるみ”を持っていた。

「んん?」

感触を確かめるように、手でもんで、引っくり返し、

「………」

冬木くんはその“ぬいぐるみ”の背中にチャックを発見し、開けて。
中から古い新聞紙の塊が出てきた。
ころんころんと中から数個転がり落ちる。その“ぬいぐるみ”は見るも無惨にしぼんだ。
私はその様子を視界の端で見ていて、頭の片隅に疑問を感じる。
……あれ?なんで?
なんで、あの“ぬいぐるみ”──くまちゃんの中に新聞紙が……
んっ?……ああ……
ああ、そうか、水で濡れたから、ばあちゃんが乾かすために……

「うおぅ!!き、鬼怒川!!おい!!!」

冬木くんの大声──古い新聞紙を広げた彼のあげた大声に、私は一気に現実に引き戻された。
さっきまでの空気が消し飛び、何事かと睨む私に、冬木くんは興奮した様子で、その新聞のとある一面を突き出し、見せる。

「これか?!この人が鬼怒川の言う“おじちゃん”か?!」

冬木くんが指差す先には、大きな文字で『○○○で日本人カメラマン、重態』と書かれており、その近くには小さな写真が、くしゃくしゃで見にくいものの、

「?!」

私はとっさに目を反らす。
写真のその笑顔を見ていられなかった。
そんな私の反応に、確証を得たのか、冬木くんは表情を明るくする。悲しんでいるのにこの表情か、とかなりムカついたので即座にその横っ面を殴ろってやろうと意気込むと、
冬木くんがギュム、といきなり抱きついてきた。

「んなぁっ?!」

絶句する私に、

「良かったぁ!!ホント良かった!!」

耳元でそう喜ぶと、一旦放れて、私の目の前、満面の笑みで、

「鬼怒川は何にも悲しむことはない!何にも忘れる必要もない!!これで!これで結末はハッピーエンドに決定だっ!!」

そして、呆気にとられる私に対して、

「はははっ。良かった!マジで!!」

再び抱きついた。























「親の七光りってあるじゃん」
「ある業界で有名な親を持ってると、その業界に簡単に入れたり、いきなりとんでもない地位を手に入れたり」
「それを利用する人もいれば──もちろんそれを嫌がる人もいるよね」
「良かれ悪かれ、親と比べられるんだからさ。その子供の神経が余程図太くない限り、なにかしら不満っつうか周りの目線が気になって当然」






「さてここに、ある著名な写真家の親を持つ少年がいました」

「親が写真を撮っているのを見て育ち、自然に彼も写真を撮るようになりました。ふふ、元々才能があったのでしょう。実力はぐんぐん伸びて、撮った写真もコンクールに入賞するなど輝かしい実績を残しました」

「周囲の大人には、さすがあの人の子供だ、と褒められました」

「よほど有名な親──ま、写真家を目指すならだれもが知ってるくらいにね──を持っていたのでしょ。彼が成長し青年になっても、そう言われ続けました」

「そこで、彼は疑問に思います」

「今の自分の写真に、本当に力はあるのかと。もしかして、名前だけで評価されているのではないかと」

「周囲の大人達はただ褒め言葉として親を引き合いに出していただけで、全くそんなことを考えてはいませんでしたが、ともかく彼はそう思いました」

「そこから、彼は写真を匿名で出すようになりました」

「それで自分の写真が評価されれば、本当に自分の力と納得できるからです。もちろん彼には実力があったため、それでも評価されました。そして……まぁ、色々な非難や問題があったそうですが、とにかく彼はここ──矢神市で、匿名のまま展覧会を開くことになりました。そしてこの頃から、彼は自分の存在を消すようになりました」

「伝えるべき写真があれば、写真家の名前も、写真の題名も、他人の評価すら、いらない」

「彼も色々と悩んだのでしょう。考えたのですでしょう。どういう考えで辿り着いたのか知りませんが、名前の無い展覧会を開くことが彼の“夢”だったそうです」

「その彼──このお話の主人公こそ、鬼怒川の言う“おじちゃん”」






「………」
「鬼怒川大丈夫?着いて来てる?」
「……うん」
「うし、オッケー。次行くよ?」
「………」






「元々彼は風景写真家でした」

「あらゆる所の山や川、海や空を写し、世界をまたに掛けて活動していました」

「矢神市での展覧会が終わって、一つの“夢”が達成されても、彼は気を抜かず、次なる“夢”に挑戦しようとしました」

「それは、戦場写真」

「生命の危険があるという点で、かなり特殊な立ち位置にあります。写真家として一度は行ってみたい戦場に、彼の目標は決まりました」

「彼が行くと決めていた地域は、展覧会が終わった途端武装解除が進み、彼はすぐにそこに向かうことになりました」

「行ってみて、戦場の悲惨さに心を痛めながら、たくさんの素晴らしい写真を世に送りました。もちろん匿名で」

「しかし彼のいたその地域では、武装解除しなかったグループのテロが進み、治安は悪化していく一方でした」

「そして事件は起きました」

「朝方の比較的安全と言われている時間に、彼がカメラを片手に散策していると、ある光景か、何か重要なものか、噂では官房長官とテロ組織首領の密会現場とか、とにかく彼はそういった“何か”を見てしまい──撮ったのかどうかはわからない──半殺しにされました。もう少しで殺されるところでした」

「そこにたまたま、パトロール中であった軍隊の兵隊が通りかかり、彼は一命をとりとめました」

「しかし、彼は助けられたものの、常に暗殺の脅威に晒されました。彼がその見た“何か”をばらす可能性が有る限り。彼が撮った写真も武力を持って押収されたそうです。匿名だったため、大部分の写真は逃れましたが」

「ある時、その国の政府上層部──彼がそれを言うことで利益を得る──が彼に対しある地域にとどまるならば、命だけは守るという司法取引を持ちかけてきました。病院で瀕死の状態であった彼はそれを呑むしかありませんでした」

「彼を暗殺しようとする組織から隠れるために、彼はある地域に密かに運ばれ、対外的に死亡したことになったのです」

「当然そんなことは露も知らない日本政府と日本メディアは彼は死亡したと判断したのでした」

「しかし、写真家同士の情報網は深く広いので、写真家達は誰とは無しに彼は生きていると知っていました。しかも、死んだとされたあとも、彼は匿名で写真を撮り続けているそうです」

「また、今から三年ほど前、矢神市で彼の匿名展覧会を開いた館の館長が、彼の撮った戦場写真の展覧会を、やはり匿名で開いたのです。そして、その写真を見て、写真を撮りたいと思ったのが──」

「当時中学二年だった、この俺──冬木武一です」

「ちゃんちゃんっと。はい終わり」








語り終えた冬木くんは疲れたのかうーん、と伸びをする。
蛇足を付け加えた。

「今はそこも治安は安定してるけど……さすがに国内からは出られないらしいね。なにせ法的には死んでる人だし」
「………」

私は呆然と冬木くんを見る。
彼は笑いながら、

「そうそう、ちなみにこの話は──この話方は全部その展覧会を開いた館長のだよ。どうも館長はその“おじちゃん”を買っているようでさ。褒め言葉しか言わないでやんの」
「………」
「いや俺も素晴らしい写真だとは思うけど、あそこまで褒め言葉を使うと逆に引くっつうか……ねぇ?」

私は瞬きもせず、冬木くんを見つめる。

「信じられないかい?」

ふふふ、と笑いながら、バシバシと新聞にある小さな顔写真を叩く。

「鬼怒川の言ってる“おじちゃん”ってのがこの人で、鬼怒川が俺の知らないような情報網を持ってないなら、俺の言ってる“彼”──この写真の人は、間違いなくキミの“おじちゃん”さ」
「………」
「写真家の間では結構有名な話だから他の人からも聞いてるし。信憑性は高いよ?」

冬木くんは、なんなら手紙でも送ってみる?とも言った。
私は、その話を聞いていて、私は、

「はは」

笑った。
笑えてしまう。

「ははは」

自分が、滑稽で、それ以上に、嬉しくて、

「あははは、ははっ、ははははははは!!!!!」

嬉しくて、虚しくて。
なんなのだろう、この感覚。
忘れていた過去を夢で見て、消えた“思い出”を今思い出して、そして悲しんでいたというのに。
おじちゃんが生きているというのなら。
“思い出”を抹消することもなかったし、その悲しみもまた無意味だった?
………。
……滑稽だ、と思う。
しかし、なにより嬉しかった。
おじちゃんが生きていると知って、とても嬉しかったのだ。
今考えると、これから人生が楽しみでしょうがない。
“夢”でもなんでも。希望があふれているように思えた。
──ああなんて、滑稽で、面白い。
だから私は、その矛盾の狭間で、笑う。

「はははははははははははははははっ、あはははははははははははっ!!!!」

腹がよじれるほど笑う。

笑うより他、無かった。

冬木くんも私と一緒に笑っていた。
それに加え、私の笑い声に何事かとやってきた母さんのキョトンとした顔もまた、面白かった。

  Re: 消えた思い出と今の生き方(鬼怒川綾乃×冬木武一) ( No.14 )
日時: 2007/05/31 21:20
名前: 無遠人形

後日談パート1






「おーっす、鬼怒川」

下校しようと下駄箱に手をかけた私に、そう呼び掛けて来る男子がいた。
冬木くんだった。

「おう」

すっかりいつもの調子を取り戻していた私は、だるそうに声を上げた。

「何か用?ナンパなら受け付けないわよ」
「いいじゃんか、クラスメイトに帰りの挨拶するくらいよ。まっ、ちゃんとした用事はあるんだけどさ。ちょっとそこまで付き合ってくれないか?」
「やだ」
「……え〜。即答デスカ?じゃあ途中一緒に帰ってもいい?俺とお前の仲だろ?」
「有り得ないね。一人で帰れ」
「……くくく。ははっ、ずいぶん元気になったな」

冬木くんは私に並び、靴を取り出す。私は冬木くんのいきなりな言葉の意味を咀嚼しつつ、待っててやった。

「以前より余程元気がありそうだ。何か良い“夢”でも見つけたのか?」
「………」

………。
だからなんで私を一目見ただけでそーゆーことがわかるのか知りたい。洞察力が鋭すぎないか?
簡単に心を読まれたことに腹が立ったので、無言できっつく睨んでやった。

「はいはいでしゃばりました。ごめんなさい」

悪びれずに言う冬木くんに、私は溜め息をついた。
ぞろぞろと他の生徒達が帰宅する中を、私と冬木くんは何故か並んで歩いていた。腕がくっつく程の距離ではなかったが。
私は一人でさっさと帰ろうとしていたのに、冬木くんが着いてきた。
相手にするのも面倒なので無視。
正門の外辺りで、冬木くんが話かけてきた。

「そういやさぁ。鬼怒川がカメラ借りることになった件は解決したのか?ほらあの、父親が浮気してたのなんのって」
「………」
「お〜い?」
「……あん?なんだって?」
「や、やめてくれ。そう怖い顔して俺を睨むなよ……」

私は思い出し、憤慨する。
丁度その事は私にとって鬼門だった。
なぜなら、

「その父さんと会ってた相手がね。昨日……家に来たのよ」
「え?!浮気相手が?!じゃあそのあとはもう家庭内修羅場?こう血で血を洗うような……」
「はん。まさか」

私は殊更馬鹿にするように鼻で笑い、そのなんとも人騒がせな話……いや私がたまたま見掛けて勝手に盛り上がっていただけなのだが、そこは棚に上げて紛らわしいことをした父さんへの非難を込めて、

「その女の人ね。父さんのお姉さんだそうなのよ」
「……お姉さん?んじゃ鬼怒川にとっておばさんってこと?」
「うん、そう」

まばらに矢神学生が見える並んで歩いていた。
私は苛立つ精神を落ち着けようと、そっぽを向くが、

「え?でもそれなら鬼怒川はその人に会ったことなかったんだ?顔がわからなかったんだし……」

私は我慢しきれず大声で、

「会ったことあるわよ!!」
「ぐえっ。む、胸ぐらを掴むな」
「悪かったわね!何回か会ったことあるわよ!でも……そんなのわかるわけないじゃない!!」
「……な、なんで?」

やや引き気味の冬木くんに言ってやる。

「整形してたのよ!!」

口をポカンと開いて、

「は?」
「だから整形よ!整形してたのよ!」
「整形?」
「その通り!!どこをどのくらい変えたのか聞いてないけどね!というかどこが前と同じなのかわからないしね!」
「………」
「つまりはこういうことよ。整形した後って見た目が不自然で顔の皮とかつっぱたりするじゃない。その療養期間に父さんを呼び出してたとこを私が見たってわけよ。ああもう腹の立つ」
「……なるほど」

人通りの少なくなってきた歩道を再び二人で歩き出した。

「なんというか……ひたすら無意味な事件だったんだな」
「悪い?!」
「悪くはないけど……」
「じゃあ黙れ」
「しかし鬼怒川に探偵は無理そうだなぁ。整形した人間を見分ける観察力もないんじゃあ……」
「うるさい黙れ」

住宅街に入る。
私は帰り道を急いでいた。
冬木くんも何故か私に着いてきている。そういえばさっき何か用事があるとか言っていたような……。
私が振り向いてそれを聞こうとすると、丁度冬木くんも口を開いた。

「なぁ鬼怒川。なんでそんなに急いでるんだ?」
「というかなんで冬木くんは着いて来るの?」
「………」
「………」

静かな住宅街の途中で少しばかり二人で見つめ合ってみたりした。
私に譲る気がないとわかったのか、冬木くんは顔を緩め、いきなり、

「最初はグー!」
「え?」
「ジャンケンポン!」

ジャンケンをした。
その勢いに、私は思わずグーを出す。冬木くんはパーを出していた。
得意気に、

「よしっ。じゃあ鬼怒川からそっちがなんで急いでるのか話してくれ」
「………」

私は出してしまった自分の拳を旧敵のように睨んだ。突然ジャンケンをすると、最初はグーと言われると次に出す手はグーが多くなる……のかもしれないと思った。
やや理不尽なものを感じたが、しかし話をするのも実はやぶさかではなかったので、私は仕方ないという風を装って、歩き出しながら話をし始めた。

「あのさ、冬木くんが話してくれたことなんだけど」
「あー、あのことか?」
「そう、あのこと」

私の脳裏におじちゃんの優しげな微笑がよぎる。その他、私の部屋に座るくまちゃんや、一緒に走った公園、最後に冬木くんの顔が通り過ぎた。
すると無意識なのだが、私の口元に悪戯を企んでいるような小悪魔的笑みが浮かんだ。
そんな笑みを不思議そうに見る冬木くんに、弁解するよう手を振り、

「いやいや。別にそんな大したことじゃないんだけどね。ほら、冬木くんのおじちゃんが生きてるって話さ、私としては信じていいのかどうなのかやっぱりまだ決められないのよ」
「……決められ、ない?」
「うん。でもまぁ冬木くんが私に嘘をつく必要もないし、カメラマン仲間の間では結構有名な話なんでしょ?」
「……おう。俺もそのおじちゃんの写真が好きだったからな。他の仲間達からも色々その話を聞いて──」
「いきなり!いきなり、そんなこと言われても、ね……。それまで悩んでた気持ちの積み重ねってのがあるじゃない。そうそう直ぐに、その気持ちを変えられやしないのよ」
「………」

冬木くんは困ったような表情をしてポリポリと頬をかく。私を慰めるために話を信じてもらいたいが、頑固な私を納得させる確たる証拠がないのだろう。
しかし、私はやはり、悪戯好きの小悪魔のような笑みで、その背をバシバシ叩いた。

「なぁにしけたツラしてんのよっ。冬木くんが話してくれなきゃ私はそんな噂すら知らなかったんだから」
「でも……なぁ……」

そう、冬木くんは己の役目を全うしたのだ。おじちゃんとの“思い出”を思い出して落ち込んでいた私に、おじちゃんは生きていると伝えるという役目を。
それを伝えられた、私。
しかし、私の心情としては、それを受け入れられなくて当然。
自分の目で確かめるまでは、おじちゃんが生きているなど信じられない。
もし信じて、それが間違いだった時、おじちゃんは私の中で二回死んだことになる。
もしそうなったら、私は冬木くんを恨んでしまうかもしれないから……。
だから……と私は鼻息荒く拳を握る。

「だからここからは私の役目。私にしか出来ない役目なのよ!」

冬木くんが何か事情を含んだ顔で、興奮している私に問う。

「いったい鬼怒川は何する気なんだ?」

私はそこで初めて、急いで帰宅している理由を口にした。

「私ね、これからバイトをしようと思ってんのよ。いいバイト先を探そうと、帰宅を急いでるってわけ」
「バイト?アルバイト?」
「そう、そのバイト」

私の言葉に思案した冬木くんが、何か思い当たることでもあったのか、

「……!まさか!」

その驚きに、私は会心の笑みを浮かべる。

「わかった?ふふ、まー多分冬木くんのご想像通りだと思うよ」
「まさか……本気で?」
「もちろん本気よ」

私の“今の夢”は、これだった。

「バイトでお金貯めて、おじちゃんに会いに行く!目指せ!海外旅行!」

さっきも言った。自分の目で確かめるまでは、信じない、と。ならば自分でおじちゃんを見に行けばよい。
私が辿り着いた結論は、そんな程度の単純なものだった。

「私みたいに無い頭をひねって将来の“夢”なんか考えたって、何か素晴らしいモノが出てくるわけないのよ。無から有は生まれないわ」

私は冬木くんにビシと指を突き付ける。

「まずはとりあえず何かをしてみる!何事も何でも経験してみないとねっ。だから若いから絶対“夢”を持たなきゃいけないなんて考え自体が間違ってんのよ」

少しだけ気分良く、冬木くんに対抗するような饒舌さで、

「世界は広い!一つしか価値のあるものがない、なんてことはない。社会に出ていくとそれがよくわかるんじゃないの?……ねぇ?」

私より大人な冬木くんに笑いかけた。少しは追い付けたかな、と密かに思った。

「というわけで、社会勉強と“夢”発見を兼ねて、おじちゃんに会いに行くことにしたのよ。一石三鳥!ってね」

おそらく心のどこかで、冬木くんのことを信頼しているのだろう。つまり、おじちゃんは生きているに違いないと感じていた。


「冬木くんにはね……ホント、感謝してるわ」


“思い出”は消えていた。

それまで──冬木くんと話すまで、大した出来事も無く、ただ惰性で生きていた私には“夢”も無かった。

だがしかし“思い出”はその名の通り“思い出”されていく。

様々な経験という程でもないが、初めて部活をサボり、放課後に男の子と喋り、屋上に盗み聞きのため潜み、西本会議に参加し、父親を無意味に追っかけたり。

中々に濃密な青春。
なあなあな惰性ではない。
自らが生きていると実感出来た。

そしておじちゃんを“思い出”す。

精神的にかなり危険だった。

今考えれば、自殺をしてもおかしくなかったと思うくらいに。

しかし、冬木くんに救われた。

助けられた。

その絶望からの復活で掴んだ、私の目標。

“未来の夢”への第一歩。

「これって、ありがとう、って言った方がいいのかな?謝礼金でもあげるべき?まーとにかく借りはちゃんと返すけどね」

私は冬木くんに偽悪的に笑いかける。
どうも素直になれなかった。
それに少し興奮しすぎたかもしれない。今更ながらに顔が赤くなっている気がする。

「と、とりあえず私は私に出来ることをしていくつもりよ。まずはバイト先を探さなきゃ!」

自分は元々地道なタイプなのだ。決して天才肌ではない。
コツコツと、出来ることをやっていく。

これが私の、今の生き方!!

……なーんちゃって。


















「くくくっ」

いきなり冬木くんが笑い始めた。

「あーはっはっは!」
「むっ……」

私は笑われた恥ずかしさから、むくれながら睨んだ。確かに自分でも喋り過ぎたとは思うが、何も爆笑することはないだろう。しかし冬木くんは一向に笑いを収めようとしない。

「ひーひっひ」
「なぁに笑ってんのよ!」

ガスガスと人差し指で額を突いてやる。

「痛い痛い。いや悪いね。鬼怒川が俺の用事を聞こうともせず物語を終わらせようとするからさ」
「………」

そういえば、冬木くんも私に用事があったから着いてきたんだったっけ。

「じゃあその用事ってのはなんなのよ。さっさと言いなさい。ロクでもない用事だったら許さないんだからね」

くくくとまだ笑いやがる冬木くんを拳を固めて牽制する。

「今の鬼怒川にとって、ロクでもないっちゃあロクでもないかもね」
「どういう意味よ」
「くくくっ。初めの一歩を踏み出す気構えが無駄になっちゃうかもってことさ」

そう言いながら冬服のポケットから取り出したのは二枚の紙切れだった。

「これなーんだ?」

渡された紙切れをじっくり見てみると、

「これって……航空券?」
「………」

さんざ溜めて、

「正解!」

ミリオネアの司会者的な腹の立つ笑顔を私に向ける。
冬木くんがその二枚の航空券の答えを語り始めた。

「俺がそのおじちゃんの噂を詳しく聞いた館長さんって覚えてる?昨日久しぶりに会いに行ったんだよ」

疑わしげな視線を向ける私を無視し、話しを続けた。

「まぁ何で行ったかって言ったら別に鬼怒川の話をしに行った訳じゃなくて、ただ単に今度そこの場所でする展覧会のことを聞きに行ったんだけどね」
「それで?」
「それでそこの館長さんと世間話してたらさ、面白いことを聞いたんだ」
「どんな?」
「その館長さんが、今度の長い休みに鬼怒川の大好きなあのおじちゃんに会いに行くって予定をね」
「!?!」

私は慌てて手の中の航空券を見る。その行き先はおじちゃんのいるらしい国で、日付は今度の冬休みとなっていた。ちょうど、というかいつもだが、冬休みは暇であった。
冬木くんは完全に悪党の顔で、

「これはチャンスだと思ったね。鬼怒川がおじちゃんに会いに行きたいと思うのは明白だったからさ。すかさず鬼怒川の話をしてやったよ。その館長さんは良くも悪くも優しい人だから、そういうメロドラマな感じの話に弱くてね」

冬木くんは少し舌を出して、

「俺も本気でその航空券を貰おうとは考えて無かったけどさ。ただなんとなく話してみただけで……。だから館長さんが号泣しながらその航空券をくれた時はびっくりしたよ」

白々しい言い方だ。
私は暴風のように吹き荒れる感情を抑えて、ようやくやれやれと首を振った。

「まったく、ふ、冬木くんも大概良い性格してるわね。本人のいないとこで泣き落とし使ってるんだから……。ほとんど詐欺じゃないの」
「いいじゃんか。別に嘘はついてない」
「そうだけど……」

じゃああれか、と冬木くんが私を見る。

「鬼怒川はそのチケット使いたくないんだな?」
「使う」

私は即答していた。

「うむっ。素直でよろしい」

冬木くんが満足げに頷いて私の前を歩く。
私は釈然としないものを抱え、手元の二枚の航空券を見た。
確かにもうバイトをする必要はなさそうである。せっかくの“夢”をいきなり潰された感じだった。

「……でも」

生きていれば、こういうこともあるのだろう。
自分の立てた目標が、絶対だとは限らないのだから。
……はてさて。
冬木くんはいつも私の先を行く。
それが腹立たしくもあり、虚しくもあり……少しだけ嬉しくもあった。なぜ嬉しいのかは自分にはわからないが、これも冬木くんに聞いたらわかるかもしれない。聞く気はないが。
しかし、そうしたら今からは忙しくなりそうである。冬休みに海外に行くことを家族に言わなくてはならない。
それに私は日本国内を出たことがないのだ。海外に行くために何をすればいいのかよくわからない。あとで家族か……冬木くんにでも聞いてみよう。
今前を行く冬木くんには、今気付いたことを聞いてみる。

「そういえばさ」
「ん?」
「なんで航空券が二枚あるわけ?」
「あれ?言ってなかったっけ?その館長さんは友達と一緒に二人でそこに行くつもりだったんだって。二枚くれるなんてふとっぱらだよなぁ」
「いや、そうじゃなくてさ」

私は騙されないよう様々な疑念を込めて、

「これは……私と一緒に誰が行くチケットなわけ?」

そうなのだ。
その館長さんが私のために航空券をくれたのなら一枚で十分事足りる。つまり──

「こういうことっ」

冬木くんが不意に私の手から一枚の航空券を抜き取った。
ようやく気付いてくれたとでも言うように、その紙切れをヒラヒラ揺らす。

「館長さんがねぇ、そのお嬢さん一人じゃ危ないからお前も着いてけ、だーってさ。くくっ、何か勘違いしてるよな」
「……冬木くんも行くの?!」
「うん、そのとーり」

私は驚愕のあまりチケットを落としてしまう。

「え?え?っていうことは冬木くんと旅行するの?」
「ま、そーなるわな」
「マジに二人っきりで?」
「うん、マジに二人っきりで」
「……がびーん……」
「がびーん、っておい古いな」

追い打ちをかけるように、

「大丈夫だってば。そんなに深く考えるなよ。俺もあの戦場写真を撮った人がどんな人なのか気になるし」
「………」
「──それに」
「それに?」
「ははっ、鬼怒川相手に間違いなんか起こさないさ。俺は鬼怒川の保護者の立場なんだから」
「……そ、それって」

つまり私は、冬木くんからすれば異性とも見られておらず、さらにこの生意気な男にすら保護される側である、ということか……。

「全然……」

私だって冬木くんのことは好きだとかなんだとか考えたこともないこともないかもしれないような気がする程度の関係だろうとは軽く予想してはいたが、こうも面と向かって明るく言われると……。

「嬉しくないわっ!!!」

おもいっきり蹴ってやった。




























後日談パート2







カーテンの隙間から、机の上に朝日が射し込む。

整頓されたその場所に、ちょこんと座る手作りの熊のヌイグルミがあった。

そのヌイグルミの隣に、これまた手作りの木枠の写真立てがあった。

その写真立ての中には、砂まみれの建物を背景に、三人の男女が写っていた。

左には、メガネをかけた男子高校生が無難にVサインをカメラに向けて。

右には、真ん中の少女の手で顔を隠された青年が、その少女に引っ張られ、体を傾けて。

真ん中には、その二人に挟まれて、とてもとても幸せそうに笑う女の子が、とてもとても幸せそうに写っていた。

………。

この写真は、写っている三人の手で現像されたことは言うまでもない。














注:この物語にはスクラン分が非常に不足しております。そこにはあまりツッコんでやらないでください。

というわけでども。無遠人形です。
幕間劇のつもりでしたが、すみません長くなりすぎました。今回も伏線をたくさん敷きました。これ以上言うべきこともないでしょう。
はっぴーはっぴーの次回作は新掲示板に書きます!
それでは皆さん、また次回お会いしましょ〜。




差し出がましいようですが、この『消えた思い出と今の生き方』に何かご感想があれば雑談掲示板か、あるいは↓にでも書いてくれると作者的に嬉しかったりなんだったりです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

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