End Of The Day(愛理・晶・天満・美琴)
日時: 2006/05/20 09:08
名前: バンター



               Leek Rag's Leek

 

 ・1

「――9時過ぎには出発しますから。愛理さん、準備をして置いてくださいね」
 そんな声とドアの閉まる音で愛理の意識ははっきりと覚醒した。
 ぼんやりと宙に漂っていた愛理の魂が、体の内に収納されたのだ。ドアを向こう、この部屋から離れて自分の部屋へと戻っていくのは、彼女の愛するお母様。
 体の中に戻ってきたはずの魂が体に馴染んでいないのか、それとも母親に告げられた言葉の重みに押しつぶされそうなのか。愛理は、そのどちらでもいいと思う。
 ――お見合いを壊したんだもの。お父様のお怒りを受ける事くらい、分かっていたわ。
 しんと体に通ってくる冷たさが部屋に充満していた。
 ぎゅっとベッドの中で背を丸め、冷気からの容赦ない攻撃を防ごうとする。しかし、温もっている筈の寝間着やベッドは愛理の心までは温めてくれない。
「……何よ」
 ――でも、決心がつくわけもないし、後悔が無いわけじゃない。
 潜り込んだ布団から頭だけを出して見慣れた部屋の様子を眺めた。
 ――この部屋ともお別れ……か。
 矢神に住むようになってからずっと愛理とともにあった部屋。
 四柱の支える天蓋からは薄いカーテンと、フカフカの体が沈み込むベッドは愛理の体を包んでいた。肌に馴染んだ気安い家具達。それらには共に歩いた時間がしっかりと刻み込まれている。
 右の手が枕に伸びれば、気を使ってメイドが洗った気配りの届いた布地の感触。左の手がベッドの表面を撫でれば多少の皺が入っても気にならないほど滑らかなシーツの心地。そこには毎晩肌を触れ合わせてきた安心感があった。
 ――決めたのは、私じゃない。お父様よ。
 お父様のせいにした愛理はぐっとかけ布団をかぶり、目を閉じた。
 ――でも……一体、何から隠れるというの。
 運命から?
 迫り来る時間から?
 どうにもならない状況から?
 再び顔を出してふっと笑った。
 視線の先、机の上にはカラフルな色をした箱が二つ乗っかっている。夕方、愛理の友達である塚本天満達と作った自信作だ。料理が得意でない、どちらかと言えば苦手な方な愛理が二時間かけて作ったものだ。だから、受け取って欲しかった。笑顔で渡したかった。一つは愛理の好きな『お父様』に。もう一つは、愛理の頭の内で似つかわしくない優しさを持って接してくれる、クラスメートの『ヒゲ』。
 ――もっとも、『お父様』は忙しい人だから直接贈る事なんて出来ないだろうけれど。
 愛理は二つの箱をそっと胸元に寄せると、再び机の上に戻した。
「何を悩んでるのよ。ここには私の居場所なんて……」
 ――そうだろうか。
 心の中に一点の染みがある。
 それは、遠くから見て意識しなければ何の変哲も無い不安要素の一つ。
 もう少しだけ近くによると、くるくると廻る輪に。
 不安、それ自体がくるくると廻る輪だ。
 目を凝らして横から見ると、奥へ奥へと心を掘り進む螺旋に。
 不安は点で。
 不安は輪で。
 不安は心に傷をつける螺旋だ。
「ここに、私の居場所なんて無い……から」
 ――それは此処から出て行く私の言い訳だ。
    そう思っていれば傷をつかなくてすむ。少々の事なら慣れているもの。
    友達だって私の事をすぐに忘れてくれる。
    心配なんかして欲しくない――いや、して欲しい?
    美琴や晶や天満や、クラスの友達が悲しむのは、嫌、だ――悲しまなかったら?
    ヒゲは私の事を……否、もういい。疲れた。
 再び布団をかぶっては一生懸命に潜り込んで、ちょっぴり泣いた。
「居場所なんて無いのよ……何処にも」
 ――それは此処から出て行く私の言い訳だ。
    そう思っていれば誰にも傷を与えなくてすむ。少々の事ならきっと許してくれる。
    まして親友達なら私の気持ちを分かってくれる。
    心配して欲しい――して欲しくない?
    美琴や晶や天満や、クラスの友達が悲しまなかったら――悲しんで……くれる?
    私はヒゲの事を……いいや、もういい。疲れた。
 再び顔を出して笑った。
 涙の流れた枕はシミができて、じんわりと大きくなっていく。
 愛理は体を起こして隣の部屋へと向かった。
 ソファーに腰掛けて窓の外の景色を見ると、矢神公園のうっそうと茂る森が黒々と闇を喰らっていた。外灯は表面の葉を照らすが、それは光の些細な抵抗である。午前二時の世界を支配するのは、法則に当てはめられた予定通りな宵闇だった。隊列の整った時間の流れは五時間分の距離を行進した末に朝日と出会うだろう。
 愛理は、そんな時間が隊列を崩してもおかしくない金色の髪に手を入れて流した。遠く、外灯からの光で愛理の髪が輝く。生まれ持った物に何の感慨も浮かばない。この世界は、ため息だけが白く、外灯は昼発色の滲んだ光を発している。
「馬鹿よね。……馬鹿よ」
 愛理の問いは宙に消え、吐いた息は部屋にとけていった。
 ――私にできる事なんて、些細な事しかないじゃない。
 組んだ足の方を上げてつま先を見た。
 ――人間が歩くための足だわ。
「ホント、私にできるのはこのくらい……か」
 心に巣食う染みはくるくると点は廻り、円を描き、それは螺旋に。愛理の心の内は言い様の無い不安と、それを強化するだけの思考しかなかった。不安が不安を呼び、不安の連鎖に拍車をかけている。
 螺旋は輪に、輪は点に。宇宙は一本の紐で説明出来るらしいのだが、自分の悩みも案外そんな物かも知れないと思った。しかし、それは後から振り返った自分が感じるもので、今この場で悩んでいる自分が手に入れるのは不可能だ。
 問題が解決しそうにはなるが、その選択で良かったのかという不安が生まれてくる。不安の末に解決して、解決すれば不安が襲ってくる。問題が重要であればあるからこそ、決心がつかない。リサイクルのマークが思い返されていて、その輪の中の数字は無限大を示していそうだなと鼻で笑った。
 矛盾を説明するのは容易くとも、解決するのはまた違った要素を必要とする。
「最後だもの。自分の目でちゃんと見ておかないと……」
 また、解決する方法も容易くは無く、また要点の掴めていないポイントばかりで、役には立たない。そんなバラバラでデタラメなもので螺旋はできていた。それは輪で、点でもある。染みの本質は、愛理の不安と諦めとほんの僅かな希望。
 はっきりと分かる事実は一つ。
 矛盾とは一つの点にしかすぎないのだ。
 決意さえあれば簡単に論破できる、脆弱な構造である。しかし、現実は机上で展開されるものとは違い、様々な影響を受けて未来は変わってくる。何気なく、そのように考えていた。
 ――後から省みて文句を言うのは馬鹿のやる事だわ。
 この一年間、その繰り返しだった事を思い出した。二年に入ってから交友関係が広がり、それに伴って気に掛ける部分も多くなった。地の部分をさらけ出す事にも怯えなくなって、それでいいとも思った。だが、良い事ばかりでもない。世の中そんなものだ。
 ――だからって、身動きがとれなくなるっていうのも本末転倒よね。
 不安は一つではない。それぞれが独立しながら連動している。愛理の中の染みは心の所々にあって、相互作用の結果は息苦しさを覚える不安となって目の前に立ちはだかっている。小学生の頃の、成長期の体の変化に感じた戸惑いににているのかも。高校に入ってからも成長を続ける体を伸びをしてほぐしてみた。
 愛理は一度息を吐き、体をソファーに預けた。暗闇は優しく愛理を包んでくれはしたが、しんと冷えた空気までは愛理の気持ちを汲み取ってはくれなかった。今、自分が考えていたことは何だったのだろう。きっと、意味などなかったのだわ。何の意味も無い妄想に精確を期す必要など無いのだから。そんな事を思いながら、染みとか螺旋とかそんな馬鹿な考えを、鼻をかんだティッシュと共にゴミ箱へ投げ捨てた。
 自分のすべき事を設定したみたら、そんな袋小路に入り込んでしまうような考えは時間の無駄にしか思えなかったのだ。
 人前では決して見せない大きな欠伸をした後、涙をそんな仕草に紛らわせて慣れ親しんだベッドに飛び込んでいった。


 

End Of The Day ( No.1 )
日時: 2006/05/20 14:27
名前: バンター



 ・2

 ポリポリと音を立てながらポッキーを食べている少女を、胸の大きな少女は可愛らしいぬいぐるみを抱いたまま見ている。時間を気にして時計を見ているのだが、前に見た時よりポッキー一本分しか時間が経っていない事を胸の大きな少女は知っていた。
「あー、言った方がいいのかなー」
「え、何? 美コちゃん?」
 目の前で座布団に座りポッキーをリスの様に細かくポリポリとポリっている少女を見ながら美コちゃんと呼ばれた少女は、はぁーと息を吐いた。美コちゃんがぬいぐるみを抱きしめているので胸元が押しつぶされてしまって、服の中に隠されている柔らかいゴムボールが歪んでいるように見える。
「…………太るぞ」
「そ……そそそそそそそんな事ナイヨ! 昨日は夕飯お代わりしなかったもん!」
 ポッキーを食べていた少女は今まで自分がポッキーを食べていたと言う自覚すらなかったのか、美コちゃんにポッキーの箱と袋を押し付けてきた。
「じゃなくてよ、今そんなに食べてたら、夕飯食べなくても一緒だろ?」
「じ、じゃあ美コちゃん。美コちゃんだって、昨日チョコ作った時につまみ食いしてたよね。味見だって言って!」
「あれはあたしと高野の特権だからな。塚本と沢近は一回も自分で作ったこと無いんだろ?」
「うん」
 ずずずとお茶を啜りながら少女――塚本天満は答えた。
「しっかり味を見とかないと大変な事になるんだぞ? チョコとか甘いものは悲惨な事になるからな」
「あまった物を愛理ちゃんと食べたんだけど、愛理ちゃんも凄く美味しいって言ってたよ」
「沢近のヤツ、気合入っていたもんなー」
「誰にあげるのかな?」
「そりゃー……決まってんだろ」
「えーっ。美コちゃん知ってるの? 愛理ちゃんが誰にあげるのか」
「オトコだよ、オトコ」
「それは知ってるよ。だから、どんな人にあげるのかって聞いてるの」
「どーしよっかなー」
「あーっ、そんな事言って! じゃあいいもん。晶ちゃんが来たら聞くから!」
「おー、そーしてもらえーっ!」
 天満は両側に作られているピコピコをブンブン振りながら、美コちゃんの持っているヌイグルミに突っ込んで行った。きゃーきゃーと言いながら二人がじゃれあっていると、一階の方から美コちゃんの母親の声がする。
「やっと高野のヤツが来たみたいだな!」
「うんっ、そーだね。愛理ちゃんが誰にチョコをあげるのか、聞き出しちゃうんだからっ」
 二人は、二階の階段を上がってくる晶を今か今かと待ち構えていた。

 妙な緊張感が部屋には充満している。
 塚本天満、周防美琴の共通の友人でありクラスメートの高野晶は二人の目の前に座り、部屋に入ってから一度も口を開かなかったからだ。美琴は近くの電線に止まっているカラスが目に入ってきて、少し気になった。
 晶が姿勢良く正座しているものだから二人も同じ様に正座をして向かい合っている。最初の一言が言い出せないのに気がついていないのか、晶は美琴の母から出されたコーヒーに口をつけている。何気ない仕草が美しいその動きを止めるのが勿体無く思って、天満も美琴は一連の動作が終わるのを待った。
「……あー、高野?」
 美琴は天満のピコピコを見ながら、さりげなさを装いながら口を開いた。喋りだしてしまえば、後は話の流れで雰囲気を換えられる。美琴が口を開いた事に天満の緊張も解けたのか、足を崩してオレンジジュースに手を伸ばした。
「何かしら、美琴さん」
「あー、うん。遅かったなって思って。昼過ぎに来るって言ってたのによ」
「ちょっと気になる事があって」
「ん? 何だよ」
 晶は天満の手に持たれたジュースを盆に戻させると、携帯を取り出してどこかに電話をかけてみせた。しんとした部屋に携帯が繋がらないというアナウンスが流れる。二人は晶の行動の意味が分からず、ただ携帯から流れるアナウンスに耳を傾けるしかなかった。
「……あの、晶ちゃん?」
 痺れをきらせた天満が声をかけた。
「今、愛理の携帯にかけてみたの」
「沢近に?」
「ええ」
「ちょっと気になって、って言ってたけど、それと何か関係があるのか?」
 晶は携帯を切ってポケットに入れ、静かに話し始めた。
「昨日の夕方、私達が集まってチョコレートを作ったのは覚えているわよね」
「うん! 私一人じゃ無理だから助かったよぉ」
「確かに塚本だけじゃ無理だよな」
 明るい話題になるのかと天満と美琴は肩の力を抜こうとしたが、晶の掴みづらい表情の中に真剣さが垣間見え、二人は口を閉ざした。
「……話を続けるわ。天満の事じゃなくて、愛理の様子が気になっていたの。あれは確か……チョコレートを型に入れて冷やしている最中だったはずだわ。あの時、愛理の携帯が鳴って。その後、愛理の口数が減ったの」
「うーん、愛理ちゃんのお喋り……ねぇ。携帯が鳴ったのは知ってるよ。愛理ちゃんと味見をしてみようかって話をしていて、美コちゃんや晶ちゃんにちょこっと小皿にとってもらっていたもの。愛理ちゃんが携帯に出ちゃったもんだから、私は美コちゃんと話していたよ」
「あー、そういやそういう事もあったっけ」
 天満はその時の状況をジェスチャーで示し、美琴は胡坐をかいて手を叩いた。晶は、二人の記憶が一致した事を確認して、さらに続けた。
「何の電話だったのかは分からないけど、確かに愛理の口数が減ったの。しばらくしたら元に戻ったけれど、私はその時から気になっていたわ。今朝、目が覚めてから美琴さんの家に向かおうと家を出るまでずっとその事が引っかかっていたの。美琴さんの家で愛理に聞いてみようと思ったけれど、話したくない事かも知れないから先に携帯で聞いておこうとして……それで携帯に繋がらなくて」
 晶は一息に話してみて、自分が急いで話を進めていることに気がついたらしい。誰にも気付かれないほどの溜息。何度か呼吸を整えた。
「……美琴さんの家に来る前に愛理の家まで行ってみたの。一緒に美琴さんの家に行く事にすれば違和感なんて無いでしょ? 応対してくれたのはいつものメイドさんではなくて、ナカムラさんだった。ナカムラさんが言うには、愛理は朝のうちから家を出ているわ。話を聞いていると、愛理の家では私達と遊んでいると思っているみたいだった。僅かに覗けた家の中では、使用人達が慌ただしく働いている姿があったわ。普段の屋敷の雰囲気とは違って、どこかざわついた印象だった」
 晶は自分の前に置いた携帯に目をやると、それをじっと見つめる。
 再び、妙な緊張感を持った空気が流れ始めた。
「それで遅れたんだ」
 天満の口が開くと同時に鳥が羽ばたく音がした。美琴が音のした方に目をやると、電線に止まっていたカラスが見えなくなっている。
「ええ。今日は美琴さんの家に集まる予定だけれど、愛理から連絡は来てる?」
 天満も美琴も首を横に振った。
「じゃあさ、探しに行こうよ!」
 重たい空気を切り裂く力強い声。跳ね上がるようにして立ち上がった天満に二人の視線が集まる。天満の明るさが伝染したように美琴も晶もそれまでの思わず眉を顰めてしまう険しい表情を崩した。
「きっと……何かあったんだよ! 愛理ちゃんに何か困っている事があれば、私達の出番だよ、うん!」
「ま、しゃーねぇわな」
 よっこらせ、と立ち上がる美琴の手を取った天満はブンブンと振った。瞳の中に炎を燃え上がらせている天満と、『どうするんだ、高野』と不敵に笑う美琴に見下ろされ、晶は頭を軽く左右に降って笑った。
「ふっ……。まぁ、ナカムラさんが慌てていない様子だったから、事故の心配はないと思うけどね」
 音も無くすっと立ち上がった晶に天満と美琴が近づいた。やる気を出している天満は手を出すと二人に手を重ねる様にくいくいと動かすので、美琴と晶は顔を見合ってはしぶしぶ手を重ねた。ふにふにとした天満の手の上に、美琴の少し大きな手と、晶の肉の付いてない薄い手が乗った。
「じゃあ、美コちゃん、晶ちゃん。私達、愛理ちゃん捜し出し隊の出陣よ!」
「なぁ塚本。そのネーミング、何とかならねぇのか?」
「じゃあ……矢神少女探偵団っていうのは? 難事件も解決よ!」
「どっちも変わらないわ。それよりも早く行きましょう」
 なかなか部屋を出ようとしない天満と美琴を置いて、晶がそそくさと部屋を出て行く。
「高野、置いていくなよ」
「あっ、晶ちゃん……もうっ、美コちゃんまで! 待ってよぉ」
 二人は晶について行きながらそんな事を言い、晶も二人がついてきている事を承知で何も言わなかった。一階のリビングから出てきた美琴の母の「いってらっしゃい」という声に応えながら、三人は美琴の家を出て行った。



「あーもう播磨君! 遅いよ!」
「す、すまねぇ塚本。バイクを止められる所が無くてよ」
 目の前で天満にヘこへこしている拳児の姿は美琴を不安な気分にするには十分だった。助っ人として集めたのは道場で暇そうに鍛錬をしていた花井と、自分の胸までしかない背の女の子に一方的に言い負かされている播磨拳児の二人だった。
 天満、美琴、晶の女子三人に、播磨拳児・花井春樹の男二人が路上に広がっている。
 天満達はともかくとして背の高い男が睨みあっていると特異に映るらしく、こんな二人に関わる事を避けて横を過ぎていく人々に美琴は心の中で謝った。あたしのせいじゃないんですけれど、と付け加える事を忘れずに。
「で、僕に何をして欲しいのだ」
 何でも来い、と胸を張って腕を組んだ春樹に晶はずいと寄った。苦手にしている晶に近づかれまいと春樹は後ずさったが、何も考えずに春樹をおちょくる晶ではない。すぐ後ろの壁に背を付け動けなくなった春樹へ、どう料理してやろうかと晶がにじり寄っていく姿が美琴の目に止まった。
「高野。あんまり遊ぶな」
 ちっ、と晶が息を吐き、開放された春樹は命からがら生還する事に成功する。
 拳児と春樹の間に天満と美琴を立たせて緩衝材の代わりにした晶は男二人に集まってもらった理由を簡潔に述べた――
「愛理が行方不明なのよ」
「愛理……沢近君か! ん、行方不明とは?」
「言葉通り、朝から行方が知れないという事よ」
「お嬢が?」
 心配そうな天満の様子につられた拳児が声を出すと、晶はそうよと答える。
「高野……」
 晶が俯いて腕時計を確認している。拳児と春樹は声をかけ辛そうに声のトーンを落とした。
 背の高い二人が天満とさほど変わらない身長の晶に従えられている姿は見慣れたものだ。美琴は天満と三人を眺めている。傍から見ればこれほど面白い出し物はない。もっとも自分の方に火の子が降りかからない限り、と限定が付くのだが。
「……待って、エルカドのタイムサービスが終わってしまうわ」
「え、何、晶ちゃん?」
 予想された台詞と違い少し焦った声の晶に、目を輝かせた天満が確認を取る。もちろん焦った声色にではなく、エルカドのタイムサービスにだが。
 美琴と天満が晶と話をし始めたのを皮切りに、拳児と春樹は顔を見合わせた。
「タイムサービス?」
 思わず声を揃えてしまった事を切っ掛けにいがみ合う必要はなかった。拳児は天満に腕を取られ、春樹は美琴に背中を押され連行されてしまったからだ。これから何が起こるんだ、という二人の問いかけが口から出る事はない。
 二人の天敵である晶が天満と美琴を指揮しているのだから。そんな茶道部部長に逆らう事など二人に出来るはずもなかった。


 エルカドの中は香ばしく甘い香りで満ちていた。
 女の子ならば年齢を問わずに魅了されるその香りに、天満や美琴はニコニコ顔を隠せないでいる。もちろん晶もそんな女の子達と同じく表情を綻ばせているのだが、それに気が付く事の出来る金髪の少女はここにいない。
 三人に負けず劣らず、もしくは以上にニヘラニヘラとだらしなく顔を緩めきっているのが、拳児の横に座った花井春樹である。
 春樹の恋焦がれる塚本八雲が某有名メイドカフェの制服を着て応対をしてくれているものだから顔が緩むのも仕方がない。が、アルバイトを頑張っている妹を誇らしげに皆に示したがる天満もどうかと拳児は思った。
 メニューを回収しオーダーを聞きに来ただけの八雲は、かれこれ五分近く天満達のいるテーブルに拘束されている。メニューの載っている冊子で胸を隠すように抱えている八雲は、どうやってテーブルから離れようかと迷っているようだ。
 春樹から八雲を守るためにと高野によって配置された席の関係上、八雲に一番近い席にいる拳児が声をかけた。
「あのよ、妹さん」
「はい、播磨さん……」
「オーダーは聞いたんだ。もう行った方がいいんじゃねぇか?」
「そーだぞ、八雲ちゃん。こんな眼鏡に構う事なんてないんだから、って高野。お前も何か言わないのかよ」
「困っている八雲も、良いなって。サラに八雲のバイトの時間を聞いておいてよかったわ」
 拳児に乗っかって会話に入ってきた美琴は晶に話を振ると、真面目な顔をしてそんな事を言った。晶の言葉に天満も「八雲はスタイルがいいしねー」などと言いながらうんうんと頷いている。
「……では、もう一度復唱します」
 特に反応しない事が一番の対抗策だと知っている八雲が、全員分のオーダーをおさらいすると美琴が代表して「ああ。それでいいよ、八雲ちゃん」と言った。
 八雲のスカートから出ている足の、いわゆる絶対領域とやらに目が釘付けになってだらしない顔を晒している春樹を無視しながら、拳児は晶に尋ねた。
「でよ、こんなトコにお嬢が来るっていうのか?」
「来ないわ」
 晶の明快な切れ味の一言に目を見開いた拳児は、開いた口を閉じる事が出来なかった。そんなやり取りが横で行われれば、学級委員長体質――悪く言えばお節介焼きの春樹も、絶対領域の桃源郷の妄想世界から現実に帰ってくるというものだ。
 先ほどまでのニヘラとした顔とはまるで別人の春樹が、それまでの落ちぶれた自己評価を回復するがごとく口を開こうとして、また顔の筋肉を崩した。
 魅力的な絶対領域を見られる事に慣れていないのか、少し顔を赤らめた八雲がすぐに出す事のできるオーダーのコーヒーやケーキを持ってきたのだ。天満の頼んだチーズスフレが午前中に売切れてしまい、もうすぐ焼きあがる旨を伝えると、妹に向かってニコニコ顔で姉は頷く。そんな姉妹のやり取りに他の四人が和んだ後、オレンジマーマレードのかかった焼きたてのスコーンをフォークで切り裂いていく晶の口がおもむろに開かれた。
「ここに来たのは、愛理を探す為の準備みたいなものだと思って」
「準備?」
 拳児と春樹と、なぜか天満まで声を揃えた。
「三班に班を分けるわ。まず、美琴さんと花井が組んで」
 春樹と美琴の二人も晶の提案に頷く。
 そこで、拳児の脳裏に浮かんだのは、都合よく天満と自分がペアとして選ばれるという事。そして、お嬢を探すというものではなく、天満とデートしてそのついでにお嬢の世話もしてやろうとか、そういったものだった。
「で、私と天満」
「うんっ! 頑張ろうね、晶ちゃん!」
「ま、仕方ねーな。高野の願い、聞いてやらんでもな――って、えぇ!?」
 驚いてしまった事を何とか隠して平静を装っていても拳児は動揺を隠し切れず、熱いコーヒーを自分の手にこぼしてしまっても気付いていない。気を利かせた春樹がおしぼりを拳児の手の傍に置いてやると、「あ、すんません」などと言っている。
「そう。じゃあお願いね、播磨君」
「え、いや、そーじゃなくて……」
 晶の真面目な顔が真正面にあると拳児も思わずたじろいだ。晶が無言で放つ、同じ家に住んでいる従姉の刑部絃子とよく似たオーラに泣き出しそうになる。それでも健気に抗議の意を示そうとして、天満の「すっごーい播磨君。一人でも頑張ってね!」といった声にかき消されてしまった。
「おうよっ、任せておけ……!!」
 天満からの応援に威勢のいい拳児に向かって面白そうに声をかける美琴や晶、感心したと声を出す春樹。拳児の耳には天満以外の声は入らない。愛理の事に関して一区切り付いたと判断した天満がピコピコをリズム良く振っているのを、何を言ってんだ俺はと心の中で涙を流しながら見ていたからだ。
 そんな拳児の心を知らない天満は、遠くキッチンの方から顔を見せた八雲に向かって手を振っていた。
 テーブルの上に美琴の家から持ってきた携帯用の小さな地図が広げられた。晶の細い指がそれぞれの担当する範囲を囲っていく。
「じゃあ、播磨君はココとココとこの辺をお願い」
「バイク持ちはつらいなー」
「頑張って探索してくれ!」
 晶や美琴、春樹の声など届いてなどいない。拳児は、いまかいまかと待ちわびたチーズスフレを八雲に届けてもらった天満の、自分まで幸せになりそうな笑顔に魅了されていたのだから。






                          City of Blinding Lights



 ・3

 辺りを見渡せばそこら中にカップルがいた。どうみても一人身でいる自分なんかより幸せなのだろうな。そんなことを思いながら、愛理はそこら中で熱くなっているカップル達を尻目に歩いていた。
 ――不思議と羨ましいとか思わないものね。
 そこにいつもつるんでいる三人の顔が出てきて、愛理は頭を振った。
「……何思い出してるのよ、馬鹿」
 輝くような金髪より少しくすんだ色のコートが体を包んでくれているおかげで愛理の体が冷える事はなかったが、周りにいるカップル達の温度が高いのでどこか薄ら寒く感じてしまう。ふと国営放送の特集で見た、いわし漁の網上げの映像が頭に浮かんだ。あの大きくて広い網ならここにいるカップル達を一網打尽に出来るのかしら。そんな馬鹿げたことを考えてもちっとも楽しくない。足元の小石が靴に触れて蹴り飛ばされたのを目で追うと、水はけの為に開いている地面にはめられた格子の間に落ちていった。
 バレンタインデーの前日の日曜日。バレンタイン当日が月曜日とあって、街中にはいたるところにチョコの売りつくしに必死な店があった。
 大型のショッピングモールはドーム型の天井から眩しいほどの光を落としている。愛理の頭の中では、昨日天満達とバレンタインチョコレートの材料を買いに来た記憶が繰り返し流れている。
 愛理が天満達と訪れた店の様子を見てみると、なかなか繁盛しているように見える――が、それ以上興味を引くものはなく、初めから何も見なかったかの様に立ち去っていった。
 矢神から少し離れた、より都会な街。その街のショッピングモールの噴水を終着地点に設定して一日を使い歩き続けていた。天満達とチョコを買いに来たショッピングモールは、昨日と同じかそれ以上に賑わっていた。
 これが最後になる。と、そう思えば何もかもが真新しく、そしてひどく懐かしい物のように思われてくる。今まで一度として意識すらしなかった街灯のボルトまでにでもそんな考えが及んで、思わず苦笑いをしたくなる。愛理がブーツを鳴らして歩いていると、やがて中央広場にでんと構えられた大きな噴水が見えてくる。
 ――ああ、あれがゴールなのね。
 朝、家を出る前に決めた漠然としたイメージの噴水がいざ目の前に現れると、なんだか感慨深いものがあった。
 相変らずカップル達の姿が視界に入ってきて、いいかげんにしてと叫んでしまいたくなる。そんな気持ちを押し殺して、愛理は噴水の近くにあるベンチに腰を下ろした。
「……あー、疲れた」
 うん、と足を伸ばして、肩を回して。気持ちの良い部類の疲労でなく、どちらかというとまつわりついてくるタイプの嫌な疲労感。
 ――小さな頃はこんな感覚味わった事なかったのに。歳かしら?
 けれど、この程度の代償を払わないで成し遂げられるものでないと考えていたし、じっさいに疲労感が襲ってきても防御する術も知っていた。計画を立てた通りに一日を過ごしてみて浮かんだ感想は、こんなものか、というもの。
 ショッピングモール内のお知らせを流しているスピーカーが遠くてよかった。愛理は商売優先の内容に苛立ちを隠せないでいたけれど、唸っていても仕方がない。そう考える大人な自分も感じている。諦めの早い、お利巧さんな沢近愛理がすぐ後ろにいるような気がして。けれど、そんな自分も否定はしない。
 時間が来たのか噴水が突然上がりカップルや子供達が歓声を上げる。水中からのライトを当てられた噴水はそれぞれが緑や黄色など五色に色付けされていて、そういえば冬季オリンピックが始まっていたんだわ、と思い出させてくれた。
 ――昨日はここで、皆で騒いでいたわね。
 ショッピングモールのシンボルでもある噴水の前では、携帯のカメラで写真を取っている家族連れがいる。そんな家族の姿を自分の親に重ねてみて、愛理は目を閉じた。瞼を閉じても遮る事のできない眩しい光。自分の影すら薄くしてしまう強い光は、自分の目を盲目にしてしまいそうだと思えた。
 電光掲示板、ブランドショップの看板、ソフトクリームを食べている子供のパネル。自分には必要の無いものだと思ったが、周りにいる大勢の人達には必要なのかしらと思った。金銭感覚がおかしいと思わない。幼い頃からそうであったように、これからも変わらないだろう。そう考えて、それはお父様のお陰なのだと思った。
 ――結局、家に戻る事になるのよね。
 ベンチから立ち上がった愛理の視界にふと入ってきたそれを通り越して帰ろうとして、それって何だったかしら、と視界を元に戻すと思わず「きゃっ」っと声を上げてしまった。
 ――なんであいつがいるのよ!
 それから目が離せないでいると、それは人込みを掻き分けるようにしてやってきた。
「……あ」
 ――なんで私がうろたえなきゃならないのよ!
 愛理は軽く深呼吸をすると、普段と代わりのないよう注意しながら振舞おうとした。
「何よ、あんたがこんな所にいるなんて……」
「……見つけた」
 拳児の間の抜けた声に愛理の気概が削がれる。
「は? 見つ……けた?」
「おめぇ、お嬢……だよな? 瓜二つのそっくりさん、って事はないよな」
「あんたを知らなかったら返事なんかしないわよ」
「確かに、こんなことを言う性悪はお嬢だけだ」
「だっ、誰が性悪よっ!」
「オメェだよ、オメェ……って嘘です、沢近さん。その握りこぶしを御鎮めください」
「口は災いの元だって教えられなかったのかしら」
「ぐ……言わせておけば」
「あら、何かしら。何か言いたい事があるようだけど?」
「……なんでもねぇよ」
 拳児が当たり前のように横に座るものだから愛理も場所を空けてやり、「あ、ごめんなさい」という台詞まで吐いた。
 時間にすると数分、愛理にしてみればあっという間の時間が過ぎてから、何か変ではないかと疑問が湧いてくる。その間も特に問題なく言葉をかわしていたが、急に意識し始めてしまうと口を閉ざしてしまった
 ――私、ベンチに座ってる。
    ヒゲ、ベンチに座ってる。
    私とヒゲ、一緒に座ってる。
    私と……ヒゲ……座ってる? どこに? 隣り合って?
「ねぇ、ヒゲ」
「うん? 何だよ」
「あんた、何で座ってんのよ」
「そりゃあオメェ、疲れてっからよ」
「……疲れ――って、何が」
「オメェを探してたんだよ、お嬢」
「――――――っ!!」
 愛理は息が止まる思いをした。
 ――ヒゲが私を探しに? どうして? なんで?
 両手を胸に当てて深呼吸を繰り返しながら色々なシミュレーションが愛理の頭の中で行なわれ、それらがまとまらないのでしだいに頭が熱を放ち始める。拳児の顔が思ったよりも近くにあって、それが赤面に拍車をかけた。
「……大丈夫か? 顔が真っ赤になってっけど」
「だ、大丈夫よ! 平気だから、そんなに近づかないでよ!」
「分かったからそんなに大声出すなっつーの」
 拳児がぶっきらぼうにそう言って噴水の方を見るものだから、二人の会話はそれっきりになった。少なくとも、そう考えていた。
 ――いつもこうだわ。ヒゲと話していると、こうなっちゃう。
 声をかけてきたナンパな男に素の自分を見せるはずはなかったけれど、三人の親友にも見せた事なんてない物言いが自然と出てきた。
 仲良くできるのなら、そうなっても差し支えの無い男。うん。きっとそうよ。愛理は、ぼんやりと膝の上でそろえられた自分の手のひらを見ながらそう思った。
「探していた……って?」
「あ、何が?」
「私を探していたって、そう言ったから。何時から?」
「昼過ぎくらいからかな。まさか、お嬢を探しに隣町まで来るとは思わなかったぜ」
「そう……」
 何の為、誰の為に、私を探していたのよ。そう口にしてみたいが、たくさんの気恥ずかしさと、それを言う事によって自分と拳児の関係がどう変化してしまうのか分からない怖さが唇を強張らせている。ショッピングモールは屋根が付いているが吹き抜けで、確かに寒い。しかし幾らひねくれようとしても、愛理には吹き抜けから入り込んでくる冷気が唇を強張らせる原因だとは感じなかった。
「高野達に頼まれてよ」
 ――ああ、そうだ。
 愛理は一つの答えにたどり着いている。
「頼まれたから……だから探したの?」
「高野には世話になった事もあったしよ。貸りっぱなしも嫌だからな」
「約束事だから?」
「義理……だな」
 ――義理、か。
 本当に正直に喋ってくれる拳児に、愛理の熱を持っていた頭は急速冷凍されていく。そのおかげか、肩掛けのポーチに入った一つの包みの事も思い出した。
「ねぇ、ヒゲ」
「……お嬢?」
「チョコ、いる?」
「チョコって……」
「明日、バレンタインデーじゃない。どうせ、誰にも貰えないんでしょ?」
「まぁな。それに明日はバイトがあるしよ」
 愛理の頭脳では、バレンタインデーとアルバイトの間にどのような関係があるのか分からなかったが、とりあえず「ふぅん」とだけ呟いておく。
 ポーチの中の包みを取り出して渡すと、拳児は愛理がティッシュを渡すくらいの気軽さだったものだから驚いてしまい、ベンチから腰を上げてしまった。
「あの……んだよ……コレ」
「そういう風に摘まないでくれる? ゴミじゃないんだから」
 拳児が人差し指と親指でゴミを摘むように箱を持つ事に抗議を出した後、「食べてみてよ」とお願いをしてみた。
「こ、ここでか?」
「天満達と一緒に作ったんだもの、味の方は大丈夫よ」
 拳児は天満達の名前に一瞬顔を緩めた後、神妙な面持ちでチョコの入った箱を眺めている。
 愛理の指がポーチのファスナーに伸びてもう一つの包みを隠した頃、拳児は腹を決めたように「おし」と息を吐いた。
「何よ、その気合の入った声は」
「何じゃねぇよ。おにぎりの時はよくも――」
「え、おにぎり? ああ、文化祭準備の時の」
 拳児は続きを言いたいのを我慢しているようで、愛理は不機嫌そうに睨んだ。あの時のおにぎりは不味かった。天満とお互いの作ったおにぎりを交換して食べた時の事を――思い出すまでには至らなかった。まぁ、単純に言えば記憶に無いのだが、それはきっとその記憶が深層に落ちていったから。つまり、封印したい位に不味かったと暗に言っているわけだが。
「言いたい事があるのなら、言いなさいよ」
「別にねぇよ」
「嘘おっしゃい。そんな不安な顔して食べられたら、こっちも全然嬉しくないじゃない」
「……お、おう。悪かったな」
 素直に口から出た言葉と裏腹に拳児の表情は固い。拳児の手の中で居心地悪そうにしているチョコの箱を素早くひったくると、中に入っているチョコレートを一粒取り出し、拳児のポカンと開いた口の中に放り込んでしまった。愛理は口に入ってしまったチョコに固まってしまった拳児を見てから、一つ摘んで口の中に放り込んだ。
 ――なによ、美味しいじゃない。
「……あ。……ん? うめぇ?」
「うめぇ? じゃないわよ。美琴や晶も手伝ってくれたんだから美味しいに決まっているじゃない」
 胸を張って自信満々に答え、そして気付く。
 急に黙り込んだ愛理に気を使うように拳児は「あー、お嬢も手伝ったんだろ? ちぃっとは上手くなってるんじゃないか?」などとぼそぼそと喋っている。
 ――言いたい事があるんならはっきり言いなさい――って、私も、か。
 愛理は噴水が終わったらしく波一つたっていないライトアップされた水面に目をやった。
 鏡のように光を反射させた水面の向こうにいるベンチに座ったカップルは、仲睦まじく楽しそうに話している。噴水を中心に九十度間隔で設置されたベンチにそれぞれカップルと思われる人達が座っていた。愛理は心の中で、自分達もそんなカップル達の一組に数えられるのかしら、と思った。
「ねぇ、ヒゲ」
「……ん、何だ、お嬢」
「美琴とか、晶とか天満とか……心配してた?」
「まー、心配っちゃあ心配だろうな。高野は塚本達と会う前から探していたって言っていたし、周防や塚本、後はメガネも」
「メガネ? あぁ、花井君ね。どうして?」
「周防と高野が呼んだらしい。あいつは顔が広いらしいからよ」
「家が道場だものね。知り合いだって多いわよ。で、あんたは何で呼ばれたのよ」
「塚本から、な。どうしても俺がいないと駄目だって言われてな。ま、バイクを持ってて色々回れるからって高野は言ってたけどよ」
「ふぅん。そういう考え方、晶らしいわ。でも、どうしてここが分かったの? 隣町のこんなショッピングモール、あんたは来た事なんて――」
「前に単発のバイトで来たことがあんだよ。その事を高野に言ったら、一応行ってみてって」
「ふぅん」
 どうやら拳児がここに来たのは全くの偶然であるらしい、と。愛理はその様に分析し、さらに冷静になった頭で物事を考えた。
 ――まったくの偶然、か。
 拳児の手に渡した手作りチョコレートの入った箱を盗み見ると、残りは一つになっていた。六つ入っていた筈のチョコの一つは愛理の口に融けてしまっている。とすれば、この僅かの間に拳児の口に飛び込んだチョコの数は四つ。愛理の頭はそんな拳児の行動にある答えを出した。
「美味しかった?」
「ああ、美味かったぜ」
 拳児の簡素な感想が物足りないとは思わなかった。それよりも、自分が作った物を美味しいと言ってくれた事が何よりだった。
「そう」
「そうだ」
「そっか」
「ああ、そうだ」
 短いやり取りをして愛理は立ち上がると拳児を置いて噴水の所まで行った。遅れてやってくる拳児の靴音を確認して、少し勿体をつけて振り返る。
「私の手作りチョコを食べた男はあんたが初めてよ。……美琴や晶に手伝ってもらったけどね」
「……マジか」
「マジよ。お父様の分を用意していたんだけど予定より多く作りすぎちゃって。で、あんたに毒見をしてもらおうかなって」
「……ほっ」
 拳児が安堵の息を吐くのを愛理は見逃さず、ギロリと睨んで噛み付いてやろうかと思った。
「今、ため息ついたでしょう」
「ついてねーよ」
「ま、いいわ。あんたの評判も良いみたいだから、安心してお父様に差し上げる事が出来るわ」
「そーか、良かったな」
 拳児の視線も考えもサングラスの向こうに隠されていて、愛理は広場を巡回するライトから外れて薄暗くなった中で唇を軽く噛んだ。そーか、良かったな。その程度の感想で、終わりなのね。愛理の両手はコートから出されてからしばらく所在無く宙を彷徨って、反対側の腕をつかみ合うという所に着地点を求めた。
「……お嬢?」
「何でもないわ。何でも……」
「帰ろうぜ。後ろに乗っけてやるからよ」
「お見合いをドタキャンした時みたいに? あの時は美琴とぐるになって下手な変装なんかしちゃって」
「あれはすまなかったって言ったろ」
「別にあんたを責めているわけでもないわ。そのお陰か、修学旅行にも行けて嬉しかったし」
「……あいつら、心配してるぜ」
「でしょうね。あんたの口ぶりからすると」
 そんな愛理の態度に拳児の眉が上がった。どう言っていいものか分からないようで、口をパクパクと開け閉めした後ポツリと洩らした。
「喧嘩でもしたのか?」
「する訳ないわ。……もう、二度と」
「俺が間に入ってやるからよ、謝っとけ」
「私が悪いんじゃないわ。それに、喧嘩した訳じゃないって言っているのに、なんで間に入ってもらわないといけないのよ」
「こっちはお嬢を探す為に一日潰れたんだぜ? そんなに暇じゃねぇんだよ。今日はたまたまバイトが休みだったんだけどよ」
 拳児がもう一度、「帰ろうぜ、お嬢」と言ってきた。愛理はその声に惹かれる自分の存在に気付き、立ち止まった。
 今、自分は何をしようとしたのだろう。その事に気が付かなかったら、目の前の胸に飛び込んで行ったのではないだろうか。胸は熱くならず、『ああ、そうだったのか』と冷静に思い返す自分の方が驚きだった。
 ――ヒゲ。
「どーすんだ?」 
「……私」
 愛理の口からその先の言葉が出てこない。拳児はしばらくの間辛抱強く待っていたが、何も言わないので鼻から大きく息を吐いた。
「いつまでもこのままじゃいられねーだろ。お嬢、決めろよ」
 ――そうだ。このままじゃ、いけない。だって、私は――。
「一人で帰るわ。大丈夫、私から晶達に電話をかけておくから」
 その言葉に眉を顰める拳児。相手の顔を見る事なく、愛理は自分から視線を落とした。「ごめんなさい、播磨君」そんな言葉が伝わったのか分からない。それは、拳児の後姿が人の波に消えていく間際に放った、最後のメッセージだったから。
「そーか。じゃあな、お嬢」という台詞が、最後のやり取り。
 近くの自販機から暖かい紅茶を買うと、座っていたベンチに戻ってぼんやりと静かな噴水を見ていた。僅かな間の会話を思い返してみて、自分が何を言ったのか繰り返してみる。しばらくすると時間を知らせる鐘の音がして、愛理は自分が十数分も考え込んでいた事を知った。
 ――全然、ロマンチックになんてならなかったわね。
 愛理が苦笑いを浮かべると、それに合わせてショッピングモールの閉店時間を知らせる放送がなった。瞬く間に閑散としていく人の群れに、ああ、これが最後に見た景色になるんだと思う。
 ショッピングモールを抜けて駅へと向かう道へ向かおうとして、ふと空を見上げた。
 ――真っ暗な空。
 以前に比べて陽の出ている時間が増えたとはいえ、まだまだ世間では冬に分類される季節である。それに夜も九時過ぎだという事を考えると、当然の空色だった。
「……さむっ」
 突然の強い風に思わず目を閉じると瞼の裏に明かりの残像が残った。
 それは何故かショッピングモールの光景ではなくて、矢神高校で過ごしてきた日々が一瞬流れた。ただ見ただけでは確認すらも取れない一瞬のフラッシュバック。でも、愛理の心に深く深く残った大切なものだから、乾燥した風のせいにした涙が頬を流れてしまう。
 ポーチからずっと大切に使ってきたハンカチを一枚取り出すと、そっと当てる様に拭った。
 振り返ってショッピングモールを見てみると人の姿は殆んどなくなっていた。
 スピーカーから聞こえるのは、明日のバレンタインデーの催し物を繰り返し伝える女性の録音された音声。そして、眩いばかりだったライトも点いている物は残り少なくなってきていて、ショッピングモールの中は薄暗いとさえ思った。
「……ふぅ」
 これから家に帰るのだから、身内にも弱さを見せる事は出来ない。
 愛理は気の強そうな立ち振る舞いを取り戻すと、背筋を伸ばし駅へと歩いていった。
 ――立つ鳥跡を濁さず。
 そう念じながら立ち去ろうとして、また立ち止まる。瞼の裏の残像は、頭の中、心の中、そして視界全体を覆っていく。
 ふと我に返ると、いつの間にか愛理は駅へとのびる通りを歩いていた。
 この辺りはまだ店を開けているのか、キラキラとしたイルミネーションでデコレートされた洋菓子店やら、おもちゃ屋やら、それに高級食材などを扱っている個人商店まである。競うようにライトアップされた様々な大きさのライト達は、行きかう人々に激しく自己主張していた。
 視界に思い出の残像を残しながら歩き続ける。真っ暗な空と、真っ白に光るライトのコントラストが、より一層心をうってくる。何故こんなに揺さぶられるのだろうか。愛理は、ふと思うところがあった。
 ――そうか、矢神での暮らしが好きだったんだ。
 そこで一旦思考を止めた。それ以上思いついてしまえば今日一日をかけて作り上げた決意がふいになってしまう。
「私は、私の居るべき場所に戻るだけよ」
 ポーチから出した携帯の着信履歴を確認すると、自分付きの執事に電話をかけた。僅かなやり取りをした後、もう一度着信履歴を確認する。履歴に残っている親友の名前を指でなぞった愛理は、そのまま携帯の電源を切ると遠くに見える駅を改めて目指す事にした。


End Of The Day ( No.2 )
日時: 2006/06/22 05:54
名前: バンター



 ・4
 
 鞄の取っ手のひんやりとした感触が人差し指に触れて神経を刺激する。金属の固い手触りに私は指を引っ込めた。
「あっ」
 そこにあった、自分の用意した鞄に今更ながらに驚いた。
「少し……傷がついてる」
 何度も確認した中身は諳んじて言える程だ。だって、イギリスに行くだけの片道の旅なのだから。手提げ鞄とキャスター付きの鞄の二つに持っていくものをまとめ、残ったものはこの屋敷に置いておく事にした。細かな傷を爪の面で擦りながら息を吐く。
 手持ち鞄から何気なしに取り出したチョコレートの入った箱――その箱をしばらく手の中で転がして、満足したのでキャスター付きの鞄に戻した。
「いよいよね」
 月曜の朝。もうすぐ七時になるだろうか。
 寒さは感じない。シャワーを浴びた体から湯気が上がっている。
 もちろん寒いのだろうけれど、皮膚の中を走る私の血が熱を発して二月の朝の冷気から守ってくれる。自分の体温に守られるという表現も変だが、本能の部分と理性は別のものだ。
 ――小鳥の鳴き声?
 窓の外、目の前に広がる自分の家の敷地内のある木々から聞こえてくる。
 この家で過ごす事となったその時から一緒だった音がある。
 窓ガラスに当たる風の音がある。
 私が起こす衣擦れの音があった。
 持ち上げた携帯には慣れた重さがあって、その思わず忘れてしまうほどしっくりと嵌まった重さは、私がこの携帯と共に過ごしたという歴史が積みあがった証拠だ。
 服を着てタオルを解くと、水をたっぷりと含んだ重たい髪が落ちてくる。乾いた替えのタオルに水を吸わせながら私は外の景色を目に焼き付けた。
「もうすぐお別れね」
 口から出た音波が部屋に広がり、反射した声が耳へと戻ってきた。そんな自分の声に反応するかのようにドアの外から聞きなれた執事の声がする。
「お嬢様、朝食の準備が出来ました。奥様もお待ちになられております」
 ――日本を発つその時までを数える事だって出来そうね。
 すぐに時間を分に、分を秒に換算して、意外と時間が残っている事に驚いたが、それは移動時間を含めたものだ。実際にはもっと少ないだろうと計算した。
 ドアの外では、何も言わずに自分が出てくるのをじっと待っている執事がいるだろう。
「髪を乾かしているから、待っていなさい」
 時間をかけて髪を整えて、いつもと同じように身だしなみをチェックして、いつもと同じように執事に声をかけた。
「ナカムラ、開けなさい」
 ドアが小さく音を立てて開くと、そこには背の高く体格の良い執事が立っていた。ナカムラは私に恭しく頭を下げると道を空ける。当たり前のようにそのスペースを通り、部屋を出て行く。ナカムラを従えて歩いていくと親しくしている使用人が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます、お嬢様」
 それは何百回と繰り返された幾分も変わらぬやり取り。
 私は、神妙は面持ちで頭を下げる使用人の姿にいつもと変わらぬ挨拶の言葉を発しながら、いよいよその時が近づいているのだなと思い知らされた。

 



                        Lonesome Tears




 ・5

 拳児は階段を上がりながら、やけに騒がしくしているクラスがあるんだなと溜息をついた。矢神高校は元々が騒がしい所であるが、一段と騒がしいクラスが上の階にある。つまり――拳児のいるクラスなのだが。
 自分を追い越していく女子生徒は踊り場まで駆け上がった後拳児に気がついたのか、振り返りながらニヤニヤと笑う。
 ――こいつ誰だったっけ? ……さ、が、の。……嵯峨野とかいったか?
「ねぇ、播磨君。アレって本当なの?」
 嵯峨野恵が言う『アレ』とやらに思い当るものがない拳児は、恵を無視して階段を上がっていく。「まぁ、いいわっ」と、恵はやけにあっさり引き下がり鞄を脇に抱えてさっさと登っていってしまった。
 しばらくすると上の階からわっという声が上がって、クラスに入ってきたのが目当ての人物では無かったのかしぼんでいった。
 拳児は、クラスメートの連中がまたくだらない事で盛り上がっているんだと想像して、このまま回れ右して保健室に逃げ込んでしまうか、と考えてみてうーんと唸った。もちろん踊り場に立つ自分を迷惑そうに避けていく同級生など目に入ってなどいない。
 ――あー……出席しとくか。留年したら天満ちゃんと離れ離れになっちまうもんな。
 二学期の期末テストで懲りた拳児は、赤点を取らない程度には勉強をしていたのだ。
「ま、寝てりゃいいか」
 同じ家に住んでいる従姉の行なう授業なら想像すらしない言葉を吐きながら階段を上っていく。
 ダルそうに2-Cのドアを開いた拳児にクラスメート達の視線が集まり、それまでの騒がしさが嘘のように静まりかえると、先ほどの恵の笑いに似た笑みを皆が浮かべだした。不良を自認してそう思われるように振る舞っている拳児は、このような生暖かい視線を受けた事が無い。案外心臓の小さな拳児は、それを気取られないよう注意しながら教室へと入っていった。
 クラスメート達の出す不穏な空気を押し退けつつ自分の席に着いた拳児の元に、美琴や晶と話していた天満が飛んできた。
「ねぇねぇねぇ、ハ・リ・マ君!」
「つ、塚本っ。ななな、何だ!?」
 トレードマークのピコピコをパタパタと気持ち良く振りながらご機嫌の天満に押されつつも、拳児は何とか自然に見える返事をする。
 ――うわー、天満ちゃん。今日も可愛いぜ!
 いつの間にか拳児の机の周りには美琴や晶も来ていた。どうやら天満が先に来ていただけのようで、美琴の「昨日はありがとな」という言葉に拳児は頷いて返答する。遠くの机に座っていた春樹までもがやって来て、拳児は四人に囲まれた形となった。
「……んだよ」
 幾ら天満が傍にいたとしても、囲まれた側の拳児としてはあまり良い気分ではない。そんな拳児の気持ちを察してか、晶は少し姿勢を崩して普段よりも明るい声で話し始めた。
「昨日は手伝ってくれてありがとう。天満達とその事を話していたのよ」
「うんうん。ホント助かったよ、播磨君」
「足のある奴は頼りになるな」
「播磨! 僕は、君の事を少しは見直したぞ。本当に見つけることができるとはな」
 言われ慣れていない言葉をかけて貰った拳児は気をよくして、「そーか、そーだろ」と口走る。そんな姿を確認してから美琴と天満は、一つの携帯を取り出し拳児の机の上に置いた。
 いつの間にかクラスメート達も静まり返って、このやり取りに聞き耳を立てている。
「……ん?」
 そこでようやくクラス中の注目を浴びている事に気が付いた拳児は、目の合った男子生徒を睨みつけた後、机の上に差し出された携帯に目をやった。
「んだよ、コレは」
「コレ、城戸さんの携帯なの」
 天満が左で美琴が右に。晶が正面にいて、春樹が高野に遮られるように立っている。春樹の「た、高野、見えんぞ!」と言う主張を無視しつつ、晶は拳児にずいと詰め寄った。朝、階段を上がって行く時に恵とすれ違った際に言われた『アレ』とはこの携帯電話が関わっているらしいと、さすがの拳児でも推測できた。
「この携帯が、何だよ」
「城戸さん、昨日は隣町のショッピングモールに買い物に行ったの。その時にクラスメートに会ったのだけど、いい雰囲気の二人に話しかけるのも悪いと思ったらしく、その代わりにこの写真を撮ったのよ。播磨君、この写真をよく見てみて。誰が映っているのかしら?」
 拳児が晶から携帯を受け取りその液晶を見てみると、遠めでもそれと分かる輝きを放つ金髪の少女が目に入ってきた。
「お……お嬢?」
「そう、愛理よ」
「それが俺と何の関係があんだよ」
「あら、愛理がチョコを食べさせてあげているのは、一体誰なのかしら?」
「誰ってそりゃあ……ん?」
 ――待てよ。昨日、俺はショッピングモールでお嬢と会って、それで少し話して、チョコは貰って……。
「これは――」
「こんなサングラス、播磨君くらいしかかけていないわよ」
「こんな安物のヤツなんて、探せば幾らでも――」
「あら? 播磨君の着てるこの服、昨日着ていたものと同じね。まぁ、偶然って怖いわ美琴さん?」
「そうね、塚本さん?」
「それよりもね晶さんに美琴さん。八雲の事は別にしても、言い訳なんて最低だよ播磨君! 愛理ちゃんからチョコを貰ったなら『貰った』って言えばいいのに、何で嘘をつくの? お猿さんは駄目だからね!」
 天満からの死刑宣告を受け、言い訳を言おうとしたままの体勢で固まってしまった拳児をよそに、クラスメート達は拳児と愛理が会っていたという確信のある回答から、さっそくそれネタにして騒ぎ始めた。
 そんな騒ぎとは別に、春樹が『八雲』というキーワードに反応してすぐ後ろで煩くするものだから、晶は素早く当て身を入れ春樹を床に沈めてしまう。美琴も春樹の介抱よりも拳児をからかう方を優先したらしく、天満を宥めながらニヤニヤと拳児に話しかけてきた。
「で、その後どーしたんだよ」
「……ぇ、あ? そ、その後って?」
「決まっているでしょ。愛理とナニをしていたの?」
「ナニって、何を?」
「播磨君、他言はしないわ。ただ耳元で囁いてくれさえすればよいだけだから」
 話に加わってきた晶も少し興奮しているのか普段よりも積極的に行動をしているようで、その証拠に頬が少し赤らんでいる。
 拳児は美琴や晶とのやり取りの中で、昨晩の愛理とのやり取りを思い出しつつあった。
「そう言えば、親父さんの分の毒見だって言ってた」
「毒見?」
「おう。お嬢に予備のチョコレートを渡されて、それを食わされてさ。で、そのあと別れたんだ」
「なぁ播磨。沢近と一緒じゃなかったのか?」
「ああ。それに、お嬢の奴がお前らに電話で詫びをいれるって言ってたからな。……電話、無かったのか?」
 拳児の問いに美琴も晶も、むすっとしていた天満も首を横に振った。
「変だな。確かに確認したぜ。お前らが心配してっからってお嬢に言ったら、『一人で帰れるから心配をするな、電話もかけるから』って言うからよ」
 先ほどまでの興奮もニヤニヤ顔もむすっとした表情も無く、三人は互いの状況を確認しあった。
「美琴さん」
「いいや、電話もメールもない」
「天満は?」
「私もないよ。……晶ちゃんは?」
「電話なりメールなり届いているのならこんな事しないわ。私はてっきり播磨君と――」
 晶の意味深な流し目に拳児は寒気を覚える。
「ちょ、ちょっとマテ。お嬢から貰ったモンは親父さんに作った奴の余りだって言ってたんだぞ。なんでそんな風にとるんだよ」
「沢近のチョコは――っていうか、あたし等も含めて予定分ちょうどしかできなかったんだ。塚本や沢近の失敗した分の補填に、あたしや高野のチョコを使ったから余りなんて出なかったんだよ」
「んな……」
「播磨君にあげたのなら、それは初めから播磨君にあげるために――」
「……待って、晶ちゃん、美コちゃん」
 天満は晶の話を遮るようにして割り込んでくる。晶は何も言わず真剣な面持ちの天満に会話の進行を任せ、拳児の机に手を置いた。
「もうすぐ朝のホームルームが始まるのに、愛理ちゃん、来てないよ。いつもならとっくに来ている時間なのに」
「……そうだよな。チョコ渡したのが恥ずかしいからってそれくらいで休んじまうような、やわな女じゃないよな」
「風邪かしら」
「あのよ、俺の聞き間違いかも知れねえけどよ」
 三人は、腕を組んで脳みそから記憶を搾り出すようにしている拳児に注目した。三人とも無意識のうちに拳児に向かって身を乗り出している。思いっきり顔を寄せられ緊張した拳児の「確かお嬢は、『ごめんなさいね』とか言ったような気がするんだ。ま、お嬢がそんな風にしおらしく謝るなんて、聞き間違いだろうけどな」という言葉に三人は顔を見合わせる。そして顔を寄せ合ってひそひそと話をしはじめたのかと思えば、再び拳児の周りを取り囲んだ。
 彼女達の普段見せる事ない真剣な顔から流石に鈍い拳児でもただ事ではないのかと感じる。
「播磨君、谷先生が来たら私達は保健室に居るって伝えておいて。気分が悪くなったとか、そういう理由で」
「おい、ちょっと待てよ」
「播磨、前に助けてやったろ? 今回はあたしらを助けると思って」
「播磨君、お願い」
 天満や美琴、晶は拳児の返事を待っているようだった。クラスメート達の中にはこの四人のやり取りを見ている者もいたが、大半は雑談で盛り上がっている。朝の騒がしさの中、拳児は軽い鞄の中身を確認する振りをしながら「わーったよ、言ってこい」と呟いた。
 三人が拳児の席を離れる際にかけてくれた「ありがとう」は何よりの感情が込められていて、拳児は意味も無く背中がむず痒くなってしまう。しかし、それは気分を悪くするものではなく、照れくささを覚える類のものだった。
 



 ・6

「……お別れね」
 私の発した音が部屋に響いた。
 ひんやりした澄んだ空気が気持ち良くて、これがこの屋敷にいる最後の日であろうと好ましく思える。もっとも、それは感傷に浸っている私が思うだけで、常にそこに在ったものだ。ここを旅立つ間際に気付いただけという事。
 ドアの外からナカムラの「お嬢様」という声がして、私はソファーから立ち上がった。
 私のものとは違う、低い声。お父様とも違う、声。
 そんなナカムラはイギリスまで付いて来るらしい。
「ええ、分かったわ」
 怪しくて胡散臭い奴だけれど、ナカムラの力を信用はしている。ナカムラ以上の執事を探す手間を考えたら、そのまま居てくれていた方が楽だ。雇っているのはお父様だから私が如何こう出来る問題ではないのだけれどね。
 柔らかい絨毯の感触ともお別れ。
 使い慣れた化粧台とも、ベッドのフワフワした感触とも。
 この部屋のキラキラ光る照明とも、クローゼットの中の虫除けの薬品のにおいとも。
 大きく切り取られた窓ガラスとそこから見える矢神公園の景色とも。
 私の記憶や思い出、全てがあった部屋ともお別れ。
「……ふぅ」
 涙は出なかった。
 何より、自分で決めた事だ。
 友達の事も彼の事も、自分で決めた事だ。
 このドアの取っ手を開けばナカムラと、きっと私の世話をしてくれた使用人達もいるだろう。そして、皆一様に「行ってらっしゃいませ、お嬢様」と言うのだ。
「ええ、行ってくるわ」
 沢近のお嬢様はこんな事で動じないのだ。でも、目の前の使用人達は自分のことの様に悲しんでくれているみたい。気心の知れた顔が緊張の色を浮かべている。
 ――あなた達ともお別れね。
 使用人達の空けた間を、ナカムラを従えて歩く。
 一階のロビーにはお母様が待っていらして、今日も変わらぬ笑みを浮かべている。
 ねぇ、愛理さん。今日はどこにお買い物に行きましょうか。と言い出しそうな、肩に力の入っていないリラックスしている顔があった。ナカムラは私をお母様の下までエスコートすると、先に外へと出て行ってしまう。玄関まで車をまわすのね。
「よく似合っているわ、そのお洋服」
「ありがとう、お母様」
「お父様も喜ぶわよ、きっと」
「ええ、そうだと良いけれど」
 お母様と話していて、改めて自分がどこへ向かうのか思い知らされる。
 イギリスにはお父様がいる。そう、大好きなお父様と一緒にいられるじゃない。少なくとも日本にいる以上には。
 ――少なくとも、ね。
 時間的なものなのか、距離的なものなのか。私とお父様を結ぶを親子関係はどんなものでつながっているのだろうかと、そんな事を思う。一般的な家庭だといえないのは確かだろうな。
『人の体にはね、愛理。隙間があって、寂しいって気持ちはそこに入り込んでくるのよ』
 お母様に抱きしめられた夜の事を覚えている。小さな両手をお母様の体にくっ付けて、その体温が安心をくれた幼い頃の思い出が、何故かふっと思い出された。
「え?」
 突然ポーチに入れておいた携帯がなった。
 美琴や晶や天満と一緒に選んだ着信音が静かなホールに鳴り響いている。そのポップな曲調にお母様はくすっと笑われた。
「……出なくていいの? 愛理さん?」
 黙ってやり過ごそうとしていたのに、お母様がそんな事を言ったら出ないといけないじゃない。
 私は携帯を取り出し震える指で通話ボタンを押すと、びゅうびゅうと風を切る音と共に慌てているらしい晶の声がした。お母様は何人かいた使用人を連れて玄関の外へと行ってしまって、ホールには私しか残っていない。声を出さなきゃって思っているのに何故か踏み出せずにいた。
『……愛理?』
 携帯のスピーカーが晶の声を鳴らした。
「晶……」
『どうしたの。風邪?』
「……ううん。違うわ」
『今日は休むの?』
「……ん、しばらく……たぶん」
『何か、あったの? 播磨君関係?』
「違うわ。ヒゲは関係ない」
『なら、どうして』
 晶は何かに気を取られているのか要領を得ない喋りをしている。それに私とヒゲがどうにかなるわけないじゃない。
「……ちょっと出かけるから」
『愛理、聞こえないわ。……あっ、天満?』
「……晶?」
 晶の他には天満もいるんだ。
 私が携帯を耳から離そうとすると誰かが晶から携帯を奪ったらしく、晶の「あ……」という声がした。何かあったのかと心配になって、携帯を握る手に力が入ってしまう。
『……おい、沢近! 聞こえてんのか、オイ!?』
「美琴?」
『沢近、何かあったのか?』
「何も……無いわよ。心配性ね」
『あのなぁ。昨日も今日も連絡すらしないでいて、それで心配するなって……何かあったって思うのが普通だろ』
「もう時間がないわ。美琴、晶や天満によろしくね。……楽しかったわ」
『ちょっ、待てよ! さわち――――』
 電話を切った後、涙が出なかった事に少なからず驚いていた。本や映画ではこんな風な展開なら涙を流しているはずなのに。私は私が思っている以上に薄情な女なのかもしれない。
 別に、悲しくなんてならなかった。


 玄関を出ると晴れ間が少なくなってきていて、曇りの空が広がっていた。
 薄暗い空に、薄暗い太陽の光。
 ねずみ色の雲は薄く伸びていて、陽の光を完全に止める事はできていない。風があるのか遠くに立つ木々の葉が僅かにざわめいている。
 ナカムラは仕事が早く、私達の荷物をリムジンに運び入れてしまった。
「お嬢様」
 ――分かってるわ。
 私の唇がそう動いて、ナカムラは何も言わずに運転席に乗り込んだ。このリムジンに乗ったら空港まで一直線だ。私のチケットは二時半ちょうどの旅客機に乗るためのもの。どうでもいい座席の番号まで覚えている自分に諦めもついた。
「分かってるわ」
 口に出して、決意を固めた。乗り込んで腰掛けたシートはいつもの硬さで。玄関には使用人達が出てきている。
 寂しくなるわね、あなた達。と、一人前に人の心配までしている。この矢神に来る頃、こんな自分になっていると想像しただろうか。音もなく出発した車に合わせて息が止まりそうになった。人の歩くより何倍も早い速度を実現させるエンジンが、私を矢神から連れ去ろうとしている。
『お嬢様――沢近のお嬢様』
 夜会でそう呼ばれて、美琴や晶と出会うまで高校でも同じように振舞っていた。
 大人になりたくて。お父様とお母様を手助けできる大人になりたくて。
 でも……。
 息苦しさからか、それとも後悔からか、三人と過ごした日々が、親友達の顔や言葉や温かさが、胸に広がっていく。
 美琴や晶と同じクラスになった春に天満と友達になって、夏は海と茶道部の合宿、秋は文化祭、冬はスキーと修学旅行。それぞれには大切な思い出が沢山詰まっている。何物にも変えがたい、私だけのものだ。私が自分で切り開いた大切な居場所だ。
 まだ、子供でいたい!
 窓に爪を立てて『出して!』と、猫の様にもがきたい。
 このままイギリスまで出荷されてしまうと、『大人』の私になってしまう。
 不安でいい! 不安を感じる子供のままでいい。いいのに!
 全部曝け出して泣き喚きたいという気持ちがあるのに、お利巧さんな聞き分けのいい自分が喉を詰まらせている。自分で作り出した理想の私が、私の声を詰まらせていた。
 リムジンのスピードは上がり始めた。僅かな振動は道路の段差から。
 これまでのタイミングとも一緒で、これから起こる事も分かってしまう。
 いつか通った道路を幾つか使って空港まで行って、そしてお父様の待つイギリスへと行くのだ。
 じっと瞼を閉じた。それが唯一の抵抗だといわんばかりに。そんな事でしか自分にも反抗できない事を理解しているから。
 檻に入れられた猫はじっとしているものだ。聞き分けのいい猫なら、尚更に。
 じっと、じっと、じっと、じっと。
 手を握りしめて。
 感情を押し込めて。
 いい子の愛理でいて。
 お父様の為に、お母様の為にと言い聞かせて。

「……様。……お嬢様」

 ナカムラの声がした。
 いつもとは少し違う声。
 でも、これは確かにナカムラの声だ。
「何よ、ナカムラ―――」
 瞬間、喉を通って肺に空気が入っていく。息苦しさから解放された私の喉を新鮮な空気が通っていく。
 ゆっくりとした、しかし、瞬間の出来事だった。
 凄まじいスピードと緩やかなスピード。冷気と暖気。
 胸が――張り裂けた。
 瞬間、肺から喉を通って空気が出て行く。息苦しさから開放された私の喉を、愛しい人の名前を呼ぶ声として空気が通っていった。
 門の所には三つの影があった。
 三人の女の子の姿が影を作り出していた。
 薄雲に隠された太陽からの光が女の子達に当たって、その光が私の目に飛び込んできたのだ。
「……うそ」
 その瞬間に雨が降った。
 私の頬に流れてるのは雨。私の想いが溢れ出した雨だった。
「あ……あっ……うぅ………」
 私の頬に降り注いで、あっという間に心まで濡らしてしまった。
 リムジンの外には薄雲が広がっていて、私の頬だけに雨が降っていた。
「お嬢様、いかがなされますか?」
「……愛理さん?」
 ナカムラの低い声と、お母様の落ち着いた大好きな声。どちらの声も優しく聞こえた。きっと、受け止める私がそう感じたからではなく、二人が優しく思いやる気持ちで話しかけてくれたからだろう。
「と、止めて……よ。止めなさいよ……お願いだから……止め…て」
 鼻水と雨で塩っ辛くなった口内は、声を何とか通してくれる。
 お利巧さんな私の姿はいつの間にかいなくなっていて、私の中に戻ったのだと思った。
 リムジンが止まったら、ドアを開いて。
 門まで走って、門を開けて。
 何を話そう。何でもいい、話したい事が一杯あるもの!
 音もなくピタリと止まったリムジンのドアを私が開くと、雲間から陽の光が落ちてきていた。
 ぽつぽつと雲に穴が開いていて、天使の梯子が無数に見える。
 でも、頬にパラパラと降る雨は止まなかった。
 リムジンから降りた私は、思わずよろめいてしまった。固いはずの道が柔らかく感じられ、気持ちをしっかり持って立たなければと靴の中で足の指を広げる。しっかりと地面を掴んだ感触を久しぶりに感じられた。
「愛理ちゃーん!!」
「沢近!」
「愛理……!」
 三人の声が、固く閉ざされている門の向こうから聞こえている。
 天満の真剣な顔。
 美琴の心配そうな顔。
 晶の一見クールだけれど不安そうな顔。
 それは三人の個性をそのまま表しているのだなと思った。
「みんな!」
 私は三人へと駆け出した。
 頬を濡らしている雨は止む事がなく、三人から見れば情けない顔だと思われるだろう。けれど、少しでも近くに居たかった。少しでも同じ時間を過ごしたかった。今の私に必要なのはお父様でもお母様でもなく、私を迎えにきてくれた三人の親友だった。
 私が近づいていくと門が開いて、一番に走り出した美琴が抱きついてきて、晶も天満も後に続いた。
 私達は雨の中にいた。
 塩っ辛い雨を降らされて、私も降らせた。
 優しくて、とても暖かくて。
 気持ち良くて、気持ちが通じ合っているようで。
 だらしの無い顔ね、あなた達。
 私もみっともない姿を晒して、何泣いてるのよ。
 でもね、私は好きよ。
「何を泣いてるのよあなた達」
 上手く声に出来ていないけど、この三人なら理解してくれると思う。
 美琴が鼻を啜りながら嗚咽交じりに声を出した。
「何って、沢近が泣いてるからだろ?」
「愛理ちゃんが泣いているからぁ」
「……もらい泣きよ」
 美琴も天満も言いながら泣いていて、晶は目尻に溜まった涙を指で拭っていた。でも――私と目が合うとふいに大粒の涙が地面へと落ちていった。
 ついに堪えきれなくなった晶が目を細めて様を私は見た。頬は赤く染まって閉じた瞼からは堰を切ったようにぽろぽろと涙がこぼれ出していく。周りではクールだといわれている晶の姿と違う、私の為に泣いてくれる優しい女の子がそこにいた。
 私達は、雨を降らせた。
 沢近家の門の前。そこだけ通り雨が降っている。
 傘の要らない雨はしばらく降り続いて。塩っ辛くて、とても環境に良いとは思えない、雨。
「好きよ。あなた達の事、好きよ」
 愛の告白じゃない、三人の友情に答える私の気持ち。
「私もだよぉぉ」
「あたしも好きだ!」
「愛理……」
 わざわざ声に出さなくても想いは通じ合うって大人は言うけれど、私達には私達の付き合い方があるの。
 私が振り返ると、リムジンの前にはナカムラを後ろに控えさせたお母様が立っていらした。綺麗でおしとやかで、淑女の見本の様なお母様が優しく笑っていた。
 お母様が何かを呟かれた。リムジンから門までの距離を考えるととても聞き取れるような大きさではないけれど、私にははっきりと分かった。
 心の中、どこかでまだ躊躇っている私がいる。チケットを取り出して天満達に晒すと詳しく説明しなくても大体の事を察してくれたようで、それぞれがチケットの四隅を持ってお互いの顔を見合った。
「……力を貸して」
 あまりにも簡単に縦長の紙が引き裂かれた。始めに斜めに裂け、私は細かく引き千切る。風に乗ってチケットだったものが舞い上がった頃、雨は少し小降りになっていた。 
「みんな、酷い顔」
 晶の声に私は笑った。美琴も、天満も、晶も同じように。
 何もかもが関係なくて、関係している。私の足の下に敷かれたアスファルトも皆を繋ぐ大切な物の一つだ。お父様も、お母様も、ナカムラも、使用人達も、私の大切な繋がりの一つ。
 私が作る事のできた初めての友達。心から許しあえる友達がいる。
「沢近、黙って行く気だったのか?」
「行っちゃやだよ、愛理ちゃん」
「私の事、捨てるの?」
 晶の発言をスルーしながら、私は取り出したティッシュで豪快に鼻をかんだ。
 お父様やお母様や使用人はびっくりするだろうけど、矢神高校の二年C組の沢近愛理は、周防美琴・高野晶・塚本天満の友達である沢近愛理はこんな事もできるのだ。
 三人と歩くようになってまだ一年しか経っていない。
 たったの一年なのだ。目の前の三人と過ごした時間は。
 何も始まっていない。私の靴音が鳴り始めて、そしてそれは四つに増えていて。
 チケットだった紙切れの舞った空は、青く澄み渡っている。
 イギリスにまでも広がる空は、青く澄み渡っている。
 頬に流れた雨は乾いて、私の体には不安の代わりに私を想ってくれる親友の暖かな優しさがあった。二月の寒さは肌の表面を冷やしているけれど、雨が流してくれてすっきりとした私の心はポカポカとしている。雨が止んで、雲が晴れて、暖かな光が空に差し込んで。私はまた、せっかく乾いた頬に雨を降らせていた。
 晶の声がして、美琴の手が私の髪を撫でて、天満の柔らかい温もりが包んでくれていて、私達の音はそうやって奏でられていた。
 繋がった手と手が、見合った顔と顔が、交わした声と声が、四面の空に架かって。私はちょっと照れながら口を開いた。
「馬鹿ね。一緒にいるわよ。あんた達だけじゃ駄目でしょ?」
 そして、こう続けるのだ。


「あなた達のこと、好きよ!」



End Of The Day ( No.3 )
日時: 2006/06/22 06:11
名前: バンター





                  また あした



・7

「あっはっはっは! それは無いだろ、沢近ー」
「ちょっ、そんなに笑わなくてもいいじゃない――って、天満に晶まで!」
 火曜日の放課後。周りには帰る方向が一緒の生徒達が歩いていて、愛理を除く三人が声をあげて笑っているのでぎょっとしている。
 空は雲がチラホラと見える他は赤々とした夕焼けが覗ける。そんな空から吹き降ろしてきたような冷えた風が愛理の髪を撫でていった。四人はエルカドに行こうか、それとも他の店を発掘しようかと相談しながら帰り道についていた。
「だって、愛理ちゃんだってそういう間違いをするって知ったら……ププッ」
「あーもうっ。仕方ないじゃない。あの状況でお父様に呼ばれたのなら誰だって――」
 愛理はそこまで言って周りを見渡した。他の生徒達は、お父様だって? と驚いていたり苦笑いをしていたりする。
 ――あーもう。こんな事、言うんじゃなかった!
 夕焼けに赤面を隠して歩く愛理の肩を晶が叩く。
「どんまいどどんまい」
「晶、何で棒読みなのよ」
「どんまい。ファザコンでも友達よ?」
「ファザ――もういい、帰る。あんた達でどこにでも行けばいいじゃない!」
 言ってしまった後で愛理は我に返った。そんな事を言って本当に三人がいなくなったらどうするのだ、と。
 恐る恐る振り返ると呆れたような顔した美琴と、気にしていない様子の天満と、優しい笑みの晶がいる。三人は突っ立ったままの愛理を追い越していくと「行くよ」と愛理を促がした。
「あ、うん」
 愛理はおどおどと一歩目を踏み出すと、地面を掴むような感覚をしっかりと持って三人を追いかけた。
「ねー美コちゃん。私ねぇ一キロ減ったんだよ」
「マジで? あたしは増えも減りもしてねぇな」
「何の話?」
「ダイエットだよ。晶ちゃんは良いよね、痩せてるし」
「一昨日はから揚げを食べたわ」
「から揚げって……私も好きだけど、太っちゃうんじゃ?」
「沢山食べればね。実はから揚げには……という噂が」
 晶が天満に耳打ちすると天満は、「えー!」と耳が痛くなるほどの声を上げた。天満が晶の胸の辺りを凝視しているのは何故だろうか。愛理は二人の様子をチラチラ窺いながら歩いているが、決してそのやり取りに割り込もうなどとは思わない。
 ――天満と晶の組み合わせって、結構凶悪だもの。
 取り残された形になった美琴は意図的に歩幅を狭めて愛理が追いつきやすいようにする。二人が並んで歩き始めた頃、美琴はしんみりと話し始めた。
「ま、良かったよ」
「……そうかしら」
「そーだ。沢近は……あたしらのオモチャだし。からかうと面白い」
「あのねぇ美琴。あなたも遊ばれている時があるでしょう?」
「いいんだよ、それで」
「どうして?」
 愛理は、天満と天満に引っ張られても嫌な顔一つしない晶の二人を見ながら尋ねる。美琴はどこか照れながら、しかし、しっかりとした口調で答えた。
「そういうもんだろ、友達って。沢近も、塚本や高野やあたしに何か言われて、それで嫌いになるか?」
「……さぁ」
「あのなぁ。おじさんが沢近をイギリスに呼んだ理由が、『お見合いの事で怒ったおじさんが、沢近を呼び寄せようとしたから』じゃなくて、『忙しい仕事の合間を縫って何とか作り出した休みに、可愛い一人娘と過ごしたかった』って。それじゃあ笑われたって仕方ないだろ」
「そうは言っても、仕方ないじゃない。周りの使用人達の顔もそういう風に見えてきちゃっていたんだし。私、凄く悩んで。それで――」
「で、何も言わずに行こう、って?」
「……ごめん、なさい」
「あたしにだけ謝るんじゃなくて、一番心配していた高野に謝れよ。それに塚本にも、な!」
「え……うわっ!」
 美琴に背中を押され、愛理は天満と晶に抱きつく形になってしまった。
 天満も晶も愛理が何か言いたそうにしているのを察してか、ふざける事もしないで話し始めるのを待った。
「……心配かけてゴメン。晶、天満」
「すっごく心配したよ、愛理ちゃん」
「……愛理」
「……ごめん」
 愛理が俯いてしまったので、美琴と晶がどうしたものかと見合っていると、天満が愛理の肩に手を置いて顔を上げさせた。天満は目尻に涙を溜めながらも愛理に笑いかけている。美琴や晶も愛理の肩の上に乗った天満の手の上に手を重ねた。
「いいよ。愛理ちゃんをちゃんと見つけることが出来たんだから」
「え?」
「あたしら――」
「愛理ちゃん捜し出し隊、だもの」
「な、何よ。その破滅的にセンスのないネーミングは」
「あー酷い! 隊員は、私に美コちゃんに晶ちゃんに、播磨君に花井君なんだよ? すっごいでしょ」
 胸を張った天満に呆れていた愛理でも、天満が自分や美琴や晶を明るくしようとしてくれている事は分かった。天満のそんな姿勢が眩しく見えて愛理は微笑んだ。美琴も晶も天満と愛理の横に並んで歩き出し、いつもと同じように横に並んで歩き出す事が出来た。
 ――なんか、いいな。
 天満と美琴はダイエットの話の続きを始めるし、晶はそんな二人に突っ込みを入れつつも愛理に話を振ってきたりする。
 生まれた場所も時間も違って、過ごしてきた思い出も積み上げてきたものも全く違った三人と並んで友達として歩いている。愛理には、その事がとてつもない奇跡のように思えていた。今この時間、この場所で、この四人が並んで歩いている確率ってどのくらいだろう。愛理はそんなわずかな確率の先に自分がいるのだろうと思った。
「愛理ちゃんはダイエットしているんだよね。どんな風に頑張っているの?」
 天満の髪の両端で結われたピコピコが慎重な動きを見せていて、美琴が面白そうに見ている。晶の反応を確認しながら、二人に特別メニューと称した乙女の努力を披露した。門外不出の秘密は気心の知れた親友だけに。もちろん愛理は、「ま、天満には無理でしょうけれどね」と付け加える事も忘れなかった。
 三人とも住む場所も世界も違っていて、エルカドに行った後はそれぞれの場所に帰っていくのだろう。それが普通だし、特に何というわけではない。愛理は、天満や美琴に対してイタズラを思いついたが顔には出さずに話を進めた。
 ――でも、でもね。
「お詫びと言うわけじゃないけど、今日は私が奢ってあげるわ」
「なっ、マジか沢近」
「おぉ!? 愛理ちゃん、女に二言は無いよね?」
「愛理、ゴチになります」
「どんどん食べるといいわ、美琴、天満。ダイエットしているあなた達がどれほど食べるのか、私は知らないけれど」
 愛理の言葉に天満も美琴も「しまった」と声を揃えた。そんな二人を見ながら愛理は晶と笑いあった。
「よーし、ダイエットはひとまず中止だ塚本っ!!」
「うん! 今日は、いつも頼めなかったメニューを頼んじゃうんだからっ!!」
「あんた達ねぇ、一回増えた体重を戻すのは大変――って、人の話を聞きなさい!」
「愛理、エルカド以外でもいい? 今度、携帯ゲーム機の新型が――」
「エルカドだけ。今日だけ。甘いものだけ! それでチャラよ!」
 愛理は三人の勢いに押されながらも跳ね返す程の声を出しながら、それはこの三人が引っ張り出してくれた別の自分だと思った。
 そんな友達がいる自分はなんて幸せなんだろう。自分の為に損得考えずに動いてくれる三人を改めて大切だと思えた事が、最高のバレンタインの贈り物だと思えた。そして、そんな三人に自分はどんな贈り物が出来るのだろう。愛理はそんなことを考えながら盛り上がっている三人の後を歩いている。
「ねぇ」
「何よ」
「前日にチョコレートを作ったのでは、バレンタインデー当日におじ様の下へ届けるのは無理だわ」
「何が言いたいのよ」
 エルカドの事で盛り上がっている天満と美琴からさりげなく離れた晶が、愛理の横を歩きながらボソリと呟いた。聞き流せば晶の独り言としてもおかしくない程の大きさ。しかし愛理は、晶が前を歩く二人に聞こえないように気を利かせてくれたのだと分かっていた。
「あなたのチョコレートは、前日にあげた彼の為に作ったんじゃないのかしら。だとしたら、ちゃんと言って渡した方が良かったんじゃない?」
「あの後、お母様がイギリスへ持って行かれたわ。車に荷物を入れっぱなしにしていたから、電話をかけて持って行って貰ったの。だから、嘘を吐いた訳じゃないわ」
「でも、それで良いの?」
「良いも何も、晶はどうなのよ。いくつか作っていたじゃない。誰かに渡したんでしょ?」
「茶道部だからね」
「ふぅん。ねぇ、晶」
「愛理……?」
「私が色々騒がしくしちゃったけど、バレンタインデーも案外悪いものではないわね」
「あら、今頃気がついたの?」
「……色々気がついたわ」
 次第に陽が落ちるまでの時間が伸びてきている。愛理は肩にかかった髪を払って風に流した。
「愛理は良いわ。けど、天満は烏丸君にチョコレートを渡しそびれたみたいよ。今日やっと渡せたみたいだけど。ああ、だから一キロも痩せられたのね」
「分かってるわよ。ちゃんと謝るし、奢るわよ」
「そうね、そうした方が良いと思うわ」
 それでも夕焼け空は夜へと向かって黒く塗りつぶされつつあり、ゆっくりと今日という日の幕を下ろそうとしていた。
 ――今日という日の幕は下りてしまうけれど、その先には三人が待っていてくれる。
   だから、さようならと言える。
   またあしたって、そう返してくれる三人がいるんだからっ。
「おーい、どうした。沢近、高野!」
「愛理ちゃーん、晶ちゅわーん! 早く行こうよ!」
 信号が赤から青に変わるらしく、美琴と天満が急かすように手を振っている。愛理は晶の手を取って走り出した。
「……愛理?」
「いいからっ、走りましょ!」
 美琴や天満もわっと声を上げて笑っている。何て楽しいのだろう。愛理はまず手始めに、今日という日をこれでもかというくらい楽しんでやろうと考えていた。



 END?



























・8

 高級なレストランを思わせる内装の部屋で紳士と淑女がテーブルに着いていた。
 最高級のスーツを着こなした英国紳士と、落ち着いた色とそれに合った華の模様の着物を着た日本人の淑女が落ち着いた会話をしている。テーブルの上にはワインの注がれたグラスと、カラトリーの入ったバスケット。どこかのホテルのスイートルームだろうか、窓の外、バルコニーの向こうにはライトアップされたタワーブリッジが見える。
「旦那様、奥様。お待たせいたしました」
 二人の執事だろうか、一般的な執事にしては体格の良い男が頭を下げると、紳士は慣れた感じで執事に指示を出した。
 執事が前菜をテーブルに並べ後ろに下がると、二人はグラスを合わせる仕草をして一口喉に落としていく。淑女は楽しそうにしているが、紳士の方は機嫌の良い顔ではない。
「どうしました、あなた」
「私は……」
 紳士は言い難そうな、それを言ってしまった後の自分の事を思ってか、言葉を詰まらせてしまう。そんな紳士をみて淑女は華やかに笑った。
「愛理さんに嫌われてしまった、何て考えていませんか?」
「愛理を驚かせようと急に知らせて、私は嫌われてしまったのではないのかい? あのくらいの女の子は親から離れたがるものじゃないか」
「ふふっ。……ナカムラ」
 淑女の声に応えるようにナカムラと呼ばれた先ほどの執事がテーブルに近づいた。ナカムラは、おっとりと笑う淑女の手のひらの上に自分の風体に似つかわしくないファンシーな包装のされた箱をちょこんと置いた。紳士はその箱に視線が釘付けになっている。
「なんだい、その可愛らしい箱は」
「日本ではね、バレンタインの日には好きな男性にチョコレートを送る風習があるのよ。ちょっと遅れてしまったけれど、まぁ、仕方がないですね」
「……それで、その箱は?」
「お父様にと愛理さんが持たせてくれたのよ。手作りですって」
「愛理が……」
 淑女が紳士に箱を渡すと、紳士は宝物を扱うように慎重に扱った。
「あ、開けてもいいのかな?」
「この後の食事に差し支えなければ、ね、ナカムラ?」
「は」
 淑女の声にナカムラは答えると再び後ろへ下がる。整った紳士の顔が父親の顔になっているのを見ながら淑女は微笑んだ。
「もう一つ作ったみたいなのだけど、誰にあげたのかしら?」
「もう一つ?」
「ええ。チョコレート販売員に変装したナカムラが、愛理さんとお友達の後をつけて行ったらしくて。愛理さんは二つの箱を用意していたって言うのよ」
 紳士は少し考えた後、淑女に向かって笑いかけた。もっとも、目は笑っていないが。
「もし、愛理のチョコレートを貰ったという男が見合いを蹴った理由の一端を担っているというのなら……」
 そう言うと、紳士はグラスのワインを飲み干してしまった。
「その前に、ナカムラに別のお仕事を探してもらう方が良いのではなくて? 急にお暇を出しても可哀想ですし」
「それは男の探索が終わった後だよ。日本では、無料の求人案内の雑誌が出ているらしいじゃないか」
「そうね、愛理さんの想い人を見たいわ。どんな方なんでしょう?」
「……好かんな、そんな男は。私のガードはイングランド銀行の現金保管庫よりも固いのだからな。いざとなったら、愛理は私の下に置いてでも――」
「あらあら。まだ見ぬ殿方に対して妬かないのよ、あなた」
「私は妬いてなどいない。……ナカムラ、グラスが空になっているよ」
 紳士が執事を呼ぶと、少し猫背になって力の無いナカムラがワインボトルを持って前に出てくる。イライラしている紳士とニコニコと笑っている淑女に対応した。
 ナカムラは大人しく日本にいれば良かったと、そんな事を億尾にも出さずに淡々と自分の仕事をこなそうと考えている。
 ――いやはや。お嬢様を盗まれていく方に、私と私の仕事も盗まれたいものですな。
 そんなナカムラに紳士は気を使ったのか、少し残念そうな顔をした。淑女は紳士にナカムラの扱いを任せているらしく、ニコニコとした表情のまま二人を見ている。
「ナカムラ、どうした。具合でも悪いのかね?」
「時差のせいかしらね」
「いえ、私は大丈夫でございます。旦那様、奥様」
「いやいや、遠慮する事はない。まるで具合の悪い執事を私が無理やり働かせているみたいではないか。私の為にも休んでおいた方がいいのではないかな?」
「……お気遣い、まことに痛み入ります。ではお言葉に甘え――」
 そこまで言ってしまってから紳士の言葉の意味を理解したナカムラがすっと背筋を伸ばして訂正の台詞を言おうとすると、二人の主人はニコリと笑ってこう言った。


「Cheerio!」




 END



『End Of The Day』のあとがきのようなもの ( No.4 )
日時: 2007/06/09 12:28
名前: バンター

今週号(3/1)のマガジンの内容(バレンタイン話)とバッティングしてしまいまして、そこの所は大目に見てもらえればうれしいです。
<ちょこっと言い訳を>
これを書き始めたのが昨年の12月の頭だったのですが、その頃の予想では『1ヶ月分(4話分)は修学旅行のイベントになるだろうから、4月・5月位にバレンタインを持ってくるだろうな』とか思っていました。


このSSは『姐さんの泣く状況とは?』をテーマに書いたわけですが、いかがだったでしょうか。カップル話も好きなのですが、こういった友情ものも好きでして、上手く表現できていたのかな?

ここが良かった・悪かった。この辺はおかしくないかい? 姐さんが(姐さんを取り巻く三人が)好きです。姐さんの表紙はまだですか? などなどありましたら、感想掲示板の方に気軽に書き込んでください。

最後となりましたが、この一連のSSを読んでくださり本当にありがとうございました。
それでは〜。


・追記
私はPFを持っていないので沢近家の雰囲気や間取りを知ることはできませんでした。
昨年の6月、某巨大掲示板にある支援スレにて、『沢近邸の事を知りたい』と書き込んだところ、沢近邸の雰囲気や様子を伝えてくれるレスを返していただきました。
今回のSSや書いている途中の『Tonight,The Night』などで出てくる沢近邸の描写は、それらのレスがなければ書けないものでした。
支援スレのログを失くしてしまったのでレスを返してくださった方々に直接のお礼はできませんが、このSSをもってお礼に変えさせていただきます。
ありがとうございました。


・補足
3/12 いくつかの箇所を校正しました。
5/19 まとめの為に「Leek Rag's Leek」と「City of Blinding Lights」を修正・校正しました
6/22 「Lonesome Tears」「また あした」を更新しました

・blog始めました
http://bunter.exblog.jp/
お暇な時にでも遊びに来てください

 

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