Private Laughter 〜訂正版〜(播磨・絃子)
日時: 2005/08/15 06:40
名前: バンター

・前書き

 とりあえずこの投稿形式に慣れてみよう、ということで旧S3に投稿しました同名SSを再投稿します。修正・訂正をしておりますが、もし気付かれた事がありましたら教えていただきたく思います。







 窓の外はまだ真っ暗な朝。
 軽く暖房を入れてはいるが、Tシャツにハーフパンツの格好でリビングに寝そべっている女性がいる。彼女の均整の取れたスタイルを維持するには、いささか問題のありそうなスナック菓子やらビールの空き缶やらがテーブルの上に散らかっていた。
「今日のお天気なんですけれどー、大きく上空に張った寒冷前線の影響で、大変寒くなるようでーす。マフラーや手袋をして温かくしてくださいねー」
 彼女がぼんやりと見ているテレビの中の女性は、放送局の前の道で通勤途中のサラリーマンや通学している学生らから横目に見られながら天気図のパネルを指差して笑っている。
 その、どこか姉ヶ崎教諭に似てなくは無い笑顔に、彼女は顔がつっぱるような気がした。
 ――ご苦労なことだ。
 そうは思ってみるけれど、ああいうことは私にはできないな。刑部絃子は、シャワーの熱の残る火照った体をお気に入りのクッションに預けながら、ぼんやりとそう思った。




                                Private Laughter




 刑部家の朝は早い。
 それは家長である絃子が教師をしているからである。今日に限っては珍しく早起きした彼女の従弟――播磨拳児が、風呂上りの絃子の姿を見ると慌てて部屋から出て行ったのだった。彼の間抜けな顔に絃子は体を震わせた。その時は笑った事が原因だと思っていたのだが、張り付いてくる髪をタオルで拭う事が優先されたのだった。
 シャワーを浴びている拳児の鼻歌を遠くに聞きながら、絃子はストレッチの真似事などをやってみる。いくら従姉弟同士とはいえスタイルの良さを隠そうとしない彼女の肢体に、健全な高校生である拳児が見とれてしまう事は当然の成り行きである。こんな風に毎朝の様に見せ付けているにも関わらず一向に慣れようとしない拳児を見るのが、絃子の密かな楽しみになっていた。
 そうやって、自分がまだまだ魅力的であるのかどうかという事を確認しているのかもしれないなぁ、と薄く唇の端を挙げ、たゆんと胸をフローリンクの上にくっつけてみせた。
「――あっ、朝飯はどうするよ」
 濡れた髪をタオルでごしごしと拭きながら、拳児が部屋に入ってくる。
 絃子の胸がフローリングに押し付けられてポヨヨンと形を変えているのを見て真っ赤になっているにもかかわらず、それでも平静でいようとする拳児。絃子は気にもする事無くさらにフローリングに押し付けてみせた。 
「えっと、……なんかあったっけかなー」
 頭の中からマシュマロが潰れてはポワンポワンと柔らかく弾んでいる映像を消去しつつ、冷蔵庫の中から冷えた水のペットボトルを取り出そうとするが、大きな音を立てて落としてしまう。
 絃子はそれ振り返ることなくテレビに見入っていて、「君と同じやつでいい」と答えると拳児は軽く「おう」と答え返し、絃子に水の入ったコップを渡すと飛ぶように部屋を出て行ってしまった。
 拳児が出て行ったのを確認してから起き上がると、意気地の無い従姉弟に対してため息をつきながら口をつける。キンと冷えた氷のような水が絃子の喉を伝っていき、体に芯が通った心地になる。目の覚めた絃子はまだ濡れたままの髪をタオルで包んでやりながら立ち上がった。
 画面にはこの間終わった日本シリーズに出ていた選手が出ていたが、絃子は特に興味も無く、着替えるために部屋を出て行ってしまう。
 この時に消し忘れられたテレビの中の時刻表示は、もうすぐ六時四十五分を指そうとしていた。
 


 十一月にも入ると、矢神高校でも入試の準備が着々と進んでいた。
 数日前にあった推薦入試の合格者を選抜する為の会議の資料をファイルごとにまとめながら、絃子は旧校舎のしんと静まり返った茶道部の部室でため息をつく。彼女は優秀な教師ではあったが、教師同士の生徒の育成や進学についての相談に乗る事も乗られる事も無く、代わり映えのしない毎日を同じように過ごす日々が続いていた。
 そんな自分にこのような会議に出席するように、と言ってきたという事は――その思惑について考えると絃子の気分は下がっていく一方だった。
 ――面倒だ。
 夢や希望、輝きを放つ青春の日々。そんなものを見ているのはなかなか楽しみなものではあるが、自分がその中に入っていこうとは思わないし、関わろうと思わない。
 とある特定の男子生徒に関しては、そうもいってはいられないが。
 一服して気を紛らわそうと数ある葉の中から選び取り、棚からお気に入りのカップを出して小さいキッチンに立ってみると、見慣れないカップがふきんの上にひっくり返されている。
「……ん?」
 しばらくそのカップに見入っていたが、カップをひっくり返して手に持ってみれば部室に用意されている他のカップよりも重く一回り大きな物で、絃子は物珍しそうに手に持って弄くりまわしていた。
 ――誰のものだろうか?
「……それは播磨君のモノです、先生」
 誰も居ない筈の部室に突如現れた声に、絃子は別段反応も見せずに振り返った。対峙する二対の視線は交差して、互いの思考を読み取ろうと激しくじゃれあう。
「ずいぶん早いんだね、高野君。いつもこれくらいなのかな?」
「今日はずいぶんと冷えると御天気おねーさんが言っていたので、つい」
 理由にもなってはいなかったが、それは横においておく。茶道部部長である高野晶は、ほっそりとして小柄な体で姿勢良く立ち、絃子のいるキッチンへとやってきていた。
 表情をあまり変えることの無い、いわゆる『くーるびゅうてぃー』な彼女達の会話はいつもそんな程度で終わるのだが、晶は何かを感じろうとする。観察されている事に気がついていたが、互いに何も言わずに接した。
「播磨君のカップが、なぜここに?」
 あくまで苦い顔は出さず絃子が尋ねると、当たり前のことをなぜ聞くんですかといわんばかりの表情でほんのちょっと唇の端を上げ、晶は答える。
「これは、ナンパの予防です」
「……ナンパ?」
「はい。八雲やサラ、刑部先生目当ての男子が多すぎて。播磨君に居てもらうとそういった男子はぱったりと来なくなりましたから。私が期待した通りの効果はありました」
 ――ナンパな男、か。
 絃子がそう考えてまず初めに思い浮かんだのは、非常に暑苦しいメガネの男。確かにあのような輩が押し寄せてはサラ君はともかく八雲君はもたないなぁ、などと容易に想像することができる。彼女が――塚本八雲が、拳児とだけは普段と同じように話せる事は、この際おいておく事にして。
「なるほどな。けれど彼は不良だが、君はそれでいいのかい?」
「それは周りの評価です。……まぁ、そんな評価でいてくれていたほうが都合はいいですからね、刑部先生?」
 絃子の中での高野晶の人物評価は、けして低いわけではない。が、一つ上のレベルに上げておこうと思いつつ、カップに今日の一番茶を注いでいった。
 小さなキッチンからいつも部員達が使っているテーブルに移動して、二人は互いをじろじろ見ることは無かったが、確かに互いの視線を感じていた。
 一歩踏み込めば引き、引いて切り返せば軸をそらして華麗に避ける。それらは見た目の上では何事も無く、会話も特に無く時間は過ぎていった。
 遠くでは登校してくる生徒の声が大きくなっていた。時計は八時三十分前を指し、二人の携帯も多少の誤差はあれども近い表示を表している。
「では、朝のH.R.が始まりますから」
「そうだね、私も行くとしよう」
 部室の外へ出ると、絃子は鍵を閉めようと晶に背を向けた。晶は、注意の逸れるこの一瞬を待ちわびていたのだ。内心では笑いが止まらないのを必死に堪えながら、晶は必殺の一撃が放てるそのときを強かに待つ。絃子はそれから一日中、ある言葉に悩まされる事となる。
 晶はゆっくりと薄い唇を開いた。

「保健室と屋上には誘惑が多いですからね。……天然な年上と可愛い後輩」

 絃子が鍵を閉めているその一瞬の呟きに振り返ると、晶の姿はずいぶんと遠くにあった。それは、絃子の晶に対する評価が一番上にまで上げられた瞬間であった。

 


・2


 ――何でこのひとは、いつも笑っているのだろう。

 本日最後の授業が終わり、気分良く廊下を歩いていると御手洗いから出てきた姉ヶ崎教諭と鉢合わせにあった絃子は、そのまま彼女の調子に飲まれるままに保健室のパイプ椅子に座っていた。
 絃子に負けず劣らずのプロポーションを白衣の中に隠してそうで、そこから零れてもあまり気にしていない感じのこの姉ヶ崎教諭は、とにかく明るい。この事をお天気マークで表わそうとするなら、彼女は常に晴れのマークである様だった。
 白衣は胸元で留められているが、たった一つのボタンは必死に胸が出ないようにと頑張っている。柔らかそうな弾力を持った感触は白衣の上からでも分かる程だ。
「新しいクッキーを昨日作ってみたんですけど、作りすぎちゃってー。朝、皆さんにお渡しして回ったんですけれど、刑部先生にはその時に渡せなくて」
 そういって可愛らしい包み紙を渡され、言われるままにその中に入ったクッキーを一かじりしてみる。姉ヶ崎教諭の細い指がこのクッキーを整えて焼いたのだ、と。若い男の教師達はやられたなぁ、こりゃあ。絃子は職員室でデレデレした顔を晒している男子教師達の姿が目に浮かんで、鼻息で吹き飛ばしていった。
 ――おいしい。確かに配って回る事は、ある。
 控えめな甘さと焼き上がりの良さ。
 絃子は、ついつい自然と次のクッキーに手が伸びるのを抑えられなかった。
 美人、というより可愛らしい顔に似合わない、派手なプロポーション。おまけに料理が得意で、心を癒してくれると評判の笑顔。これなら確かに人気が出るのも頷ける。絃子の素晴らしいコンピューターは、そう演算してみせる。
 ――確か、拳児君と噂になったのは……姉ヶ崎妙という名前だったかな。
「あの、お口にあいませんでしたか?」
 しばらく間が空いてしまっている事にそこで気がついた絃子は、当たり障りの無い返答をして残りのクッキーも平らげてみせた。
「ふふっ、ありがとうございます」
 姉ヶ崎教諭はそう言って軽く頭を下げ、その下げた顔を上げる際にボタンの頑張っている辺りがフルフルと揺れる。自分とさほど変わりがないのになぁ。絃子は見つからないように自分のものと比べてみた。
 ――まぁ、個人差というところか。
「お礼を言うのは私の方じゃないんですか?」
 絃子の言葉に『クスリ』と笑った。
 姉ヶ崎教諭は本当に嬉しそうに笑っている。その表情に何の意味があるのだろうか。いまいちその訳が分からずに、理論立てて考えようとする絃子は頭を悩ませた。
「何が可笑しいんですか?」
「嬉しいんですよ?」
 カップを持ったまま、四時限の体育の授業をしている生徒達を見ている姉ヶ崎教諭の横顔は寂しそうであった。彼女の表情は笑顔ではあったが、絃子の目にはそう受け止められた。
 愛しい番いを失くした若い雌鳥。
 心なしか立ち姿が細く見えてしまう。
 儚げで、少し危うい。
 先程までの姉ヶ崎教諭からは想像もつかないその姿だが、絃子はそんな姿に惑わされずに注意深く彼女を観察した。女とは、変わるものだ。一瞬で、瞬きの合間で。
「この前までいっぱい食べてくれる人が居て、居なくなった今も時々作りすぎちゃうんです。」
 ――このあいだ? では、拳児君とはそういった関係ではないというのか?
「本当に美味しそうに食べてくれて。ちょうど失恋した後の穴の開いた心を癒してくれた――いえ、癒しあっていたのかな。私も失恋したばかりだったんです」
 絃子の脳内コンピューターの計算は途中であったが、姉ヶ崎教諭の呟きは続く。白衣から覗く膨らみを空へと突き出し両腕を天井に向かって背伸び押した彼女は、絃子の方へ向きやると寂しく笑った。
「ふふっ。でも、その男とはなぁんにも無かったんですよ? 一緒に生活していて、同じ部屋で寝て。でも……何もなかった」
 姉ヶ崎教諭のプライベートなど何の興味も無い絃子は、彼女の出してくれたお茶をすすっては、ずいぶんと安物だな、という感想しか浮かばない。
 まったく動じない絃子に、姉ヶ崎教諭は暖かく諭すように告げた。
「でもいいんです、また彼と会えましたから。彼とはこれから色々作っていけばいいんですから。思い出も、他のいろんな事も、ね」
 やけに感情のこもった台詞だなぁ、と思いつつ姉ヶ崎教諭へと視線をやると、なにやら意味深げな悩ましい視線を窓の外へと向けている姿が捉えられた。
 絃子も彼女の向けている視線の先に目をやると、いた。
 運動場にいた。
 ジャージににサングラスという出で立ちの、従姉弟が。
 播磨拳児が。
 そして、それを見つめる姉ヶ崎教諭。
 教師が生徒を見つめる視線とは違う、熱のこもった視線。ねっとりとして、絡みついたら離すつもりもないような複雑な感情の入り混じった凝視。イスを倒すくらい勢いで絃子は立ち上がった。
 絃子の鋭い視線に姉ヶ崎教諭は気付いて、二人は対峙する。柔和な姉ヶ崎教諭の視線は楽々と受け止めた。ケンカ上等の拳児を一瞬で黙らせる凝視は簡単に避けられるものではない。
 ――修羅場を潜り抜けている?
 二人を取り巻く余りの重圧で、僅かにミシリと音がして床にひびが入った。
「ずいぶん入れ込んでいらっしゃるようですね、姉ヶ崎先生」
「気持ちがいいんですよ? 自分の作ったものを残らず食べてくれて、美味しいって言ってくれる事って。お料理が得意ででよかったって思いますもの。できないのなら……そうはいきませんもの、ねぇ」
 絃子の目には天然だと評判の姉ヶ崎の顔が、自分と同じ側の人間のように見えた。
 彼女は、狩る側の人間なのだ、と。
 そして狙いを定めた標的も、同じ。
 怯えるガゼルが一匹。調教はすでに終わっている。
「別段、料理ができなくてもいいと思いますがね」
「あら、そうですか。でも、いいんですよ。大切な人とのあいだに生まれた子供には、愛情たあっぷりの料理を食べさせてあげたいだけですから」
「誰との子供なのだね、誰との!」
 一回、足を踏み鳴らした絃子は大きく深呼吸をした。
 命のやり取りをするに、熱くなってはならないのだ。
 もはやこの部屋は天外魔境。
 逃げ場は、無し。
 ならば――決着のつくまで戦うのみ。
 残された道は、修羅道しかないのだから。
「この道しか残されてはいないのか――」
「死して屍拾うもの無し♪」
 今まさに、神話にもならんばかりの戦いの火蓋が切られようとしたその瞬間、呼び出しを告げるメロディーがスピーカーから流れてくる。

『姉ヶ崎先生、姉ヶ崎先生。業者の方がお見えになられています。職員室の方までいらしてください。くりかえします――』

 ――フッ、助かったな。
  何言ってくれちゃうんですか、お姉さん。
  お姉さん、言うな。
  そんなに照れなくてもいいんですよ、お姉さん。
  聞けよ、人の話――

 そんな会話がなされていてもおかしくない、うららかな秋の日差しを浴びる午前十一頃の保健室。
 矢神高校は、おおむね今日も平和だった。
 

 

Re: Private Laughter 〜訂正版〜(播磨・絃子) ( No.1 )
日時: 2005/08/15 06:43
名前: バンター




・3

 麗らかな日差しだろうとなんだろうと、絃子に吹き付ける風は冷たかった。誰もいない保健室なんぞにいてもしょうがない、と考えた絃子は屋上にやってきていた。高野晶の言葉を信じるのなら、この屋上には何かあるはずだったからだ。
 とはいえ、まだ昼休みのチャイムまで五分近くある。体育の授業が終わった別のクラスの男子が、屋上にいる絃子を目ざとく見つけ手なんか振ってくるものだから、姉ヶ崎教諭との対決に不機嫌な絃子は冷ややかな目で彼らを見下した。
 絃子としては怯えて消えてくれればよかったのだが、男子生徒達は何かに目覚めてしまったのか前かがみになり内股で校舎へと消えていったのだった。特に気にする事なく、絃子は記憶の端にすら留めようとはしない。
 程なく授業の終わりと昼休みを告げるチャイムが鳴り、生徒達の声で騒がしくなってきた。生徒達の楽しそうな声に、自分のやっている事が酷く愚かしいものに思えてくる。
「何をやっているんだ、私は」
 コンクリートの壁に背中を預けながら、ポツリと洩らした。生徒達の喧騒が、別の世界のものにも思えてくる。屋上のそんな雰囲気に、絃子は飲み込まれようとしていた。
 

 キィ。
 

 ドアの開く音に絃子は現実へと引き戻される。
 シャツの乱れ直しつつ火照った頬を手団扇で扇ぎながら音のした方を覗いてみると、校内でも有数の美少女である塚本八雲が静々と立っていた。
 その佇まいは大和撫子。
 絃子の目にも可憐で淑やかに映り、同じ女性でも大変好ましく思われた。
 しかし問題なのは、そんな彼女がこんな屋上まで来る理由である。
 たびたび見せる横顔には、何かに期待をしている 潤んだ瞳とうっすらと染める頬化粧。
 両手はしっかりと胸の前で重ねておいて。
 それは紛れも無く、恋する乙女。
 だがこの際、恋する乙女はどうでもいいのだ。
 問題なのは彼女が誰に恋心を抱いているのかという事、それのみ。
 絃子の頭の中では、晶の言葉が大音量で流れていた。

『保健室と屋上には誘惑が多いですからね、……天然な年上と可愛い後輩』

 そして、絃子の願い虚しく彼女の従姉弟はやってきてしまうのだった。
 新喜劇よろしく派手にずっこけかけた絃子は、それでも見逃さなかった。塚本八雲の華開くかのような笑顔を。著しく自分への好意に鈍感な拳児には分からないのだろうが、同じ女同士、その微妙な差異に絃子のレーダーはビンビンと反応した。
 奴は危険だ、と。
 なにやら話しているらしい事は分かるのだが、拳児と八雲は寄り添うようにして話しており、絃子の所まで声が聞こえない。
 その光景は、まさに恋人たちがいちゃついているかのようで。
「一体何を話しているんだ。聞こえるように話したまえ拳児君……」
 聞こえない声が通じたのか、微かにだが二人の声が聞き取れる。
「つき合わせちまって悪かったな、妹さん。だがよ、楽しかったぜ」
「い、いえ。私も……楽しかったですから。結果が楽しみですね、播磨さん」
 ――何の話をしているんだ?
「色々あったが、俺がここまで出来たのは妹さんのおかげだ。本っ当に妹さんと付き合うことになる奴は幸せ者だぜ」
「……そんな事、ありません。私、そんな……」
「そんなにケンソーすんなよ」
「ケンソー? 謙遜ですか?」
「まー、そーとも言う。って、ははは」
「……ふふっ」
 ――付き合ってはいない、という事なんだな?
「俺にできることなら何でも言ってくれ。何かお礼がしてーんだけどよ、俺は何をしたら妹さんが喜んでくれるなんてさっぱりわかんねえから」
「!! ……あ、あの……」
「おっ、なんだ。何かあんのか? 遠慮せずに言ってくれタマエ」
「……日曜なんですけど、お暇ですか?」
「おう」
「……家に来ませんか?」
 ――残念だ。大変、残念だ。塚本君、君とは只の茶道部員と顧問という間柄でいられると思ったのに。
「……ん? ……ん。い……いっ、妹さんの家にぃ!?」
「あ、あのっ、すみません変な事言っちゃって。今の事、忘れてください!」
 しんと静まり返った屋上に、昼休みの生徒達の雑踏が聞こえてくる。
 拳児と八雲は互いの距離はそのままで、顔をそらしあっていた。
 じりじりと時間だけが過ぎていく、まったくもって絃子の心中に吹き荒れる嵐とは異なる空間が屋上にはあった。
 しかし、そればかりではいられず期を決めたように八雲の顔が上がる。
「……その、伊織も会いたがっていますから。は、播磨さんと……」
「そうか、しばらく会ってねぇもんな」
 驚いた表情のままだった拳児の顔が、ふっと緩んだ。おそらく八雲の言葉の意味など深く考えずに、妹さん、優しいなぁ。などと考えているのだろう、そう考える絃子の厳しい視線が向けられた。
 ――分かっていない。分かっていないなぁ、拳児君。
 二人が幾重か言葉を交わすと、昼休みを終えるチャイムが鳴るのが聞こえてきた。
 絃子は、当たり障りの無いおそらく恋人同士とは程遠い会話を続けていた二人に気を許している自分が、どうしようもなく情けなく思えてきてしまった。
「じゃあな、妹さん。結構寒くなってきてっからよ、気をつけな」
「は、はい。播磨さんも……、気をつけてください。食事はちゃんと取ってください。それから……」
「ははっ、ありがとよ。バイト代が入ったらちゃんと考えて使うからよ」
「はい、そうして下さい。……なにか、作ってきましょうか?」
 ――それは、お弁当?
「いいよ。そこまで世話にはなれねーから。今だってじゅーぶんにしてもらっているし」
「……だけど」
「そんなに気を使わなくてもよ」
 ――してもらってって、拳児君。もしや……。
「毎日、姉さんと私の分と作っていて……。播磨さんの分を作っても、時間的にもあまり変わりませんから」
 しばらく空を見上げている拳児を穴が開くほどに見つめているのは、よく出来た妹さんと同棲しているつもりの従姉弟。
「……じゃあお願いできるか、妹さん?」
 その声に、「はいっ」と上品な笑顔で答えている八雲を、絃子は複雑な目で見ていた。人一倍引っ込み思案な感のある八雲が、自分から他人へと関わりを持とうとしていることは部活の顧問としても嬉しい事であったし、見た目麗しい女の子が恋をしている姿というのは見ていてもどこか嬉しいものであるのだ。
 が、それとこれとは違うのだ。
 自分の範囲内に影響のある事、自分の今いる居場所が奪われようとする事。絃子の縄張りに入り込むという事は、問題外なのだ。
「明日から、でいいですか?」
「おう。本っ当にすまねえなぁ。まったく、妹さんには頭が上がらないぜ」
 からからと拳児は笑いながらドアを開け、中へと消えていく。
 

 ひゅう。
 

 思わず声を上げてしまうような、冷たい突風に絃子は鳥肌を立てる。
 こんな寒い所から出てさっさと温かい家に帰ろうではないか、そう思いながら影から出ようとするとまだ八雲がドアの前に立っている姿が見え、絃子は体を傾け姿を隠した。
「何がいいかな、播磨さん何が好きなのかな――」
 弁当の中身を考える事に終始している八雲の姿に、思わず絃子の表情も柔らかくなる。




「――ねぇ、刑部先生?」




 突然の八雲の声に、絃子は一歩後ずさりをする。
 おっかなびっくり少しだけ顔を出してみると、明らかに八雲の視線はこちらに向いているのが見えた。ワインレッドの瞳は確かに自分を見てくる。絃子は暴れ出しそうになる心臓を掴むように胸を押さえた。
「あら、気のせいなのかな?」
 絃子は息を潜めたまま隠れた。一秒が一分にも感じられる、奇妙な空間。
「気のせいですね、きっと。ですよね、刑部先生?」
 

 かたん。
 

 ドアの閉まる音に、絃子は深くため息をつく。
 十一月の空は薄く青く、涙は流さずに頑張って瞳に溜めてみせた。
 ――もう、従姉弟も保険医も部員も信用できない。してやらない


Re: Private Laughter 〜訂正版〜(播磨・絃子) ( No.2 )
日時: 2005/08/15 06:29
名前: バンター



・4

 火照る体を拳児に擁かれ、絃子は満足だった。
 力強い腕に軽々と抱き上げられ、ベッドの上に優しく宝物を扱うかのようにそっと置かれる。ふわっ。冷たいシーツの感触に「うぅん」吐息が洩れた。
 その腕から解放された絃子は気だるげな視線で彼を見上げ、彼はしょうがないなといった表情で彼女を見下ろした。サングラスが明かりに反射して真っ白に見える。
 天井のライトを一番小さくすると、ぼんやりと絃子の肢体が浮かび上がってくる。滑らかなラインにそってシャツが張り付くようになり、そのラインは拳児のかけた布団に隠れた。
 拳児の体温が冷たいベッドへと逃げ、名残惜しそうに絃子が短く吐息をつく。僅かに間が空き、絃子は震える体を、億劫な気持ちに負けそうになるのを我慢して見上げた。
「どうしてこんな事に……」
「心配すんな。俺に任せとけ」
 拳児のサングラスの奥の瞳に訴えかけるような、絃子の弱々しく潤んだ瞳。うっすらと汗がにじんだ肌に張り付いてくるシャツ。いつもの凛々しい姿とは異なる姿に、拳児は思わず彼女の手を取って包んでやった。小さく、弱々しく、守らなければならないもの――そんな風に見えたのだろうか。
「け、拳児君」
 小さな唇から漏れ出す言葉も力強さは無く、熱っぽく囁く。
 期待するような瞳は潤んで、零れ落ちたのは別の言葉。
「絃子、大丈夫だ。」
 拳児の大きな手が絃子の額に伸び、張り付いている前髪を払いのけて笑ってやる。
 望んだ言葉ではないが安心して彼に体を任せると、思った以上に落ち着いているなぁと絃子は思った。ひりつく喉は焼け爛れたかのようで、頭が熱を帯びていた。
 その手は熱く囁いた唇へと伸びて、触れる。あまりの気持ちよさに睫を震わせてみせると拳児のくすくすと笑う声が聞こえた。悪戯好きな、いけない子供。
「すまねえ、くすぐったかったか?」
 すぐには答えず焦らして、暫らくしてから首を横に数回振って答える。
 ピピッ、と小さな電子音が空間を絃子にとって甘い甘い空間を切り裂き、ソレが拳児の手によって容赦なく引っ張り出される。
 絃子は自分の中から出て行く喪失感に抵抗するが、女の抵抗などこの男の前では無力に等しくだらんと両腕をたらすしかなかった。
 横目に彼を見上げると少し心配そうな顔があって、絃子はそれもまた良いものだと思う。
 つまり、こんな事でも満足してしまえるという事なのだ。
「拳児君?」
「ああ、そんなにねえな。けどよ、寝てないとな」
 一度小さく頷くと、拳児は立ち上がってしまった。包まれていた手に部屋の空気が襲い掛かり冷やしていく。それが気持ちいいのと彼の温もりを失うことの虚しさと、絃子が思ったのはそんなことではなかったが。ふと、一人家に残った子供の姿が見えた気がした。
「拳児くーん!絃子さんのお熱、どうだったー?」
 遠く、リビングの方から聞こえてくる後輩の声をシャットアウトしつつ拳児を見上げるが、彼はそんな視線に気付くことなく部屋を出て行ってしまった。

「……っくちんっ!」

 つまり、刑部絃子は風邪を引いてしまった、という事なのだ。




 絃子の友人である美術教師――笹倉葉子は別段気にしていない感じで、穏やかに笑みを浮かべていた。
「そう、39度も」
「絃子のヤツには、そんなに熱は出てねぇって言ったんっすけど……。医者に連れて行ったほうがいいんじゃないっすか? 救急病院とか」
「そうねえ。明日の朝になっても熱が下がらなかったら連れて行ってくれる? 私は明日の一限から授業だから遅れられないの」
「いいっすけど、どーして風邪なんか引いたんっすかね」
 リビングには缶ビールを嗜む葉子と、彼女が作ってくれた粥と冷凍モノの中華をかっ込んでいる拳児がいる。満足げに食べている拳児を見ている葉子の瞳は、どこか愛しいわが子を見つめる母の温かさに満ちていた。
「こういう光景をいつも見ているんですか、絃子さん?」
「……ヨーコ姉ちゃん?」
「ふふっ、なんでもないわ。でも、どうしてなのかな。絃子さん、風邪なんてとても引きそうじゃないじゃない?」
 その言葉に「違いねぇ!」と豪快に笑う拳児。葉子は拳児のこういう実直さに感心しつつ、女の自分には持ちえないものだわ、そんな想いをアルコールと一緒に飲み込んでいった。当たり障りのない会話を繰り広げていると時間が経つのを忘れてしまう。
 拳児が照れなく気軽に話せる数少ない人物。葉子は拳児の話す、中身の無い様で彼の精一杯の思いの詰まった話を真剣に、かつ包み込むように聞き込んでいた。絃子とは違う種類の女性。拳児がその違いが分かるまでに、一体どれほどかかるのだろうか。
 二人はテレビの音を出来るだけ小さくして見ていた。
 帰ってはいけないような、帰るタイミングを逃した葉子が壁掛けの時計に目をやると、すでに深夜の一時を過ぎようとしている。
 流石に帰る決意をした葉子は、隣で小さな鼾をかいている拳児を起こした。
「じゃあ、もう遅いから帰るわね。ちゃんと戸締りできる、拳児君?」
「でっ、できるっすよ!!」
 慌てて飛び上がってまで抗議する姿に笑ってやりつつ立ち上がると、葉子は拳児の頬に唇を触れさせた。くっ付いたかどうかも分からないほどの、口付け。葉子にとっては親しい拳児へのコミュニケーション。一瞬で硬直する拳児などお構いなしに、葉子は耳元まで唇を近づける。
「ちゃあんと守ってあげるのよ。お姫様を守るのは、ナイトの役目なんだから」
「おっ、お姫様? ……絃子が?」
「そうよ。拳児君は、この家のナイト。騎士さま。そしてこの家のお姫様は、先輩――絃子さん。絃子さんの高校時代なんて高嶺の花で、どんな男の子も近づけなかったのよ」
「へ、へぇ。そーなんだ」
 あまり聞かない話題に、拳児はキスをされた事すらどこかへ飛んでいてしまったようだ。腕を組んで「趣味のわりぃ奴が多かったんだな」などとのたまっている。葉子はくすくす笑いながら拳児の胸を手の甲で叩いた。
「ちゃんと守ってくれたら、お礼をあげるからね。今のは前払い、もう払っちゃったからね、拳児君。……できる? できるかなぁ?」
 見上げる葉子の目はいたずらっぽく光って、拳児はそこでようやく彼女の言いたい事が分かった。からかわれている? いや、試されているんだ。拳児の明るい顔に葉子は頷くのだった。
「おうっ、当然だ。なんだかんだ言っても、絃子の奴には世話になってっからな!」
 玄関で靴を履きながら葉子は、やれやれと笑った。拳児は洗面器に水を入れているようで、絃子は部屋で大人しくしているようだ。
 ――世話のかかる姉弟だなぁ、まったく、もう。
 葉子のそこそこの値段がつくであろうミュールは、すんなりと踵を受け入れるのだった。
「そうじゃないんだけどね。まぁいいっか。今晩は散々甘えてくださいね、絃子さん」
 熱が出たときくらい甘えてもいいじゃない。葉子はからかい半分の企みが成功する事を祈りつつ、刑部家を後にするのだった




 動かない頭では、物事をうまく考える事は出来ない。
 腕を少し動かそうにも何処までもついてくる虚脱感と、発熱による疲労。真っ暗ではなく、一番小さな薄いオレンジの光に包まれた部屋で絃子は寝ていた。
 零れる吐息は熱く、汗を吸った衣類を脱ぎ捨ててしまいたいという願望とは別に、まったく言う事の聞かない自分の体が恨めしい。何とか顔を横に向け壁にかけられている時計に目をやると、朝の四時を過ぎた辺りを刺していた。
 薄暗い部屋で一人。冷たい室内の温度に震えても、布団に包まった体は熱く、視界はぐるぐると回る。
 ぼんやりとした頭では都合のいい事など思いも浮かばず――この家には自分独りなんじゃないだろうか。拳児君は……、八雲君や姉ヶ崎先生や葉子と楽しくやっているんだろうか。熱を出した私なんてほぉって置いて――などと、次々にいつも自分の考えている最悪なイメージしか思い浮かばない。
 眠りにもつけず悶々としながら、今日の一限の授業はどうしようか、と考えているとドアが開き眩しい光が入り込んできて、絃子はそのあまりの眩しさに唸ってしまう。
「お、どうだ。少しはちょーしが良くなったか、絃子」
 冷えた水のペットボトルと洗面器を持って、拳児が部屋に入ってくる。そのあまりにも当たり前の様子に、絃子は声も出ずにコクコクと頭を動かした。ノックも無しに勝手に部屋に入ってくるなんて、と言いかけて止めた。両手で洗面器を持っていて、肩にタオルをかけていたからだ。
 拳児は、ペットボトルの水を洗面器に開けるとベッドの下に落ちていたらしいタオルを片付け、新しいタオルを取り出しきつく絞った。
「絃子、ちょっと我慢してくれよ」
 そういうと拳児の手が絃子の顔に伸び、頭を持ち上げると枕の上に置かれたバスタオルを取り替える。何も考えられなくなっている絃子などお構いなしに、拳児は絃子を抱き上げた。眠る前に抱きかかえられていた事を思い出し、恥ずかしさがこみ上げてくる。
「なっ、何をするっ拳児君?」

「何って……脱ぐんだよ、全部」

 頭の中が真っ白になって、絃子はおどおどと自分を抱き上げる従姉弟を見上げてみる。拳児の顔はドアの向こうから入ってくる光に隠れ、逆行の中から切れ長の目が見えた。
 拳児は、見上げてくる絃子を無視をすると衣類の入っているであろう小さな箪笥へと行き、その前に彼女を降ろした。
「着替えんだよ。汗吸ったヤツのままじゃ、治んねえだろ」
 そこでようやく拳児の意図に気づいた絃子なのだが、治まる気配の無い胸の鼓動に大人しく、「うん、分かった」と答えることしか出来ない。
「着替え終わったら、呼んでくれ」
「ああ、わかった」
 そんなやり取りの後、再び部屋に入った拳児の目にはいつものTシャツにハーフパンツといった感じではなく、パステルブルー色のパジャマを着た絃子がぐったりと箪笥にもたれかかっている姿が目に入ってきた。拳児の手は絃子の背に回り、乾いたパジャマの感触を二人に与える。
「大丈夫か?」
「あ、ああ。それよりもあまり私の下着とか見るんじゃないぞ、拳児君」
「馬鹿なこと言ってねぇで、ほら」
 絃子は、目の前でひざ待ついて両手を広げる従姉弟をぽかんと見ていた。
「何の真似だい、一体?」
「お前一人で戻れんのか、ベッドまで」
 拳児にそう言われ、何度かベッドと拳児の顔を行ったり来たり。その真摯な瞳に胸を高鳴らせて。もう、誘惑に打ち勝つ力など絃子の中には残ってはいなくて。
「頼むよ、拳児……君」
 優しく抱き上げてくれる腕に思わず、うっとりとした表情になってしまう。今まで許した事のない姿。だれがこんな自分を予想するのだろうか。絃子はじっと拳児の胸に寄りかかったままだった。
 再び自分のベッドに下ろされ、つかの間の夢の時間は終わ――らなかった。拳児はどっかりとベッドの脇に腰を下ろすと、そのまま胡坐をかいたのだ。
「いいんだよ、ずっと起きていたんだろう?」
「馬鹿言え、葉子ねーちゃんと約束したからな。絃子の事、面倒見るって」
 じっと拳児を見つめていると恥ずかしいのか、ぷいっと顔をそらして。絃子は着替えたパジャマの肌触りのように、気持ちがすっかり良くなってしまっていた。
 深い所でじっとりと濡れたオレンジのように甘酸っぱい思いに浮かれつつ、それは熱が起こした悪戯なんだよと言い聞かせつつ、でもそんなものはにっこりと笑って蹴り飛ばしてやった。
 今、誰と一緒に居るのか。それだけで良いじゃないか。
 憑き物が落ちたような笑顔で絃子が笑うと、サングラスをしていない拳児も同じように笑って返した。昔はこんな顔をしていたのだろうか。拳児もまたそう感じているのだろうか。それとも、生まれてはじめての表情?
 ――いいさ。小さな問題さ。
「これから面倒、見てもらうからね、拳児君」
「オウ、男に二言はねーぜ!」


Re: Private Laughter 〜訂正版〜(播磨・絃子) ( No.3 )
日時: 2005/08/15 06:32
名前: バンター

 

・5

 流石にもう一枚着込こまないと冷えてきた、深夜。
 ガチャリ、とゆっくりと鍵を開けて近所迷惑にならないように気をつけて、家に入るのは一人の女性。
 クローゼットから買ってから一度も開けてはいないだろうバッグの箱がいくつか飛び出ているのにもお構いなしに、女性は手早く着替えて化粧を落とし冷蔵庫の中から缶ビールを取り出す。
 一息に半分ほどまで飲むと、ため息をつきベッドに腰を下ろし、テレビのリモコンに手がのびかけ――止める。女性の指はしばらくの間リモコンのゴムの部分を弄くっていて、それも止めて元に戻した。
 そんな事よりも面白い事は、あるのだ。
「ふふっ、どうなったかな。しっかりヤっちゃってくれてるのかな?」
 残ったビールを飲み干すと、部屋の電気を消して布団にもぐりこむ。
 女性はしばらくニヤニヤとしていたのだが、ふっと目を閉じて自分の高校時代の事を思い出した。絃子と自分と、クラスメート達。はっきりとした線引きがあったように思い返される。クラスメート達が見たことも無いような絃子の表情を数多く見てきた。そう認識をしている。
「けど……拳児君のあの表情の様に、絃子さんも私が見たことも無い顔を持っているのかな。二人だけが知っている、秘密の笑顔。私の知らない表情。いいなあー、ふふっ……いいなぁ」
 女性は嬉しそうに笑って、温まってきた布団に包まると眠りについていった。
 テレビ等より面白い事はいくらでもあるものだ。
 教師という事も、絵を描くという事も、大切な二人と創る思い出も。それと、思わず買ってしまう衝動買いという癖も。みんな私を形作るもので。でもなんでこんな事考えてしまうのかしら? 葉子はそんな思いと共に、深い夢の中へと落ちていくのだった。






 翌朝の一限。

 出席簿の播磨拳児の欄には、病欠のサインが。
 風邪で休んだ物理教師、刑部絃子の代わりに連絡を伝えに来た笹倉葉子は、黒板に大きく『自習』と書きながら刑部宅で休んでいるはずの二人の事を想像していた。
 穏やかな笹倉教諭の表情はどこかいたずらをした子供のようで、しかしそんな彼女の変化に気付く者は誰もいなかった。彼女のそんな違いを知るものは、今このクラスの中にはいない。
 2−Cの生徒達は、突然出来た自習という時間に騒がしくなってきている。仕切り屋で学級委員タイプの花井春樹はそんなクラスメート達を黙らせようとして、返り討ちに合っている。
静かにするのよ、と言い残して教室を後にする笹倉教諭の手には2−Cの出席簿があった。


 職員室に戻り2−Cの棚に出席簿を戻し、誰もいない美術室に向かう。今日は昼からしか授業はないのだ。ちょっと舌を出し歩いていると、すれ違った生徒が驚いた顔をしていた。
 準備室にある描きかけの絵にむかうと、どんどんイメージが沸いてくる。目の前の絵には、今の自分と高校生だった頃の自分が見ていた、変わらない笑顔が。そしてその笑顔に修正を加えていく。仲の良い従姉弟同士の明るい笑顔。いつか見る事になるだろう、素敵な表情。それに答えるように、気持ちを籠める笹倉教諭も自然と返していた。
 いつもの美術教師の顔でなく、絃子と拳児を見守ってきた友人としての微笑みで。



 END

Re: Private Laughter 〜訂正版〜(播磨・絃子) ( No.4 )
日時: 2005/08/15 06:51
名前: バンター


 色々と大変でしょうが、私には応援する事しかできません。運営や管理についての専門的な知識などありませんが、急いで何とかなるというものでもないような気もします。焦らずにじっくりやってみてのいいのではないでしょうか。
 このような投稿できる場を与ええてくださる事に感謝をしまして今回の投稿を終わりたいと思います。
 また、読んでくださった方々にも感謝を。


 バンター

 

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