FUTURITIES ON SCREEN(結城・花井) ( No.1 ) |
- 日時: 2005/08/16 00:13
- 名前: ぶーちょ
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そんなこんなで、訳もわからぬうちに押切られ、いつのまにか店の奥にある、視力検査室、兼、視力矯正器具調整室(つまりはコンタクトや眼鏡を作る部屋)の前の、通路に並んだ丸椅子に腰掛けさせられていた。「とりあえず、検査を受けてくださいませね」と、店員さんは営業スマイル全開で、そこだけ妙な敬語を操って、そそくさと逃げるようにカウンターへ戻っていった。 まだ私は一度も、コンタクトを買います、とは言っていないのだけれど。
「はあ……。失言だったな」 「ん? 結城君じゃないか」 「えっ!」
いきなり耳元で聞き慣れた声がして、飛び上がるほどに驚いた。 目を細めてよく見れば、ちょうど今、隣に座ろうとした肩幅の広い学生服の男の子――雑誌を手にしてこちらを向いているシルエットは、紛うもなく花井くん、その人だ。 途端に私の身体は強張り、頭の芯に火が入ったように熱くなった。自分でもそれが、はっきりと分かった。
「どうしてここに? というか眼鏡はどうした? 今日、学校でもしていなかったみたいだが」 「し、し、知ってたんだ」
平静を装おうとする頭の中とは裏腹に、おもいっきりどもってしまい、私は慌てた。幸い、待合いのスペースには二人だけだから良かったものの。
――ふ、二人だけ?
その事実に気付いて余計に焦る。だけど、花井くんは普段と変わらない、必要以上に力のこもった口調で答えを返した。
「無論だ! クラスの皆の様子を毎日チェックするのが、学級委員の務めだ」 「あ、そ、そう」
期待していた内容とはずいぶん違って、がっかり……している場合じゃない。 コンタクトを作るの、とは言えなかった。まだ、決めたわけではないし、今の事情を話すにも長くなる。しかも上手く説明できそうにない。私は、とっさに話題を逸らすことにした。
「は、花井くんこそ、何でここに?」 「そんなもの、眼鏡の定期検診に決まっているだろう!」 「はあ」
いや、決まっているだろう、って言われても。 徹頭徹尾、いつもの花井くんだった。それでようやく落ち着けた。(これも彼のおかげっていうのだろうか?)私は、ちょっと冷静に考えてみる。
――そもそも、定期検診なんて眼鏡にあるの? そっちの方が耳慣れないのだけど。
疑問が顔に出てしまったのか、彼は心外といった様子で、逆に訊き返してきた。
「結城君だって眼鏡をかけているのなら知っているんじゃないか? 最初は2ヶ月、後は半年に1度の定期検診が義務付けられているはずだ」 「義務? そうだっけ?」 「そうだ! 何だ、結城君はちゃんと受けていないのか?」 「花井くん。ちょっと聞いていい?」 「む、何だ?」 「今、かけている眼鏡。買ったのって、いつ?」 「ん? これか?」
花井くんは手をやって、黒縁のフレームを人差し指と親指で摘んで、わずかに持ち上げた。
「ふむ、そうだな。中3の頃だから、かれこれ2年になるな」 「そ、そう」
――丸2年間も真面目に定期検診(ほんとにあるの?)に通うのは、たぶん矢神市内で花井くんぐらいのものだって。
心の中で思わず突っ込んだ。わざわざ口に出せば、絶対に藪蛇になるから、とりあえずは肯いておく。しかし、相変わらずの生マジメぶりだ。
「それより結城君、質問の答えがまだだぞ。眼鏡はどうした?」 「あ、う、うん」
――わ、まだ、忘れていなかった。どうしよう。何て答えよう。
『えーっ、いいじゃない、コンタクト。きっとカワイイと思うよ?』 あのときの嵯峨野は、多分その場のノリでからかったんだ、ってことは分かってる。ただ、もし冗談だとしても、私が「コンタクトにする」っていったら、花井くんはどう反応するだろう? ちっとも興味がない、と言ったら嘘になる。
――「コンタクトにしたらいい。素顔の方が可愛いからな」なんて褒めてくれる? いや、彼にそんな軟派なセリフはありえない。それじゃあ、一体、何て言うの?
そんなことを考えたら、急に心臓が、口から飛び出そうなくらい激しく暴れだした。
――ええい、もう言っちゃえ!
胸を手で押さえつけ、ひとつ小声で気合を入ると、私は覚悟を決めた。
「じ、実はね、また眼鏡のレンズ割っちゃって」 「む、また吉田山か?」 「ち、違うの。ちょっとした事故で。でも、私、これを機にコンタクトに、か、変えてみようかなあ、なんて思って」 「何、コンタクトだと!」
手の中の雑誌を丸めてパンと膝を打つと、花井くんは声を張り上げた。
「う、うん」 「止めろ、止めろ。あんな危険な代物は!」 「危険?」 「そうだとも! コンタクトレンズは便利な故に落とし穴もある。今は昔に比べて余計に品質がいいから、わずかな傷があっても気付かずに使ってしまうことが多い。そうすれば、知らぬ間に角膜を傷つけることもあるんだ!」 「あ、そ、そう……」 「角膜に傷がつくと厄介だぞ。最悪、失明という事態も想定せねばならん! それに最近のものは、ソウヨウカンが余りにも良すぎるからな」 「そうようかん?」 「うむ。装用感。つまり、付け心地ということだ。それが良いから、コンタクトを付けたまま忘れてしまうこともありうる。そうして長時間付けたままにしていると、瞳に対して充分に空気が送られず、酸素欠乏症によって目の病気にも繋がりかねんのだ」 「へ、へえ……」
反射的に相槌を打ちながら、頭では別のことを思っていた。「家庭の医学的」豆知識、そんなものを聞きたかったわけじゃないのに、って。
――でも、そうだよ。花井くんにとって、結局、私は特別なんかじゃない。
恋心を隠そうともせず追っかけ続けている塚本さんの妹さん。そしてツーカーの仲の幼馴染みの周防さん。私はといえば、単なるクラスメイト。 改めるまでもないことだけれど、頭では納得しても、反対に心はそうはいかなくて。
「ともかく、止めるんだな! 眼鏡で充分じゃないか! コンタクトと違って、取り外しや手入れは簡単、目を傷つけることもない。それにだな……」
花井くんはその間にも、延々ひとりで話を進めている。 それで、少し腹がたった。 全然、関係ないのなら、この人はどうしてここまで干渉するのだろう。世話焼きでお節介。彼の性格なんだろうけど、よくよく考えたら理不尽だ。赤の他人の決断にまで、口を出されたら堪らない。このままコンタクトを止めたら、まるで言いなりになるみたいで面白くないじゃない。
「結城つむぎさん。お入りください」
ちょうど、部屋の奥から名前が呼ばれた。胸にたまったモヤモヤを振り払うように、勢いをつけて席を立った。その弾みで、座っていた丸椅子が床に転がって、ガランガランと派手な音をたてた。
「おい、どうした?」
驚いた彼は話を止めて、直ぐに助けに入ろうとした。だけど、私はそれを手で制し、倒れた椅子を持ち上げると、乱暴に元の位置へ戻した。そのままの勢いで何事かを怒鳴りそうになって、慌てて一度唾を飲み込み、ゆっくり一つ、深呼吸をした。 多分、ひどい顔をしているなと自分でも思う。私は、そのまま花井くんに背を向けた。
「結城君!」 「花井くん」 「む?」 「やっぱり、コンタクトに決めたから、私」 「お、おい、結城君!」
珍しく慌てている花井くんを無視して検査室へ向かった。私の足音は、怒りの気持ちそのままで、自分でもびっくりするくらい大きく、待合の通路に響いた。
*
機械を使った視力検査、検査用の丸めがねによる度数調整、各コンタクトメーカーの特徴の説明とその選定。検査室の専任らしい、私と母娘ほども年の離れた女性の店員のエスコートで、着々と出来上がりの時が近づいてきた。一時の激情が収まったら、まだ、気持ちの整理は全然済んでいないことに気がついた。逆に、余計、不安にさえなっている。 と、ちょうどその時、花井くんらしき人影が、検査室の真向かいの壁に寄りかかっているのが見えた。ぼやけて、はっきりとは分からないが、どうも私の方を見ている気がする。私は慌ててそっぽを向いた。平気な風を装って、敢えて気付かぬふりをする。 彼の検査は、当たり前だけどすぐに済んで、言葉を交わすこともなく先に出て行った。
「さ、では、取り外しの練習をしましょうか」
目の前に私用のコンタクトが、ケースに入った保存液の底に沈んでいた。 2つのレンズは、ブルーのマニキュアを塗った、丸い爪みたいに見えた。私は右目用の片方を、おっかなびっくり摘んでみた。くぼみに溜まった保存液が零れだして反対側に折れ曲がり、指先の膨らみにピタリと貼りついた。
「あ、裏返してください。綺麗に丸く凹んでいるほうが上を向くように。そう、人差し指の腹に載せて」 「は、はい」
四苦八苦しながら、元の形に戻す。隣で店員さんが演技するのを真似て、瞳にそっとレンズを当ててみた。瞬間、わずかにヒヤリとして、驚いて目をギュッと閉じた。
「はい、入りましたね。……どうですか?」 「え、えっと」
入っていない方の目を左手で隠すと、コンタクトを入れたばかりの目を、思い切って開いてみた。
「わっ」
驚いた。 眼鏡をかけているときと遜色ない、クリアな景色が広がっている。 それなのに、どこまでいっても境目がない。世界は今まで丸く切り取られたモノのはずなのに。こんな視界は、初めて……いや、違う。久しぶり、ってことになるのかな。 けれど、前に経験したのはあいまいな記憶の彼方、遥か昔の幼い頃のことだ。
「あ」
もう一つ、新鮮な発見があった。
「眼鏡の時、フレームの近くに映る物はちょっと歪んでいたんですね。コンタクトを入れてみて、初めて分かりました」 「ええ。でも最近は、メガネのレンズでも品質の良いものなら、歪みの少ないものは出ていますよ」 「え! そうなんですか?」
知らなかった。驚いて店員さんの方を見ると、その姿が、壊れたテレビに映る古参の女優さんみたいに、二重になっていた。
「あれ?」
店員さんは、イタズラっぽく笑って、皺の寄った左の目尻を指さした。種を明かせば簡単なことで、隠していた左目を開けてしまったせいだと気が付いた。
「さ、もう片方も入れてみましょうか」 「あ、は、はい。ごめんなさい! なんか私、一人ではしゃいじゃって」 「全然。喜んでいただくのを見ていると、こちらも嬉しいですよ」
話に聞いていたような、痛みも異物感もない。私は、もうすっかりコンタクトの虜になってしまった。
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FUTURITIES ON SCREEN(結城・花井) ( No.2 ) |
- 日時: 2005/08/16 00:14
- 名前: ぶーちょ
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3度の着け外しの練習のあと、私は検査室の外に出た。「ウチの店のなかでも、歩いてみてください。2、30分様子を見ましょう」。そう言われたからである。 歩きながら、店の中から外の景色まで、あちこちを見回した。 白一色の店の壁。そこに飾られている数枚のリトグラフ。窓の向こうを行き交う雑踏。そのバックに佇む矢神駅の見慣れた建物。屋根の上には透き通った11月の空の深い青さ。
「わっ!」
よそ見のせいで、通路の脇に置かれた観葉植物にぶつかりそうになる。さっ、と鼻の頭を緑の細い葉の先端が撫でていった。触れた部分を右手で押さえたら、そこにメガネのフレームが無いことに、今さらながらハッとする。恐る恐る、両耳の上に手をやってみた。視界がこんなにも鮮やかなのに、そこには何もないことが、すごく不思議で。
「ふふ」
自然に笑みがこぼれていた。
気付けば、店の入口に程近い、ショーウインドウや棚に商品が並ぶスペースにいた。――そこで、店内の一隅、眼鏡のフレームが陳列されているコーナーに、彼の姿を見つけた。さっきまでの尖った感情は、高揚した気分のおかげか、もう綺麗さっぱり消えている。だから、私は自然にその名を口にできた。
「花井くん」 「ん? ああ、結城君か」
振り返った彼の手には、一つのフレームが握られていた。それを持ち上げると、あいさつの代わりか、わずかに振ってみせ、手近な棚に戻した。
「まだ、帰ってなかったの?」 「うむ。最近は珍しいものがあるのだな、と思ってな。ちょっと見ていた。結城君はもう終わったのか?」 「ううん。今、お試し中」
私はそれだけ答えると、白熱灯でライトアップされ、たくさんのフレームが置かれた脇の棚に目をやった。ブラック、グレー、レッドにブルー、そしてイエロー。丸型、半円、四角に三角、おにぎり型。太いの、細いの、中くらいの。よくもこれだけのものが、と思う数の商品が、所狭しと並んでいる。 いちばん手前に置かれていた、黒くて太い縁のものを手に取った。値札がちらりと見えた。2万5000円の上に赤の二本線、特価7500円也。
「すごい割引だね」
折り畳まれていた部分を左右に開いて、試しにかけてみた。 店の柱は一面鏡張りになっていて、ちょうど正面に、お堅い風紀委員といった私がつんと澄ました風に映りこんでいる。
「うん、こういうのも面白いかも」 「ふむ。随分イメージが違って見えるものだな」 「えっ」
いつの間にか、鏡の私の背後、花井くんが腕を組んで立っていた。
「だが、こちらの方がいいんじゃないか?」
肩越しに右の手が伸びてきて、飾り棚から一つのフレームを摘んでいった。と、ひょいと私がかけていたものを外して元の場所に置き、新しいものと取り替えた。
「ちょ、ちょっと」
私がしていたのは、レンズの嵌る部分が小さなタイプ、楕円型でシルバーメタリックのフレームだ。鏡のなかの花井くんは、じっと私を見つめ、ひとつ大きく頷いた。
「うむ、いいじゃないか」 「え?」 「よく似合う」
いつかと同じで、左肩の上には大きく無骨な手。そこから伝わる彼の体温が、感電したように体を一気に駆け巡った。私は、ただ立ち尽くすことしかできなくて、ただ、ぼうっと彼を見ていた。 破顔する彼の顔が、思い出のなかの記憶と重なった。
駅前の時計塔の鐘が3度鳴る。花井くんは店内の壁にかかった時計を仰ぎ見た。
「む、そろそろ、道場へ行かねばならん。では、さらばだ。結城君!」 「あ……う、うん」
我に返ったときにはもう、花井くんは店のウインドウの外を駆けていた。背面走で手を振る彼に、私も慌てて応え手を振った。姿はすぐに見えなくなったが、しばらくその手を下ろさずにいた。
勝手に心のなかにズカズカ踏み込んできて、勝手にドロンと消えてしまうのは、いつもいつも彼の方。
「ほんと、マイペース」
鏡に映ったもう一人の私は、彼の選んだフレームをかけたまま、頬をぷくりと膨らませていた。私はコホンと咳払いをして、フレームの真ん中を、中指でそっと押さえてみた。
「そんなに似合うかなあ?」 「あ、お客様。どうでしょうか、そろそろ」 「ひゃっ!」
担当の女性の店員さんが、いつのまにか鏡の隅に笑顔で控えていた。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたか?」 「い、いえ。違います。すみません。今、行きます」 「では、こちらへ」
かけていたものを外して畳むと、元あったところに置……こうとしたのだけれど、私は思い直して、そのままフレームをそっと握り締め、先を歩く店員さんの背中に声をかけた。
「あ、すみません。それと……」
*
「おはよう、結城!」 「結城さん、おはよう」
矢神坂のきつい勾配にさしかかり、途中で降りて自転車を押しながら登っている最中、背後から声をかけてきたのは、歩いて登校してきた、いつもの二人組だ。
「お、おはよう、嵯峨野、一条」
切れかけた息を整えて、私は肩越しに挨拶を返した。二人が横に並ぶのを待ってから、私達3人は一緒に歩き出す。と、嵯峨野が、いきなり横から私の顔を覗き込んできた。私は意図がよく分からなくて、その分、後ずさったのだけれど、嵯峨野は私の反応を気にする風もなく、「あーあ」なんてこれ見よがしに、ため息なんかついた。
「なによ?」 「結局、コンタクト止めちゃったんだ、ってこと。……って、ありゃ? もしかして、メガネ替えた?」 「うん。替えた。やっぱり、わかる?」 「そりゃ分かるって。今までのって、いかにも『つむぎです!』って感じだったから」 「何ソレ」 「別に深い意味はないって! へえ、随分お洒落なのにしたね。ねえ、どう思う?」
話を振られた一条は、何故かちょっと照れながら答えた。
「う、うん、すごくカワイイと思う」 「そ、そう?」
自転車のハンドルを片手で支えながら、シルバーの縁をそっとなぞってみる。彼が選んだフレームを使って、一から作って貰った新品の眼鏡だ。 家の自室の押入れに、買ったばかりのコンタクトが一式、買った時の袋のまま仕舞われていることは、二人には内緒にしておくことにする。ついでに、二つも買うために、貯めた小遣いのほとんどを叩いてしまったことも。
3人揃って校門をくぐると直ぐ、見慣れた大きな背中が、駆け足で私たちを追い越していった。私はその瞬間、足が止まっていた。喉が自然にゴクリと鳴った。
「あ、花井くんだ。おはよ!」 「お、おはようございます」
嵯峨野が声をかけ、一条も慌ててそれに合わせた。彼は、キキッ、と効果音すら聞こえそうな勢いで、急停止した。
「む、おはよう! 君たちも、そろそろ急がねば予鈴だぞ」 「あー、はいはい、わかっとります」
生まじめ過ぎる挨拶と小言に、呆れた顔を隠そうともせず、嵯峨野は軽くいなしてみせた。一条は、そんな嵯峨野を諫めるように制服の袖を引っ張っている。花井くんも、さすがに眉をひそめた。
「本当に分かっているのか? む、結城君。それは」 「う、うん。お、おはよ」
ちょっと照れくさくって、私はワンテンポ遅れの挨拶をしていた。花井くんも、どこか面食らったように「うむ、おはよう」と返したが、不意に口を真一文字に結ぶと、真正面から私を見据えた。 そして、彼の顔がゆっくりとほころんだのだ。 背後に夕焼けの赤が見えた気がして、それで一遍に頭に血が昇ってしまった。彼の笑顔が、私は好きだ。
「うむ。思ったとおりだ。よく似合う」
そのセリフが終わるか終わらぬかのうちに、ずいぶん背丈に差がある女生徒が二人、私達の横を早足で通り抜けていった。両側を髪留めで止めた背の低い子と、短めの髪でスタイルのいい背の高い子。
「む?」 「もう、八雲! どうして起こしてくれなかったの! 今日、私日直だったのにぃ!」 「ご、ごめん、姉さん」
塚本さんと、その妹さんだった。花井くんの眼鏡がキラリと輝く。彼は、くるりと回れ右して、猛ダッシュで駆け出した。
「おっはよう! 八雲くぅん!」 「は、花井先輩?」 「え? 花井くん? わっ、来た! 行くよ、八雲!」 「ね、姉さん?」
妹さんが驚いているあいだに、塚本さんは彼女の手を引くと、玄関の方へと逃げるように駆け出した。
「朝一番から君に会えるとは、今日は何て素晴らしい日なんだっ! 待ってくれ、八雲くーん!」 「あ、あの……」 「もう、何でいつもこうなるのっ! 花井くん、ストップ! ストップだったら!」
しかし、その追跡劇は唐突に終わった。玄関の手前を歩いていた、沢近さんに高野さん、そして花井くんの幼馴染みの周防さん、2−Cきっての美人グループを追い越したその瞬間に。
「朝っぱらから、騒がしいっつーの!!!!!」 「ぐえっ!!!!!」
骨が砕けたかのような、腹まで響く音がして、唐突に静かになった。 脳天に踵をまともに喰らった花井くんは、完全に地面にのびていた。周りを歩いていた生徒たちは、状況を察して、やっと騒ぎ出した。
「せ、先輩、いくらなんでも……」 「そうよ、美琴。やり過ぎ。彼、泡吹いているわよ」 「いいんだよ。これくらいがちょうど」 「そうそう。美琴さんの愛情表現」 「え? 晶ちゃん、これってやっぱり、そうなの?」 「高野。紛らわしい言い方、止めような。塚本も簡単に信じるなって。……ともかく。毎度毎度すまないな、塚本の妹さん。この馬鹿のことで」 「い、いえ、大丈夫ですから」
花井くんの学ランの襟と彼の鞄をまとめて掴み、周防さんはそのまま彼を引きずっていった。5人(+1人)は野次馬の生徒たちの騒ぎを気にする風もなく、並んで正面玄関の向こうに消えていった。 嵯峨野と一条は、毎日、繰り返されている相変わらず光景を、苦笑いしながら眺めていた。
「あはは、今日も平和だねえ」 「そうですね、ふふ」 「……」 「ん? あれ、どしたの。結城。・・・・・・顔、真っ赤だよ?」 「え?」
頬にパッと手をやった。驚くぐらい熱がある。私は、二人に見えないように、急いで顔を背けた。
「そういえば、花井くん、妙なこと言ってたよね。思ったとおりだ―とか何とか。ねえ、あれってどういう意味?」 「し、知らない! あ、あの、私、これ置いてくるから」 「あ、ちょっと待って、結城!」
そのまま玄関脇の方へハンドルを切って、サドルに飛び乗りペダルを思い切り踏みこんだ。
「ねえ、もしかして、何かあったんでしょ、花井くんと!」
後ろで嵯峨野が何か騒いでいたけれど、いまさら戻れる訳もなかった。
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駐輪場に着いてみると、生徒はまばらにしかいなかった。私は、空きを見つけ、スタンドを立てると、自転車を止め鍵をかけた。 もう、吐く息は随分白くなっている。晩秋の朝の空気は、顔の火照りを冷やしてくれた。
「う……ん」
私は手を上に伸ばして、思いっきり背伸びをする。目をそっと閉じてみたら、さっきの彼の笑顔が、まぶたの裏に鮮やかに甦った。私は、ひとりでに微笑んでいた。
――今、彼の気持ちがどこにあってもいいの。
それは多分、私の本音。
――だけど、さっきの一瞬だけは、間違いなく私に、私だけに微笑んでくれた。今はそれだけで……。
目を開けると、そこにはシルバーの縁に切り取られた世界があった。以前より、グンと面積が小さくなったけれど、あの人が選んでくれたこの真新しいスクリーンで、これからどんなドラマが繰り広げられてゆくのだろうか。
――できれば彼が、前よりもたくさん、この上で活躍しますように!
こんなときぐらいにしかあてにしないのは神様に悪いけれど、雲ひとつない空の彼方に向けて、私は密かに祈ってみた。
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