FUTURITIES ON SCREEN(結城・花井)
日時: 2005/08/16 00:12
名前: ぶーちょ

○お知らせ○

  ・PF/OF無しのため、設定に間違いがあったらすみません。
  ・マイナーです。他派の方に最初に謝っておきます。ごめんなさい。
  ・3ポストに分かれていますが1作品です(約28K)。

▽本編▽

 学校の帰り道。
 長い坂を、息を弾ませ自転車に乗ったまま上りきり、その終わりにある三叉路にさしかかった瞬間。右の石塀の陰から、唸りをあげて一台の黒塗りの車が飛び出してきた。

「わっ」

 ブレーキレバーにかじりつき、右へ大きくハンドルを切る。それでも、スピードを殺しきれず、自転車は前のめりになって、私は思わず目をつぶった。
 2つのブレーキの甲高い悲鳴が耳をつんざいた。それに混じって、何かが粉々に砕け散る音。
 恐る恐る目を開けると、目と鼻の先に黒く光るボディがあった。ぶつかった衝撃はなかった。どうやら接触するのは免れたらしい。だが、目に映る景色が微妙におかしかった。世界全体に霞がかかっている。

「あ、眼鏡」

 車と自転車の間のわずかな隙間に、眼鏡のフレームらしきものが転がっていた。そのまわりに散らばった何かの破片が、夕陽の赤を反射してキラキラと輝いている。そういえばさっき、ガラスの割れた音を聞いた気がした。そのことに思い当たったら、自然とため息が出た。
 停まっている車の窓は全面スモークが張られていて、中に人がいるかどうかさえ分からない。とはいえ、ウインドウを開けて、無事の確認くらいはするよね、と、思っていたが甘かった。予想に反し、耳を塞ぎたくなるような凄まじさで、車は2度その場でアクセルをふかしたのだ。

「キャ」

 もの凄い量の排気ガスが、辺り一帯に立ち込める。思わず袖で顔を押さえたその瞬間、金属を引っ掻いたような音と、ゴムの焼けるキナ臭い匂いを残し、車は急発進して走り去った。

「え、ちょ、ちょっと」

 なんて言ったけれど、もちろん向こうに聞こえるはずもなく、車は見る間に小さくなっていく。かといって、追いかけられるわけもない。結局、私は一人、現場に取り残された。

 とりあえず、自転車を道の脇に邪魔にならないよう立てかけて、眼鏡の残骸を拾おうとしゃがみこむ。ぼやけた視界に折り合いをつけて、何とか眼鏡を手に取った。片方のレンズは全滅で、もう一方には大きなヒビが一本。おまけにタイヤでひっかけたのか、フレームの右耳にかけるあたりが歪んでいる。

「あーあ」

 これは全部取り替えないと、駄目かもしれない。
 今年に入って、眼鏡を壊すのは2度目。前回は保険でなんとかなった。だけど、果たして今回はどうか?
 無残な姿に変わり果てた眼鏡を、無理やりケースに収めて仕舞いこみながら、修理のことを考えて、憂鬱になった。
 道に散らばったレンズのカケラを、慎重にポケットティッシュの上に集めていたら、ふと、世界の色が、いちどきに変わった気がした。顔をあげると、ずいぶんと日の短くなった11月下旬の太陽が、背後の丘の頂上のあたりに、ちょうど隠れたところだった。しかし、眼下に広がる矢神の街の大部分は、まだ夕焼け色に染まっている。
 と、今さらながら、そこがあの思い出の場であることに気がついた。

『君が毎日見ている景色な。やはり今日も見たほうがいい――』

 慎重に坂の端へ歩み寄り、ガードレールの手前に立ってみる。
 ティッシュのなかから、いちばん大きなカケラを摘んで、目の前にかざした。

『ほら。これで見えるだろう?』

 いびつな四角に切り取られた夕闇前の風景が、一枚の絵のように広がっている。だが、そこには当然のことだけれど、虹はかかっていなかった。

「・・・・・・見てよかっただろう。これを見逃すのはもったいないと……」

 いつのまにか、心のなかの記憶をなぞるように言葉にしていた。慌てて口をつぐみ、辺りの様子をうかがった。幸い、誰もいなかった。
 レンズのカケラを元に戻し、上からティッシュで二重に包んで、制服のポケットに入れたとき、ふいに崖下の方から、わずかな潮の香りを含んだ冷たい海風が、ごう、と吹き抜けていった。
 それが、頬にとても心地よかった。


                                 *


「すみませんお客様。やはり保証期間が過ぎております」

 翌日、土曜の午後、矢神駅前の全国チェーンのメガネ量販店のカウンター。「研修中」の札をつけた、まだ少し背広負けしている男性の店員さんは、顧客データをパソコンでチェックすると、本当に申し訳なさそうな様子で詫びて、有償修理になると言った。
 昨日、自転車を引いて、やっとのことで家に辿り着くと、早速、机の引き出しに取っておいた保証書を確認してみた。嫌な予感はしていたが、案の定、保証期限は今年の8月で終わっていた。だから、まあ一応の覚悟はしていた。念のため、店の方でも確認してもらったわけなのだが、返ってきた答えは予想通りのものだった。

「修理、いくらぐらいになりそうですか?」
「そうですね。お客さまはガラス製をご使用ですので、レンズの交換だけならそれほど高くはなりません。ただ、今回はフレームの方がかなり曲がっておりますので、こちらは本格的に修理する必要があるでしょう。そうしますと、全部でお値段は」

 店員さんが打った電卓の数字は、安いメガネなら新しいものが買えてしまう金額だった。とはいえ、最初から修理するつもりだし、予想よりは「高いなあ」とは思ったのは本当だけれど、顔になるべく出さないよう、気をつけて肯いた。

「じゃあ、それでお願いします」
「はい、ありがとうございます。えーっと、今日が土曜ですから出来上がりは、と」

 側にあった卓上のミニカレンダーを引き寄せて、日にちを数えるその手を見て、私はちょっと慌ててしまった。指先が1週間以上も先の日付の上を、うろうろと動いていたからだ。

「待ってください。そんなにかかるんですか?」
「は、はい。申し訳ございません。お伝えしていませんでしたが、フレームのほうは当店ではなく、本部へ送ってそちらで修理することになります。配送の分、ちょっとお時間をいただきますので」
「そ、そうですか」

 私は、ちょっと唸って考え込んでしまう。
 今日は半ドンだったのに、慣れないバス通学のせいで朝から酔うし、黒板の字は全くと言っていいほど読めないし、クラスメイトの顔の見分けもさっぱりだしで、すっかり参ってしまっていた。今の状態が1週間以上も続くのは、ちょっと勘弁してほしい。
 それで、ふと休み時間のことを思い出した。


                                 *


 よく見えないから何もできなくて、自分の席で頬杖をつきながら、相も変わらず賑やかな2−Cの教室を、ぼんやり眺めていた時のこと。
 背後からポンと軽く肩を叩かれ振り向いたら、長い髪の女の子がそこにいた。ショートカットの女の子が、その背中に半ば隠れるようにして立っている。制服で男女の区別は辛うじてつくけれど、顔は見事なほどに分からない。目尻を押さえ引っ張って、私は目を細めてみた。

「結城。どしたの、今日。眼鏡は? ……って、目、怖いって」

 声で直ぐに分かった。名前を訊くまでもなく、嵯峨野のものだ。察するに、隣にいるのは一条だろうか。

「ご、ごめんね。うまく見えなかったから。うん。昨日、眼鏡壊しちゃって」
「また? 前にもなかった?」
「うん、あった。これで2度目かな。今日、修理してもらいにいくの。ガラスのレンズだとね、どうしてもね。たまにあるから。こういうこと」

 私が苦笑すると、「ホント、大変だねえ」と嵯峨野は同情してくれた。その声音にお義理は少しもなくて、実にさっぱりしている。そこが彼女のいいところだと私は思っている。
 と、急に嵯峨野が正面に回りこむと、何を思ったのか私の両肩を掴み、ぐいと顔を近づけてきた。

「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
「文化祭の準備のときさ、みんなでお風呂行ったじゃない? そのときにふと思ったんだけど、結城って、コンタクトの方が良くない?」
「え?」
「ね、どう思う? 一条」

 嵯峨野は、ちょっと顔を持ち上げて、すぐ側に立っていた一条に同意を求めた。

「え、う、うん。私も素顔の方が、かわいいかも、って思う」
「そ、そう?」
「そうよ! どう、結城。この際、コンタクトに替えちゃえば?」

 とはいっても、眼鏡とは物心ついた頃からの付合いだから、今さらコンタクトと言われてもピンとは来ない。それともう一つ。

「目のなかに直接入れるんだよね。ちょっと怖いよ」
「大丈夫だと思うけどなあ。なんなら経験者に聞いてみたら? あ! 冴ちゃん、ちょうどいいところに!」

 嵯峨野は近くを通りかかった、明るいブラウンの髪の女の子(たぶん冴ちゃん)を呼び止めた。

「ん、どったの?」
「ねえ、冴ちゃんってコンタクトだったよね。コンタクトって、別に怖くないよね」
「え? 怖い? ううん、ぜーんぜん!」

 ほらね、と得意げに胸を張る嵯峨野はおいといて、私からも冴ちゃんに訊いてみた。

「でも、冴ちゃん、最初は少しくらい抵抗あったんじゃないの?」
「それはまあ、ね。でも、何事も慣れよ慣れ! なになに、つむぎちゃん、もしかしてコンタクトにするの?」
「えっ! ううん、嵯峨野が勝手に言っているだけ」
「えーっ、いいじゃない、コンタクト。きっとカワイイと思うよ? ね、冴ちゃんもそう思うよね?」
「うん! 絶対似合うよ、つむぎちゃんなら! 当社比120%の美少女になること請け合いだよ?」
「ちょっと二人とも……」

                                 *


 あからさまな嵯峨野の不平不満と、悪ノリする冴ちゃんの冷やかしを、その場は冗談で済ませてしまったのだけれど。もしコンタクトを作るのなら、直ぐに持って帰れたりするのかも。
 私は、試しに聞いてみることにした。

「あの、コンタクトとかだったら、もっと早くに出来ますか?」
「あ、はい! 大丈夫ですよ! 今日にでもお持ち帰りいただけます。キャンペーン中ですし、今なら大変お安くお買い求めいただけますよ。例えばですね」

 どこか困った表情で私の反応を待っていた店員さんは、コンタクトという言葉を聞き、俄然やる気になったようだった。カタログを取り付けの棚から引っ張り出して、カウンターいっぱいに拡げてみせた。水を得た魚。そんなありきたりなフレーズが頭に浮かんだ。

「今なら、ディスポーザブルタイプが特にお安くなっておりますが、お客様は普段から、ずっと眼鏡の方ですよね。でしたら、今までと同じ感覚で使われる場合、通常のハードレンズか、ソフトレンズのどちらかがよろしいのではないか、と思います」
「は、はあ」
「お客様、スポーツはなさいますか?」
「え? あ、体育の授業で少し……でも、私、決めたわけじゃあ」
「そうしますと、ソフトレンズはいかがでしょうか。ひと昔前に比べまして、手入れも断然、簡単になっております。煮沸消毒なんか今はもうありませんし。ケア用品も、お徳用のサイズが豊富に出ておりますから、昔ほど維持費もかかりません。もし本日、お買い上げいただけるならば」
「も、もしもし?」
「初回に限り保存液や洗浄液などを無料でサービス致しております! ですから心配ご無用。そのうえ何しろ重ねて申しますが、キャンペーン中ですから、今ならレンズ1枚10パーセントOFFで提供しておりまして」
「で、ですから」

 

  FUTURITIES ON SCREEN(結城・花井) ( No.1 )
日時: 2005/08/16 00:13
名前: ぶーちょ

                                 *


 そんなこんなで、訳もわからぬうちに押切られ、いつのまにか店の奥にある、視力検査室、兼、視力矯正器具調整室(つまりはコンタクトや眼鏡を作る部屋)の前の、通路に並んだ丸椅子に腰掛けさせられていた。「とりあえず、検査を受けてくださいませね」と、店員さんは営業スマイル全開で、そこだけ妙な敬語を操って、そそくさと逃げるようにカウンターへ戻っていった。
 まだ私は一度も、コンタクトを買います、とは言っていないのだけれど。

「はあ……。失言だったな」
「ん? 結城君じゃないか」
「えっ!」

 いきなり耳元で聞き慣れた声がして、飛び上がるほどに驚いた。
 目を細めてよく見れば、ちょうど今、隣に座ろうとした肩幅の広い学生服の男の子――雑誌を手にしてこちらを向いているシルエットは、紛うもなく花井くん、その人だ。
 途端に私の身体は強張り、頭の芯に火が入ったように熱くなった。自分でもそれが、はっきりと分かった。

「どうしてここに? というか眼鏡はどうした? 今日、学校でもしていなかったみたいだが」
「し、し、知ってたんだ」

 平静を装おうとする頭の中とは裏腹に、おもいっきりどもってしまい、私は慌てた。幸い、待合いのスペースには二人だけだから良かったものの。

 ――ふ、二人だけ?

 その事実に気付いて余計に焦る。だけど、花井くんは普段と変わらない、必要以上に力のこもった口調で答えを返した。

「無論だ! クラスの皆の様子を毎日チェックするのが、学級委員の務めだ」
「あ、そ、そう」

 期待していた内容とはずいぶん違って、がっかり……している場合じゃない。
 コンタクトを作るの、とは言えなかった。まだ、決めたわけではないし、今の事情を話すにも長くなる。しかも上手く説明できそうにない。私は、とっさに話題を逸らすことにした。

「は、花井くんこそ、何でここに?」
「そんなもの、眼鏡の定期検診に決まっているだろう!」
「はあ」

 いや、決まっているだろう、って言われても。
 徹頭徹尾、いつもの花井くんだった。それでようやく落ち着けた。(これも彼のおかげっていうのだろうか?)私は、ちょっと冷静に考えてみる。

 ――そもそも、定期検診なんて眼鏡にあるの? そっちの方が耳慣れないのだけど。

 疑問が顔に出てしまったのか、彼は心外といった様子で、逆に訊き返してきた。

「結城君だって眼鏡をかけているのなら知っているんじゃないか? 最初は2ヶ月、後は半年に1度の定期検診が義務付けられているはずだ」
「義務? そうだっけ?」
「そうだ! 何だ、結城君はちゃんと受けていないのか?」
「花井くん。ちょっと聞いていい?」
「む、何だ?」
「今、かけている眼鏡。買ったのって、いつ?」
「ん? これか?」

 花井くんは手をやって、黒縁のフレームを人差し指と親指で摘んで、わずかに持ち上げた。

「ふむ、そうだな。中3の頃だから、かれこれ2年になるな」
「そ、そう」

 ――丸2年間も真面目に定期検診(ほんとにあるの?)に通うのは、たぶん矢神市内で花井くんぐらいのものだって。

 心の中で思わず突っ込んだ。わざわざ口に出せば、絶対に藪蛇になるから、とりあえずは肯いておく。しかし、相変わらずの生マジメぶりだ。

「それより結城君、質問の答えがまだだぞ。眼鏡はどうした?」
「あ、う、うん」

 ――わ、まだ、忘れていなかった。どうしよう。何て答えよう。

『えーっ、いいじゃない、コンタクト。きっとカワイイと思うよ?』
 あのときの嵯峨野は、多分その場のノリでからかったんだ、ってことは分かってる。ただ、もし冗談だとしても、私が「コンタクトにする」っていったら、花井くんはどう反応するだろう? ちっとも興味がない、と言ったら嘘になる。

 ――「コンタクトにしたらいい。素顔の方が可愛いからな」なんて褒めてくれる? いや、彼にそんな軟派なセリフはありえない。それじゃあ、一体、何て言うの?

 そんなことを考えたら、急に心臓が、口から飛び出そうなくらい激しく暴れだした。

 ――ええい、もう言っちゃえ!

 胸を手で押さえつけ、ひとつ小声で気合を入ると、私は覚悟を決めた。

「じ、実はね、また眼鏡のレンズ割っちゃって」
「む、また吉田山か?」
「ち、違うの。ちょっとした事故で。でも、私、これを機にコンタクトに、か、変えてみようかなあ、なんて思って」
「何、コンタクトだと!」

 手の中の雑誌を丸めてパンと膝を打つと、花井くんは声を張り上げた。

「う、うん」
「止めろ、止めろ。あんな危険な代物は!」
「危険?」
「そうだとも! コンタクトレンズは便利な故に落とし穴もある。今は昔に比べて余計に品質がいいから、わずかな傷があっても気付かずに使ってしまうことが多い。そうすれば、知らぬ間に角膜を傷つけることもあるんだ!」
「あ、そ、そう……」
「角膜に傷がつくと厄介だぞ。最悪、失明という事態も想定せねばならん! それに最近のものは、ソウヨウカンが余りにも良すぎるからな」
「そうようかん?」
「うむ。装用感。つまり、付け心地ということだ。それが良いから、コンタクトを付けたまま忘れてしまうこともありうる。そうして長時間付けたままにしていると、瞳に対して充分に空気が送られず、酸素欠乏症によって目の病気にも繋がりかねんのだ」
「へ、へえ……」

 反射的に相槌を打ちながら、頭では別のことを思っていた。「家庭の医学的」豆知識、そんなものを聞きたかったわけじゃないのに、って。

 ――でも、そうだよ。花井くんにとって、結局、私は特別なんかじゃない。

 恋心を隠そうともせず追っかけ続けている塚本さんの妹さん。そしてツーカーの仲の幼馴染みの周防さん。私はといえば、単なるクラスメイト。
 改めるまでもないことだけれど、頭では納得しても、反対に心はそうはいかなくて。

「ともかく、止めるんだな! 眼鏡で充分じゃないか! コンタクトと違って、取り外しや手入れは簡単、目を傷つけることもない。それにだな……」

 花井くんはその間にも、延々ひとりで話を進めている。
 それで、少し腹がたった。
 全然、関係ないのなら、この人はどうしてここまで干渉するのだろう。世話焼きでお節介。彼の性格なんだろうけど、よくよく考えたら理不尽だ。赤の他人の決断にまで、口を出されたら堪らない。このままコンタクトを止めたら、まるで言いなりになるみたいで面白くないじゃない。

「結城つむぎさん。お入りください」

 ちょうど、部屋の奥から名前が呼ばれた。胸にたまったモヤモヤを振り払うように、勢いをつけて席を立った。その弾みで、座っていた丸椅子が床に転がって、ガランガランと派手な音をたてた。

「おい、どうした?」

 驚いた彼は話を止めて、直ぐに助けに入ろうとした。だけど、私はそれを手で制し、倒れた椅子を持ち上げると、乱暴に元の位置へ戻した。そのままの勢いで何事かを怒鳴りそうになって、慌てて一度唾を飲み込み、ゆっくり一つ、深呼吸をした。
 多分、ひどい顔をしているなと自分でも思う。私は、そのまま花井くんに背を向けた。

「結城君!」
「花井くん」
「む?」
「やっぱり、コンタクトに決めたから、私」
「お、おい、結城君!」

 珍しく慌てている花井くんを無視して検査室へ向かった。私の足音は、怒りの気持ちそのままで、自分でもびっくりするくらい大きく、待合の通路に響いた。


                                 *


 機械を使った視力検査、検査用の丸めがねによる度数調整、各コンタクトメーカーの特徴の説明とその選定。検査室の専任らしい、私と母娘ほども年の離れた女性の店員のエスコートで、着々と出来上がりの時が近づいてきた。一時の激情が収まったら、まだ、気持ちの整理は全然済んでいないことに気がついた。逆に、余計、不安にさえなっている。
 と、ちょうどその時、花井くんらしき人影が、検査室の真向かいの壁に寄りかかっているのが見えた。ぼやけて、はっきりとは分からないが、どうも私の方を見ている気がする。私は慌ててそっぽを向いた。平気な風を装って、敢えて気付かぬふりをする。
 彼の検査は、当たり前だけどすぐに済んで、言葉を交わすこともなく先に出て行った。

「さ、では、取り外しの練習をしましょうか」

 目の前に私用のコンタクトが、ケースに入った保存液の底に沈んでいた。
 2つのレンズは、ブルーのマニキュアを塗った、丸い爪みたいに見えた。私は右目用の片方を、おっかなびっくり摘んでみた。くぼみに溜まった保存液が零れだして反対側に折れ曲がり、指先の膨らみにピタリと貼りついた。

「あ、裏返してください。綺麗に丸く凹んでいるほうが上を向くように。そう、人差し指の腹に載せて」
「は、はい」

 四苦八苦しながら、元の形に戻す。隣で店員さんが演技するのを真似て、瞳にそっとレンズを当ててみた。瞬間、わずかにヒヤリとして、驚いて目をギュッと閉じた。

「はい、入りましたね。……どうですか?」
「え、えっと」

 入っていない方の目を左手で隠すと、コンタクトを入れたばかりの目を、思い切って開いてみた。

「わっ」

 驚いた。
 眼鏡をかけているときと遜色ない、クリアな景色が広がっている。
 それなのに、どこまでいっても境目がない。世界は今まで丸く切り取られたモノのはずなのに。こんな視界は、初めて……いや、違う。久しぶり、ってことになるのかな。
 けれど、前に経験したのはあいまいな記憶の彼方、遥か昔の幼い頃のことだ。

「あ」

 もう一つ、新鮮な発見があった。

「眼鏡の時、フレームの近くに映る物はちょっと歪んでいたんですね。コンタクトを入れてみて、初めて分かりました」
「ええ。でも最近は、メガネのレンズでも品質の良いものなら、歪みの少ないものは出ていますよ」
「え! そうなんですか?」

 知らなかった。驚いて店員さんの方を見ると、その姿が、壊れたテレビに映る古参の女優さんみたいに、二重になっていた。

「あれ?」

 店員さんは、イタズラっぽく笑って、皺の寄った左の目尻を指さした。種を明かせば簡単なことで、隠していた左目を開けてしまったせいだと気が付いた。

「さ、もう片方も入れてみましょうか」
「あ、は、はい。ごめんなさい! なんか私、一人ではしゃいじゃって」
「全然。喜んでいただくのを見ていると、こちらも嬉しいですよ」

 話に聞いていたような、痛みも異物感もない。私は、もうすっかりコンタクトの虜になってしまった。
  FUTURITIES ON SCREEN(結城・花井) ( No.2 )
日時: 2005/08/16 00:14
名前: ぶーちょ

                                 *


 3度の着け外しの練習のあと、私は検査室の外に出た。「ウチの店のなかでも、歩いてみてください。2、30分様子を見ましょう」。そう言われたからである。
 歩きながら、店の中から外の景色まで、あちこちを見回した。
 白一色の店の壁。そこに飾られている数枚のリトグラフ。窓の向こうを行き交う雑踏。そのバックに佇む矢神駅の見慣れた建物。屋根の上には透き通った11月の空の深い青さ。

「わっ!」

 よそ見のせいで、通路の脇に置かれた観葉植物にぶつかりそうになる。さっ、と鼻の頭を緑の細い葉の先端が撫でていった。触れた部分を右手で押さえたら、そこにメガネのフレームが無いことに、今さらながらハッとする。恐る恐る、両耳の上に手をやってみた。視界がこんなにも鮮やかなのに、そこには何もないことが、すごく不思議で。

「ふふ」

 自然に笑みがこぼれていた。

 気付けば、店の入口に程近い、ショーウインドウや棚に商品が並ぶスペースにいた。――そこで、店内の一隅、眼鏡のフレームが陳列されているコーナーに、彼の姿を見つけた。さっきまでの尖った感情は、高揚した気分のおかげか、もう綺麗さっぱり消えている。だから、私は自然にその名を口にできた。

「花井くん」
「ん? ああ、結城君か」

 振り返った彼の手には、一つのフレームが握られていた。それを持ち上げると、あいさつの代わりか、わずかに振ってみせ、手近な棚に戻した。

「まだ、帰ってなかったの?」
「うむ。最近は珍しいものがあるのだな、と思ってな。ちょっと見ていた。結城君はもう終わったのか?」
「ううん。今、お試し中」

 私はそれだけ答えると、白熱灯でライトアップされ、たくさんのフレームが置かれた脇の棚に目をやった。ブラック、グレー、レッドにブルー、そしてイエロー。丸型、半円、四角に三角、おにぎり型。太いの、細いの、中くらいの。よくもこれだけのものが、と思う数の商品が、所狭しと並んでいる。
 いちばん手前に置かれていた、黒くて太い縁のものを手に取った。値札がちらりと見えた。2万5000円の上に赤の二本線、特価7500円也。

「すごい割引だね」

 折り畳まれていた部分を左右に開いて、試しにかけてみた。
 店の柱は一面鏡張りになっていて、ちょうど正面に、お堅い風紀委員といった私がつんと澄ました風に映りこんでいる。

「うん、こういうのも面白いかも」
「ふむ。随分イメージが違って見えるものだな」
「えっ」

 いつの間にか、鏡の私の背後、花井くんが腕を組んで立っていた。

「だが、こちらの方がいいんじゃないか?」

 肩越しに右の手が伸びてきて、飾り棚から一つのフレームを摘んでいった。と、ひょいと私がかけていたものを外して元の場所に置き、新しいものと取り替えた。

「ちょ、ちょっと」

 私がしていたのは、レンズの嵌る部分が小さなタイプ、楕円型でシルバーメタリックのフレームだ。鏡のなかの花井くんは、じっと私を見つめ、ひとつ大きく頷いた。

「うむ、いいじゃないか」
「え?」
「よく似合う」

 いつかと同じで、左肩の上には大きく無骨な手。そこから伝わる彼の体温が、感電したように体を一気に駆け巡った。私は、ただ立ち尽くすことしかできなくて、ただ、ぼうっと彼を見ていた。
 破顔する彼の顔が、思い出のなかの記憶と重なった。

 駅前の時計塔の鐘が3度鳴る。花井くんは店内の壁にかかった時計を仰ぎ見た。

「む、そろそろ、道場へ行かねばならん。では、さらばだ。結城君!」
「あ……う、うん」

 我に返ったときにはもう、花井くんは店のウインドウの外を駆けていた。背面走で手を振る彼に、私も慌てて応え手を振った。姿はすぐに見えなくなったが、しばらくその手を下ろさずにいた。

 勝手に心のなかにズカズカ踏み込んできて、勝手にドロンと消えてしまうのは、いつもいつも彼の方。

「ほんと、マイペース」

 鏡に映ったもう一人の私は、彼の選んだフレームをかけたまま、頬をぷくりと膨らませていた。私はコホンと咳払いをして、フレームの真ん中を、中指でそっと押さえてみた。

「そんなに似合うかなあ?」
「あ、お客様。どうでしょうか、そろそろ」
「ひゃっ!」

 担当の女性の店員さんが、いつのまにか鏡の隅に笑顔で控えていた。

「申し訳ありません、驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ。違います。すみません。今、行きます」
「では、こちらへ」

 かけていたものを外して畳むと、元あったところに置……こうとしたのだけれど、私は思い直して、そのままフレームをそっと握り締め、先を歩く店員さんの背中に声をかけた。

「あ、すみません。それと……」


                                 *


「おはよう、結城!」
「結城さん、おはよう」

 矢神坂のきつい勾配にさしかかり、途中で降りて自転車を押しながら登っている最中、背後から声をかけてきたのは、歩いて登校してきた、いつもの二人組だ。

「お、おはよう、嵯峨野、一条」

 切れかけた息を整えて、私は肩越しに挨拶を返した。二人が横に並ぶのを待ってから、私達3人は一緒に歩き出す。と、嵯峨野が、いきなり横から私の顔を覗き込んできた。私は意図がよく分からなくて、その分、後ずさったのだけれど、嵯峨野は私の反応を気にする風もなく、「あーあ」なんてこれ見よがしに、ため息なんかついた。

「なによ?」
「結局、コンタクト止めちゃったんだ、ってこと。……って、ありゃ? もしかして、メガネ替えた?」
「うん。替えた。やっぱり、わかる?」
「そりゃ分かるって。今までのって、いかにも『つむぎです!』って感じだったから」
「何ソレ」
「別に深い意味はないって! へえ、随分お洒落なのにしたね。ねえ、どう思う?」

 話を振られた一条は、何故かちょっと照れながら答えた。

「う、うん、すごくカワイイと思う」
「そ、そう?」

 自転車のハンドルを片手で支えながら、シルバーの縁をそっとなぞってみる。彼が選んだフレームを使って、一から作って貰った新品の眼鏡だ。
 家の自室の押入れに、買ったばかりのコンタクトが一式、買った時の袋のまま仕舞われていることは、二人には内緒にしておくことにする。ついでに、二つも買うために、貯めた小遣いのほとんどを叩いてしまったことも。

 3人揃って校門をくぐると直ぐ、見慣れた大きな背中が、駆け足で私たちを追い越していった。私はその瞬間、足が止まっていた。喉が自然にゴクリと鳴った。

「あ、花井くんだ。おはよ!」
「お、おはようございます」

 嵯峨野が声をかけ、一条も慌ててそれに合わせた。彼は、キキッ、と効果音すら聞こえそうな勢いで、急停止した。

「む、おはよう! 君たちも、そろそろ急がねば予鈴だぞ」
「あー、はいはい、わかっとります」

 生まじめ過ぎる挨拶と小言に、呆れた顔を隠そうともせず、嵯峨野は軽くいなしてみせた。一条は、そんな嵯峨野を諫めるように制服の袖を引っ張っている。花井くんも、さすがに眉をひそめた。

「本当に分かっているのか? む、結城君。それは」
「う、うん。お、おはよ」

 ちょっと照れくさくって、私はワンテンポ遅れの挨拶をしていた。花井くんも、どこか面食らったように「うむ、おはよう」と返したが、不意に口を真一文字に結ぶと、真正面から私を見据えた。
 そして、彼の顔がゆっくりとほころんだのだ。
 背後に夕焼けの赤が見えた気がして、それで一遍に頭に血が昇ってしまった。彼の笑顔が、私は好きだ。

「うむ。思ったとおりだ。よく似合う」

 そのセリフが終わるか終わらぬかのうちに、ずいぶん背丈に差がある女生徒が二人、私達の横を早足で通り抜けていった。両側を髪留めで止めた背の低い子と、短めの髪でスタイルのいい背の高い子。

「む?」
「もう、八雲! どうして起こしてくれなかったの! 今日、私日直だったのにぃ!」
「ご、ごめん、姉さん」

 塚本さんと、その妹さんだった。花井くんの眼鏡がキラリと輝く。彼は、くるりと回れ右して、猛ダッシュで駆け出した。

「おっはよう! 八雲くぅん!」
「は、花井先輩?」
「え? 花井くん? わっ、来た! 行くよ、八雲!」
「ね、姉さん?」

 妹さんが驚いているあいだに、塚本さんは彼女の手を引くと、玄関の方へと逃げるように駆け出した。

「朝一番から君に会えるとは、今日は何て素晴らしい日なんだっ! 待ってくれ、八雲くーん!」
「あ、あの……」
「もう、何でいつもこうなるのっ! 花井くん、ストップ! ストップだったら!」

 しかし、その追跡劇は唐突に終わった。玄関の手前を歩いていた、沢近さんに高野さん、そして花井くんの幼馴染みの周防さん、2−Cきっての美人グループを追い越したその瞬間に。

「朝っぱらから、騒がしいっつーの!!!!!」
「ぐえっ!!!!!」

 骨が砕けたかのような、腹まで響く音がして、唐突に静かになった。
 脳天に踵をまともに喰らった花井くんは、完全に地面にのびていた。周りを歩いていた生徒たちは、状況を察して、やっと騒ぎ出した。

「せ、先輩、いくらなんでも……」
「そうよ、美琴。やり過ぎ。彼、泡吹いているわよ」
「いいんだよ。これくらいがちょうど」
「そうそう。美琴さんの愛情表現」
「え? 晶ちゃん、これってやっぱり、そうなの?」
「高野。紛らわしい言い方、止めような。塚本も簡単に信じるなって。……ともかく。毎度毎度すまないな、塚本の妹さん。この馬鹿のことで」
「い、いえ、大丈夫ですから」

 花井くんの学ランの襟と彼の鞄をまとめて掴み、周防さんはそのまま彼を引きずっていった。5人(+1人)は野次馬の生徒たちの騒ぎを気にする風もなく、並んで正面玄関の向こうに消えていった。
 嵯峨野と一条は、毎日、繰り返されている相変わらず光景を、苦笑いしながら眺めていた。

「あはは、今日も平和だねえ」
「そうですね、ふふ」
「……」
「ん? あれ、どしたの。結城。・・・・・・顔、真っ赤だよ?」
「え?」

 頬にパッと手をやった。驚くぐらい熱がある。私は、二人に見えないように、急いで顔を背けた。

「そういえば、花井くん、妙なこと言ってたよね。思ったとおりだ―とか何とか。ねえ、あれってどういう意味?」
「し、知らない! あ、あの、私、これ置いてくるから」
「あ、ちょっと待って、結城!」

 そのまま玄関脇の方へハンドルを切って、サドルに飛び乗りペダルを思い切り踏みこんだ。

「ねえ、もしかして、何かあったんでしょ、花井くんと!」

 後ろで嵯峨野が何か騒いでいたけれど、いまさら戻れる訳もなかった。


                                 *


 駐輪場に着いてみると、生徒はまばらにしかいなかった。私は、空きを見つけ、スタンドを立てると、自転車を止め鍵をかけた。
 もう、吐く息は随分白くなっている。晩秋の朝の空気は、顔の火照りを冷やしてくれた。

「う……ん」

 私は手を上に伸ばして、思いっきり背伸びをする。目をそっと閉じてみたら、さっきの彼の笑顔が、まぶたの裏に鮮やかに甦った。私は、ひとりでに微笑んでいた。

 ――今、彼の気持ちがどこにあってもいいの。

 それは多分、私の本音。

 ――だけど、さっきの一瞬だけは、間違いなく私に、私だけに微笑んでくれた。今はそれだけで……。

 目を開けると、そこにはシルバーの縁に切り取られた世界があった。以前より、グンと面積が小さくなったけれど、あの人が選んでくれたこの真新しいスクリーンで、これからどんなドラマが繰り広げられてゆくのだろうか。

 ――できれば彼が、前よりもたくさん、この上で活躍しますように!

 こんなときぐらいにしかあてにしないのは神様に悪いけれど、雲ひとつない空の彼方に向けて、私は密かに祈ってみた。

 

戻り