朝寝坊(八雲・天満)
日時: 2005/09/11 18:26
名前: ぶーちょ

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▼以下より作品の本編です▼




「ね、ねえ、八雲。ほ、他のチャンネルに替えない?」
「え? ……あ、うん、わかった」

 テレビに釘付けなのは姉さんの方だったけれど、私はその提案に肯いて、目の前に置かれたリモコンへと手を延ばした。が、指が触れる寸前、姉さんが横から素早くそれをさらっていった。

「あ……」
「ちょ、ちょっと待って! やっぱ、気になるから、もう少し見るっ!」
「だけど、姉さん……」
「いいのっ! 見るったら、見るっ!」

 時代劇「続・三匹が斬られる!」を、いつものように姉さんのアクション付きで観た後のこと。同じチャンネルで流れ始めた特番は、いささか季節外れのもので、身近な生活に潜む怪奇現象を紹介するという内容だった。
 私と姉さんは先週出したばかりのコタツに入って、まだ小粒なミカンをいくつか摘み、テレビの音をBGM代わりにして、今日、やっと終わった期末テストの話をしていた。けれども、画面にアップになった白髪交じりの初老の司会者が、重苦しい調子で「古い木造家屋に怨霊が!」という語りを始めたあたりから、姉さんはテレビが気になりだしたようだった。話の続きも次第に上の空になって、しまいには座布団をお腹の辺りに抱えこみ、正座で向かい合い、画面に一心に見入っていた。
 番組では、お坊さんの格好をした霊媒師らしき人が怨霊の「棲みか」だという廃屋に入り込んで鎮魂の儀式をする、という場面を流していた。その家の至るところで、障子が破れたり、窓ガラスにヒビが入ったり、床が抜けたりしている。
 儀式の準備の間にも、カメラが白い発光体を捕らえ、画像はノイズや砂嵐など頻繁に乱れ、スタッフのうち数人は気分が悪くなり現場を離れていった。
 姉さんは、おどろおどろしい効果音の度に、喉の奥で小さな悲鳴をあげた。私はテレビよりも姉さんの様子をハラハラしながら見守っていると、いきなり姉さんが話を振ってきた。

「ね、ねえ、八雲。家(うち)さ、似てない?」
「え?」

 私は意味が分からなくって、思わず訊き返した。

「だから、怨霊の棲んでいる家と、似てない?」

 微妙に裏返った声でそう呟いて、姉さんは自分の両肩を抱き、気味悪そうに居間を見回した。私もその視線の先を追ってみる。部屋の隅で丸くなっている伊織が小さく欠伸したのは目に留まったが、他は特に何も感じない。

「そうかな……。あまり似てないと思うけど」

 テレビに目をやると、隅に廃屋の見取り図が示されていた。居間にキッチンに玄関、2階への階段、その配置。

「……あ、でも、間取りなんかは、同じかもしれない」
「やっぱり? そ、そうだよね。……ね、八雲。大丈夫かなあ?」
「え?」
「うちには出ないよね、怨霊」

 姉さんは、抱えた座布団のなかに半ば顔を埋めながら、上目遣いでこちらを見ていた。少し涙ぐんでいるのか、蛍光灯の光が黒い瞳の真ん中でゆらゆらと揺れていた。
 ふと、あのコ……長い黒髪の女の子のことが頭に浮かんだ。一度だけ、うちにも来たことがあったっけ。だけど、私はその考えを打ち消すように、首を小さく横に振った。

「うん。大丈夫だよ。きっと」

 それに、あのコは怨霊じゃない。親しいわけじゃないけれど、あのコは人を恨んでなんかいない。私のことを心配してくれていたし、きっと、いいコだと思う。

「そ、そだよね」

 その返事はまだ細かく震えていたけれど、姉さんは自分を納得させるかのように何度も肯いた。
 テレビからは「除霊が今から始まる模様です!」という、若い男のアナウンサーの緊張した声がした。姉さんはそれにぴくりと反応した。まるで油の切れたブリキの人形のようにギギギと首を捻って、その儀式の一幕に再び目を向けた。
 壁の時計が、ちょうど10時半を告げた。
 姉さんのことはまだちょっと心配だったけれど、そろそろ台所に残したままの洗い物をしないといけない時間だ。そう思ってその場を立ちあがると、その途端、姉さんは肩をびくりと震わせた。

「や、八雲、ど、どこ行くの!?」
「え? ……あ、お皿の片付けしないと……」
「だ、ダメッ! 八雲も一緒に最後まで見るのっ!」

 姉さんは有無を言わさぬ口調でそう宣言して、画面から目を離さぬままに、私の足元を指差した。

「う、うん」

 私は戸惑いがちに、もう一度腰を下した。それをチラリと横目で確認し姉さんはホッと息を吐いた。
 そうしてテレビに目を戻したら、ちょうど除霊のクライマックスのシーン。霊媒師の渾身の掛け声が居間に響きわたり、姉さんはこれ以上ないぐらい、ぎゅっと身を縮めて、ひゅっ、と喉を鳴らした。顔色はもう青を通り越して白に近くなっている。

「ね、姉さん、大丈夫?」
「だ、だいじょぶ、だいじょぶ……」

 幸いにも廃屋の霊のコーナーは、それからすぐに終わった。
 ただ、引き続き番組では、高校の七不思議や坂にまつわる祟りといった恐怖話を、最新CGを駆使した再現VTRを使い臨場感たっぷりに、次から次へと紹介していった。

「ね、ホラ、この理科室って、もしかしたら、ウチの学校のことじゃない?」
「あそこにある木、矢神坂の途中にある木とそっくり!」
「ね、八雲、どうしようっ! 夜、あの坂通ることになったらっ!」
「怖いよね? ね、八雲も怖いよねー?」

 そう言いながら、結局、最後の最後まで目を離さずに見ていた姉さん。終わった直後は、もうヘロヘロになっていた。目の前に手をかざして何度か振ってみても、「うー」と唸るだけ。

「ね、姉さん?」

 そのとき、不意に家のどこかの柱が軋んで、大きな音を立てた。

「わーっ!!!!! 出た出た出たーーーーーっ!!!!!」

 びっくりするぐらいの大きな悲鳴。姉さんは座布団で頭を抑え、その場にうずくまっていた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ! わ、私に憑かないでっ!」
「姉さん、大丈夫、大丈夫だから」

 私は10分以上かけて、何とか姉さんをなだめすかせると、洗い物をしに台所へ立った。
 しかし、多分一人が怖いのだろう。姉さんは、私にぴたりと寄り添ってついてきた。同じように後ろへ付いて来る伊織と、激しい定位置争いを繰り広げて、伊織と半ば本気で喧嘩していた。けれども、それで少し元気になったようにも見えた。
 片づけを終える頃には、姉さんは、普段とそれほど変わらないくらいにまで落ち着きを取り戻していて、私はちょっと安心した。結局、その日はそのまま部屋まで送り、「おやすみ」の挨拶をしてドアを閉めた。


                      *


 ふと、目が覚めた。
 枕元の時計は2時ちょうど。寝る前に電気ストーブで温めた空気も、すでに元の冷たさに戻っていて、布団からはみ出ていた右の手がすっかり冷え切っていた。
 私は、逆の手で冷えた部分をさすった。脇で丸くなって寝ている伊織を起こさないように、慎重に毛布と掛け布団を被り直し、もう一度目を閉じた。

 と、コツコツと部屋をノックする音がした。

「や、八雲?」
「……姉さん?」

 ドアの向こうから呼ぶ声は消え入りそうに小さい。私は寝る前の様子を思い出し、慌てて布団を跳ね上げ、ベッドを飛び出した。と、その拍子に伊織があおりを食ってベッドの奥に落っこって、フギャ、と小さく悲鳴を挙げた。

「あ、伊織」

 落ちた伊織を抱き上げた。ベッドの上に載せて、その小さな身体を見回した。伊織はまだ寝ぼけているのか、半開きの目でボーッと私を見ている。どうやら、どこにもケガした様子はなかった。

「よかった……。ホント、ごめんね。伊織」

 頭をそっと撫でてやると、気持ち良さそうに伊織は喉を鳴らした。

「ね、ねえ、八雲ったら〜……」
「あ、ごめん、姉さん」

 私は伊織をベッドに置いたまま、駆け足で部屋の入口へと駆け寄るとドアを開いた。お気に入りの水玉模様のパジャマ姿の姉さんは、ドアの陰にひっそりと立ち尽くしていた。その腕に何故か枕を抱えている。

「どうしたの、姉さん?」
「あ、あのね。……じ、じつはね」

 と、そこまで言ったとき、部屋のなかでトスンと唐突に物音がした。

「わっ!」

 気がつけば胸のなかには姉さんがいて、私の背中に手を回してしがみ付いていた。よく見れば、その両肩が細かく震えている。
 どうしていいかわからずに戸惑っていたら、いつのまにか伊織が足元にいて私達を見上げていた。足に尻尾を擦り付けてクルリと回ると、「ニャー」と甘えるように小さく鳴いた。姉さんは、それに反応して「ひゃうんっ」と悲鳴をあげた。
 どうやら先程の物音は、ベッドから飛び降りた伊織の足音のようだった。

「伊織だよ、姉さん」
「え? 伊織?」
「うん、ほら」

 私が姉さんの肩を持ってそっと身体を離すと、姉さんは足元に視線を移した。伊織の姿を見つけると、ホッと小さくため息を付いた。

「もうっ、脅かさないでよね」
「……伊織、メッ」

 姉さんの手前、伊織を叱っておく。
 けれども、怒られたことに納得がいかないのか、伊織は不満げな顔でしばし私をじっと見て、ふいとそっぽを向くと、ベッドの方へと戻っていった。姉さんも、そんな伊織の後姿を追いかけた。が、私の視線に気がつくと、チラリと私の顔色をみて、すぐに顔を伏せてしまった。
 だけど、その瞬間で、姉さんの心が視えてしまった。

 ――い、一緒に寝てほしい……んだけど、なんて言えばいいの? 私はお姉ちゃんなんだから。こ、怖いから一人でいたくない……なんていえないよね……。

 姉としてのプライドと恐怖心、その二つの板ばさみに苦しんでいる。その葛藤が姉さんらしいなと思っていたら、口元が自然と緩んでいた。

「姉さん?」
「え? な、なに? 八雲」
「私、久しぶりに、姉さんと一緒に寝たいな……」

 姉さんの耳元に口を近づけて、私はそっと囁いた。それを聞いて姉さんは顔をあげた。目の端が心もち潤んではいたし、ちょっぴりぎこちなかったけれど、それでも確かに笑っていた。

「そ、そう? もう仕方ないなあ、八雲は。いつまでも子供なんだから! じゃあ、今日は特別に、お姉ちゃんが一緒に寝てあげるっ!」

 そう言うと、姉さんは枕を抱えたままベッドのほうへ意気揚々と歩き出した。その様子に私は一安心する。姉さんを驚かせないよう、後ろ手でそっとドアを閉めた。

「伊織は、今日はこっち」

 先客の伊織をベッドの隅へ追いやって、姉さんは枕を二つ横に並べた。私がベッドに戻る頃には、すっかり準備万端。身体を横たえたまま、掛け布団を半分めくり、私の寝る場所をポンポンと叩いた。

「ほら、八雲はここ」
「うん」

 私はそっと姉さんの示した位置に収まる。ベッドの端から落ちないよう、慎重に身体の位置を直して正面を向くと、姉さんの顔が間近にあった。そんなに近くで見るのは久しぶりだったから、私は、ちょっと落ち着かない気分になった。

「あ、あの、姉さん?」
「うん、久しぶりだよね?」
「……え?」
「前に一緒に寝たのは、中学のときだったっけ?」
「そ、そうだった?」

 とっさにとぼけてしまったけれど、実はハッキリと覚えている。
 中学1年の冬の初め。そう、ちょうど今ぐらいの季節。あの思い出は、私にとっては一生の宝物。だからこそ、素直に口にするのは憚られて。それに、姉さんがもし忘れていたらと思うと怖くって。
 でも、姉さんから言い出してくれたってことは、もしかしたら、姉さんも大切に思っていてくれているのかな……。

「ね、姉さん、前のときのことだけ……ど……?」

 返事はなかった。
 聞こえてくるのは規則正しい寝息だけ。一緒にベッドに入ってから1分も経っていないのに、もう姉さんは眠りの世界のなかにいた。その寝顔を見た私は、ちょっと残念で、ちょっとホッとしていた。
 と、姉さんが寝返りを打った。ちょうど私の胸のなかにすっぽりと収まった。

「あ……」

 姉さんの頭のてっぺんにあるつむじが、すぐ目の前にあった。以前は、私の頭の位置が姉さんの胸の辺りだったのに。だけど、今はその正反対。不思議な感じがした。
 そっと姉さんの頭を抱いてみる。姉さんの体温が伝わってきた。そうして姉さんを感じていたら、私も、いつしか眠りのなかへと落ちていた。

 

  朝寝坊(八雲・天満) ( No.1 )
日時: 2005/08/04 21:28
名前: ぶーちょ

                      *


「男の人の心の声が視える」
 その体験に初めて遭遇したのは、木枯らしが地面の埃を全て巻き上げる勢いでやたらに強く吹いていた、冬の初めの日のことだった。
 その瞬間は、急にやってきた。
 学校帰りに一人で駅前商店街を歩いていて、足元を吹き抜ける風に乗って飛ばされて行く木の葉を目で追いかけていた。そして何気なく顔をあげたら、道行く男の人たちほとんどみんなが、後ろにたくさんの文字を背負っていた。

 ――うわっ、嬢ちゃん、かわええなあ。
 ――くそぅっ、さらっていきてえっ!
 ――ああ、ウチの娘も、この娘くらいレベル高ければ……。
 ――あのコが援交してくれるんだったら、オレ、いくら積んでも惜しくないなっ!
 ――ふむ、現代版光源氏をやりたいな。さしずめ、この子は紫の上といったところか。
 ――ちょっとくらい、人気のないところに連れ込んで、触らしてもらっても、大丈夫なんじゃねえの? 何かウブそうだし。

 最初は、「視える」ということがどういうことなのかが分からなくて、ただただひたすらに怖かった。すれ違う子供も大人も、男であればほとんどみなが、私のことを見ている気がした。
 どうしてこんなことになったのか? ほとんど人とは面識がなかったから、きっと、私が悪いことをしたせいだと思った。悪いのはみんな私なんだと。
 それでも、お父さんやお母さん、そしてお姉ちゃんに心配をかけたくなくて、我慢して普段と同じように過ごしていた。
 でもそれから2日も3日も、私の意志とは無関係に、男の人たちの心を視つづけていたら、頭の芯のほうが刺すように疼きだして、そのうちそれが飛び火したように下腹へも痛みが移り、とうとう学校を休んでしまった。
 今思えば、あれは神経性の痛みだったんだな、と思える。けれど当時は、ただあまりの痛さにおののいていただけだった。おまけに原因も分からなくて、ずっとこのままなんじゃないかって思えて、その度に部屋で一人、痛みと不安のために泣いていた。
 夜もろくに眠れず、頭がいつもボーっとして、それで余計に不安定になって。本当に悪循環だった。

 学校を休み始めて1ヶ月が経ったある日、看病していたお母さんが居間へ戻った後、しばらくして、枕を抱えた姉さんが、私の部屋へとやって来た。

『ね、八雲っ! 一緒に寝ようっ! 今日は、いっぱいお話しようねっ!』

 驚いて何も答えずにいる私に構わず、姉さんはベッドに二つ枕を並べると、布団のなかへと飛び込んだ。そうして『八雲! ほら、ここ、ここ』と、ポンポンとベッドを2度叩いた。
 あの頃の姉さんは、今とほとんど変わらないくらいの背の高さだったけれど、私はまだ小さかったから、一緒にベッドに入ると姉さんがすごく大きく見えた。

 姉さんは、この1ヶ月の中学校の出来事を話してくれた。

 最近、教育実習に若くて元気な女の先生が来たこと。校内でマラソン大会があったこと(お姉ちゃんは下から3位だった)。期末テストが全然分からなかったこと(初めて赤点というのを取ったと何故か自慢していた)。クラスの友達とささいな理由で喧嘩をしたこと。けれども、すぐに仲直りして、冬休みにスキーの旅行に一緒に行くことにしたこと。
 八雲も一緒にね、と姉さんは笑った。

 ほとんどの間、私はただ聞いているだけだったけれど、姉さんは休む間もなく喋り続けた。

『でも、スキーの前にクリスマスか。あ、八雲は今年のプレゼント何にするの?』
『……あ、まだ決めて……』
『そうだよね、まだ……だよね。実は、お姉ちゃんも決めてないの。あと2週間も先、だもんね』

 姉さんは一人肯くと、『あ、そうだ』と手を打った。

『そういえばね、八雲。駅前の商店街、クリスマスのイルミネーションの飾り、もう出来てるんだよ。夕方通ると、赤や黄色や緑に並木がライトアップされててね。すごくきれいなんだ。病気が治ったら一緒に行こうね! ……ね?』

 姉さんには、これっぽっちも悪気は無かったんだと思う。
 でも、それで私は街中での体験のことを思い出してしまった。視界一杯に広がる、男の人たちの心の声――。ジクジクとお腹が痛みだして、私は低く呻いた。いつのまにか目頭が熱くなっていて、気がつけば、さめざめと泣いていた。
 と、姉さんが急に私の肩を抱き、その胸に私を押し付けた。私はただびっくりして身を固くした。

『ね、何があった?』
『……』
『ひとりで抱え込まないで。お姉ちゃんが、一緒に考えてあげる』
『……うん』

 肩の力を抜いて、私は姉さんに身体を預けた。甘いストロベリーのアイスクリームのような香りがした。それは姉さんの匂いだ。
 全て話してしまえば楽になれる。そう思った。けれど、姉さんに男の人たちの心の中身まで伝えちゃいけない気がした。私が口ごもるのを見て、姉さんは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。

『そう……話し辛いのならいいの。……でもね、いつもお姉ちゃんは八雲の味方。それだけは忘れないで』
『……うん』

 熱いものがふたたび頬を伝ったのが分かった。けれどそれは、多分いままでのものとは質が違っていた。姉さんは、私の両肩に手をやってそっと身体を離すと、私の左右の頬に、そっと触れるだけのキスをして、もう一度優しく抱きしめてくれた。

 温かかった。そして安らかだった。

 次第に気持ちよくなって、私はいつしか目を閉じていた。
 ぐっすりと眠ることができたのは、1ヶ月ぶりのことだった。

 翌日、起きてみると、あれほど悩まされた頭痛や腹痛が、嘘のように治まっていた。
 学校に行く、と朝の食卓で宣言すると、お父さんとお母さんは口々に祝福してくれた。そして姉さんはといえば、跳びはねんばかりに喜んでくれて、あまりのはしゃぎぶりに、テーブルの上の朝ごはんを全部ひっくり返して、母さんにこっぴどく叱られていた。
 その日の登校で、(ちょっと恥ずかしかったけれど)私と姉さんは二人手を結んで中学校へと向かった。そのときの姉さんの手のひらは、大きくてしっとりと湿っていた。
 姉さんには内緒にしていたけれど、私はその日から姉さんの心も視えるようになっていた。そのおかげで、心を視るということが、前ほど怖くなくなっていた。なぜなら、姉さんと繋がっているんだ、って、そう思えるようになったから。


                     *


 冬の低い陽射しが、ちょうどカーテンの隙間から差し込んで顔に当たっていた。まだ、ぼやけている目をこすりながら、手を伸ばして、しっかりとカーテンを引きなおした。枕元の時計は、既に7時半を指していた。

 夢を見ていた気がする。
 だけど、それは目を覚ました瞬間、手のひらに掬った水が指の間から逃げていくように、急速に消えてなくなってしまった。ただ、何かすごく懐かしくて、温かな感触だけが胸の真ん中にかすかに残っている。

 ふと気が付くと、カーテンのベージュの布地には窓の外を歩く2匹のスズメのシルエットが映っていて、それがひょこひょこと動くたびに、カリカリとサッシを引っ掻く音が聞こえた。と思ったら、直ぐに、チュン、チュンと互いに名を呼び合うように鳴き、どこかへ飛んでいてしまった。
 窓際とベッドの間の狭いスペースに、伊織がどこか窮屈そうに縮こまって身体を丸め、うとうととまどろんでいる。
 その伊織の隣には、姉さんがちょうどバンザイの格好をして、気持ち良さそうに眠っていた。口の端にはちょっぴりヨダレが垂れていて、私は少しだけ笑ってしまった。
 手を伸ばして、その跡をそっと拭うと、姉さんはどこかくすぐったそうに顔をしかめ、口をもぐもぐと動かした。少しはだけていた姉さんのパジャマの襟を直した。姉さんは全く起きる様子もなく、その寝顔はどこか微笑んでいるようにも見えた。
 姉さんは、一体どんな夢を見ているのだろう。

「おねえしゃんは……やくもの……みかた」
「……あ」

 唐突に、さっきの夢――記憶の断片が鮮やかに甦った。
 それと一緒に、胸のなかに残っていた感情が、いっぺんに膨れあがって私を襲った。圧倒的な想いの奔流のなかに、私はただ身を任せていた。
 幸せ……そう、本当に幸せだったあの日……そして今も。

 ――もしかしたら、同じ夢を見てるの?

 自然に、こくりと喉を鳴った。
 私は布団のなかへ、静かに潜り込んだ。そうして、そっと姉さんの胸のあたりに頭を預けてみた。ゆっくりと目を閉じる。あの頃と同じように姉さんを感じたくて。
 以前と違って、そこには小さな二つの膨らみがあったけれど、間違いなく姉さんの匂いがした。それは、昔と少しも変わらなかった。甘いストロベリーのアイスクリームのような香り。

「やくも……」

 姉さんはそう呟くと、私の頭を優しく抱いた。

「え?」

 起きたのかと思って、私は慌てて目を開いた。けれど、聞こえてくるのは相変わらずの安らかな寝息だけ。私は安堵した。

 ――日曜だし、たまにはいいよね?

 自分にそう言い訳して、姉さんの温かさに包まれながら、もう一度、私は目を閉じてみた。

                                        (了)

 

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