【晶×播磨シリーズ#0】 Love which buds by the labelling
日時: 2006/12/21 21:12
名前: ホザキ



【ラベリング】
・人は生理的興奮(鼓動が早まる、顔や体がほてる)を覚えると、それが何によって生じたかを状況的手がかりをもとに推測して、恋愛感情・恐怖・怒り・喜びなどの感情名を当てはめる習性がある。ラベリングとはそれを示す心理学用語。


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 これはまだ播磨と晶が二年生の頃、まだお互いをほとんど知らなかった時の話――。


        ◆


『……昨夜遅く、○○市で塾帰りの女子高生を連れ去ろうとした男が付近を歩いていた通行人に目撃され、目撃者が注意したところ、男は白い乗用車で逃走するという事件がありました。女子高生に怪我はありませんでした。これは二週間前から続く女子高生連続誘拐未遂事件と同一犯の可能性が高く、警察は近隣の学校関係者に注意を呼びかけると共に、現在その行方を追っています。では次のニュースです……』
 テレビから流れるニュースキャスターの声を聞きながら、刑部絃子は物騒だな、と思った。事件のあった市は絃子が住む市と隣り合わせで、それほど距離が離れているわけではない。
「朝の職員会議は、これで決まりか……」
 朝っぱらから面倒な話題になったものだと思った絃子は、背後から「うぃ〜っす……」と眠たげな声が発したのを聞いた。
「おはよう、拳児君」
「眠ぃ……。飯あるか?」
「昨日の酒のつまみならな」
 恵まれない食生活に、さすがに播磨もげんなりしたらしい。「やっぱいらねぇ」と呟きながら冷蔵庫を開き、そこから牛乳パックを取り出すのを見た絃子は、慌てて声をかけた。
「待て、待て待て拳児君。その牛乳は――」
「……っぷはぁ! ああ、美味かった。……ん? どうかしたか、絃子?」
 手遅れだった。過ぎたものは仕方がない、と考えた絃子は「いや、なんでもないよ」と曖昧に誤魔化した。寝ぼけた頭では冷静に思考も働かないらしく、播磨はそのまま洗面所へ姿を消していった。
 テレビから『関連したニュースで……』と音声が流れるのを聞きながら、絃子はテーブルに残された空っぽの牛乳パックを見る。もちろんそこには、賞味期限が記されている。
「……二週間も過ぎてる牛乳なのに……。大丈夫か?」
 なんで処分しないんだ、というツッコミを入れる人間はこの場にいなかった。きっと播磨の胃袋なら大丈夫だろう、と何の根拠もない理由で自分を納得させた絃子は洗面所の播磨に声をかけた。
「そうそう、拳児君。今日の君は自転車で登校するんだよ。いいね?」
「はぁ!? なんでだよ!?」と即座に洗面所から案の定な返事がする。播磨が普段登校に使用しているバイクは、絃子からの借り物なのだ。
「今日は私がバイクを使う予定があるからさ。まさか持ち主の意向に逆らうわけじゃあるまいね?」
「ぐっ……!」
 さすがに持ち主の意見には逆らえないらしい播磨の呻きを聞きながら、絃子は学校へ行く準備を始めた。


        ◆


 くらっ、と目眩に襲われた気がした高野晶は、机に頬杖を突いて頭を支えた。
 ここ数日、どうも調子が悪い。特に今日の気分が最悪なのは、二次性徴が訪れた女性なら誰でも宿命に持つあの日であることに理由があるのは間違いなかった。
 もちろん、それだけで晶がここまで体調を崩すわけはない。ここ数日、いくつもかけ持ちしているバイトの先輩方から、あの日代わってくれ、この日代わってくれ、と頼まれて睡眠時間さえも削る羽目になった晶は、それでも頼みを断ることなくバイトに明け暮れていたのだ。結果、それは晶に前代未聞の過密スケジュールをもたらした。少し元気がないと思って食事を軽くすれば、それが体調の悪さに拍車をかける。
 それでも休むわけにはいかない、と晶は自分を励ました。今日も放課後にはバイトが待っているのだ。一日学校でゆっくりしていれば、少しは気分もよくなるだろう。そんな根拠もない理由で自分を納得させた晶は、不意に「晶ちゃん」と声をかけられた。
「……天満」
「大丈夫? 何か元気ないみたいだけど」
「ううん、平気。……それより、何か話しが?」
 親友に心配をかけさせるわけにはいかない。そう判断した頭が晶にいつもの鉄面皮を戻させた。
 何か話題があるらしい天満は、少し遠慮するように「あのね……」と用件を言った。
「晶ちゃんって、たくさんバイトしてるよね?」
「そうね」
「……ってことは、顔も利くよね?」
 そこは自信がなかった晶は、「さぁ……」と適当に相槌を打ったが、天満の頭の中では晶は顔が利く、となっているらしく、意に介さず「だからさ」と続けた。
「私に、バイトを紹介してほしいの」
「……なぜ?」と問いながら、晶は天満がバイトをしている光景を思い出そうとし、失敗した。天満がバイトをしているところなど、晶は見たことがなかった。バイト初体験となれば、多少の抵抗があるのだろう。それが紹介してほしい理由か、と察した晶は、「いいけど」とあっさり返した。
「いいの!? ありがとう、晶ちゃん!」
「うん。……でも、どうして急にバイトをする気に?」
「……えっとね。私には妹がいるのは知ってるよね?」
「八雲ね。同じ茶道部だから知ってる」
「八雲はバイトしてるんだ。でも……私たち二人っきりで暮らしてるのに、姉の私だけがバイトしてないっていうのも変だから。それで始めようと思ったんだよ」
「……なるほど」
 妹思いね、と思う一方で、どこか気まずい感情もあるのだろう、とも晶は思った。十代半ばの女子二人だけで暮らしている事情に加え、天満は妹の八雲に対して絶大なお姉ちゃんパワーを発揮する。その現実の前に、何もせずに妹の加護に甘えているだけの自分を認識して、何かしなければと思い立ったという心理が背景にあるのだろう。
「じゃあ、早速だけど。今日の放課後、私と一緒に来て。そこを紹介するから」
「どんなバイトなのかな?」
「喫茶店。エルカドじゃないけど」
 放課後には仲良し四人組でよく行く喫茶店の名前を出しながら、晶は「ちょっと変わった喫茶店だけど」と付け加えた。
「変わってるって……あんまり変なのは、ビギナーの私にはちょっと……」
「大丈夫、任せて。エルカドと大差ないから」
 ウェイトレスの服装に様々な衣装を用意している喫茶店エルカドを思い出しながら、少したじろいだ様子の天満を晶は励ました。そこで担任の谷先生が「おはよう」と言いながら教室に入ってきたので、天満との話しはそれで終わった。


        ◆


「……というわけで、だ。とうとうこの近くでも誘拐犯……といってもまだ未遂だが、不審者が見つかったので、特に女子は気をつけて帰ること。以上」
 起立、礼が終わり、谷先生が教室を出て行くと、途端にクラスには喧騒が戻った。昨夜起こったニュースを知らない生徒は多かったらしく、話題は不審者一色に染まった。ある女子生徒が男子生徒に危ないから一緒に帰ろうと誘えば、男子生徒はお前なら大丈夫だよと返して、女子生徒がどういう意味よ!? と激昂するシーンも見られる教室で、播磨拳児は一人思考に没頭していた。
 まずいぜ、天満ちゃんが危ねえ……!
 先程、晶と天満が交わしていた会話を播磨は盗み聞きしていた。どうやら天満はアルバイトを始めるつもりらしく、そのバイトが終わるであろう時間帯と、昨夜不審者が目撃された時間帯とを照らし合わせた播磨は、ぴったり重なることに危機感を覚えた。
 愛しの天満ちゃんが、もし誘拐でもされたら……。不吉な想像が脳裏に閃き、播磨はいてもたってもいられない気分になった。そうなれば思い立ったら即行動を信条とする播磨が天満ちゃんを守る、という思考に帰結するのは当たり前といえば当たり前だった。
 以前、天満が痴漢に襲われそうになって助けたことを思い出した播磨は、あの時は変に策をこらして策におぼれる羽目になったのだということも思い出した。今度は変装なんかしない。直接的にアプローチしてやる! そう決意した播磨は、サングラス越しの視線で天満に熱い眼差しを送った――が、もちろん天満は気づきもしなかった。


        ◆


 放課後――。
 危ないから早めに帰ったほうがいい、と晶は仲良し四人組の沢近愛理と周防美琴に忠告してから、天満と二人で今日のバイト先へ向かった。その道中、天満は初めてのアルバイトに好奇心と不安感を隠せない様子で、いろいろと晶に訊ねた。
 レジ打ちは難しいのか。注文を間違えたらどうしよう。困ったお客様への対応はどうするべきか。料理とか下手でも大丈夫なのだろうか。一日どれぐらい働けばいいのか……などなど、天満の質問は途切れることを知らなかったが、晶はその一つ一つに丁寧に受け答えした。
 受け答えする一方で、晶はまだ治らない体調の悪さに困っていた。もちろん、表面上は全くいつも通りで、彼女がいかに何事にも動じない性格であるかを窺わせたが、体の泣き言は騙せない。一日学校でゆっくりしていれば治る、などという楽観的な推測はあっさりと裏切られ、晶はバイトだけは失敗するわけにはいかない、と誓った。
 そうしているうちに、二人は目的の喫茶店に到着した。
「ここよ」
「…………これ?」
 隣りの天満が唖然と見上げるのは、店の看板だった。
『喫茶・天使と悪魔』
 喫茶店とは思えないネーミングセンスに一歩退く何かを感じたのか、天満は不安げに晶に視線を移した。
「ねえ晶ちゃん。ここ、本当に大丈夫……?」
「大丈夫」
 喫茶・天使と悪魔は通りに面した一角にあり、店の清潔な外見との相乗効果で、とても繁盛しそうな店には見える。事実、客の入りはなかなか良いようだった。とにかくまずは中へ。晶は天満の手を引いて、店内へ入った。


        ◆


「いやあ晶ちゃん、ありがとう! もう一人バイトの子が欲しかったところなんだよねぇ。うん、この子なら充分可愛いし、やっていけると思うよ。え、面接? ああ、そうだね。今ちょうど空いてるし、この間にさっさとやっちゃおうか。いやいや、簡単なやつだから緊張することないよ。それじゃ準備してくるから、ちょっと待ってて」
 天満は晶に紹介された店長の若い男性が猛烈に喋るのを聞きながら、ようやくこの店のネーミングの真意を知った。
 店長が奥へ引っ込むと、天満は横に立つ制服を着用した晶に視線を移す。
「ねぇ、晶ちゃん」
「何?」
「その格好……なに?」
「この店の制服・天使バージョン」
 喫茶・天使と悪魔のネーミングの真意。それは店のウェイトレスたちが着用する制服にあった。
 いわゆるコスプレ。それも、天使と悪魔をモチーフにしたコスプレだった。白い布を体に巻きつけているとしか思えないような天使の制服は、背中にオプションとして簡単な翼がつくばかりか、頭の上に輪まで用意してある周到さ。神話の女神をかたどった彫像のような姿に、確かに晶には似合っていると天満は思った。よく見れば、着ている晶もまんざらではない様子であることに、付き合いの長い天満は気付いた。
 さらに店内を見渡せば、悪魔の制服を着た女子もいる。悪魔の制服はミニスカートにノースリーブの上下黒一色セットとなっていて、これもまた背中にコウモリの羽のような翼ばかりか、スカートには尻尾、頭には変な耳飾みたいなものまである。
 制服だけ見ればこの店はちょっと変わっていたが、晶の言ったとおり、それ以外はまともな店だった。出されるコーヒーの香りはよく、メニューも充実している。スタッフもてきぱきと働き、笑顔を振りまくサービス精神を忘れない。
 そりゃ、晶ちゃんが紹介してくれた店だもんね……。一瞬でも親友の感性を疑った自分が馬鹿だった、と反省した天満は、晶が「それじゃ私、接客があるから」と言うのを聞いて「うん、頑張って!」と精一杯の笑顔と元気で送り出した。
 背中の翼を揺らしながら、晶はテーブルの一つに近づき、注文をとっている。その様子を見ながら天満は、ウェイトレスの格好が格好なだけに、集まる客もちょっと偏りがあるなぁ、とは思った。
 いかにもオタク。彼らにとってメッカと呼ばれる街にも似たような趣旨の店があるらしいことはテレビ番組などで知っていたが、まさかこの街にもこんな店が存在していたとは。純粋にその事実に驚きながら、天満は晶が注文をとっているテーブルに座っているのがサラリーマン風の中年男性であることに気付いた。
 周囲の八割近くの客がオタク風という中、サラリーマン風のその中年男性は、天満にとって意外な客に見えた。
「天満ちゃん。面接の準備できたよ」
 奥から戻ってきた店長が天満に声をかける。
「あ、店長さん。ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「うん? なんだい?」
「どうしてこの店ではこんな制服なんですか?」
 天満がそう質問すると、店長はよくぞ言ってくれたとばかりに笑みを深めて朗々と語りだした。
「いいかい? この店はね、憩いの場なんだ」
「憩いの場?」
「そうさ。現代人は皆疲れきっている。押し寄せるリストラの波。回復の兆しが見えない不況。職場や学校の人間関係がうまくいかず、悩みを打ち明けられる友人もいなくて、ストレスは溜まる一方さ。だから現代人は、ほっと一息つけるような場所が必要なんだ。それがこのお店ってわけ」
「……はぁ。でも、それと制服にどんな関係が?」
「そりゃもちろん、憩いの場の演出の一環さ。ほら、目の保養ってやつ」
 それって男子限定じゃん。朗々と語った割りには対象とする客がすごく一点集中なのは、結局のところ男性の集客率を上げるためのコスプレなのだろう。見事に本音と建前を織り交ぜている点は商売上手と言えなくもないが。
「だからね、店の女の子たちは可愛い子ばっかり集めてるんだよ。いやあ、おかげで予想外にも男子学生なんかがうちの子たちを目当てにやってくるようになってさ。商売繁盛だね」
 予想外じゃなくて予想内の間違いではないだろうか。
「晶ちゃんはね、あの通り無表情で接客業には向いてないみたいなんだけど、仕事は熱心だし、あの無表情さが逆にツボだっていうお客様もいてね。まったく、いやホント、ここまで繁盛するとはね」
 ツボというのがどういうものか天満には理解できなかったが、仕事熱心のくだりは理解できた。晶ほどバイト好きなのも珍しいだろう。生活のためというより、いっそ趣味の領域にまで片足を突っ込んでいるとしか思えない晶のバイトへの執着ぶりは、普段彼女と接する機会の多い天満にはわかる。
 結局のところ、バイトが一番大切なんだろうと思った天満は、店長が「じゃ、面接始めよう」といって先に奥へ引っ込んでいくのを見ながら、八雲に帰りは遅くなるというメールを打とうと思ってケータイを取り出し、時刻が視界に入った。
 あれ? 今日って確か……。
 日付と時刻を見た瞬間、天満の頭に何かが閃いた。
「あ……あ、あああぁぁぁぁっ!?」
 突如店内に轟いた悲鳴に、周囲の客やスタッフたち一同が天満に奇異なものを見る視線を寄越すが、天満はそれに気付く余裕も構っていられる余裕もなかった。
「あ、晶ちゃん、晶ちゃん!」
「どうしたの、天満?」
「きょ、今日ね、続・三匹が斬られるの放送日だったよ!」
「……それで?」
「急いで帰らなきゃ!」
 妹の八雲に録画を頼もうにも、彼女は今日、喫茶エルカドでバイトだった。
「ご、ごめんね、晶ちゃん。せっかく紹介してもらったのに……」
「気にしないで。店長には私から言っておくから」
「うん、ありがとう!」
 カバンを引っつかんで店外へ飛び出した天満は、あまりの慌てようにケータイを店内に忘れたことに気付かなかった。


        ◆


「絃子、感謝するぜ……」
 喫茶・天使と悪魔が見れる通りの一角に、播磨はいた。感謝する、と言ったのは、今日自分が自転車で学校へ来る羽目になったことだ。バイクでは徒歩通学の天満(及び影の薄い女)を尾行するには向かず、音の小さくてスピードもそれほど出ない自転車が力を発揮したのだった。
 同居人に感謝しながら、播磨は天満とその他が入っていった喫茶店に目を向ける。この界隈に、一風変わった喫茶店があるという話は播磨も聞いたことがあり、これがそうなのだろうと思った。視力にものを言わせて窓から見える店内の様子を探れば、天使と悪魔の格好をしたウェイトレスが動き回っているのが捉えられた。
 別に他の人間がどんな格好をしていようと播磨には関係ないが、愛しの天満ちゃんがあんな格好をしているかと思うと、ちくしょう可愛いなぁっ! と表向きはクールにしつつも、心の中で悶えるのは非常に播磨らしかった。
 ああ、天満ちゃんはどっちの格好をしているのだろうか? 悪魔……なわけがない。きっと天満ちゃんは天使の格好だ。入りたい、あの店に。天満ちゃんがバイトするあの店に! そして天満ちゃんが注文を取りにきて、俺はアメリカン、などとキザに答えるのだ。きっとそのコーヒーはただのコーヒーとは思えない至福の味だろう。ああ、しかし、彼女の格好を他の客どもにも見られてしまうのか……!? どうする、俺!
 傍からその思考を見れば、ただのストーカーにも近い播磨だったが、彼本人は非常にピュアな性格であり、間違っても天満が怖がるようなことはしないのが、ストーカーと決定的に違う点だった。
 変装さえしていれば、あの店に入ることもできただろうが、普段の学生服姿の今の自分では、入った途端にばれる。しかしこれも天満ちゃんのため、と本能を納得させて、播磨は再び店の監視を続けようとし――、
 突然、腹がおかしな音を立てた。
「ぐおっ……!?」
 滅多に播磨が味わわないその感覚は、明らかに腹痛だった。それも、今すぐトイレに駆け込まなければ決壊しかねないほど、強烈なものだった。
 ば、馬鹿な。俺は今日何か、おかしなものでも口にしたか? 朝は牛乳だけ、昼は水だけ、そして放課後はまだ何も口にしていない……。
 牛乳か!? しまった、賞味期限を確かめておくべきだった。というか、絃子のヤローもそんな牛乳はさっさと捨てちまえばいいのに……!
「くはっ!」
 だめだ。そんな思考をしている余裕など、播磨にはなかった。今すぐトイレを探さなければ。もし仮に、トイレの住人となっている間に天満が出てきてしまったら……と予想せずにはいられない播磨だったが、十数分で出てくることもないだろうと根拠のない理由を信じて、近くのコンビニへ走った。
 もちろん、播磨は根拠のない理由に裏切られた。播磨がコンビニに駆け込んですぐ、慌てた様子の天満が喫茶店から飛び出したからだ。


        ◆


 晶が急用のために天満が帰宅した旨を店長に告げると、店長はあの子悪魔の格好が似合ったのになぁ、と大いに残念がった。その残念がる店長の横で、晶は天満がケータイを忘れていったことに気付いたが、仕事中の自分が抜け出すわけにもいかず、とりあえず帰りに天満の家に届けようと考え、晶はポケットに天満のケータイをしまった。
 その後、店長にゴミを捨ててくるように頼まれて、晶は裏口から路地裏に出ていた。ポリバケツのゴミ箱にゴミを捨てながら、晶は深くため息をついた。
 体調の悪さに拍車がかかっている。頭は熱っぽいし、嫌な汗は出るし、鼓動が速くなっている。明らかに風邪、とまだどこかで冷静な晶の部分が判断するが、だからといって晶がバイトを早退する理由にはならなかった。
 今日のバイトはこれだけ。終わったらすぐに天満の家に行ってケータイを返し、家に戻ったらすぐに休もう。それだけ体調が悪くてもタクシーなどを使うという発想が晶にないのは、彼女は節約家だからだろう。無駄金は使わない。ある種、金に対する徹底的な合理的精神が生んだ思考だった。
 ……早く仕事に戻ろう。そう熱くなった脳で判断した晶が店に戻る一歩を踏み出した瞬間だった。
 背後に気配。いつもならもっと早い段階で気付いていたはずの晶だったが、風邪気味の体にそれを知覚しろというのは無理な話だった。咄嗟に振り向こうとする晶を羽交い絞めにした背後の人間――体格からおそらく男――は、手にしていた布を晶の口にあてがった。
 薬品の臭い。すぐに理解した晶が抵抗しようともがくが、その薬品には睡眠へ導入する効果があり、すぐに晶の体は弛緩していった。疲労が限界近くまで蓄積された体が、ほんのわずかなきっかけで眠りに身をゆだねてしまうのは、当然のことだった。
「くっ…………」
 それだけ呻き、抵抗らしい抵抗もしなくなった晶は、自分の意識が闇に沈む前に女子高生連続誘拐未遂事件の話を思い出したが、すぐに意識は沈んでしまった。だから、抵抗した際にポケットから天満のケータイが落ちたことに気付かず、背後の人間もまた慌てていたのか、それに気付くことはなかった。


        ◆


 ひどい目にあった。
 コンビニから戻ってきた播磨は、少しやつれているように見えたが、天満へのほとばしる愛でカバーし、再び店の監視に戻った。その時、店の横のやや広い路地裏におかしなものを見た気がして、播磨はそちらに視線を移した。
 白い小さな乗用車に乗り込む男。その乗用車の助手席に、まるで天使のような人間が乗っているように見えるのは気のせいか? 播磨が疑問に思っているうちに乗用車に乗り込んだ男が車を急発進させる。路地裏から飛び出してきた車に驚いた様子の通行人だったが、罵声を浴びせる以外は何もしなかった。
 おかしい。直感的に不審に思った播磨は、乗用車が飛び出したばかりの路地裏に入った。その地面、見覚えのあるケータイが落ちているのを視界に収めた播磨は、一瞬で脳が沸騰するのを感じた。
 天満のケータイ。いつも彼女を視線で追っている播磨だからこそ、一目でわかった。ということは、さっき助手席に乗っていた天使は天満ちゃん……!?
 女子高生連続誘拐未遂事件。その単語が脳裏に閃き、播磨は即座に行動した。天満のケータイを掴んでポケットにしまうと、即座に自転車にまたがってペダルを全力で踏み込む。自転車とは思えないスタートダッシュで発進した播磨は、車道の遠くを走り去ろうとしている白い乗用車に向かって吼えた。
「待てコラァッ!」


        ◆


 白い翼を持った天使を上手く連れ出すことに成功した男は、内心でやった……! と喝采していた。
 ハンドルを握る手に汗がにじみ、震え始める。自分がした行為への恐怖感がもたらした生理的反応ではなく、計画に成功した者が引き起こす興奮だった。興奮に負けてアクセルを全力で踏み込もうとする足を必死に抑えながら、男は車を走らせる。
 ここまで上手くいくとは、正直思っていなかった。だが成功した事実がこれは現実だと男の脳に告げ、男は自分が生まれてから初めて成功したような気分にさえなった。
 助手席で眠る彼女の姿はまさに天使そのもので、男は彼女に救われると実感した。

 

  Re: 【晶×播磨シリーズ#0】 Love which buds by the labelling ( No.1 )
日時: 2006/12/21 21:12
名前: ホザキ

「くそっ! 絃子、恨むぜ……!」
 徒歩の人間を尾行するのに自転車は使えても、車を尾行するのに自転車は使えない。息苦しさを覚えるほど必死に漕ぐ播磨だったが、確実に白い乗用車との距離は離されていた。余計な障害物の少ない車道を走る車と、歩道を走って人をかわしながら進む播磨との如実な差が出た結果だった。
 だからといって諦めるわけにはいかない。ここで自分が諦めたら、誰が愛しの天使、塚本天満を助けようというのか。彼女を卑劣な誘拐犯なんかに連れ去られてたまるか……!
 精神力だけは誰にも負けない播磨だったが、肉体の限界はどうしようもなかった。車が一つ交差点を過ぎるたびに、播磨が通行人を一人避けるたびに、車と自転車の距離は離されていく。
 このままじゃだめだ。そう思った播磨は、ショートカットを使うしかない、と考えた。もちろん、ショートカットを使えば一時的にしろ乗用車を見失うことになり、乗用車が播磨の予想と違う道を走れば、もう二度と見つけることはできないだろうという危険性を孕んでいた。
 しかし、今ここでただ後を追っているだけでは、絶対に追いつくことはできない。ならばわずかな可能性にかけ、ショートカットする以外に手段はなかった。
 大丈夫だ。天満ちゃんに恋する俺の勘(勘違い)は、絶対に彼女を見失わない……!
 その助手席に乗っているのが高野晶だということは知る由もなく、播磨は狭い路地裏に自転車の車体を飛び込ませた。


        ◆


 体が揺れるような感覚を覚え、晶はほんの少しだけだが、覚醒した。
 うっすらとしか開けない瞼に、夕焼けの色が飛び込んでくる。覚醒したばかりの目にとって暴力的な光だったため、晶は思わず「う……」と呻いていた。
 晶の呻き声に反応したのか、隣りから「お、起きたのか?」と動揺する声が聞こえた。
「と、突然ですまない……。しかし、他の手段が思い浮かばなかったんだ」
 隣りから聞こえる男の声に満足に反応できないのは、晶がまだ薬品の影響で脳が覚醒できず、疲労や風邪気味のせいで体が重いからだった。
 どこだ、ここは。かすかに開いた瞼から見える風景に、海が見えた。水平線の向こうに太陽が沈んでいく様は、今が夕暮れということだろう。あたりに人の気配はなく、かすかに聞こえる波の打ち寄せる音や、視界に入ってくる光景から、ここが寂れた埠頭だということまではわかった。
「突然で君には本当にすまないと思ってる……」
 実際のところ、晶は男の声の半分も理解していない。それだけ知覚速度が鈍っている証拠であり、薬品の影響がまだ根強いことを意味する。
 さっき体が揺れたのは、ここに車を停めたせい? かすかに回る頭が導き出した推測に、晶はそうなのだろうと思った。車は海へ向かうように停車していて、すぐそこは波立つ海面だった。何をするつもりなのかまでは理解が回らず、晶はとりあえず体を動かそうと思ったが、シートベルトがその動きを阻んで、断念する羽目になった。今の晶は、指一本動かすことすら億劫だった。
「さあ、少しだけ、私のわがままに付き合ってくれ……」
 男がわずかに体を動かす気配を感じ、晶は逃げないと、と理性が叫ぶのを聞いたが、熱に浮かされた頭とまともに動かない体では無理な話だった。男の手が伸びる気配が生じ、晶が夢半分の意識の中、まずいと思った瞬間――、

 運転席のウインドウをぶち破り、何者かの腕が突っ込まれた。

「ひっ――!?」
 運転席の男が悲鳴をあげ、何者かの腕に襟首を掴まれる。「やっと見つけたぜ……!」と悪魔めいた声が晶に耳に飛び込んだ瞬間、運転席の男は何者かの腕で破られた窓から車外に放り出された。


        ◆


 容易くウインドウをぶち破った播磨は、そこにいた中年男を片腕だけで車外へ放り投げた。呻き声を上げながら地面を転がる中年男を見ながら、間に合ってよかった、と播磨は思考した。
 ショートカットの道は厳しく、時には階段を駆け下り、時には建物の中へ飛び込み、時には林の中すら突っ切った播磨は、乗用車を見失いそうになりつつも、とうとうこの寂れた港湾倉庫街で目的の乗用車を発見した。
「よお、おっさん。よくもまぁ、さんざん逃げてくれたな……?」
 拳の骨を鳴らしながら近づく播磨に恐怖したのか、中年男は「な、なんだ君は!?」と喚いていた。
「ど、どうして私の邪魔をする!?」
「邪魔だぁ? この播磨拳児、女を拉致する野郎を黙って見逃すようなタマじゃないぜ」
「み、見ていたのか……!?」
「おうよ。ここまで追ってくるのには苦労したがな」
 そういって播磨がちらりと視線を逸らし、その視線につられたように中年男がそちらを同じく見る。そこに自転車が倒れているのを見た中年男は、驚愕の表情で播磨へ向き直った。
「まさか……自転車で追ってきたのか!?」
「おう」
「そ、そんな……。あの店からここまで、どれだけ距離があると……!? 途中で見失ったはずだ!」
「そんなもんはなぁ……俺の天使への愛の前には無力だ!」


        ◆


 その叫びは、車に残されていた晶にも聞こえていた。
 俺の天使への愛……? 天使ってなんだろう? そういえば、今の私は天使の格好をしているんだっけ……? それじゃあ、天使とは私のことで……。
 そこまで考えた晶は、自分の顔が熱いことに気付いた。不思議なことに、鼓動まで高鳴っている。あれ? ちょっと待って、それは変。おかしい。だって私にそんなことが起こるはずが――。
 晶の熱に浮かされた脳が、現在の生理的反応と前後の状況を結びつける。その生理的反応が風邪気味の体が起こしたものに過ぎないと、普段の冷静な晶ならば気付いて特になんの心の変化も起こさなかっただろうが、今の彼女は薬品の影響で意識は虚ろだった。
 え、え? 嘘。だって、そんなわけ……。いや、そんな……。
 いつものクールビューティ晶からは想像もできない思考が、彼女の脳内で起こっていた。それはもはや、革命と言っても過言ではないかもしれなかった。


        ◆


 決まった……!
 あまりに理想的に決まった自分のセリフに、播磨は陶酔した。この言葉を、きっと車の中の天満ちゃんも聞いてくれたはず。そう、君を助けた王子はここにいる。待っていてくれ、この馬鹿をぶっ倒したらすぐに行くからな……!
 サングラスに隠れた瞳に思わず涙が浮かびそうなほどの感動を味わいながら、播磨は中年男に改めて目を向けた。
「じゃあな、おっさん。ちぃっと頭冷やして反省しろや……!」
「う、うわ――」
 恐怖に顔を引きつらせた中年男は、飛び込んでくる播磨になんの反応もできなかった。
 抉り込むような角度で放ったフックが、中年男の頬に突き刺さる。顔面の形を変形させられた中年男は、見事に宙に浮かび上がって吹っ飛ばされた。しばらく宙を舞い、地面に激突した中年男は、「うぐっ……」と呻いて倒れた。
 しばらく殴ったままの体勢でいた播磨だが、すぐに乗用車へ向かって走り出した。すぐそこに、俺の天使がいる。俺の告白を聞き、俺の勇姿を見た彼女がすぐそこに――。興奮して高鳴る心臓を抑えつつ、播磨は走って乗用車までたどり着いた。
 そして播磨は、助手席のドアを開けた。
「てん――」
 まちゃん、と続くはずの言葉は出なかった。


        ◆


 晶は助手席のドアを開けられた瞬間、どうしよう、という思いで頭が一杯になった。いつもの冷静さが武器であり、また最大の防御でもある晶にとって、混乱した状態でその張本人と顔を合わせることは自爆を意味する。
 だめ、そのドアを開けないで――。
 切実な願いも相手には伝わらなかった。晶はドアが開かれる振動と、即座に聞こえた「てん――」という言葉を聞き、身を硬くした。
 が、何も反応がないので、思わず晶はそこに立つ人間に視線を移し、サングラスをかけた顔を見て呟いた。
「…………播磨君?」


        ◆


 ……誰ですか?
 助手席に横たわる女子の顔を見た瞬間、播磨が思ったのがその疑問だった。明らかに天満ではない。どこかで見たような気もするが、いまいち思い出せないということは、少なくとも播磨にとって完璧な赤の他人を意味した。
「…………播磨君?」
 天使の格好をした女子が呟くのを聞いた播磨は、なんで俺のこと知ってんだ? の疑問が頭に浮かび上がった。まさか同じ学校の生徒? だったらどこか見覚えのある気がする顔なのも頷けるが、播磨にとってそんなことはどうでもよかった。
 別人かよ!? 思わず胸中で叫んだ播磨は、今までの苦労や(結果的にこの女を助けることになったのでよかったが)、必死に店の前で張り込んだことや、腹痛の苦しみ、決まったと思ったはずの告白の誤爆などのエネルギーが、急速に行き場を失って蓄積されるのがわかった。
「うぅ……」
 どこからともなく呻き声がしたのを聞いた播磨は、そちらに視線を移して起き上がろうとしている中年男を見た。
 ……せめてこいつだけは。
 そう思った播磨は、猛然と中年男へ向けて駆け出した。悪魔の形相で近づく播磨に再び恐れをなした中年男が逃げようとしたが、播磨の脚力の前に、中年男の脚力など皆無に等しかった。
「待ちやがれ、この野郎!」
「た、助けて……!」
「黙れ、この誘拐犯! せめててめえを警察に突き出さねえと、俺の腹の虫が収まらねえ……!」
 問答無用に引っ張ろうとした播磨だったが、中年男が「ち、違う。誤解だ!」と叫ぶのを聞いて、思わず立ち止まった。
「……あ?」
「わ、私は誘拐犯じゃない……!」


        ◆


 晶の意識がようやく通常の状態にまで戻る間に、夕日はすっかり海に沈み、空は暗くなりつつあった。暗くなった海の沖合いに灯る漁船の灯りや、遠くから聞こえる車の走行音、サイレンの鳴り響く遠い声が周囲を満たすのを感じた晶は、まず目の前で地面に正座する中年男に目を移した。
 どこかで見覚えがある、と思った晶は、すぐにこの中年男がよく喫茶・天使と悪魔にやってくる常連客であることを思い出し、今日も確か来ていて自分が注文をとったことも思い出した。
「……で? 誤解ってどういうこった?」
 隣りに立つ播磨が、容赦のない厳しい声で中年男を詰問する。
「わ、私はこういうものだ……」
 男が差し出したのは、晶の意識が完全回復するまでの間に車から取り出してきたカメラとアルバムだった。
 そのアルバムを開いた晶は、そこに数々の写真が写されているのを見て、この男はカメラマンか、と思った。
「私はカメラマンなんだ。アマチュアだがね……」
「ほーう? で、そのアマチュアカメラマンが、どうしてこの女を拉致したんだ?」
「それは……彼女の姿に惹かれたからだ」
 なんでも、男は数年ほど前からカメラの撮影にはまったらしい。始めは身近な風景写真を使い捨てカメラで写すだけだったのだが、どんどんカメラの魅力に取り付かれ、気付けば高価なカメラを購入し、膨大なフィルムと雑誌を買い込み、ひたすら綺麗な写真を求め続けていた。
 最初は風景だけを撮っていたが、そのうちに人間を写したいと思うようになって色々な人を遠巻きに写していたのだが、ある日これぞ芸術、と思う一枚を撮ることができ、雑誌に投稿した。今までの惰性的なサラリーマン生活とおさらばしたいという願いもあり、プロのカメラマンを目指しての投降だったが、結果はあえなく落選。一時は落ち込んだものの、なんとかプロにと思って何度も投稿を重ねるが、現在に至るまで入選すら果たせていない。
 落ち込んでふらりと立ち寄った喫茶店で、男は運命的な出会いを果たすことになる。天使と悪魔という変わった制服のその喫茶店で、無表情に「ご注文は?」と訊ねる晶の姿を見て、彼女しかいない、と閃いた。彼女を被写体にした写真ならば、自分はきっと入選する。そう思った男は何度も足しげく喫茶店に通ったのだが、いざマンツーマンで写真を写すことになると、気弱な性格の彼は声をかけることすらできず、どうするどうすると日ごとに焦りが募って、ついには拉致という暴挙に出たというのが真相だった。
「……それで? 何でこんな寂れた港まで連れてきたんだ?」
「それは、彼女にはきっと夕日が似合うと思ったからだ……。ど、どうだろう? 頼むから、一枚でもいいから君を写させてくれないか!?」
 前後の事情を忘れ、必死な願いで頼む男を一瞥した晶は、ふうと短く嘆息した。
 そして、足を踏み込み、腰を捻って、腕に回転を乗せた晶は――、
 無言で男の顎に掌底を打ち込んだ。


        ◆


 女の一撃で昏倒する中年男を一瞥し、播磨はなかなかやるな、と女の動きに感心したが、結局今日一日が空回りだと思えば、すぐに意気消沈するのが当たり前の反応だった。
 天満ちゃんと勘違いした女が拉致される現場を見て必死で追いかけ、いざ追いついて彼女に格好いいところを見せたと思えば別人で、腹いせに男を警察に突き出そうと思えばただのストーカー的カメラマン。
「アホらし……」
 気絶して倒れた男を警察に引き渡そうという気分も起きず、播磨はため息をついた。しかし、その勘違いで女一人を助けた事実に変わりはなく、まぁそれでいいかと告白が失敗して残念がる自分を納得させた。
 問題が片付けば、播磨は隣りに立つ女のことが気になり、「なぁ、あんた」と声をかけた。
「帰る足、あるのか?」
「……ない」
「じゃあ俺の自転車の後ろに乗ってけ。とりあえず店までなら送るぜ」
 毒を食らわば皿まで。こんなに暗くなった時間にこんな格好をした女を一人残して帰る気にもならないし、関わった以上は最後まで付き合おうという気持ちもあり、播磨は倒れた自転車を起こしに向かった。


        ◆


 すっかり暗くなった海岸沿いの道路。ほとんどすれ違う車もない寂れた道を、晶と播磨が二人乗りする自転車が走っていた。
 ところどころ思い出したように立つ街灯だけが唯一の明かりで、暗い海へ視線を移せば遠くに漁業中の漁船の灯りが見える。時折遠くの港からかすかなサイレンが聞こえる以外は静寂だけの夜道を、晶は播磨の腰に手を回して体を支えながら冷静さを取り戻した頭で考え事をしていた。
 要するに、播磨の勘違いなのだろう。今朝担任が言った近隣で起きた女子高生連続誘拐未遂事件のこと。播磨が本気で天満に惚れていて心配しただろうということ。天満と一緒にバイト先まで行ったこと。そしてあの港での言葉……。全てを冷静に考えて繋げれば、およそ播磨がどのような考えをして行動したのか、晶にはわかった。
 つまり、全部は勘違い。
 まっすぐにぶつけてきた播磨のあの言葉も。顔が熱くなったと感じたのも、鼓動が速かったのも風邪のせいで、全部はただの勘違い……。いざ冷静さを取り戻してみれば、こんなに馬鹿らしいことはない。晶はまだどこか熱っぽさの残る頭でそう考え、自分を納得させることにした。
 そうなれば特別話すこともなく、晶と播磨は互いに沈黙を保っていたが、どうやら播磨は痛いほどの沈黙を苦に思ったらしく、「はた迷惑な話だよな」と晶に語りかけてきた。
「あのおっさん、被写体が君だったら入選するとかどうとか……。被写体選ぶんなら、まず自分の腕を磨けって話しだよな」
「……そうね」
「まったく。技術がねえんじゃ、せっかく被写体が綺麗でも意味ねえよな」
 ――――っ!
 被写体が綺麗。つまりそれは、私が綺麗――。
 その言葉に至ったが最後、晶の冷静さは地の彼方まで吹き飛んだ。
 違う、違う違う。今の反応はおかしい。彼のそんな言葉に、ここまで過敏に反応する必要なんてない。全部勘違いだったと、今ならわかるんだから……。それに、被写体って言っても私のこととは限らない……。
「でもまぁ、俺もちょっと絵を描いたりするんだけど、確かにモデルがいいと絵も見映えがよくなるからな。あんたが被写体なら、素人でも入選ぐらいはするかもよ」
「…………っ」
 どうして彼はそんなことを言うのか……。私の思考の逃げ道を全て奪い、容赦ない現実を叩きつける。
 あ、だめ。冷静になれ。冷静さを失ったら私は……。やだ、そんな。なぜ顔が熱いの? 鼓動が速くなるなんて変。そうだ、これは風邪のせい。そうに違いない、きっと。だから全部、これも勘違いのはず――。
 混乱する頭が無意識に体に命令を送っていたことに、晶は播磨の腰に回した手が思いがけず強い力でしがみついていることで気付いた。密着した手から播磨の体温が伝わり、晶の体がほてる。背中に押し付けていた耳から彼の力強い鼓動が聞こえ、シンクロするように自分の鼓動も速まる。
「…………」
 その体の反応に、否応なく晶は現実を認識させられた。
 勘違いでも、私の心にはその感情が芽生えてしまった。今更それを勘違いの産物だと認識したところで排除することもできず、しっかりと根を張ってしまったその感情が、私の思考を狂わせる。私の冷静さを奪う。私の体を反応させる……。
 一度その存在を認めてしまえば、ある程度は晶に冷静さが戻った。それが逆に今まで以上に密着した播磨の体を意識させ、晶は柄にもなく自分の体が熱くなるのを感じた。
 ああ……きっともう手遅れ。私はこの感情にこれから先、ずっと振り回される。勘違いだとか、冷静になれとか、そんな理性の言葉はこの感情の前には無力で、湧きあがる激情をもう止めることは誰にもできない。
「……本気になりそう」
「え? なんか言ったか?」
「……ううん、何も」
 いや、本気になりそうという言葉も正しくない。きっと私の心はもう……。
 寒空の下、薄い格好で風を肌に感じていた晶だが、それを寒いと感じないほど、彼女の体も心も熱くなっていた。


        ◆


「じゃ、ここでいいよな」
 喫茶・天使と悪魔の前で女をおろした播磨は、「あ、そうだ」と忘れていたものを思い出した。
「これ、あんたのだろ? 俺の知り合いのかと思ったんだけどよ」
 そう言って播磨が彼女に手渡したのは、天満のケータイだと思っていたケータイだった(実際に天満のものだが)。それを受け取った彼女は初めて自分が落としていたことに気付いたらしく、「ありがとう……」と礼を言った。
「じゃあな。俺はもう帰るわ。あんな奴に会わないよう、気をつけろよ」
 ペダルを踏み込み、早速帰ろうとした播磨だったが、背後から「播磨君」と呼びかけられて止まった。
「なんだ?」
「……本当に、今日はありがとう」
 暗くてわかりづらいが、頬をかすかに染めた様子の天使の彼女に、不覚にも播磨は一瞬だけ、可愛い、と感じた。
「ああ……。まぁいいってことよ。じゃあな」
 その感情を隠すように、播磨は足早に去った。
 通りを走り、喫茶・天使と悪魔が視界に入らないほど遠くまで来たところで、播磨は疑問にいたった。
 そういやあの女、なんで俺の名前知ってるんだ? やっぱり同じ学校の生徒なのか?
 そう思うと、ここまでの道中で沈黙が痛くていろいろ喋った際にずいぶんとキザなことを言ってしまったことが急に恥ずかしく感じられたが、まぁもう会うこともないだろうし、と思って忘れることにした。
 彼女がただの同じ学校の生徒ではなく、同じクラスで、それも想いを寄せる天満の親友であることに、播磨は全く気付かなかった。


        ◆


 数日後――。

『昨夜遅く、○×市の女子高校生が不審な人物に声をかけられるのを付近を警ら中の警察官が発見し、職務質問したところ、この不審者が女子高生連続誘拐未遂事件の犯人であることが判明し、その場で緊急逮捕しました。男は住所不定無職の……』
 朝のニュースを見ながら、絃子はやっと捕まえたか、と思った。これで朝の会議にのぼる面倒な話題の一つが減ったことに純粋に感謝しつつ、絃子は「うぃ〜っす……」と眠たげな播磨の声を聞いた。
「おはよう、拳児君」
「ああ。飯あるか?」
「プリンだけならな」
「……それでいいか」
 諦めた様子で冷蔵庫を開けた播磨がプリンと牛乳を取り出すのを横目に見て、絃子は「あの誘拐犯、捕まったそうだよ」と言った。
「そうなのか? ……ちっ」
 なぜか最後に舌打ちした播磨に絃子は不審なものを覚え、それが何かを考えて即座に結論に至った。
「ああ、なるほど……。愛しの天満ちゃんに格好いいところを見せたかったのかな? 君は」
 途端、牛乳を飲もうとしていた播磨が「ぶっ!?」と噴き出し、絃子は「汚いな。ちゃんと掃除しろよ」と言った。
「ば、ば、馬鹿言ってんじゃねえ! 誰がそんな暇なことするか!」
「そうかい? 君なら案外、やりかねないと思ったんだが……」
「……ったく。馬鹿も休み休み言えよな」
「……あ、拳児君。その牛乳、賞味期限が三週間は過ぎてるぞ?」
 その絃子の一言で、またも播磨は「ぶっ!?」と噴き出す羽目になった。が、そのおかげで危険な牛乳を飲まずにすんだ播磨でもあった。


        ◆


「おっはよー、晶ちゃん」
「おはよう、天満」
 朝のホームルームが始まる前、天満が晶に声をかけていた。
「晶ちゃん。この前は急に帰っちゃってごめんね?」
「いいの。気にしないで」
 おかげでいいことがあったし、とは晶の胸中のみで呟かれた独白だった。
「それでさ、またあそこ紹介してくれるかな? 今日あたり行ってもいい?」
「無理」
「え、なんで!?」
「私、あそこのバイト辞めたから」
「ええっ!?」と大げさに驚く天満を見ながら、晶は辞めることになった経緯について思い出した。
 播磨の自転車に乗って戻った晶に待っていたのは、勝手に何時間も抜け出した晶に対する店長の怒鳴り声だった。ひとしきり文句を言った店長が落ち着いたのは十分後のことで、とにかく以後注意するように、と最後に付け加えた店長に、晶はその必要はありませんと言った。訝しむ様子の店長に、晶は今日でここを辞めますと宣言した。
 呆気に取られる店長を見ながら思ったのは、あの変態自称カメラマンのことではなく、播磨拳児のことだった。
 少し離れた席で天満との会話に聞き耳を立てている播磨の様子を視界に収めた晶は、それが辞める原因だ、と思った。
 別にあのカメラマンがまた来ても、二度も先手を取られることはないという自信のあった晶だが、そこに居座れば天満がまた紹介してとやって来てあの店で働くことになっただろう。そうなれば天満狙いの播磨が店にやって来るのは当然の成り行きで、それはそれで嬉しい晶だったが、あくまで播磨の狙いは天満にある。
 ……天満と播磨君にそんな接触の機会を与えない。それがあの店を辞めることを決意した晶の、一番大きな理由だった。
「うーん。晶ちゃんが辞めたんじゃ、私もあの店で働くのは嫌だなぁ……」
「なぜ?」
「やっぱり初めてのバイトでしょ? 不安だから、少しでも知ってる人がいたら気が楽だと思ったんだけど……。どうして辞めちゃったの?」
「ちょっと嫌な奴がいたの」
「あ、そうなんだ。じゃあやっぱり諦めよう」
 諦めるの!? といった感じに愕然とする様子の播磨を見ながら、晶は成功した、と思った。
「じゃあね、他のバイトはどうかな? どこか良いところない?」
「悪いけど、私あの店以外にもいくつか辞めたの」
「え!? 本当!?」
「本当」
 もちろんそこには、先程と似たような理由もあったのだが、それ以上に――。
「どうして? やっぱりそんなにバイトって大変なの?」
「大変よ。すごくね」
「うう……。やっぱり私、バイト諦めようかな? そうすれば続・三匹が斬られるを見逃す心配もないし……」
「そうすれば?」
 そうする、と呟く天満を視界に入れる一方で、またも愕然とした様子の播磨も視界に収める。これで思惑の一部は達成されたが、それが幾つものバイトを辞めた直接的な理由ではなかった。
「でもさ。晶ちゃんってすごくバイトが大事だったと思うんだけど、そんなに辞めていいの? 大丈夫?」
「いいのよ。バイトの時間を削って、他に使いたい時間ができたから」
 これが、一番大きな理由――。
「なにそれ? なんのために?」
「バイトより大切なものよ」


 例え勘違いから始まったとしても、その感情は本物。
 ライバルは数多くいれど、彼女の想いが成就するのは、それから数ヶ月後、新しい学年になってからのことになる――。




End




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