【晶×播磨シリーズ#0】 Love which buds by the labelling |
- 日時: 2006/12/21 21:12
- 名前: ホザキ
【ラベリング】 ・人は生理的興奮(鼓動が早まる、顔や体がほてる)を覚えると、それが何によって生じたかを状況的手がかりをもとに推測して、恋愛感情・恐怖・怒り・喜びなどの感情名を当てはめる習性がある。ラベリングとはそれを示す心理学用語。
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これはまだ播磨と晶が二年生の頃、まだお互いをほとんど知らなかった時の話――。
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『……昨夜遅く、○○市で塾帰りの女子高生を連れ去ろうとした男が付近を歩いていた通行人に目撃され、目撃者が注意したところ、男は白い乗用車で逃走するという事件がありました。女子高生に怪我はありませんでした。これは二週間前から続く女子高生連続誘拐未遂事件と同一犯の可能性が高く、警察は近隣の学校関係者に注意を呼びかけると共に、現在その行方を追っています。では次のニュースです……』 テレビから流れるニュースキャスターの声を聞きながら、刑部絃子は物騒だな、と思った。事件のあった市は絃子が住む市と隣り合わせで、それほど距離が離れているわけではない。 「朝の職員会議は、これで決まりか……」 朝っぱらから面倒な話題になったものだと思った絃子は、背後から「うぃ〜っす……」と眠たげな声が発したのを聞いた。 「おはよう、拳児君」 「眠ぃ……。飯あるか?」 「昨日の酒のつまみならな」 恵まれない食生活に、さすがに播磨もげんなりしたらしい。「やっぱいらねぇ」と呟きながら冷蔵庫を開き、そこから牛乳パックを取り出すのを見た絃子は、慌てて声をかけた。 「待て、待て待て拳児君。その牛乳は――」 「……っぷはぁ! ああ、美味かった。……ん? どうかしたか、絃子?」 手遅れだった。過ぎたものは仕方がない、と考えた絃子は「いや、なんでもないよ」と曖昧に誤魔化した。寝ぼけた頭では冷静に思考も働かないらしく、播磨はそのまま洗面所へ姿を消していった。 テレビから『関連したニュースで……』と音声が流れるのを聞きながら、絃子はテーブルに残された空っぽの牛乳パックを見る。もちろんそこには、賞味期限が記されている。 「……二週間も過ぎてる牛乳なのに……。大丈夫か?」 なんで処分しないんだ、というツッコミを入れる人間はこの場にいなかった。きっと播磨の胃袋なら大丈夫だろう、と何の根拠もない理由で自分を納得させた絃子は洗面所の播磨に声をかけた。 「そうそう、拳児君。今日の君は自転車で登校するんだよ。いいね?」 「はぁ!? なんでだよ!?」と即座に洗面所から案の定な返事がする。播磨が普段登校に使用しているバイクは、絃子からの借り物なのだ。 「今日は私がバイクを使う予定があるからさ。まさか持ち主の意向に逆らうわけじゃあるまいね?」 「ぐっ……!」 さすがに持ち主の意見には逆らえないらしい播磨の呻きを聞きながら、絃子は学校へ行く準備を始めた。
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くらっ、と目眩に襲われた気がした高野晶は、机に頬杖を突いて頭を支えた。 ここ数日、どうも調子が悪い。特に今日の気分が最悪なのは、二次性徴が訪れた女性なら誰でも宿命に持つあの日であることに理由があるのは間違いなかった。 もちろん、それだけで晶がここまで体調を崩すわけはない。ここ数日、いくつもかけ持ちしているバイトの先輩方から、あの日代わってくれ、この日代わってくれ、と頼まれて睡眠時間さえも削る羽目になった晶は、それでも頼みを断ることなくバイトに明け暮れていたのだ。結果、それは晶に前代未聞の過密スケジュールをもたらした。少し元気がないと思って食事を軽くすれば、それが体調の悪さに拍車をかける。 それでも休むわけにはいかない、と晶は自分を励ました。今日も放課後にはバイトが待っているのだ。一日学校でゆっくりしていれば、少しは気分もよくなるだろう。そんな根拠もない理由で自分を納得させた晶は、不意に「晶ちゃん」と声をかけられた。 「……天満」 「大丈夫? 何か元気ないみたいだけど」 「ううん、平気。……それより、何か話しが?」 親友に心配をかけさせるわけにはいかない。そう判断した頭が晶にいつもの鉄面皮を戻させた。 何か話題があるらしい天満は、少し遠慮するように「あのね……」と用件を言った。 「晶ちゃんって、たくさんバイトしてるよね?」 「そうね」 「……ってことは、顔も利くよね?」 そこは自信がなかった晶は、「さぁ……」と適当に相槌を打ったが、天満の頭の中では晶は顔が利く、となっているらしく、意に介さず「だからさ」と続けた。 「私に、バイトを紹介してほしいの」 「……なぜ?」と問いながら、晶は天満がバイトをしている光景を思い出そうとし、失敗した。天満がバイトをしているところなど、晶は見たことがなかった。バイト初体験となれば、多少の抵抗があるのだろう。それが紹介してほしい理由か、と察した晶は、「いいけど」とあっさり返した。 「いいの!? ありがとう、晶ちゃん!」 「うん。……でも、どうして急にバイトをする気に?」 「……えっとね。私には妹がいるのは知ってるよね?」 「八雲ね。同じ茶道部だから知ってる」 「八雲はバイトしてるんだ。でも……私たち二人っきりで暮らしてるのに、姉の私だけがバイトしてないっていうのも変だから。それで始めようと思ったんだよ」 「……なるほど」 妹思いね、と思う一方で、どこか気まずい感情もあるのだろう、とも晶は思った。十代半ばの女子二人だけで暮らしている事情に加え、天満は妹の八雲に対して絶大なお姉ちゃんパワーを発揮する。その現実の前に、何もせずに妹の加護に甘えているだけの自分を認識して、何かしなければと思い立ったという心理が背景にあるのだろう。 「じゃあ、早速だけど。今日の放課後、私と一緒に来て。そこを紹介するから」 「どんなバイトなのかな?」 「喫茶店。エルカドじゃないけど」 放課後には仲良し四人組でよく行く喫茶店の名前を出しながら、晶は「ちょっと変わった喫茶店だけど」と付け加えた。 「変わってるって……あんまり変なのは、ビギナーの私にはちょっと……」 「大丈夫、任せて。エルカドと大差ないから」 ウェイトレスの服装に様々な衣装を用意している喫茶店エルカドを思い出しながら、少したじろいだ様子の天満を晶は励ました。そこで担任の谷先生が「おはよう」と言いながら教室に入ってきたので、天満との話しはそれで終わった。
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「……というわけで、だ。とうとうこの近くでも誘拐犯……といってもまだ未遂だが、不審者が見つかったので、特に女子は気をつけて帰ること。以上」 起立、礼が終わり、谷先生が教室を出て行くと、途端にクラスには喧騒が戻った。昨夜起こったニュースを知らない生徒は多かったらしく、話題は不審者一色に染まった。ある女子生徒が男子生徒に危ないから一緒に帰ろうと誘えば、男子生徒はお前なら大丈夫だよと返して、女子生徒がどういう意味よ!? と激昂するシーンも見られる教室で、播磨拳児は一人思考に没頭していた。 まずいぜ、天満ちゃんが危ねえ……! 先程、晶と天満が交わしていた会話を播磨は盗み聞きしていた。どうやら天満はアルバイトを始めるつもりらしく、そのバイトが終わるであろう時間帯と、昨夜不審者が目撃された時間帯とを照らし合わせた播磨は、ぴったり重なることに危機感を覚えた。 愛しの天満ちゃんが、もし誘拐でもされたら……。不吉な想像が脳裏に閃き、播磨はいてもたってもいられない気分になった。そうなれば思い立ったら即行動を信条とする播磨が天満ちゃんを守る、という思考に帰結するのは当たり前といえば当たり前だった。 以前、天満が痴漢に襲われそうになって助けたことを思い出した播磨は、あの時は変に策をこらして策におぼれる羽目になったのだということも思い出した。今度は変装なんかしない。直接的にアプローチしてやる! そう決意した播磨は、サングラス越しの視線で天満に熱い眼差しを送った――が、もちろん天満は気づきもしなかった。
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放課後――。 危ないから早めに帰ったほうがいい、と晶は仲良し四人組の沢近愛理と周防美琴に忠告してから、天満と二人で今日のバイト先へ向かった。その道中、天満は初めてのアルバイトに好奇心と不安感を隠せない様子で、いろいろと晶に訊ねた。 レジ打ちは難しいのか。注文を間違えたらどうしよう。困ったお客様への対応はどうするべきか。料理とか下手でも大丈夫なのだろうか。一日どれぐらい働けばいいのか……などなど、天満の質問は途切れることを知らなかったが、晶はその一つ一つに丁寧に受け答えした。 受け答えする一方で、晶はまだ治らない体調の悪さに困っていた。もちろん、表面上は全くいつも通りで、彼女がいかに何事にも動じない性格であるかを窺わせたが、体の泣き言は騙せない。一日学校でゆっくりしていれば治る、などという楽観的な推測はあっさりと裏切られ、晶はバイトだけは失敗するわけにはいかない、と誓った。 そうしているうちに、二人は目的の喫茶店に到着した。 「ここよ」 「…………これ?」 隣りの天満が唖然と見上げるのは、店の看板だった。 『喫茶・天使と悪魔』 喫茶店とは思えないネーミングセンスに一歩退く何かを感じたのか、天満は不安げに晶に視線を移した。 「ねえ晶ちゃん。ここ、本当に大丈夫……?」 「大丈夫」 喫茶・天使と悪魔は通りに面した一角にあり、店の清潔な外見との相乗効果で、とても繁盛しそうな店には見える。事実、客の入りはなかなか良いようだった。とにかくまずは中へ。晶は天満の手を引いて、店内へ入った。
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「いやあ晶ちゃん、ありがとう! もう一人バイトの子が欲しかったところなんだよねぇ。うん、この子なら充分可愛いし、やっていけると思うよ。え、面接? ああ、そうだね。今ちょうど空いてるし、この間にさっさとやっちゃおうか。いやいや、簡単なやつだから緊張することないよ。それじゃ準備してくるから、ちょっと待ってて」 天満は晶に紹介された店長の若い男性が猛烈に喋るのを聞きながら、ようやくこの店のネーミングの真意を知った。 店長が奥へ引っ込むと、天満は横に立つ制服を着用した晶に視線を移す。 「ねぇ、晶ちゃん」 「何?」 「その格好……なに?」 「この店の制服・天使バージョン」 喫茶・天使と悪魔のネーミングの真意。それは店のウェイトレスたちが着用する制服にあった。 いわゆるコスプレ。それも、天使と悪魔をモチーフにしたコスプレだった。白い布を体に巻きつけているとしか思えないような天使の制服は、背中にオプションとして簡単な翼がつくばかりか、頭の上に輪まで用意してある周到さ。神話の女神をかたどった彫像のような姿に、確かに晶には似合っていると天満は思った。よく見れば、着ている晶もまんざらではない様子であることに、付き合いの長い天満は気付いた。 さらに店内を見渡せば、悪魔の制服を着た女子もいる。悪魔の制服はミニスカートにノースリーブの上下黒一色セットとなっていて、これもまた背中にコウモリの羽のような翼ばかりか、スカートには尻尾、頭には変な耳飾みたいなものまである。 制服だけ見ればこの店はちょっと変わっていたが、晶の言ったとおり、それ以外はまともな店だった。出されるコーヒーの香りはよく、メニューも充実している。スタッフもてきぱきと働き、笑顔を振りまくサービス精神を忘れない。 そりゃ、晶ちゃんが紹介してくれた店だもんね……。一瞬でも親友の感性を疑った自分が馬鹿だった、と反省した天満は、晶が「それじゃ私、接客があるから」と言うのを聞いて「うん、頑張って!」と精一杯の笑顔と元気で送り出した。 背中の翼を揺らしながら、晶はテーブルの一つに近づき、注文をとっている。その様子を見ながら天満は、ウェイトレスの格好が格好なだけに、集まる客もちょっと偏りがあるなぁ、とは思った。 いかにもオタク。彼らにとってメッカと呼ばれる街にも似たような趣旨の店があるらしいことはテレビ番組などで知っていたが、まさかこの街にもこんな店が存在していたとは。純粋にその事実に驚きながら、天満は晶が注文をとっているテーブルに座っているのがサラリーマン風の中年男性であることに気付いた。 周囲の八割近くの客がオタク風という中、サラリーマン風のその中年男性は、天満にとって意外な客に見えた。 「天満ちゃん。面接の準備できたよ」 奥から戻ってきた店長が天満に声をかける。 「あ、店長さん。ちょっと訊きたいことがあるんですけど」 「うん? なんだい?」 「どうしてこの店ではこんな制服なんですか?」 天満がそう質問すると、店長はよくぞ言ってくれたとばかりに笑みを深めて朗々と語りだした。 「いいかい? この店はね、憩いの場なんだ」 「憩いの場?」 「そうさ。現代人は皆疲れきっている。押し寄せるリストラの波。回復の兆しが見えない不況。職場や学校の人間関係がうまくいかず、悩みを打ち明けられる友人もいなくて、ストレスは溜まる一方さ。だから現代人は、ほっと一息つけるような場所が必要なんだ。それがこのお店ってわけ」 「……はぁ。でも、それと制服にどんな関係が?」 「そりゃもちろん、憩いの場の演出の一環さ。ほら、目の保養ってやつ」 それって男子限定じゃん。朗々と語った割りには対象とする客がすごく一点集中なのは、結局のところ男性の集客率を上げるためのコスプレなのだろう。見事に本音と建前を織り交ぜている点は商売上手と言えなくもないが。 「だからね、店の女の子たちは可愛い子ばっかり集めてるんだよ。いやあ、おかげで予想外にも男子学生なんかがうちの子たちを目当てにやってくるようになってさ。商売繁盛だね」 予想外じゃなくて予想内の間違いではないだろうか。 「晶ちゃんはね、あの通り無表情で接客業には向いてないみたいなんだけど、仕事は熱心だし、あの無表情さが逆にツボだっていうお客様もいてね。まったく、いやホント、ここまで繁盛するとはね」 ツボというのがどういうものか天満には理解できなかったが、仕事熱心のくだりは理解できた。晶ほどバイト好きなのも珍しいだろう。生活のためというより、いっそ趣味の領域にまで片足を突っ込んでいるとしか思えない晶のバイトへの執着ぶりは、普段彼女と接する機会の多い天満にはわかる。 結局のところ、バイトが一番大切なんだろうと思った天満は、店長が「じゃ、面接始めよう」といって先に奥へ引っ込んでいくのを見ながら、八雲に帰りは遅くなるというメールを打とうと思ってケータイを取り出し、時刻が視界に入った。 あれ? 今日って確か……。 日付と時刻を見た瞬間、天満の頭に何かが閃いた。 「あ……あ、あああぁぁぁぁっ!?」 突如店内に轟いた悲鳴に、周囲の客やスタッフたち一同が天満に奇異なものを見る視線を寄越すが、天満はそれに気付く余裕も構っていられる余裕もなかった。 「あ、晶ちゃん、晶ちゃん!」 「どうしたの、天満?」 「きょ、今日ね、続・三匹が斬られるの放送日だったよ!」 「……それで?」 「急いで帰らなきゃ!」 妹の八雲に録画を頼もうにも、彼女は今日、喫茶エルカドでバイトだった。 「ご、ごめんね、晶ちゃん。せっかく紹介してもらったのに……」 「気にしないで。店長には私から言っておくから」 「うん、ありがとう!」 カバンを引っつかんで店外へ飛び出した天満は、あまりの慌てようにケータイを店内に忘れたことに気付かなかった。
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「絃子、感謝するぜ……」 喫茶・天使と悪魔が見れる通りの一角に、播磨はいた。感謝する、と言ったのは、今日自分が自転車で学校へ来る羽目になったことだ。バイクでは徒歩通学の天満(及び影の薄い女)を尾行するには向かず、音の小さくてスピードもそれほど出ない自転車が力を発揮したのだった。 同居人に感謝しながら、播磨は天満とその他が入っていった喫茶店に目を向ける。この界隈に、一風変わった喫茶店があるという話は播磨も聞いたことがあり、これがそうなのだろうと思った。視力にものを言わせて窓から見える店内の様子を探れば、天使と悪魔の格好をしたウェイトレスが動き回っているのが捉えられた。 別に他の人間がどんな格好をしていようと播磨には関係ないが、愛しの天満ちゃんがあんな格好をしているかと思うと、ちくしょう可愛いなぁっ! と表向きはクールにしつつも、心の中で悶えるのは非常に播磨らしかった。 ああ、天満ちゃんはどっちの格好をしているのだろうか? 悪魔……なわけがない。きっと天満ちゃんは天使の格好だ。入りたい、あの店に。天満ちゃんがバイトするあの店に! そして天満ちゃんが注文を取りにきて、俺はアメリカン、などとキザに答えるのだ。きっとそのコーヒーはただのコーヒーとは思えない至福の味だろう。ああ、しかし、彼女の格好を他の客どもにも見られてしまうのか……!? どうする、俺! 傍からその思考を見れば、ただのストーカーにも近い播磨だったが、彼本人は非常にピュアな性格であり、間違っても天満が怖がるようなことはしないのが、ストーカーと決定的に違う点だった。 変装さえしていれば、あの店に入ることもできただろうが、普段の学生服姿の今の自分では、入った途端にばれる。しかしこれも天満ちゃんのため、と本能を納得させて、播磨は再び店の監視を続けようとし――、 突然、腹がおかしな音を立てた。 「ぐおっ……!?」 滅多に播磨が味わわないその感覚は、明らかに腹痛だった。それも、今すぐトイレに駆け込まなければ決壊しかねないほど、強烈なものだった。 ば、馬鹿な。俺は今日何か、おかしなものでも口にしたか? 朝は牛乳だけ、昼は水だけ、そして放課後はまだ何も口にしていない……。 牛乳か!? しまった、賞味期限を確かめておくべきだった。というか、絃子のヤローもそんな牛乳はさっさと捨てちまえばいいのに……! 「くはっ!」 だめだ。そんな思考をしている余裕など、播磨にはなかった。今すぐトイレを探さなければ。もし仮に、トイレの住人となっている間に天満が出てきてしまったら……と予想せずにはいられない播磨だったが、十数分で出てくることもないだろうと根拠のない理由を信じて、近くのコンビニへ走った。 もちろん、播磨は根拠のない理由に裏切られた。播磨がコンビニに駆け込んですぐ、慌てた様子の天満が喫茶店から飛び出したからだ。
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晶が急用のために天満が帰宅した旨を店長に告げると、店長はあの子悪魔の格好が似合ったのになぁ、と大いに残念がった。その残念がる店長の横で、晶は天満がケータイを忘れていったことに気付いたが、仕事中の自分が抜け出すわけにもいかず、とりあえず帰りに天満の家に届けようと考え、晶はポケットに天満のケータイをしまった。 その後、店長にゴミを捨ててくるように頼まれて、晶は裏口から路地裏に出ていた。ポリバケツのゴミ箱にゴミを捨てながら、晶は深くため息をついた。 体調の悪さに拍車がかかっている。頭は熱っぽいし、嫌な汗は出るし、鼓動が速くなっている。明らかに風邪、とまだどこかで冷静な晶の部分が判断するが、だからといって晶がバイトを早退する理由にはならなかった。 今日のバイトはこれだけ。終わったらすぐに天満の家に行ってケータイを返し、家に戻ったらすぐに休もう。それだけ体調が悪くてもタクシーなどを使うという発想が晶にないのは、彼女は節約家だからだろう。無駄金は使わない。ある種、金に対する徹底的な合理的精神が生んだ思考だった。 ……早く仕事に戻ろう。そう熱くなった脳で判断した晶が店に戻る一歩を踏み出した瞬間だった。 背後に気配。いつもならもっと早い段階で気付いていたはずの晶だったが、風邪気味の体にそれを知覚しろというのは無理な話だった。咄嗟に振り向こうとする晶を羽交い絞めにした背後の人間――体格からおそらく男――は、手にしていた布を晶の口にあてがった。 薬品の臭い。すぐに理解した晶が抵抗しようともがくが、その薬品には睡眠へ導入する効果があり、すぐに晶の体は弛緩していった。疲労が限界近くまで蓄積された体が、ほんのわずかなきっかけで眠りに身をゆだねてしまうのは、当然のことだった。 「くっ…………」 それだけ呻き、抵抗らしい抵抗もしなくなった晶は、自分の意識が闇に沈む前に女子高生連続誘拐未遂事件の話を思い出したが、すぐに意識は沈んでしまった。だから、抵抗した際にポケットから天満のケータイが落ちたことに気付かず、背後の人間もまた慌てていたのか、それに気付くことはなかった。
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ひどい目にあった。 コンビニから戻ってきた播磨は、少しやつれているように見えたが、天満へのほとばしる愛でカバーし、再び店の監視に戻った。その時、店の横のやや広い路地裏におかしなものを見た気がして、播磨はそちらに視線を移した。 白い小さな乗用車に乗り込む男。その乗用車の助手席に、まるで天使のような人間が乗っているように見えるのは気のせいか? 播磨が疑問に思っているうちに乗用車に乗り込んだ男が車を急発進させる。路地裏から飛び出してきた車に驚いた様子の通行人だったが、罵声を浴びせる以外は何もしなかった。 おかしい。直感的に不審に思った播磨は、乗用車が飛び出したばかりの路地裏に入った。その地面、見覚えのあるケータイが落ちているのを視界に収めた播磨は、一瞬で脳が沸騰するのを感じた。 天満のケータイ。いつも彼女を視線で追っている播磨だからこそ、一目でわかった。ということは、さっき助手席に乗っていた天使は天満ちゃん……!? 女子高生連続誘拐未遂事件。その単語が脳裏に閃き、播磨は即座に行動した。天満のケータイを掴んでポケットにしまうと、即座に自転車にまたがってペダルを全力で踏み込む。自転車とは思えないスタートダッシュで発進した播磨は、車道の遠くを走り去ろうとしている白い乗用車に向かって吼えた。 「待てコラァッ!」
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白い翼を持った天使を上手く連れ出すことに成功した男は、内心でやった……! と喝采していた。 ハンドルを握る手に汗がにじみ、震え始める。自分がした行為への恐怖感がもたらした生理的反応ではなく、計画に成功した者が引き起こす興奮だった。興奮に負けてアクセルを全力で踏み込もうとする足を必死に抑えながら、男は車を走らせる。 ここまで上手くいくとは、正直思っていなかった。だが成功した事実がこれは現実だと男の脳に告げ、男は自分が生まれてから初めて成功したような気分にさえなった。 助手席で眠る彼女の姿はまさに天使そのもので、男は彼女に救われると実感した。
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