【晶×播磨シリーズ#3】 策士乙女、晶
日時: 2006/12/21 21:19
名前: ホザキ


「……ない」
 高野晶は二十枚にも及ぶ写真を一枚一枚めくりながら、ぼそりと呟いた。
 自室の電気が照らす写真には、目下彼女の想い人である播磨拳児の姿が様々なアングル、シチュエーションで撮影されていた。これでもかと言うほど、播磨、播磨、播磨播磨播磨……それ一色のコレクションなのだが、それに致命的な欠点があったことに、晶は今になって気付いたのだ。
「素顔を一枚も撮っていなかったなんて……」
 全ての彼の写真は、いずれも例外なくサングラスがかけられていた。
 衝撃的な欠点に今更気付いた自分の迂闊さを呪いながら、晶は自分もまた、彼の素顔を一度も見たことがないことに考えが至った。
 播磨のサングラスに対するガードは異様に固い。彼がサングラスに固執する理由を晶はもちろん知っており(少なからず不満がある)、余程近しい人物……例えば同居中(先生は同棲中だと思っているようだが)の刑部絃子教諭でもなければ、今の彼の素顔を見た者は皆無に等しいはず。それはつまり、播磨と他者を区別する境界線でもあった。
「これじゃ駄目ね……」
 播磨の素顔を見るため(そして撮るため)、晶の脳は超高速で秘策を練りだす。恋する乙女は時として手段を選ばないのだ。


 翌日。
 一年の廊下で晶は八雲とサラに会っていた。
「二人とも。今日の部活はどうするの?」
「すみません。今日は八雲と二人で用事があるんです」
「ごめんなさい……」
 と申し訳なさそうにする八雲だったが、晶は逆に密かに感謝していた。
「いいえ、用事があるならそっちを優先していいのよ。それじゃあね」

 次に物理の授業が終わったばかりの2−Cの教室で、晶は茶道部顧問の絃子に質問していた。
「刑部先生。今日の部活動には来られますか?」
「悪いけど、今日は職員会議があってね。部活動のほうは君が好きにしといてくれ」
 ええ、存分に好きにさせていただきます。
 などと晶が思っていたことを、絃子は知るはずもなかった。

 最後に、晶は播磨が一人になるタイミングを見計らい、今日の予定について訊ねていた。
「播磨君。今日はどうするの?」
「ああ、今日は放課後に顔出すわ。なんか都合悪いこととかあるか?」
「ないよ。それじゃ、放課後にまた」
 恐ろしいぐらい自分に幸運が働いていることに、晶は今日の自分は一味違うとさえ思った。


 そして全ての授業が終わった。
放課後という時間帯もあり、グラウンドからは運動部の掛け声が、校舎のどこかからは練習中のブラスバンド部の演奏音が断続的に聞こえる茶道部部室には、ここ最近ではすっかり部室の風景に染まった播磨拳児がやって来たところだった。
「いらっしゃい、播磨君」
「うっす。お邪魔すんぜ」
 早速、晶はもう淹れていた紅茶をカップに注ぐ。それを播磨に差し出すと、「やっぱ美味ぇなあ」と言いながら一口含んだ。
「今日は妹さんたちは来ねえのか?」
「ええ、用事があるそうよ。刑部先生も職員会議。……二人っきりね」
ぶっ、と思わず紅茶を噴き出す播磨。「へ、変なこと言うなよ。別に珍しくねえだろ」
 全くもってその通りで、休む場所のなかった播磨に茶道部部室を晶が提供して以来、二人っきりで紅茶やコーヒーを飲むことが重なっている。播磨はそれを特に意識していないようだが、晶にしてみれば全て計算づくのことだった。
「それにしても……こんなに早くチャンスが巡ってくるなんてね」
 ぼそりと漏らした晶の独白に反応した播磨が「ん? なんか言ったか?」とサングラスをかけた目をこちらに向けたが、晶は「いいえ」とだけ答えておいた。
 もうすぐ、そのサングラスの下の顔を見せてもらうわ、播磨君。
 晶がそんなことを思っているとは夢にも思っていないだろう播磨の横顔を一瞥し、彼女は自分のバッグのファスナーに取り付けてあったペンライト型のキーホルダーを取り外す。その普通なら電池を入れる場所には電池が入っておらず、代わりに得体の知れない白い粉が入っていた。
 ――睡眠薬である。
 うわあこの人やべえ、と思わず人が見れば漏らしそうな手段を使う晶。しかし、恋する乙女は手段など選ばないのだ。
 放課後という時間に作戦決行を選んだ理由がこの薬だった。昼休みに眠らせてしまえば、午後の授業に出席することができなくなるからだ。しかし今なら邪魔者(八雲、サラ、絃子)もおらず、これ以上ないというチャンスだった。更にあわよくば、すっかり暗くなってから起きる播磨に夜道は危険だから送ってなどと言うことも可能なのだ。
 まさに天は我に味方せり。
「播磨君、お代わりはどう?」
「貰えるなら貰うぜ」
 空になったティーカップを受け取り、晶はティーポットから紅茶を注ぐ。後は砂糖を入れながら(播磨は意外に甘党)、手の内側の死角に隠したペンライトから睡眠薬を注ぐだけだった。
 紅茶に目を向けているように見せながら、上目遣いに播磨の様子を窺う。播磨は窓から外の風景をぼんやりと眺めていて、こちらの手の動きは見えていない。
 今こそ勝機――!
 獲物を狩るハンターの目で、晶はペンライトの角度を深くする。中の粉が傾斜に沿って流れ、いよいよ零れ落ちようとした瞬間――

「こんにちはー!」

 部室のドアを開き、サラ・アディエマスと塚本八雲が乱入してきた。
 今日は用事があると言っていたのに……! というような晶の魂の叫びが聞こえてきそうな状況だったが、常に冷静な部分を脳に残す晶の対処は的確だった。傾けていたペンライトの口側を持ち上げ、空いている片手のスプーンで紅茶をかき混ぜながら、もう片方の手でペンライトの蓋を器用に閉める。そしてさり気なくバッグのファスナーへ戻した。
「おっす、妹さん」
「あ、播磨さん……。こんにちは」
「あれぇ? 播磨先輩、来てたんですか?」
「おう。ところで妹さんたちは、なんでここに来たんだ? 用事があるんじゃなかったのか?」
「それがですね、先輩、聞いてくださいよ。八雲ったら、明日と日にちを間違えてたんですよ」
 ね、八雲? と意地悪な目を向けるサラに八雲は赤面して返答し、「な、なにも播磨さんの前で……」とぼそぼそ反論したが、播磨に「おっちょこちょいなとこもあるんだな、妹さん」と言われ、すっかりトマトになってしまった。
 八雲……。今だけはあなたを恨むよ。
 もちろんそんな感情は表に出さない晶は、極めて冷静に「お茶いる?」と二人に質問していた。
 決して八雲やサラに睡眠薬を盛ろうなどとは、夢にも思っていない。
 ――結局、そのまま部活は終わってしまい、晶の願いを叶えることはできなかった。


 部活が終われば後は帰るだけだが、晶と播磨はバイトをする身であり、二人はその日たまたま同じくバイトが入っていた。図らずも途中までの道が一緒ということで、二人並んで途中まで一緒することになった。
 普段の播磨ならバイクで登校しているから、晶と同じく徒歩で帰るはずはないのだが、バイクは親戚からの借り物だそうで、今朝その親戚を不機嫌にさせてしまったらしく、徒歩で学校へ来るはめになったそうだ。
「ったく、絃子のヤロー……。俺がどれだけ朝早くに家を出たと思ってやがんだ」
 などと愚痴っている。
 晶は「大変ね」と適当に相槌を打ちながら、ファスナーから外したペンライトのキーホルダーをじっと見詰めていた。
 今日はまたとない程絶好のチャンスだったが、駄目なら次の機会を待てばいい。あるいは別の手段を考えればいいだろう、と考えて落胆する自分の心を納得させている最中だった。
「ん? なんだ、高野。そのキーホルダー……ペンライトか?」
「そう。私の大切なものよ」
 もっとも、播磨にとってはあまりよくない物ではあるが。そんなことを知る由もなく、播磨は「ふーん」とだけ頷いた。
 常に脳のどこかに冷静な部分を残し、表層的には無表情な晶だったが、全く油断がないというわけではない。チャンスを活かせなかった自分を呪っている今が、まさにその瞬間だった。
 ペンライトに意識が集中していたため、川の上の橋を渡っている時、向かい側から自転車が接近してくるのにぎりぎりまで察知できなかった。そして気付いた時には、既に目の前だった。
 キキィィィィィィッ! というブレーキの悲鳴。
 それで晶は初めて激突しそうな自分に気付いた。
「危ねえ!」
 咄嗟に播磨が晶を引き寄せていなかったら、真正面からぶつかっていたかもしれない。しかし、ペンライトを持っていた腕がわずかに接触し、そのショックでペンライトが跳ね飛ばされる形になった。
「あ…………」
 自転車は慌てたようにさっさと逃げてしまい、播磨が「気をつけろ、馬鹿野郎!」と怒鳴っていたが、晶にとって問題は別のところにあった。
 宙を舞ったペンライトは呆気なく晶の期待を裏切り、橋の手すりを越えて川へ吸い込まれるように落下していった。手すりに飛びついた晶が見たのは、無情にも水面に波紋を打つペンライトだった。
「ったく……。っておい、どうした?」
「ペンライトが……」
 手すりを掴む手に自然と力が入り(やはり表情だけは変わらなかったが)、晶は心の中で自分を百回殴った。
 今日の自分は本当にどうかしている。肝心なところで度し難いミスばかり生み、満足な結果一つ出せない。天に味方されていると最初は思っていたが、どうやらただ天にからかわれているだけのような気配さえある。
 いや、それは言い訳だ、と戒めた。仕方ない、睡眠薬を使った手段は使うなという啓示なのかもしれない。そう、明日からは別の手段で――
「高野、これ持っててくれ」
 と、不意に思考を播磨に遮られ、「え?」と振り向いた晶の眼前に何かが差し出された。
 サングラスだった。
 その意味を理解して晶が顔を上げたそこには、手すりに脚をかける播磨の姿があった。
 飛び込むつもりだ。瞬時に判断した晶はそれを止めようと手を伸ばしかけたが、彼を横から捉えた姿に、一瞬だけ時間を奪われた。
 ほんの一瞬、
 彼の、精悍な横顔に――

 次に晶が我に返ったのは、川に盛大な水柱が立った時だった。


「くそ、川が冷てぇ……」
 ぼやきながら播磨が岸辺に上がってきたのは、三分後のことだった。
 即座に岸辺に向かって待機していた晶は、バッグからタオルを取り出して用意していた。
「無茶するのね、播磨君……」
「いや、だってよ……」
 どこか責める感じのある晶にたじろいだのか、播磨は弁護するように握りっぱなしだった右手を開いた。
 そこには、彼が冷たい川にも負けず、掴んできたペンライトがあった。
「お前が大切なモンだって言うからな、よっぽどなんだろうと思ったんだよ。だったら拾わないわけにゃいかねえだろ」
 感情を表に出さない晶が言う「大切な物」だからこそ、そこに播磨は価値を見出したのだろう。
 晶はとにかく、「これ使って」とタオルを彼に差し出し、ペンライトを受け取った。「ありがとよ」と濡れた髪や顔を拭く播磨を、晶はじっと見詰める。
 初めて見る彼の素顔。サングラスは目を隠すだけに過ぎないが、それがないのではこんなにも違う。男子ならではの肌の硬さや、割と長い睫毛とか、そして何より鷹のように鋭い目――。
 この目はペンライトが落ちた瞬間からずっと捉えていたに違いない。そうでなければ、水面が波打つ川に落ちた小さな物体など、普通は見つけられないだろうから。
「あーでも、水に浸かっちまったからなぁ。壊れたかもしんねえぞ?」
「ううん、大丈夫。ありがとう、播磨君」
 真正面から感謝されれば多少は照れるのか、ややそっぽ向きながら「べ、別に構わねえよ」と播磨は頬を赤らめた。
「それよか、そろそろサングラス――」
「その前に、ちょっといい?」
 今サングラスをまたかけられるわけにはいかないのよ、と晶は胸中に呟いて、播磨の真横に立った。
「なんだよ、高野」
「いい? 播磨君。まず顔を引き締めて」
「はぁ? なんでそんなこと……」
「いいから。大切なことなの」
 大切、の言葉に敏感に反応した播磨は、とりあえず事情は把握していないものの、唇を閉め、きりっと鋭くした目をする。
「次に真正面を見るの」
「こ、こうか?」
 そして晶は瞬時にカメラを取り出し、片手で構えながら二人の真正面まで持ち上げる。
「はい、チーズ」
 パシャッ。
 しばらく状況を把握できなかった播磨だったが、把握した途端に「ちょっと待て!」と叫んでいた。
「なにいきなり人の顔撮ってんだよ!」
「今日という良き日のための記念撮影」
「はぁ? 良き日? ……いや、だからって騙されねえぞ。とにかく、俺の顔を勝手に――」
「本当にありがとう、播磨君」
 播磨の怒涛の反撃をあえて意図的に上目遣いの潤んだ瞳で封殺し、サングラスを返す。晶の思いもよらない女の仕草に不意を突かれた播磨は、前後の事情を忘れてとりあえずサングラスを受け取り、赤くなった頬を隠そうとそっぽ向いた。
 結局、そのままなし崩し的に帰ることになった二人。
 晶は播磨の隣りを歩きながら、そっとペンライトの蓋を外して中の薬を捨てた。
 結果的にこれ以上ない成果を挙げた晶は、天の悪戯な計らいにほんの少しだけ感謝した。今日はやっぱり、最高に運がいい、と。


 ある日の休み時間。いつものメンバーで談笑していた沢近は、晶のバッグのファスナーについているペンライトを見た。
「晶、これなに?」
「ペンライト。ただし点かないけどね」
「……それって意味あるの?」
「いいのよ。これでいいの」


 そしてどこかにある晶の部屋。
 彼女の机の上の写真立てには、つい最近撮られたばかりの写真が飾ってあった。
 夕日を浴びる二人の姿。その時の彼女の頬が赤かったのは、果たして夕日のせいだけだったのか――。
 真実はまさに、神のみぞ知る、だった。


 End


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