【晶×播磨シリーズ#5】 晶的正しい授業の受け方
日時: 2006/12/21 21:09
名前: ホザキ



 高校三年生の六月下旬。
 播磨と晶が紆余曲折の果てに恋人となって一週間。
 未だに周囲の人間には秘密の関係の二人が、一歩距離を縮める、そんなお話――。




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「あれ?」
 窓の外はしとしとと梅雨の雨が降る薄暗い三年A組の教室に、素っ頓狂な播磨の声が上がった。
 三時限目の授業が終わった休み時間の喧騒とは無縁に、晶はその時窓の外の風景を眺めていた。――いや、実際には窓に映る隣の席の播磨の姿を見ている。ぬかるんだグラウンドに放置されているサッカーボールの光景や、周囲の生徒たちの喧騒は今の晶には関係ない。ただ直接見るのがはばかれるから、わざわざ婉曲的に窓に映る彼の姿……愛しい恋人の姿を見ているのだ。
 素っ頓狂な播磨の声はやかましい教室の雰囲気にかき消されて誰も注目しなかったが、晶だけは敏感に反応した。窓に映る播磨は、何かを探すようにカバンの中身を漁っている。サングラスをかけた顔に明らかな動揺が見て取れ、何か忘れ物だろうかと想像した。
「……やべえ、忘れた」
 案の定、忘れ物だったらしい。焦燥を顕にする播磨を視界に収めて、晶は助け舟を出した。
「どうしたの、播磨君?」
「ああ……物理の教科書を忘れちまった」
 それを聞いて、晶はなるほど、と播磨が焦燥する理由を思い立った。三年A組の担任は播磨拳児の従姉弟でもある刑部絃子で、同時に物理教師でもある。同居人、保護者という肩書きに加えて、絃子は播磨に想いを寄せる女の一人だ。晶とは違う形で素直に感情を表に出さない年上の絃子には、想い人である播磨を授業中に当てて困らせるという悪癖がある。播磨も理由はわからないものの、絃子にそうやって狙われている自覚はあるらしい。その時に教科書がなければますます困らされるのは火を見るより明らかで、だからこそ教科書の不備に焦っているのだろう。
「くっそ、次って物理だったよな?」
「そうね」
「最悪だ……」
 頭を抱えて机に突っ伏す播磨は、授業中に当てられて答えられず、絃子に立って反省しろと言われてクラス中の晒し者になる情景を思い浮かべているのだろう。既に何度か現実に実現された情景であるが、羞恥心はそうそう克服できるものではない。
 晶とて、恋人がそのように苛められて愉快なわけがない。近頃では絃子をはじめ、沢近愛理、塚本八雲の播磨へのアタックが妙に積極的になってきていると感じていたから、ここらで牽制のジャブを放つのもいいかもしれない。
 まずは絃子。数秒で思考をまとめた晶は、播磨に「教科書なら、見せてあげる」と提案した。
「マジ? いいのか?」
「遠慮する仲でもないでしょう?」
 さらりと二人の秘密の関係を暴露した晶に、「ば、馬鹿、こんなとこで……!」と播磨は焦ったが、晶の声以上に周囲の喧騒が大きく、それは杞憂に終わった。周囲の誰もその言葉に反応した様子はない。
「それじゃ、机ひっつけて」
「おう」
 晶の席は教室の窓際、それも最後尾にある。播磨は晶の隣りだから、必然的に二人のその行動はあまり目立たない位置で行われた。播磨が晶の机に自分の机を引っ付ける形になり、二つの机の境に教科書を置く。
 心持ち席を播磨に近づけながら、晶は自分の望みが一つ叶ったことに喜んでいた。三年生になって席が決まった時、播磨と隣り同士になれたことに密かに歓喜したことはまだ記憶に新しい。しかしその喜びも虚しく、播磨は天満への失恋のショックから一ヶ月ほどまともに登校しない日々が続き、こうして机を引っ付けて教科書を見せたりするという晶のささやかな望みが達成されることはなかった。
 それが変わったのが一ヶ月前。五月も半ばを越えていたその日、あるきっかけで播磨は心神喪失状態から立ち直り、ようやくまともに登校するようになった。その背景に晶の尽力があったことは語るまでもなく、二人きりの濃密な時間を過ごす機会が多くなり、ついに一週間前、晴れて二人は恋人同士になったのだ。
 プラトニックな関係ではあるが、事をそう急ぐものでもない。現に晶の心はかつてないほど満たされていて、こうして近くに播磨の気配を感じるだけで心が揺れる。そんな心の動揺は皮一枚下に押しとどめて表に出さない晶は、不意につい最近思うことがあるのを記憶の底から拾い上げた。
 播磨君。高野。それがお互いが相手を呼ぶ時の呼称で、付き合う前と同じままだ。付き合う前の関係はどこか距離が遠く、この呼び方が嫌いというわけではないにしても他人行儀な感触は拭いきれない。
 なんとか一歩縮められないものか。次の授業の開始に備えて座り始めた生徒たちを一望しながら、晶は思考を巡らせる。口に直接出して、お互い下の名前で呼び合いましょう、と言うのも悪くはない。しかし面白みに欠ける。何か彼の面白い反応が見れる方法が欲しい……。
 堂々巡りの思考を辿っているうちに、キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴った。最後まで友人と談笑していた生徒たちも座りだし、晶はひとまず思考を切り上げ、授業に備えることにした。


        ◆


 学生たちの喧騒から切り離された廊下を歩きながら、刑部絃子は上機嫌だった。廊下から一望できる空はどんよりと厚い雲が覆い、蛍光灯の光が眩しいほどに感じられる薄暗さがある。その暗さを跳ね除けるほど絃子が上機嫌なのは、今向かっている授業のクラスが三年A組だからだ。
 より厳密に言えば、従姉弟であり同居人であり生徒である(加えて想い人でもある)播磨拳児が在籍するクラスだからだ。物理はあまり播磨が得意とする分野ではなく、発表を当ててやると面白いぐらいに四苦八苦する。その様子を見たいがためについつい絃子は播磨を頻繁に当ててしまうので、自分でも悪い癖だと思っている。
 私もやれやれだな、と自分の心境に苦笑しつつ、たどり着いた三年A組のドアを開く。既に着席して準備していた生徒たちが委員長の花井の「起立」で一斉に立ち上がる。絃子が白衣を翻しながら教卓につくと、「礼」の一言が発して皆が一様に礼をした。
 着席する様子を見ながら、絃子はさりげなく視線を教室の窓際、最後尾付近へ飛ばす。そこが播磨の席で、いつもこのクラスでの授業開始時には必ず彼の姿を視界に入れてから教科書を開くのが絃子の習慣だった。眼鏡越しに播磨を見た絃子は、その位置が微妙にずれていることに気付いた。
 播磨の席が、その前列の一直線上からやや横へずれている。変だな、と思ったのは一瞬、絃子は播磨の机がその隣りの高野晶の机とぴったり密着している光景を見て、顔を引きつらせた。
 なぜ? という疑問はすぐに解消された。くっついた机の境界線上に教科書が広げられているのを見れば、どちらかが教科書を忘れたのだと察せられた。おそらくは播磨。あの晶が忘れ物をして播磨に頼るという様子は、絃子でも想像不可能だった。
 忘れ物なら仕方ない。そう理性は訴えるが、晶とは別方向の播磨の隣りの席が男子生徒なのを見れば、なぜそっちに頼まないんだ拳児君、と思わずにはいられない。まさか晶から播磨に提案したとは絃子には予測もできず、上機嫌が一転、あっという間に不機嫌へ変わるのがわかった。
 奇妙に播磨と晶の距離が近いことも、不機嫌に拍車をかけている。拳児君……失恋したら君はもう女なら誰でもよくなったのかい? などと失礼極まりないことを考える絃子の目には播磨の席が晶に近いように見える。実際には全くの逆で晶のほうが播磨に近づいているのだが、嫉妬の炎が目で燃える女の前に、現実は都合のいいように解釈されていた。晶が恋愛に疎いという先入観があったのも、脚色に余計な色を混ぜている。
 拳児君。今日は当てて困らせるだけじゃすませないよ……。まずその晶との密着具合が気に食わない。絃子はこうなれば播磨に飛びっきり難しい発表を当て、授業中延々と立たせることで溜飲を下げようと決意した。


        ◆


 絃子がそんな呪詛めいた心の声を発しているとは露知らず、播磨は左腕から伝わる晶の感触に戸惑っていた。
 ……妙に近くないか、高野? 声に出してそう言いたいが、授業中ということではばかられる。晶は奇妙なほどに席を播磨寄りにしていて、そのせいでお互いの上腕と上腕が触れ合うのだ。これがそこらの女子なら播磨は微塵も気にならない。しかし相手は意中の人であり恋人でもある女子なので、意識するなというのが無理な相談だった。
 それに、微かな触れ合いでも嬉しいことに変わりはない。播磨が席を離すというオプションは彼の脳内には欠片も存在せず、むしろもっと近寄りたいぐらいなのだが、流石にそれはいくらなんでも……と遠慮を知る心がそれをさせないのだった。
 つつがなく授業が進行している一方で、播磨の全知覚は晶に注がれつつある。心なしか漂ういい香りは晶のものだろうか? などと鼻孔を痙攣させてしまうのは自分が変態だからではないと全力で言い訳しつつ、触覚は左腕上腕に全て注ぎ込まれている。さすがに味覚はどうにもならないものの、視覚は視界の端に常に晶の姿をロックオンし続け、聴覚は晶が走らせるペンの音、呼吸の音まで聞き取ろうと針のように研ぎ澄まされてゆく……。
「播磨君」
 だから不意打ちだった。
「は?」
 一泊遅れて反応した播磨は声の発した方向、教卓へ顔を向ける。教鞭を手にした絃子の白衣姿がそこにあり、その背後の黒板には見たこともない図と式がびっしりと埋まっていた。
「これを解いてみたまえ」
 絃子の教鞭がびしびしと黒板を叩く。播磨はそこに書かれた図と式を途中まで追ったが、半分も理解できなかった。晶に集中しすぎて、授業を聞いていなかった代償だ(聞いていてもほとんどの生徒は解けないだろうが)。己の迂闊さを百万回罵りながら、播磨はとりあえず起立した。
 せっかく高野に教科書を見せてもらったってのに……。当初描いていた最悪のシナリオを最短ルートでたどっている自分の現状に、播磨はこっそりと嘆息する。
「どうした、解けないのかい?」
「あー……」
 わかるか、そんなもん。一高校生には高すぎるハードルの問題とそれを出題する絃子の両方を心中で毒づくが、それで事態が打開されるわけでもない。わかりません、の一言を嫌う教師・刑部絃子の前では逃げが許されないことを播磨以下全校生徒が知っている。とにかくまずは教科書を、と視線を落とした播磨が見たのは、そっと教科書の上に差し出されたルーズリーフだった。
 高野? と疑問符を浮かべてちらりと晶に視線を寄越す。ルーズリーフを差し出した晶は何事もなかったかのように黒板を見ていて、代わりにルーズリーフを教卓の死角から忍ばせた手でとんとんと叩いた。
 これを見ろ。晶の心の声を確かに聞いた播磨は、改めてルーズリーフに視線を移す。B5サイズのルーズリーフには、今しがた絃子が出題したばかりの問題の答えが書かれていた。思わず晶へ目を向けそうになった播磨は、絃子が今こちらを見ている状況、絃子が自力で答えを考えないことに対する容赦のなさを知っている経験の両方から、晶がわざとばれないように差し出したのだと察し、向けかけた視線を絃子へ方向修正した。
「あーっと、その答えは……」
 ルーズリーフに書かれていた答えと簡単な解説をおぼろげながら説明した播磨は、ぴくりと絃子の顔がなぜか引きつるのと、生徒たちから驚嘆の視線が向けられる両方の光景を目にした。
 驚嘆の視線はそれだけ出題された問題が難しく、播磨があっさり答えた現実に。それはわかるのだが、なぜ絃子が心なしか残念そうに「……正解だ」と言うのかはわからなかった。
 とにかく窮地は救われた。ほっと一息ついて着席した播磨は、こっそりと横目で晶を窺う。相変わらずの鉄面皮と、真っ直ぐな黒板への視線。疑われるから声を出すな、と言われているようだと思った播磨は、教科書の上に差し出されたままのルーズリーフに目をやった。
 感謝の気持ちを伝えなければ、と考えた播磨がそのルーズリーフを見た時、これなら大丈夫だろうという方法が脳裏に閃いた。ルーズリーフを手に取り、隣で晶が怪訝そうな雰囲気を発したのを知覚しながら、播磨はルーズリーフにペンを走らせる。書くべきものを書いた播磨は、まだこちらを少し窺う様子の絃子の視線が逸れるのを待って、そっとルーズリーフを晶に差し出した。
『助かった、ありがとよ』
 会話が疑われるなら、筆談。それを思いついた自分の発想力に得心しながら、播磨は横目で晶がそれを読む気配、それから何かを書き足す気配を感じ取った。再び絃子の死角をついて差し出されたルーズリーフの文字を目にした播磨は、目玉を真ん丸にする羽目になった。
『どういたしまして。でもあまり私に集中しすぎて授業を疎かにするのは、よくないかもね』
 バレてるし! 先程の自分の極限的な集中が相手に察知されていた事実に、播磨は頬が熱を帯びるのがわかった。授業中であることを忘れて机に突っ伏し、恥ずかしさを紛らわす奇声を発したい心境は、絃子の監視の目があるからという理性に押しとどめられる。
 こんな間抜けで恥ずかしいことってあるか? 自問する播磨が自答する直前、まだルーズリーフに続きが書かれているのを見て思考が止まった。
『でも、ちょっと嬉しかった』
 体全体が振り向きそうになる衝動は辛うじて抑え、目だけを動かして晶を見る。やはり鉄面皮に真っ直ぐな視線。感情が表に出ないのはいつものことだが、思わぬ形での感情の暴露は現実とのギャップもあり、凶悪な可愛さを播磨に感じさせた。
 ……なんでもう、こいつは。
 まだ付き合って一週間。その間にわかったことは、晶は普段は無感情なのに、時々まるで計算したようなタイミングで感情を吐露するということだった。そのタイミングの絶妙さと、外見とのギャップに強烈な感情を覚えてしまうのは男なら仕方ないのでは? とさえ思う。しかもそれが自分限定となれば、これほど熱い感情を募らされるものはない。
 むちゃくちゃ可愛いんだよ畜生っ!
 全身が疼き、今すぐにでも廊下へ飛び出してグラウンドを走り回りたいような衝動に駆られる。さすがにそれはまずい、と思いとどまるも、内なる播磨はそれどころではなかった。心の中で絶叫を上げ、そこら中を走り回っている。それを現実にしないのは晶の気遣いなどが全てふいになってしまうと知っていたからだ。


        ◆


 隣りでポーカーフェイスを気取っているつもりの播磨の心の内がどうなっているのか、晶には全てお見通しだった。そもそもポーカーフェイスという点において、晶の上を行く者はこの学校に存在しない。無表情ナンバー1の晶からすれば、播磨のポーカーフェイスは全く逆の百面相そのものだった。
 頬を赤熱させて微かに呻いている播磨の様子は、晶の計算通りの反応だ。いや、計算以上だった。それがどうしようもなく嬉しくて、晶は自分の鉄面皮が崩れそうになる。奥歯に力を込めて引き締めるが、すぐにまた頬の筋肉が吊り上がりそうになる。おまけに血が顔に集まりそうで、少し深く呼吸して静めた。
 効果てきめんの筆談に、晶は他に何か使える手段がないか考える。こんなに面白い方法を、これっきりにするのは勿体ない。この授業中、もっともっと播磨に面白いことをさせたい……。授業の内容が耳の右から左へ流れているとしか思えない晶の様子だったが、思考を瞬時に連続的に切り替えることで並列的に情報を処理していた。このあたり晶の非凡ぶりが発揮されている(無駄に)。
 五分間の思考の末、晶は休み時間に考えていたことを思い出した。お互いを苗字で呼び合っている現状。これを何とかしたいと考えていたはず。筆談に応用できないだろうか、と考えた晶は、即座にきらりと眼光を光らせる。
 これだ。秘策を思いついた晶は、即座にルーズリーフにペンを走らせ始めた。


        ◆


 悶々としていた播磨は、隣りで晶に動きが生じたことで我に返った。絃子の監視の目から逃れるように、サングラスで視線を隠しながら晶を見る。何やら熱心な様子でペンを動かす彼女の姿に、何を書いているんだ? と播磨は疑問符を浮かべた。
 播磨から見えないように肩で死角を生み出した晶は、その死角で何かを書き込んでいる。どうも個人的なものなのか、と推測する播磨は、これは見ないほうがいいだろうと判断して視線を逸らした。
 しかし、逸らした瞬間、かさっと音がしてその方向を見る。ジャストなタイミングで書き終えた晶が、教科書の上にルーズリーフを置いた音だった。すぐに黒板へ向き直った晶の表情からは意図を読み取れず、播磨はとにかくルーズリーフを見た。
『私たち、そろそろ一歩進んでみない?』
「ぶっ!?」
 思わぬ大胆発言。理性の制止も間に合わず、播磨はふき出していた。
 当然、一同は奇天烈な播磨の声に反応する(晶以外)。絃子もじろりと冷たい目を向けてくる。
「……どうかしたかな、播磨君?」
「い、いや……なんでもねーっす」
「なら静かにしていなさい」
 失笑や苦笑が教室を満たし、播磨は複雑な思いで押し黙った。横目で恨みがましい視線を発端の張本人に送るが、やはり晶は我関せずを貫いている。その代わり、とんとんとルーズリーフを指先で叩くから、返答を催促しているのだと播磨は察した。
 何でこんなことをいきなり……。そう思った播磨は、素直にその気持ちを文章に表現した。
『一歩進むって、どういうふうに?』
 少し文字が震えてしまったのは、心のどこかでその一歩に期待してしまう自分がいるからだろうか。そんな播磨の胸の内をよそに、晶は即座に返答を返した。
『お互いを下の名前で呼びましょう』
 下の名前。つまり、俺が高野のことを晶と……。
 想像するだけで顔に火が点きそうだった。わざわざ筆談などで言わずに口で伝えれば、この恥ずかしさを誤魔化す方法もあるものを。そんなことを考えても恥ずかしさを紛らわそうとしても、一度認識した感情を無視するのは難しい。播磨はルーズリーフに素直な気持ちを書いて返答とした。
『授業中だぞ。後にしろよ』
 晶の気持ちもわからないでもないが、今は恥ずかしい思いをした直後だ。昼休みになってからでもいいだろう。そういう計算を働かせた播磨に、晶は容赦なく返事を突きつける。
『だめ。今すぐがいい』
 どうしろってんだ。隣りの気配から妙なプレッシャーを感じ、播磨は晶が本気だと悟った。すぐにペンを走らせて返す。
『せめてダキョウしてくれ』
 妥協。その文字がなんだったか思い出せず、カタカナで誤魔化したあたりに自分の今の学力の程度が窺える。これでも勉強してるんだが、と少しへこむ播磨の隣りで、晶は少し考えた後にペンを走らせた。
『それじゃ、私の下の名前を書いて』
 思わず、それでいいのか、と疑った播磨は、すぐに願ったり叶ったりだとルーズリーフと向き合った。ペン先を紙面に押し当て、後はさらさらと『晶』と書けばよい。ダキョウ、の文字は書けずとも、さすがに『高野晶』の字は書ける。
 簡単なことだ。この紙にすらすらっと一文字綴るだけでいい。そう、この紙に恋人の名前を書くだけで――。
「…………」
 意識してしまった。そのたかが一文字、されど一文字がどれだけ播磨にとって重要な価値を持つのかを。途端、ペン先がぴくりとも動かなくなり、猛烈な羞恥心がこみ上げてくる。喉元で押さえている叫びが今にも飛び出しそうで、奇想天外な言葉を発してしまう一歩手前。額にぽつりぽつりと汗が噴き出すのは冷や汗などではなく、顔に血が集まっているからだった。
 ……うわ、やべえ。書けねえ。
 腕の筋肉が硬直してしまったみたいで、手に汗だけが滲む。書け、単純な作業だ。画数にしてたったの十二だ。文字ならたったの一文字。余計な意識は除外して、筋肉に命令だけ伝達すればいい。深呼吸して、汗を引っ込めて、顔の血をおろして、筋肉をほぐして――。
 その思考に割り込む形で、晶が動いた。晶の右腕が、播磨と机の間、播磨の左腕と右腕の間、机の下から浮き出すようにそっと差し込まれた。あろうことか、そのまま彼女の右手は播磨のペンを握る右手に重ねられる。彼女の手のしっとりとした感触、ほんのり冷たい体温、指の細さ、重み、指紋の起伏……。そんなものまで感じ取れるほど、播磨の全神経が右手一極集中にさせられた。
 うわ、うわっ、うわーっ! ちょ、ちょっと待て! なに教室で大胆なことしてんだ、高野! いくらなんでも、こりゃまずいって……!
 サングラスの下でぐるぐる目を回す播磨に、そっと晶がより一層近くに寄り添う。絃子の監視の目のみならず、全生徒の知覚の隙を突いた一瞬の行動だった。
「……書いて」
 耳元で囁かれたお願い。熱い吐息までプレゼントした晶の行動に、播磨は完全に意識が月の裏側まで吹っ飛んだ。白一色に染まった頭。かすかに残る吐息の感触と、お願いの言葉。それらが空っぽの脳内に波紋を広げ、催眠効果のように無意識が播磨の体に命令を送る。
 ぴくりとも動かなかった播磨の右手が、無意識の命令に従って動き出す。まともに焦点も定まらず、強張りの抜けない筋肉が動かしたからその文字はやや歪になったが、しっかりと確かにルーズリーフに書き込まれた。
『晶』
 播磨の右手に重ねていた手を外した晶は、そっとルーズリーフを回収する。固まったままの播磨は晶の行動などまるで知覚していなかったが、しばらくしてから左腕を突かれて正気に戻った。
 正気に戻った播磨が真っ先に見たのは、またも差し出されたルーズリーフ。新たな書き込みが加えられたその紙は、もはや播磨にとってただの紙以上の存在になっている。
『もう一度書いて、拳児』
 拳児。自分の名前。ただそれだけなのに、胸に湧き上がってくるこの不思議な熱はなんだろうか。ただの文字の記述が、心を揺さぶる。恥ずかしいような、照れくさいような、嬉しいような。
 まだかなりの照れは抜けないものの、播磨はペンを握る。もしかしたら晶もまた、自分と同じような感情を抱いているのだろうか、と想像しながらペンを走らせた。もしそうなら、少し……いや、かなり嬉しい。そう思いながら書き上げたルーズリーフを晶に差し出す。
『晶』
 受け取った晶は、またすぐに書き出す。またも即座に帰ってきたルーズリーフを播磨は受け取り、そこに書かれた文面を見て目を丸くした。
『もっと書いて、拳児』
 書いて。その言葉が先程の耳元の囁きと吐息を思い出させ、どうしようもなく播磨を赤面させる。
 ていうか、まだ満足してないのか。走り出したら止まらない。ここ数日で晶の性格が少しはわかってきた播磨は、こういう状態の晶の攻撃に無視や抵抗といった逃げ道はないことを熟知していた。
 ……それなら、とことん付き合ってやる。
 覚悟を決めた播磨は、やはり少しぎこちなさの残る手で文字を綴った。
『晶』
 二人の間で密やかにルーズリーフが交換され、またも晶が書いては即座に返す。
『もっと、拳児』
 同じく播磨も新たに書き足し、即座に渡す。
『晶』
『拳児』
『晶』
『拳児』
『晶』
『拳児』
『晶』
『拳児』
『晶』
 授業の静けさの中、ひっそりと教室の片隅で行われる密事。他の人間に気付かれないように、隙を突いて隙を突いての交換の連続。時計の長針が大きく振れ、短針も微妙に動き、だいぶ時間が経過した。
 ルーズリーフの往復が二桁を軽く超え、もうそろそろ播磨にも照れが抜けてきた。
 ふっ、甘いな高野。もう俺はそんな手じゃ動揺しないぜ!
 晶が播磨を使ってからかったりすることがあることに、播磨はとっくに気付いている。今回のこのルーズリーフの交換の背景にも、そんな心理の一つがあるのだろうと想像した播磨は、もう面白がらせねえぞ、と強く決意する。しかしそんな決意など、晶の手にかかれば軽く吹き飛ばせるものであることに、播磨は次の文字を見て思い知らされた。
『拳児』
 そして、語尾にハートマーク。
 そっ……そう来たかぁ――――――っ!!
 ただハートマークが付いただけなのに、播磨の心に充分な威力を秘めたストレートとなって直撃する。慣れてきたところへの不意打ちに、見事に播磨の心は揺さぶられる。心なしかいつもより丸く見える筆跡に、鉄面皮と相反するような可愛らしいハートマーク。ギャップにやられた男として、その攻撃は恐るべき威力を秘めていた。
 そんな攻撃を絶妙なタイミングで繰り出してきた晶を、播磨はこっそりと盗み見する。不変の鉄面皮で黒板に向かう彼女から、やはり感情は読み取れない。が、晶もちらりと横目で播磨に視線を向けてきた。その瞳に期待する色を見て取ってしまった播磨は、背筋が凍るようなショックを受けた。
 俺にも書けってのか……!?
 その、語尾のハートマークを。
 かつて味わったことのないタイプのプレッシャーだった。最初に晶の一文字を書いた時に比べれば、幾分か軽いプレッシャーではある。それでもタイプの違う文字、いや記号となれば、しかもそれが恥ずかしくて特別な意味を持つものとなれば、そう簡単に書けるものではない。
 ルーズリーフから再び晶に視線を移せば、またもこちらを横目で見てくる。その目に相変わらずの期待する色だけでなく、妖しい色さえ見てしまった播磨は、晶がじりじりと寄り添ってくるのがわかった。
 また手を重ねられたり、耳元に吐息を吹きかけるつもりだ、と察した播磨は、それはまずいとペンを動かした。別に嫌というわけではなく(むしろ嬉しい)、恥ずかしさと今が授業中で周りは生徒だらけという現状が播磨にペンを走らせたのだった。
 ペンを動かす度に、得体の知れない重みが肩に加わる。特にハートマークの輪郭を描いた時点で播磨の精神はギブアップ寸前で、中を塗りつぶす作業ではもう半分あっちに行きかけているような状態だった。それでもめげずに書き終えられたのは、半分ぐらいはからかわれていると理解していても、それを頼んだのが晶だからだろう。悲しい惚れた男のサガだ。
 実質、精神が限界点に到達した状態で、播磨はルーズリーフを晶に差し出した。『晶』の文字の後に綴られたハートマークを見ると、何を書いているんだ俺は、と思わずにはいられない。一つの大きな仕事を終えた全身は少しずつ強張りが抜けてゆき、噴き出した汗も引き始めている。これだけのことを書かせればもう充分だろう、高野。心の底から嘆願した播磨は、またも、またも晶が何かを書き加えてルーズリーフを差し出すのを見て、またかよ!? と胸の内だけで絶叫した。
 ……よーし、そこまでするなら、俺だって徹底抗戦してやる。覚悟しろよ、ここまでのことされたら、絶対に何が書かれていたって、俺は動じない――、
『拳児、大好き』ハートマーク。
「ふおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
 椅子を蹴り飛ばし、曲げていた膝を一瞬で伸ばし、机に両手を叩きつけて播磨は立ち上がってしまった。吹き飛ばされた椅子が教室の後方まで飛んでゆき、壁に激突してけたたましい騒音を立てて床に転がる。
 突然の絶叫に教室中の生徒(晶除く)が椅子から飛び上がった播磨へ数十の視線を突き刺す。教卓の絃子も思わず教科書を落とし、びっくりした顔も一瞬、ぎろりと怒気のこもった目で播磨を射抜いた。
 …………あ。
 数十の冷たい視線と驚きの視線に貫かれて、播磨は自分がとんでもない失態をしでかしたことに気付いた。今までかいていたはずの熱い汗が一瞬で引き、背筋も凍る冷たい汗がぶわっと噴き出す。
「…………播磨君」
 教卓の絃子の声が死神の声、あるいは死刑宣告に聞こえる。
 よりにもよって、何書いてんだよ、高野……! 恨みがましく心中で晶へ言葉を叩きつけるが、隣りの晶は不動の無表情を貫いていて、我関せずだった。
「君は私の授業をそんなに妨害したいのかい?」
「い、いや、まさか……」
「それとも、授業に集中せず、別の何かに集中していたのかな?」
「…………」
 絶体絶命。ルーズリーフの交換は絃子には見られないよう細心の注意を払ったから、気付かれる心配はない。それとは別に、播磨だけが十字架に貼り付けられかねない状況に、当の本人は神に祈る思いで祈りを捧げた。
 神様、生まれて二度目のあなたへの祈りになります……。この俺に奇跡を……!
 絃子が播磨へ一歩を踏み出そうとした瞬間、神への祈りが届いたのかどうかは不明だが、播磨を救う手が差し伸べられた。
 キーンコーンカーンコーン。
 授業の終了。思わず呆気に取られた播磨は、絃子が「……まぁいい」と教科書を片付けるのを見て、助かった……? と疑問符を浮かべた。
「期末テストも近い。今後は今回みたいな不祥事は起こさないように」
「う、うす!」
 荷物をまとめた絃子が、白衣を翻して教室を出て行く。途端に昼休みの喧騒がこの教室まで伝わってきて、得体の知れないプレッシャーで満ちていた三年A組の空気を一変させた。
 食堂へ向かう者、授業の内容に没頭する者、友人のところへ行く者。先程の播磨の絶叫の名残りが消えてゆく光景に、ようやく播磨は安堵でき、机に突っ伏した。


        ◆


「なんでおめえは……あ、あんなこと書くんだよ!?」
 昼休みの旧校舎、茶道部部室。晶と播磨以外は誰もおらず、彼女が弁当の飲み物として紅茶を淹れて播磨に差し出した途端、彼の心の叫びが声になって発せられて部室の空気を震わせた。
 大声にも動じず、晶は指定の椅子に座って弁当の包みを広げ、蓋を外す。「そうね……」と前置きしながら箸を取り出した晶は、まずはどれを食べようか考えながら続きを口にした。
「面白いから?」
「やっぱりそれかよ!?」
 ここ一週間で段々と突っ込みに磨きがかかってきた様子の播磨は、今回も思わず突っ込んでから不意に力が抜けたように円卓に突っ伏した。無言で力尽きた様子の播磨に、さすがに晶もやりすぎたか? と心配になる。
「……大丈夫。私の本心だから」
 途端、突っ伏したままの播磨の両耳が真っ赤に染まった。嬉しい反応に、晶はひとまず胸をなでおろす。
「……い、いやまぁ、俺もその……」
 先程までの勢いはどこへやら、ぼそぼそと声を絞り出す播磨に、晶は「顔を上げて言って」と意地悪をした。赤くなった顔を見られたくないのか、しばらく逡巡した様子の播磨は、やがてゆっくりと突っ伏した体を起こした。
 やはり顔は赤いまま。ひくひくと唇が引きつっているのは、これから言おうとする言葉がなかなか声に変換されないからだろう。期待して待つ晶は、とうとう恥ずかしさに負けて「そ、それよりもな!」と逃げた播磨に落胆した。
「下の名前で呼び合うって……冗談じゃ、ないよな?」
 落胆の気持ちは誤魔化せないものの、播磨の気持ちは手に取るように伝わってくる。ひとまずそれで溜飲を下げた晶は、「冗談じゃないよ」と返した。
「苗字で呼び合うのも嫌じゃないけど、もっと親密になりたいから」
「そ、そうだよな」
 ストレートな晶の発言に、たじろぐ様子の播磨。それを見た晶は、「じゃあ、呼んでくれる?」と訊いた。
「……ここでか?」
「ええ」
「今すぐ……?」
「ええ」
 瞳に今度は逃げないで、という強い意志をこめて播磨と見詰め合う晶は、その意志を読み取った播磨が覚悟を決める気配を見て取った。
「あ……。あー……その……」
 やきもきするじれったさ。早く、と心の声を飛ばすと、播磨は「わ、わかったよ」とふて腐れたみたいにして佇まいを正す。
「あ…………晶」
 ようやく発せられた一単語。たったの一文字の響きが晶の胸に染み入り、じわりと胸を熱くさせる感情が湧き出る。熱に動かされて勝手に顔の筋肉が収縮し、自然と晶の顔に微笑みを彩ったが、今は無表情を貫こうという考えは起きなかった。
「なぁに、拳児?」
 微笑みのおまけ付きで、科を作った声をかける。まさに狙い通り、播磨の胸を一直線に突き刺した晶の言葉に、播磨はぐらりとノックダウンされたようだった。
 窓の外は雨。暗く厚い雲が立ち込めているというのに、この一室だけにやっていられないほどの熱い雰囲気が満ちる。初々しさとぎこちなさが同居する空気に、たまらず播磨は油の切れたロボットのような動きで再び「あ、晶」と呟いていた。
 言われたほうも平静ではない。妙な雰囲気に加えてまたも名前を呼ばれたら、少し心の壁を取り払っている今の晶に、別種の感情が噴出するのを止める手立てはなかった。
「少し……恥ずかしいね」
 頬がかすかに熱を帯びているのがわかる。女というよりも、いっそ少女らしい反応が意識に反して勝手に出た晶は、なんとなく播磨を直視できなくて目を逸らした。そんな反応もまた播磨の胸を直撃するのだが、晶はそこまで計算はしていなかった。
 梅雨の湿っぽさや鬱陶しい熱気はどこへやら。恋人たちが盛り上がる夏に相応しく、茶道部部室の空気はしばらく熱いままだった。




End








 


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